盗賊と牢人

 大工の朝吉は焦った。
「じゃあ、その御浪人を、旦那雇うんですかい」
 浅黒く焼けた顔が驚いている。
「そりゃ、このご時世ですからね、どこから狙われるか分かったもんじゃない。それに、桂庵さん(口入屋、今でいう労働派遣業)にはこの前のお亀を世話してもらった時に、どうにも折り合いがつかなくて結局短く終わってしまったろ。それもあって、向こうさんには義理が悪くてね」
 京橋南丸太新道にある両替商の三池屋幸兵衛はそういった。朝吉は、
(冗談じゃねえ)
 と予定が狂った事に怒りを禁じえない。
「しかし、御浪人となれば用心棒以外に使い道はないし、それに盗人連中だって馬鹿じゃありませんよ、狙うのは大店と相場が決まってますさぁ、こういっちゃなんだが、旦那の身代を狙うような連中はいるもんじゃねえ」
「お前さんね、言うに事欠いてうちの身代が小さいというかい」
 と少し眉を吊り上げたが、すぐに戻って、
「とはいっても、実際うち程度の身代をねらうような連中は、それこそ何の何某というような通り名なんぞ持っちゃいない、へぼな連中だろうさ」
(へぼかよ)
 朝吉も面白くない。
「とはいえ、この前は別町とはいえ、大店がやられているんだ。用心に越したことはありませんよ」
「どうしても雇うんで」
「どうしてお前さんに、許しをえらなければならないんです。ここのあるじは私です。私が決めたのです」
 幸兵衛はぴしゃりと、叱りつけるように言いきった。
「それで、一応明日から、という事になっています。朝吉さんには直に関わり合いがあるわけではないだろうけど、一応伝えておきます」
 幸兵衛はそういうと立ち上がった。
「どこへ行きなさるんで」
「いや、お前さんに頼んでおいた隠居所の出来具合を見に行くんですよ」
 といって、幸兵衛と朝吉はいそいそと出かけて行った。隠居所は根岸という、江戸の中心地から少し離れた景勝地にあって、昼は風光明媚で夜は静寂が覆いかぶさるようなところである。
 隠居所といっても、別荘のような豪奢なものではなく、お勝手に土間口と二間の部屋といったところである。幸兵衛と朝吉が見た時は、半分ほど出来上がっていた。
「ああ、相変わらずいい仕事してくれるね。これなら、申し分ありません。引き続きよろしく頼みますよ」
 といって、二人は三池屋に戻った。

 三池屋で別れた朝吉は、途中めしやで食事をすませ、日本橋の元大工町治郎兵衛長屋の自宅に戻っていく。七つ半の鐘が背中越しに聞こえ、表戸を勢いよく開ける。そして大工道具を火鉢の後ろに置くと、そのまま横になって天井を見上げている。
(くそっ)
 と、声にこそ出さないが、虚空をにらんでいる朝吉の顔を鏡で映せば、口がそう動いているのが分かるであろう。片膝を立ててそのまま足を組み、さらに腕まで組んで思案している。
 朝吉は表稼業こそ大工ではあるが、裏に回れば盗賊である。徒党を組んでやる、昨今の流行には乗らず、誰にもくみすることなく一人で行う。朝吉が三池屋に目を付けたのは二年程前であった。一人で身代を起こし、それほど大きくはないにせよ小さな稼ぎでその日暮らしをするような零細の店ではなく、手堅く商売をして大きくしながら決して店を手広く広げない三池屋は、朝吉が狙うには恰好の店であった。その為にわざわざ桂庵に足しげく通って三池屋の仕事を得、懸命に働いて、漸く信用を勝ち取ったばかりであった。
「まさか浪人を雇うとはな」
 計算外であった。確かにこのところ、集団での盗賊騒ぎ起こっていて、しかもそのうちの何軒かは店の主人以下子供に至るまで殺害して金品を奪うという、朝吉とは対極にある冷酷な盗賊まで出てくる始末で、火付盗賊改方も手を焼いている有様であった。それだけに、用心棒である浪人を雇うというのは理に適っている。
(しかしそれじゃ困るんだよ)
 と朝吉は思うのである。用心棒を雇うという事は当然、警戒をしているという事であり、そうなると仕事もやりづらくなるであろう。といって、幸兵衛にやめさせるように言うわけにもいかず、現にその事で言い切られてしまった。
「とにかく、どんな浪人が来るか」
 それを見極めてからでも遅くない、と朝吉は考えると、途端に眠くなった。
 翌朝早く、鐘の音が遠くのさざ波のように聞こえると、朝吉はむっくりと起き上って両腕を天井につかんばかりに伸ばしながら大きく欠伸をした。そして表に出て井戸の水を汲み、顔を叩くように洗って歯を磨き、そして家に戻って甕の水を掬ってのどを潤すと、道具箱を肩に担いで三池屋に向かった。
 店は大戸が開かれていて、二人の丁稚と番頭の弥平と、その他に見慣れぬ姿があった。
「あれが、今日から来てもらう事になっている蜂谷忠左衛門さんだ」
 と、弥平がいった。
