雷 第三十五話

十二月十一日、西郷は再び馬関を越えた。前回と同じように税所、吉井の二名を従えての馬関入りである。この頃にはすでに高杉は長府に戻っている。西郷は高杉との会談を望んだ。恐らく高杉以外では話にならぬと当たりを付けたからであろう。高杉の答えは、
「稲荷町大坂屋で会う」
 という返答であった。
 夕暮れ時をまって、高杉は十兵衛を連れて大坂屋にはいった。すでに西郷は座敷でゆっくりと酒を呑んでいるらしい。
「豪胆な者だ」
 高杉はそういって少し試した。隣の部屋で黙って潜んでいるのである。すると、
「高杉殿は遅いですな」
 と誰かが口火を切った。
「いかにこちらか望んだこととはいえ、無礼ではないか」
 と話しはじめると、響くような声で
「すでに隣に来ておられるではないか」
 といきなり襖を開けた。思わず高杉は転んで部屋に入った。西郷はそれを見て大いに笑うと、
「これは失礼。それがし、薩摩藩士にて征長軍総督参謀、西郷吉之助でござる」
「私が、元奇兵隊総督高杉晋作です。こちらは楠十兵衛君といって、私の護衛をしてもらっている」
「それは用意のいいことだ」
 二人は静に酒を酌み交わした。全く言葉の交換がない。
「で」
「ん」
「要件があったのでありましょう」
 高杉が促すと、西郷は暫く押し黙って、少し重たそうに口を開いた。
「実は、五卿の件でござる」
「五卿なら渡さん。これは、我らのよるところであるからだ」
「それは分かっております。別に取って食おうというわけではなく、信頼できる所に少しの間預けていただきたいのだ」
「信頼できる所?」
「筑前福岡」
 高杉の目がさらに見開いた。潜伏先だった場所である。
「そこの藩主である黒田斉溥様が御引受けくださるそうで。これでは納得できませぬか」
「納得しよう」
 風雨雷電の瞬発力が瞬時にはじき出した計算結果であった。西郷は満足そうにうなずいた。
「さすがに、神出鬼没と云われる御仁でござるな」
 西郷は初めて酒を差し出した。高杉はそれを受け、今度は高杉が返杯した。
「それで、征長軍とやらはどうするのだ」
「これで、征長軍の役目は終わりですな。五卿が動かれる次第をもってすぐに撤退いたします」
「それは助かる」
「これは、私案であるが」
 西郷は高杉に人払いを願った。高杉は十兵衛に目くばせをし、西郷は二人に席を外させた。
 暫くして、高杉が先に出た。
「楠君。僕はやるぞ」
 そう言って高杉は山縣の所に向かったのである。
 そして、功山寺挙兵へと突き進み、遂に俗論派の駆逐に成功するのであるが、実は俗論派が頼りにしていた征長軍つまり幕府軍はすでに十二月二十七日には撤退しているのである。
「だから、あんな無茶をやってのけたのか」
 伊藤は漸く溜飲を下げた。

 時間軸を再び戻し、元治二年三月、俗論派が一掃された後である。
 高杉は長崎にいた。この頃の名前は谷潜蔵と名乗っていた。これは所謂変名ではなく、高杉は藩主に弓引いた罰として、高杉家を「育み」つまり廃嫡となった為に新たに谷家を藩命により創設し、その初代当主となっていた。無論、世間では相変わらず「高杉晋作」ではあったが。
 十兵衛も変わらず「高杉さん」と呼んでいた。ので、この小説では高杉晋作として通す。
 俗論派が一掃されたのを見届けたように、高杉は伊藤を連れて長崎に行った。
 十兵衛がこの事を知ったのは、長崎から送られてきた手紙からである。置いてけぼりを喰らったのである。
 山縣や大村益次郎と名前を変えた村田蔵六は、すでに十兵衛と知り合いになっていたが、山縣はともかく大村は「火吹き達磨」と称される容貌魁偉というべき男で、おそらく軍事軍略と語学、さらに医学までを頭に詰め込んだがために脳が肥大してしまったような男である。
 この二人は、長州の主流軍となった諸隊を再編し、さらに練度を引き上げるための戦略を練っていた。
「しかし、高杉さんも人が悪いな。楠さんを置いていくなんて」
 山縣は慰めるつもりで言ったのだが、十兵衛はさほど感じてはおらず、
「恐らく当面の危険を脱したから連れて行かなかっただけでしょう」
「しかし、功山寺の時からいうなれば引っ付くように一緒だったのに、水臭いと言えば水臭いではないか」
 二人が掛け合っていても、大村は一切話に入り込もうとしない。むしろ、騒音のように感じているのか、時折ぎょろりとにらむのである。
「静かにしてくれませんか。気が散る」
 恐らく大村はそれほど強く言ったつもりはなかったのだが、二人はそそくさと本陣である赤間神宮の境内に出た。
 すでに正月は過ぎ、梅から桜に移りはじめて、朝を迎えるたびに暖かくなっていくのが如実にわかる。
 すでに慶応を改められて、元治二年は同時に慶応元年でもある。
「しかし、長崎とは急でしたな」
 赤間神宮の桜の木についたつぼみに目を細めながら山縣が話しかけた。
「何か言えぬわけがあるのでしょう。それに、高杉さんなりに何か考えての事だと思いますが」
「あの人の事だから、まさかとは思うが」
「何ですか」
 山縣は少しためらったが、もういいだろう、と呟いて
「渡航だよ」
 といった。
「海を渡るのですか」
「そうだ。高杉さんは思い立ったら何がどうなってもやり遂げようとする人だ。その事は、君もよくわかっているだろう」
「しかし、渡航は重罪ですよ」
「それでもいくんだよ、あの人は。まあ、俊輔も聞多も渡航をしているのだがね」
「ちなみに、高杉さんはどこに行った事があるのですか」
 上海だ、と山縣は桜のつぼみを鼻先にまで近づけた。
「当時、上海は欧米列強によって清国から切り取られて租界という、一種の治外地域にしていたらしい。その上海では清国の人間が夷狄によって奴隷にさせられ、その扱いは無惨極まるものだったそうだ。恐らく、高杉さんの目には、上海の姿がそのままやがて来る長州の姿にだぶって映ったのだろう。そこからさ、長州が勤皇になり始めたのは」
「しかし、今は租界とやらになっていないではありませんか」
「ああ、だがこのままではいずれその波が呑み込んでいくのは間違いない。だから、高杉さんは英語のできる俊輔を連れて、長崎に行ったのだろう」
「長崎には何があるのですか」
「さあね。だが、高杉さんは何も考えないまま動く人じゃないさ。それは、君自身も分かっているだろう」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?