雷 第四十五話

土浦での騒動は近隣に知れ渡っていたようで、十兵衛は諸生党が張り巡らしたであろう捕縛の目を避けつつ、水戸を遠巻きに眺めるようにして近づいている。
 水戸に近づけば近づくほど、捕縛の網目は小さくなり、小魚をも漏らさぬほどになっている。
 そうして、水戸にいる事に遅まきながら一つ気が付いたことがある。
「水戸に、攘夷は絶えている」
 という事である。
 大老暗殺を行った攘夷の本拠たる水戸は、すでにその源流を枯れさせてしまっていたのである。おそらく、水戸における攘夷派たる天狗党は日の目を見ることはないかもしれない。
「これが、あの水戸なのか」
 かつて稲田重蔵らが決死の覚悟で日本中に警鐘を鳴らした水戸の尊王攘夷は、古錆びた廃城のように原形をとどめていない。それどころか、その痕跡をも埋めてしまおうというほどに、諸生党の天狗党に対する弾圧は厳しい。
(これでは、水戸は滅びる)
 と思った。恐らく、水戸はこの動乱に間違いなく乗り遅れるであろう。すでに時勢は大きく攘夷派(この時点では反幕派と同義)に傾きつつあり、薩長の勢いは幕府の衰亡よりもはやい速度で強まっている。早晩、幕府にとってかわる存在になることは、いくら情勢に疎い十兵衛でも、容易に予想できた。しかし、この水戸はそれに逆行しているのである。
 十兵衛は水戸郊外の村に立ち寄った。
 すると、捕縛された女子供たちが、水戸藩の捕吏によって引き立てられていくのを見つけた。どこかの妻女らしき様子で、子供はまだ年端もいかぬ、それも女の子である。近くに人だかりがあった。
「あれは、なんだ」
「あれは、天狗党に与していた御方の奥様とそのお嬢様だよ」
 と、答えたのは五十がらみの丸々と肥った中年女である。
「何か、したのか」
「天狗党と関わり合いがあるからさ」
「つまり、この妻女は天狗党の者である、というわけか」
 いやいや、と女は手を振った。
「そうじゃないよ。要するに、旦那が天狗党というだけで捕まってしまうのさね」
「待て。天狗党に与した本人ではないのだな。ただ家族とういうだけでつかまってしまったのか」
 女は肩をひそめつつ頷くと、十兵衛の耳元に口を近づけた。
「水戸じゃ、天狗党はその家族までが罰を受けることになるんだよ。あんな、小さな子供が何をしたというわけでもないのにさ」
「だれか、止めることは出来ぬのか」
 女は何とも言えぬ感情を剥き出しにしながら、
「そりゃね、助けたいのは山々さ。でもね、それをしたら、今度はこっちが天狗党の疑いをかけられるのさ」
「しかし、水戸の重職の者が行っているわけではあるまい。いくらなんでもあんな年端のいかぬ子供まで罪にかけるというのは無茶にもほどがある」
「それが、家老の山本三左衛門様のお指図らしいのさ」
 十兵衛は、
「家老自ら女子供を手にかけるつもりなのか」
「要は、天狗党を根こそぎ絶ってしまいたいんだろうさ。その為には手加減をしないんだろうねぇ」
 と言ったところで、
「そういや、お前さんはここの人じゃないね」
 と尋ねた。明らかに不審がっている。
「ああ、私は西から流れて来たものでな、いよいよ長州が戦に勝った、というので戦火を免れてここまで来たのだ」
 と、わざと声を張り上げた。
 実は戦は全く始まっていないのであるが、十兵衛はわざと嘘をついたのである。すると、聞きつけた役人らしき男が近づいてくると、
「その方。今、何と申した」
 と尋ねて来たので、
「流れ者だ、と」
「そうではない。その後だ、何と言った」
「長州が勝った、と」
「それは真であるか」
「そうだ」
(恐らくはな)
 と、心の中でつけたしながら、十兵衛は自信ありげに言った。
「世迷言をいうと、そちの為にはならぬぞ」
「少なくとも、罪なき女子供を手前勝手で引き立てるものよりかは、ましなつもりであるが」
 小癪な、と捕吏が捕縛用の六尺棒を振り上げると、十兵衛はやにわに抜刀するや、一気に切り落とした。
「女子供に罪は無かろう。大体、ちと横暴が過ぎるのではないか。時勢はすでに御家騒動などしているような事態ではないぞ」
「余所者の分際で、何を申すか」
 捕吏は警笛を吹いた。暫くすると、増援の者が次々と得物を持って現れた。
「この者は乱暴狼藉を働いた。神妙に縛につけ」
 周りの者がさすまた、あるいは竹梯子などで追い詰めていくが、もとより抜刀した十兵衛に恐れをなしているのか、十兵衛の間合いには入ってこない。苛立った捕吏は、
「惰弱めが。さっさと捕まえんか」
 と、口では勇んだ事を言うが、その実遠巻きにしか見ていない。十兵衛が一歩踏み出すと、犬が驚くように飛びのいたり、いっこうに捕まえようという気迫がない。縛られて連行されそうになっていた二人は、周りの者に隠させるようにして保護をし、縛っていた縄を解くと、路地の隙間から逃げさせた。十兵衛はそれを確認すると、そっけなく刀を地面に捨て、鞘も放り投げた。すると、小者たちが十兵衛を囲い込んで麻縄でもって縛り上げた。捕吏は捕まえていたはずの母子が居なくなっている事に気付かぬまま、
「とくと詮議をしてやるから覚悟をしておけ」
 と、十兵衛の耳元で皮肉たっぷりに囁いた。

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