 忠左衛門は身なりはたいそう立派にしていはいるが、月代は長らく剃っていないと見えてまだら模様に伸びてしまっていて、髷の銀杏も大きく広がっている。髭は当てているが、頬の骨が浮き出るほどこけており、服装もみすぼらしい、いかにも食い詰めた浪人のようである。肩幅も狭く、おそらく剣術もやっていないであろう。
(あれなた大したことねえや)
 朝吉は安堵した。腕の立つ浪人であれば事が露見したときには斬り殺されるであろうし、頭脳が明晰なものであれば失敗する可能性が高まる。その点、忠左衛門はその両方にも当てはまらぬようであった。幸兵衛が朝吉を見つけると、
「親方、こっちにいらっしゃい」
 と、奥の部屋に招き入れた。幸兵衛は弥平に忠左衛門を連れてくるように言いつけた。暫くして、弥平が忠左衛門を連れて現れた。
「ご苦労様。お前は帳場に戻ってもらって結構ですよ」
 幸兵衛がそういうと、弥平は帳場に戻っていった。
「忠左衛門さん、立ってないで座ってくださいな。……親方、こちらが今日から用心棒の蜂谷忠左衛門さんです。元はどこかの御大名家に勤めていたのですがね、故あって御浪人になっている方です。……忠左衛門さん、こちらが大工の朝吉親方です。何かと仕事をしてもらって、今は隠居所を拵えてもらっています」
 と双方の紹介すると、忠左衛門は、
「蜂谷忠左衛門と申す。よろしくお見知りおき願いたい」
 と慇懃に言った。
「大工の朝吉でござんす。こちらこそよろしくお願ぇします」
 と朝吉も頭を下げた。忠左衛門の姿を改めてみるととてもうだつの上がる浪人とは思えず、刀の鞘も塗りが剥げてとてもいい代物とも思えない。朝吉はこの「仕事」が成功する事を確信した。
「じゃ、あっしはこれで」

 朝吉は根岸の隠居所を拵えつつ、店の中の修繕も行っている。忠左衛門と顔を合わせたこの日は、裏戸の修理を行っていた。裏戸の閂が閉めにくい、という女中のおきよからの依頼があった為である。
 裏口に回って、裏戸を内側から閉めて閂を入れようとすると、閂と穴がずれているようで確かに閉めにくい。
「これじゃ用心が悪いわけだ」
 とぼそりと呟きながら、
(これの方がやりやすいがね)
 と朝吉は思っている。とはいえ、このままにしておけば仕事に対する不信が重なって、ついぞしくじることになかもしれない。といって、素直に直すわけではなく、閂の出っ張りを削って穴の縁の部分を擦らぬようにして入れやすくした。その上で、閂を外から触ることができるように人差指が入るほどの小さな穴を設けた。ただ設けただけではすぐに見つかる為、その上から指先でも破れるように薄い紙を張り付けた。
(これでいいだろ)
 後は仕上がりを見るために閂の動きを確認して、滑らかになったところでおきよを呼んだ。
「これでよろしゅうござんす」
 といって触らせると、女中は何回かやってみた。なるほど滑らかに入って、力もコツも要らぬ。
「朝吉さんは腕がいいねぇ、本当に助かったよ」
 おきよは嬉しそうに言った。
「旦那様が裏戸が出来上がったら来るように言っていたよ。なんでも隠居所の事で相談したいことがあるみたいよ」
 おきよはそういうと、仕事に戻っていった。朝吉は道具を片付けると、幸兵衛のいる部屋に戻っていった。忠左衛門が裏口に来たのは朝吉が離れて間もなくの事であった。忠左衛門は店の勝手がわからない。そこで、店の中を一回りし、店の中の部屋などの内情を把握しようと、見回りついでに来たのである。
「あいておるではないか」
 裏戸が風にあおられてゆっくりと動いているのを見つけた忠左衛門は、裏戸を閉めようとした。その時、
(何か違うな)
 と直感的に感じた。よく見ると、閂の上部に指先大ほどの紙が張り付けてあった。たしか、大工の朝吉とかいった者が直したはずではなかったか。
「存外に、腕のたたぬ奴だな」
 といって、忠左衛門は手頃な板材を見つけると、それを脇差で器用に形を削って作ると、
「膠を持っていまいか」
 と尋ねまわった。膠とはこの時代で使われた接着剤の事で、木工用に使われる。特に速乾性と密着性に優れていて、これは現代でも形を変えて使われている。その膠を使って、朝吉が作った穴をふさいでしまったのである。
「これでよかろう。……それにしてもあの大工、少々腕が劣るようだな」
 といって、また見回りに戻っていった。
 まさか忠左衛門が穴をふさいだとはつゆ知らず、朝吉は隠居所の建築を引き続き行うべく、根岸に向かった。

 翌朝、朝吉はまた三池屋に向かった。
「あれからどうでした」
 裏戸の件である。
「ええ、もう昨日は力も入れずに閉めることが出来て良かったですよ」
 とおきよから答えが返ってきた。
「でも、あの後だったかしらね、用心棒の忠左衛門さんが、『穴が開いてあったから塞いでおいたぞ』って。あの人も器用な人でね、脇差で形を作ったらそれを膠を使って塞いでくれましたよ。でも、どこであの穴が開いていたのかしらね」
 というおきよの声は朝吉には届いていない。裏戸に向かって駆け出していたからである。
 おきよの言う通り、朝吉が作った裏戸破りの為に拵えた穴が綺麗に埋まってしまっていた。しかも、膠を使われているので、剥がすことは無理である。
(あの浪人野郎)
 と、殴りつけてやりたい気持である。そこへ、
「おお、大工か」
 と声が聞こえたので振り返ると、忠左衛門であった。
「いや、大工のおぬしには済まぬ事をしたが、何せ穴が開いたままでは不用心である事この上ない。もし、盗賊などに入られてしまっては元も子もないないからな、出過ぎた真似ではあったが、塞がせてもらった。申し訳ない」
 といきなり頭を下げられてしまった。朝吉はこれで怒るに怒られぬ。
「まあ、お侍さんの前ですがね、あっしらこういう稼業をしてる者はね、他人様の手を入れられるのが一番嫌なんで、これからはこういう『差し出がましい』真似はおよしになっておくんない」
 とわざと強調していった。忠左衛門も、
「いや、すまぬ」
 とまた神妙に頭を下げるものであるから、朝吉もこれ以上は何も言えず、
「これから気を付けてもらったらそれで結構なんで」
 と口こそ丁寧であったが。明らかに表情は不機嫌であった。忠左衛門は訳が分からず、
「これからは気を付けるゆえ、そのように口をとがらせてくれるな」
 と苦笑いするしかなかった。朝吉も自身の目的を考えれば忠左衛門を責めたてるわけにもいかず、
「まあよろしゅうござんすよ」
 とだけいって、幸兵衛の元に向かった。
 幸兵衛は朝吉がやってくるのを見つけるや、自ら飛んで行って朝吉を部屋に引っ張り込んだ。
「ど、どうなすったんで」
「いや、隠居所よりもすぐにやってもらいたい仕事が出来たんだが、どうだね」
「へえ、まあ旦那がそれでいいとおっしゃるなら、あっしゃ別にかまいませんが」
 幸兵衛はそれを聞いて一安心したようで、
「だったら、こっちに来てもらえないか」
 と朝吉を蔵に連れて行った。

 三池屋の蔵は裏にあって、小さいながらも白い漆喰の壁で作られた頑丈なものである。幸兵衛は朝吉を蔵の前に連れて行くと、蔵の裏側の壁を見せた。
「実はね、鼠がかじったのかどうか分からんのだが、ここに」
 と地面近くに出来てある穴を指さし、
「穴が出来ているんだ。鼠がかじったのが大きくなったかもしれないし、もしかしたら家尻切りかもしれない。何とか出来ないかね」
「いや、あっしは大工で、左官じゃねえんですよ。こういうのは」
 朝吉は一旦渋ったが、
「……よろしゅうござんす。知り合いの左官を当たってみやしょう」
 と答えると、幸兵衛は満足げな笑みを浮かべて、
「そうかい。まあ、本当は同じように桂庵に頼んできてもらうのが筋なんだが、なるべく気心の知れた人か、その伝を使いたいんだ。我儘言ってすまないね」
「いや、こういう仕事でも暇な奴はやりたがるもんでさ。とはいってもすぐに人が見つかるたぁ限らねえんで、それまでの間、内側からあっしが塞いでおきましょうか」
 といって朝吉が蔵の中を覗き込んだ。幸兵衛は、
「まあ、背に腹は代えられないからね。左官の件は、早く頼むよ」
 と、蔵の鍵を取り出して錠前を外した。中に入ると足元に穴からの光が入り込んでくる。
「じゃあ、終わりましたら旦那にお声を掛けさせていただきやすんで、それまで部屋で待ってておくんない」
「ああ、そうかい。なるべく早く頼むよ」
 幸兵衛はそういうと店の帳場に戻っていった。朝吉は幸兵衛の背中が見えなくなると、穴の大きさを測った。穴は丁度腕が入るほどの大きさで、高さも足首ほどの高さである。朝吉は再び外に出て穴を確かめる。穴の開いた形状をじっくりと見ていくうちに、
(これは破ってやがるな)
 と考えた。恐らく、家尻を切る、つまり土蔵を破ろうとした形跡が分かったのである。そこから見えてくることは、
「俺以外にも狙ってるやつがいやがる」
 という事である。同じような事を考えている盗賊が他にもいて、狙いをつけたのが三池屋なのであろう。朝吉は歯ぎしりしながら、
(ふてえ野郎だ)
 もっとも、朝吉も人の事は言えないのであるが、それでも狙いをつけたところを横から狙われるとなると、やはりいい気分ではない。なにより、知らぬ間に奪われることは盗賊にとって何よりの屈辱である。朝吉は、すぐに幸兵衛の元に向かった。
「旦那、あれを見つけたのはどの野郎で」
 幸兵衛は暫く思案して、丁稚の和吉を呼んだ。程なくして和吉が部屋に入ってくる。
「確か、裏の土蔵の穴を見つけたのはお前だったね」
「へえ。昨日の夜、小便の後、裏の方で音がしたんで見に行ったんですけど、その時は何もなくて。で、今朝また見に行くと、あの穴がありました」
 和吉は朝吉の凄んだ顔を横目に恐る恐る話した。
「すると、鼠じゃありませんぜ、旦那」
「何だって。すると。……そうか、家にも来たか」
 盗賊である。まさか来るとは思っていまい、と思っていた幸兵衛は神妙な顔をのぞかせて、
「だが、まあ一応忠左衛門さんにも来てもらっているし、万事とはいわないが、備えはある」
 といって、幸兵衛は何かを思いついたようである。
「そうだ、もう一人雇うか。そうすれば、互いで見回りも出来るし、隙間もなくなるだろう。親方、どうだい」
 幸兵衛は名案を思い付いたように顔を輝かせたが、朝吉は
(げぇっ。……)
 と表情には出さないが狼狽している。喩え役に立たぬ(と朝吉は思っている)とはいえ、浪人が一人はいるだけで仕事の容易さが変わるというのに、ましてやそこにもう一人来るとなると、いよいよ諦めざるを得なくなるであろう。
(それだけは御免蒙りたいね)
 皆殺しにして、金品をむさぼり取るような連中とは違って、朝吉はなるべく人を傷つけることなく、いうなれば戸の隙間から入ってくる微風のように静かに盗みを働きたいのである。無論、盗み自体が違法な行為であり、十両盗めば首が飛ぶ大罪である。だからこそなるべく身を低く構え、隙間を縫うように盗まねばならない。それが朝吉が命を全うする事につながり、余計な血を流すこともないのである。朝吉にとって、幸兵衛の思い付きは邪魔以外の何物でもないのである。
「旦那、そこまでしなきゃいけないもんですかね」
 朝吉は恐る恐る尋ねてみる。すると、
 ―― 儂一人で十分だぞ。
 と後ろから声がした。忠左衛門であった。
「しかし、夜回りは一人では体が持ちませんよ」
「いやいや、その代り昼間は休ませてもらうのだから、それでよい。それに」
 忠左衛門は刀を鞘ごと外して縁側に腰を下ろし、
「盗賊も用心棒を抱えている、と知ればそう易々と手を出すこともあるまい」
 といった。朝吉はぞくり、と背中に氷が張りついたような思いに駆られた。忠左衛門が見ている、と感じたからである。
「しかし、忠左衛門さん」
 幸兵衛が言いかけるのへ、忠左衛門は制して、
「とにかく、前の通りでよい。要らぬ心配であるぞ」
 と笑った。幸兵衛も、
「まあ、そこまでおっしゃるのならば、忠左衛門さんを信じましょう」
「もししくじった時は、この安い腹でよければ掻っ切る」
「そんなもの切られたって、こっちは一文の商売にもなりませんよ」
 そりゃそうだな、と忠左衛門は立ち上がって、再び腰に刀を差して出た。
「じゃ、あっしは仮の蓋をしておきますんで」
 と朝吉も蔵の方に戻っていった。
 壁の穴の前にいる朝吉は、とにかく塞がねばならない。といって、この目の前にある絶好の材料をみすみす逃す手もない。自然、朝吉の手も緩まる。
「おい、大工」
 朝吉が後ろの声にぎょっとして振り返ると、影になって分からないが、忠左衛門であった。
「今度は、しっかりとしろよ」
 とだけ言い残して、忠左衛門は去った。
(何を言いやがん、へぼ浪人め)
 朝吉はそう言いたい気持ちを堪えて、仮の蓋をつけた。

 その後、朝吉は根岸に飛んで隠居所の仕事をして、家に戻るなり、仕事の要であるはずの道具箱を放り出すような素振りでいつもの場所に置いた。少し秋風が目ち始めているこの時期、夕暮れから夜までが早い。
 朝吉は枕屏風を動かして布団を敷き、屏風を枕元に置いた。風よけの為である。布団の中に潜り込んで、闇に溶けた天井を睨み付けている。
(あの浪人野郎)
 と忠左衛門の事を考えている。昼間、音もなく忍び寄って、朝吉の背中を脅かした。無論、襲われたわけではないが、盗賊家業である以上、自分の死角には敏感になり、少々の気配ならば直ぐに感じ取ることができる。現に、何度も仕事をしながら遂に縄にかからなかったのは、ある意味での慎重さと過敏なまでの臆病さが齎した結果であった。
 ところが、忠左衛門の気配だけは全く分からなかったのである。このような事は一度もなかった。
「何者だ??」
 今まで、あの身なり立ち居から大したことはない、と思っていた。だが、
「もしかすると、存外に腕が立つかもしれねえ」
 と考えた。その時、何処がの大名家に仕え、故あって浪人した、という話を思い出した。その時は、その大名家の中で不祥事まではいかずとも何かをしくじり、その為に暇を出されたのだろう、と思っていた。しかし、今日の忠左衛門の様子から考えるに、
(何か役目を仰せつかったのか)
 とすれば、なぜ三池屋なのか。三池屋がどこかの大名家と取引をしている、というようなことがないのは朝吉も知っているし、そもそも忠左衛門が大名家に仕えていたとういうのが嘘で、町奉行所や火付盗賊改方の同心であるとすればまだ納得が行くが、もしそうであったとして、朝吉は徒党を組むような真似をせず、一人でやって来たのである。誰かを助けた事もなければ、助けられたこともない、一人仕事である。ましてや、朝吉自身が三池屋の金を狙っている、と吹聴するわけがない。考えれば、忠左衛門と三池屋との間に接点は考えられない。といって、朝吉自身はどこかの大名屋敷に忍び込んだこともない。つまり、忠左衛門と三池屋、朝吉と忠左衛門の間に接点はないはずである。しかし、今日の忠左衛門の様子は明らかに朝吉が盗賊である、という何か確信めいたものを掴んでいるようであった。
「尻尾は出しちゃいないはずだ」
 朝吉は自身の行動、とくに忠左衛門が来てからのこの一月の行動を可能な限り思い出している。そのどれもに不審な行動はないはずである。それでも、忠左衛門のいう、
 ―― 今度は、しっかりとしろ。
 というのがどうにも耳の底にこびりついたように離れない。それどころか、闇が深くなればなるほど耳鳴りが障るように大きくなっていくのである。
(こうなったら、やるか)
 三池屋の蔵を狙う事である。しかし、その為の準備は整っていない。正確に言うと整えていたはずの用意が、忠左衛門によって悉く潰されている。見切り発車だけはしたことがないのが、朝吉の唯一の自慢である。入念に下調べを行い、その店に入り込んで、店の信用を勝ち取る。そして、その間に入り口から蔵に至るまで細工を施して忍びこんで、遂に盗み出す。そうすればこそ、今まで足がつくことなく盗みをやってのけたのである。それは、朝吉にとって、盗賊としてのせめてもの矜持であった。矜持、というとすこし違和感があるかもしれないが、朝吉が重きをなしているのは、盗む事と同時に、その手際である。手際が円滑であればあるほど、盗みはやりやすくなり、そしてそれが見事にはまった時のえにも言われぬ快感たるや、他の比ではない。それを忠左衛門に阻まれた。
 それは朝吉にとってある意味では屈辱である。朝吉の目に、底冷えするような冷たさが宿った。
 朝吉はむっくりと起き上った。箪笥の引き出しの一番下には、器用に拵えた小さな錠前をつけている。それを鍵で開けて引き出しを開けた。そこには渋柿色の半纏とほっかむり用の手拭、さらに股引がたたんであった。朝吉は慣れた手つきで取り出し、腹掛の上から着こんでいき、手拭で顔を覆うと、引き出しの底にあった匕首を腰に差して、音もなく表戸を開けた。
 すでに夜の帳が下りた江戸では、町の区画ごとにある木戸門が閉められていて、表に出ることは出来ないが、朝吉はその点身軽である。木戸門の格子に足をかけて、梯子を上るようにして表長屋の屋根に上がり、そのまま暫く足音を忍ばせて屋根伝いに走った。そして周りに人がいないことを確認して飛び降り、京橋丸太新道に向かった。

 三池屋は忠左衛門以外の幸兵衛以下店の者は夢の中にあった。
 一度目の夜回りを終えた忠左衛門は、幸兵衛から宛がわれた六畳の部屋に戻って、端坐している。そして刀を抜いて蝋燭の火にかざして、じっくりと眺めている。唾がつかぬように二つ折りの半紙を咥えている。
(鼠か)
 恐らく店の者であれば気づかぬほどの小さな風の動きをそう読んだ。だが、念のために見ておかねばなるまい。忠左衛門は刀を鞘に納め、咥えていた半紙を手で離し、
「では、もう一度見回るか」
 と呟いて、刀を腰に差しつつ提灯に火を入れた。
 見回りは店の中の部屋から始まって、裏に回って蔵を点検し、何もなければもう一度同じ経路を通って部屋に戻る。忠左衛門は店の中の部屋を見回り、異常がない事を確認した。そして裏の庭に回った時である。がたり、と裏戸の音が聞こえた。刹那、忠左衛門は鯉口を切っている。慎重に裏戸の方に向かうと、裏戸は風に動かされていた。
(盗人か)
 忠左衛門の体はすでに蔵に向かった。
 蔵の前で空気が蠢いている。忠左衛門は提灯を上げ、
「誰だ!!」
 と叫んだ。空気が振り返った。朝吉である。
「大工ではないか?このようなところで何をしている」
 朝吉は無言で、腰の匕首を抜いた。
「おぬし、盗賊であったか」
 朝吉は無言で匕首を構えた。
「悪い事は言わん。大人しくお縄を頂戴するのだ」
 朝吉、尚も無言。仕方ない、とばかりに忠左衛門はゆっくりと刀を抜き、峰に構えた。刹那、それまで朝吉が思っていた「愚鈍さ」が消え、忠左衛門の全身から、縛り付けられるような気合を感じた。朝吉は、自らの見込みの甘さを初めて思った。
「な、なんで」
(これほどの侍なんだ)
 といったきり何も言えなくなっていたのは忠左衛門を見くびっていた事への後悔でもあったであろう。
「いかに顔見知りの大工と雖も、盗賊であるというのであれば容赦はせん」
 両足が地面に捕まれたような威圧を朝吉は感じている。
 じり、じり、と忠左衛門がおいつめる。朝吉は訳の分からぬ叫び声を上げ乍ら、忠左衛門の腹をめがけた。忠左衛門、ひらりと横に受け流して軽い峰の一撃を朝吉の首筋に見舞った。刹那、朝吉の意識が飛んだ。

 次に朝吉が目を覚ました時、い草の微かな匂いが鼻に当たった。手は後ろに縛られ、足も動かすことができないように足首を縄で縛られている。
「まさか、お前さんが盗人とはね」
 幸兵衛の声色はやけに落ち着いている。それが余計に怖さを際立たせている。
 不自由ながら朝吉が顔を上げてみると、幸兵衛以下、丁稚や小僧といった子供たちを除く、店の従業員全員が円を組むようにして朝吉に迫っている。
(くそっ。……)
 朝吉は何とか自力で解こうとするが、相手は手慣れているようで、骨を外しても隙間が出来ぬような縛り方をしてあった。
「まあ、忠左衛門さんに見つけてもらってよかったよ。……しかし、お前さんも間抜けだね」
「何がだ」
「よりによってうちみたいなところに狙いをつけるとは、まだまだ甘いねぇ」
 幸兵衛の顔つきは、いつものような好々爺としたものではなくなっている。それどころか、どれだけの修羅場を潜り抜けたか分からぬほどの凄味を見せている。
「朝吉、お前ここがどこか分かっているのかえ」
「どこって、両替商の三池屋で、お前が三池屋幸兵衛だろう」
 朝吉の出した声に、肩を震わせていた幸兵衛であったが、震えが大きくなるにつれて声が漏れだし、遂に大笑し始めると、他の者も笑い始めた。
「何もわかっちゃいねえようだな、どサンピン」
 今度は弥平が、笑いを堪え乍ら言う。
「どういう事だ」
「まだ気づかねえかい、このお方はな、赤霞の幸兵衛親分さ」
 と自慢げに告白した。弥平が言うには、三池屋というのは隠れ蓑で、実は両替商自体が偽者であった、というのだ。
「待て、ちゃんと商売していたじゃねえか」
「銭屋自体どこだってあらぁな。それに、上方の本替と違って、こっちは脇替えよ、別に仲間にならなきゃならねえわけじゃねえ。その程度なら商売ができるさ」
「なら、後ろの金蔵は何だ」
「あれは、盗金を入れてあるだけさ。……まあ、知ったところで、お前は死んでもらうがね」
 弥平が懐から白鞘の匕首を取り出して鯉口を切ると、朝吉の懐めがけて切っ先を飛ばそうとした。すると、
「やめぬか」
 忠左衛門が鞘刀のまま、弥平の手首を抑えつけた。
「何をしやがる、だんびら持ち」
「それよりも、幸兵衛。おぬしが押し込みを働いて皆殺しにして金品を奪う、赤霞の幸兵衛というのはまことか」
 忠左衛門が尋ねると、幸兵衛は、
「そうよ。俺こそが、赤霞、血霞の幸兵衛よ」
 と答えた。血が霞のように店の中を濡らすところから、血霞、あるいはその色でもって赤霞というらしい。
「間違いないな」
「しつけえな、浪人。この大工野郎をやれば、今度はお前さ」
「そうであるならば、安心した」
 といって、鞘刀で弥平の手首を撥ね上げる。匕首が飛んで天井に刺さった。忠左衛門は腰に刀を差す。すると、幸兵衛は
「幾らか腕が立つかもしれねえが、所詮は一人よ」
「ほう。本当に、一人と思うか」
 忠左衛門の口元が上がる。懐から呼子笛を取り出し、一気に拭いた。刹那、表戸といわず裏戸といわず、蹴破る音が四方から聞こえてくるや、すぐに部屋を囲まれた。忠左衛門は障子を勢いよく開けると、そこには捕り物出張りの手の者がいた。
「手前ぇ、火盗か」
「そうよ。俺は火付盗賊改方同心、蜂谷忠左衛門だ」
「お前が、噂の『虻蜂』か」
 あまり有難くない二つ名であるが、忠左衛門は盗賊連中からそう呼ばれていた。忠左衛門は苦笑して、
「一人残らず捕らえろ。決して逃がすな!!」
 という怒号を飛ばした。それが合図となって、双方入り乱れての大捕り物になった。一方で、置いてけぼりになった朝吉は、忠左衛門によっていち早く捕らえられ、すでに身柄を抑えられている。
 捕物劇は一刻にまで及んだ。途中、援軍が合流し、さらに入り乱れたが、幸兵衛以下十人は全員捕らえられた。

 詮議は二十日ほどかかり、結局幸兵衛以下、三池屋の者にすべての処分が決まった。幸兵衛と弥平は主犯格として打ち首獄門、他の者は従属犯として男は終生遠島となり、女は重追放となった。
  与力横井采女は、火付盗賊改方長官である横田大和守と共に腕を組んで唸っている。
「この、朝吉なる者は一体何をしたのだ」
「忠左衛門の報せによりますれば、この幸兵衛方に忍び込み、蔵を開けようとしたところ、忠左衛門によって取り押さえられた、との事でござりまする」
「では、何をしたのだ」
 大和守は要領を得ない。得てはいるのだが、朝吉が取った行動は忍びこんで蔵を開けようとしたが開けられなかった。今でいう所の住居不法侵入と窃盗未遂罪にあたる。
「それで、この者は徒党を組んでいたのか」
「いえ、恐らく一人仕事ではないか、と。実際幸兵衛方に忍び込んだのは朝吉一人でござりますれば、徒党の罪はつかぬものかと」
「一人で勝手に忍び込んで、何もできなかった、という事か。何とも間抜けだな」
 と大和守はひとしきり笑ったがすぐに顔を引き締め、
「そうであれば、人家に押し入ったわけでもなく、また物を盗みもせず、さらに見つかって捕まった、と」
「左様で」
「それでは、御定書の、何に触れるのだ?。……確か、土蔵が破られていた、とあったが朝吉の仕業か」
「いえ、それにつきましてはまだ何とも分からず、むしろ朝吉は表稼業が大工の為、その穴をふさごうとしたのみでござりますれば、むしろその逆ではないか、と」
 それでは何もないではないか、と大和守は嘆いた。
 実は公事方御定書(御定書百箇条)の中の五十六条に「盗人御仕置之事」というものがある。これは現代の刑法における窃盗罪、強盗罪、強盗殺人罪などに相当するもので、当時盗賊の裁判はこれを法的論拠として裁いていたのだが、現代と違って、当時は未遂罪という概念がないため、行った事実をいかに取り上げ、それを法に乗せるか、というのが争点であった。
 この朝吉の場合、確かに忍び込んだのには違いないが、結果的に何も盗まず、しかも捕らえられたという何とも不始末な結果である。その為、御定書のどこに論拠を多くか、というので紛糾しているのである。忍び込んだという点では、御定書では重敲、最悪死罪である。しかし、この場合は「傷を負わす」「品を傷つける」「徒党を組んで押し込む」「土蔵を破る」などの、つまり忍びこんでさらに窃盗行為に及んだ場合、あるいは強盗した場合に適用されるのである。ところが朝吉の場合、確かに忍び込みはしたが、しかし人を傷つけておらず。土蔵も破ってはいない上に、そもそも盗んでいないのである。
「しかし、鍵を開けようとしたのは品物を傷つける行為ではないか」
 大和守がそう言うのへ、采女は
「それではさすがに慈悲がありませぬ。お頭、それはちと強引過ぎませぬか」
 と言い出たので、大和守もひっこめるしかなかった。とはいえ、どうにか裁きを下さねばなるまい。

 朝吉の詮議が始まったのは、こうした経緯があった為少々遅れた。砂利の上に敷かれた茣蓙に朝吉は膝を折って座っていて、白洲の縁側には蹲の同心が控え、詮議の畳に座っているのは詮議役の采女である。朝吉は砂利を覗き込むように頭を下げている。
「面を上げい」
 横井の鐘を鳴らしたような音声があたりに響いた。朝吉は恐る恐る頭を上げる。
「その方が朝吉に間違いないな」
「へえ、左様で」
「神妙である事、感心である。さて、朝吉。その方、盗賊の隠れ蓑と知らず、三池屋幸兵衛方に忍び込み、金銭を盗み取ろうとしたとあるが相違ないか」
「へい」
「知らなかったのか」
 采女は解せぬとばかり尋ねた。采女の疑問は尤もで、本業としている者と盗賊が裏稼業を隠すために行う稼業とは、自然と違いが出てきておかしくはない。ましてや、盗賊は人の気配やしぐさに敏感で、あるいみでは危機管理能力にたけていなければできるものではない。それをもってして気づかなかったのか、が不思議なのであろう。朝吉は頷き、
「あっしゃ、あそこに二年出入りしてました。普通なら盗人は二年も盗みをしねえ、ということはござんせん。それに、血霞の幸兵衛ほどの御方なら、そんなちんけなことをしないはずだ、と思っておりましたもんで」
「つまり、幸兵衛について疑うところがなかった、という事か。まあ、そう思うのも無理はない。血霞の幸兵衛は長年我らが追っていた盗賊であるからな」
「一つ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」
 采女は顎を引いた。
「なぜ、蜂谷様はあの三池屋が怪しいと思いなすったんで」
 忠左衛門は采女の方を向くと、采女は忠左衛門を見て、再び顎を引いた。
「実は三池屋は形こそああして両替商の真似事のような事やっていたのだが、三池屋は株仲間に入っていない、いうなれば潜りの店だったのだ。いくら脇両替とはいえ、組合に入っていない商売を怪しむのは当然であろう。それに、三池屋が商売をするときは決まって、大店が襲われた後だった。二年も何もしなかったのは、恐らく貴様が入り込んだためであろう」
 といって、忠左衛門は口をつぐんで、采女に向かって顎を引いた。采女は、
「ともあれ、いくら盗人の隠れ蓑であっても、それを盗むというのは許される事ではない。よって」
 采女はここでいったん区切って、
「よって五十敲とする」
 といった。この裁断がいかに難しかったか、采女の表情が物語っている。

 朝吉は翌日、火付盗賊改方役宅前にて上半身を裸にされてうつぶせに転がされた。程よく鍛えられた背中の筋肉が峰をなしている。敲き役は忠左衛門であった。
「朝吉、我慢しろよ」
 朝吉は忠左衛門から借り受けた手拭を咥え、奥歯で噛みしめている。
「そーれっ、いーち」
 という役人の声が響き渡ると、忠左衛門は町道場の看板ほどの木の板に麻縄を括りつけ敲きの板を振り上げ、力の限りに背中を叩いた。朝吉の背中が一撃で蚯蚓腫れを引き起こし、血が垂れ流れている。
「にーっ」
 再び敲く。そのたびに、声にならぬ呻きが漏れる。
 この仕置は朝に始まって、昼前に終わった。すでに朝吉は虫の息である。
「終わったぞ、よく耐えたな」
 いつの間にやら人だかりが出来ている。そしてどういうわけか拍手がちらほらと起こっている。忠左衛門が肩を貸す形で朝吉はようやく立ち上がり、元大工町の家まで送り届けられた。
 忠左衛門は朝吉をうつぶせのまま、万年床に寝かせ、桶に水を張ると、長屋の大家を呼んだ。
「これは、火盗の旦那。どうなさいました」
「あの朝吉の面倒を見てやってほしいのだ」
 大家が覗いてみると、なるほど朝吉は背中を丸出しにして唸っている。
「あの、朝吉の野郎がなにかしでかしたんですかい」
 聞かれて、忠左衛門は迷った。大家の口振りから察するに、朝吉が一人盗人である事は知られてはいまい。となると、朝吉は単なる大工という事になる。
「旦那の前ですがね、朝吉の野郎が何かをしでかすような、そんなタマじゃねえと思うんでさ。確かに、手癖が悪い時分はありましたよ。それでも、何とか立ち直ってここまできてるんだ。もしかすると、火盗の旦那の間違いじゃねえですかい。それにね、火盗の旦那方はおっちょこちょいなところがありますからね、またそれじゃねえか、と」
 忠左衛門は苦笑いを浮かべるしかない。この時代、火付盗賊改方はその捜査権はいうなれば縦横無尽で、神職や僧侶に至るまで範囲が及び、しかも逮捕権に関しては町奉行所よりも緩く、よく言えば機動的で、悪く言えば暴走気味といえた。現に、後で冤罪と分かって、その苛烈な取り締まりがひどすぎたこともあって、何度か廃止の憂き目にあっているのである。
 朝吉に限って言えばあながち間違いではないのであるが、といって盗んだわけでもない。そういう意味で、不法侵入の罪だけを問うて、敲きの刑になったわけだが、恐らく大家の目から見れば、子供同然の住居人が火付盗賊改方によって痛めつけられたのはいい気分がしないのは当然であろう。
(素直に告げるか)
 とも考えた。しかし、それでも敲きの刑は厳しすぎる、と考えるであろう。忠左衛門は、
「三池屋幸兵衛が盗賊一味であったのは知っているか」
 と出し抜けに尋ねてみた。大家は知らぬようで、
「それはまことでござりますか」
「左様。朝吉はな、そこでつかまってなぶられていたのを、我らが助けたのだ。だが、あのように酷くてな、それで連れて来たのだ」
「そうでござりましたか。しかし、あの様子では医者に診てもらわねえといけませぬな」
「すまんが、その方が差配をしてくれ。それと、傷の癒え次第、役宅に来るように伝えておいてくれ」
 忠左衛門はそう言って、戻っていった。

 朝吉の傷は数日せぬうちに癒えて、体も元通りになって漸く動けるようになった。
「なんで、火盗までいかなきゃいけねえんだよ」
 と築地本願寺に向かう道すがらそう文句を垂れている。時折背中が古傷の様に疼くが、日を追う毎にその疼きも和らいでいる。江戸湾から吹きおろしになる風が痒くなった瘡蓋の周りを刺激するように、背中にかゆみを覚える。
 築地本願寺近くの、火付盗賊改方の役宅を兼ねた大和守の屋敷の前に、忠左衛門が立っている。
「来たか」
 毎日、立っていたらしい。
 忠左衛門は近くの蕎麦屋に向かい、朝吉もそれについて行った。
 二人は蕎麦屋の中に入って奥の小部屋を使うように申し送ると、店の女に案内されて奥の衝立に囲まれた部屋に入った。忠左衛門が腰から刀を外しながら上り、朝吉はゆっくりと上がった。二人は対面して座ると、忠左衛門は酒を頼んだ。
「お前、体の傷に障るであろうから、蕎麦にしておけ」
 と注文を付ける。忠左衛門は運ばれてきた徳利の酒を手酌で猪口に注ぎ、ゆっくりと口を付けた。
「話はな」
 忠左衛門が切り出すと、
「お前を密偵にしたいのだ」
「あっしに、火盗の狗になれ、と」
「そうだ。無論、盗人稼業はしてはならんのは言うまでもない。大工の仕事は今まで通りやってもらう事になる。ただ、市中の様子をつぶさに見て、報せを上げてもらいたいのだ」
「嫌だね。こちとら御公儀に盾をついて生きて来た人間だ。それを今更、信条を曲げられるかよ」
「曲げねば、今までの罪科をすべて吐かせることになるぞ。お頭の大和守様は、拷問にかけては名うての方だ。敲程度で済むとは思わぬが、どうだ」
 実際、忠左衛門の言う通りで、横田大和守は拷問の天才といってよく、江戸期に置ける彼の拷問は凄まじく、横田棒なる者まで発案している。これは石抱と併用して使うもので、折り曲げた膝の間に太い棒を差し込むことで、膝下の骨を砕くものであるが、これは苛烈を極め、死人が出ることが往々にしてあった。後にこれは廃止されている。朝吉も大和守の苛烈さを身震いするほどよく知っている。
「どうだ」
 もう一度、聞いた。朝吉は無表情で頷くしかなかった。

 朝吉はこの後、文政の中頃まで凡そ四十年もの間、大工と密偵という二足の草鞋を履きながら生活を送った。その間に嫁を取ることもなく、養子を迎えることもしなかった為、結局無縁仏となって葬られている。

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