雷 第四十七話

この頃、すでに木戸貫治と改めた桂は、未だに薩摩と手を結ぶことになおも逡巡している。その証拠に、木戸は自らの屋敷から外に出ていない。
「私は迷っている」
 と木戸が言うのである。坂本は、
「気持ちは分かるが、木戸さん。オンシが京に上らなんだら、全部が水の泡になるぜよ」
 と独特の土佐弁で木戸を説得しにかかっているものの、
(どうにもねちっこいのう)
 と、この聊か女性的な粘質を持った男に、少し閉口していた。無論、嫌っているわけではないのであるが。
「だが、西郷は来なかったじゃないか」
「ほやさけ、向こうは向こうで事情があるろう。それをいつまでもいうたらいかんチャ」
「それだけではない。薩摩は、禁門の変の折に、我らと対峙したではないか。言うなれば敵だ」
「しかし、それは言わん約束で」
 坂本が言いかけるのへ、木戸は分かっている、と制止すると
「しかしな、頭で分かっていても、感情ではどうにもできぬことがある。清濁併呑というのは難しいものだ」
 と木戸がため息交じりに呟くと、
「久坂たちはどう思うか」
 禁門の変で死んでいった久坂玄瑞や寺島忠三郎といった、長州攘夷派でも急進派であった松下村塾の同門を思い出していた。
 元来、長州という気質は現実的というよりやや観念的なところがある。「べき論」というような、どこかにつねに大義名分を求めていたように思う。例えば、禁門の変でも攘夷を盾に取り、それによって公家を動かし、天下を動かそうとしたのは、吉田松陰に源流を持つ思想であった。思想というのは多分に観念的であり、また形而上的である。思想が同調すれば、それは大きな助力となることもありうるであろうが、その一方で思想の同調というのは偏向をもたらし、視野は狭さくする。言い換えると、思想に合わぬものを切り捨てる事も平然と行い、それを正当化してしまう所に、思想の弱点がある。
 その点、薩摩は政治的であり、現実的である。無論、寺田屋事件のように尊皇攘夷に基づいて暴走した連中はいた。例えば、大老暗殺に加担した水戸藩以外の志士は、薩摩出身の者である。しかし、長州の様に思想で公家を動かすというよりも多分に政治的あるいは政局的な行動によって立場を固めてきた。現に、この長州と組む前は、薩摩は会津と組んで、長州を「朝敵」として攻め立てていたのである。それが、今度は会津を切って、長州と組むのである。
 木戸が、この薩摩の行動に感情的な警戒感を持つのは仕方のない事で、いうなれば薩摩は不?戴天の仇とも、あるいは水と油ともいえるような存在である。それと手を組むという事はいうなれば親の仇を目の前にしながらその仇と握手をするようなものであり、いくら頭で分かっていても、感情まで容認できるものではない。
「故に、久坂たちを思うと、やはり迷うのだ」
 と、木戸は言うのである。
 無論、その事は坂本も十分に理解している。だが、過ぎた事をいつまでも言うべきではない。それをすればするほど、反幕維新という、日本の大転換は遠のくばかりである。
 坂本が木戸の心情を理解しつつも、やはりその点が女々しいと思うのである。
(勝手にせい)
 と、言いたいところであるが、自らこの盟約を御破算にするわけにはいかず、坂本は
「外に出ていきますき、考えとおせ」
 とだけ言った。
 この頃の坂本の出で立ちは、黒木綿の紋付に仙台平の袴、革製のブーツというもので、のち写真に残る恰好である。長州藩士の某が、
「坂本さんに会いたいという人がおりますが」
 と注進に来た。
「会いたい」
「はい。なんでも、薩摩の方で、名前は黒田了介という御方だそうですが、ご存じありませんか」
(黒田)
 坂本は某の後ろにいる小さな影を見た。元来近視である坂本には黒田と名乗る人物の顔を識別できるわけがない。坂本は孤剣に手を置いて、
「おう。会うちゃる」
 といった。
 某はすぐに戻り、例の男に伝えると、黒田は某の先導で、坂本の前に来た。
「おいは、黒田了介とよかもす。京に居る西郷サァの使いでやってきもした」
 黒田は、日本人にしては彫の深い顔だちで、とくにはっきりとしている切れ長の目が印象的な男である。それでいて、どこか悪童をおもわせうようなやんちゃさも兼ねていて、坂本はどこか憎めぬこの男を、
「オンシャ、随分と得するのう」
 といった。
「何が、得で」
「いや、そのオンシャの雰囲気がよ。憎まれんろう」
「はあ。何かと可愛がられおりもす」
 坂本は満足そうにうなずいた。
「で、西郷どんは元気しちょるかぇ」
「おかげ様で。……ところで、桂様はどこに」
「ああ、今は桂やのうて木戸貫治と名乗っちょるが。……」
 黒田は思い立ったような顔つきをして、
「これは、失礼しもした。西郷サァは桂様桂様といっておられたんで、つい」
「そりゃ知らんじゃろう。名前を変えたがは、つい最近の事やき、無理はないがじゃ。……なら、ついて来いや」
 坂本の後ろを、まるで磁石でとりついたように黒田がついていく。
 木戸の屋敷に戻った坂本は、
「木戸さん、客じゃ」
 といって、仲の良い親戚のような気軽さで上がった。あまりの自然な流れであった為、黒田は驚いて困惑していると、事実上の妻である松子が
「どうぞ、お上がりになってくださいまし」
 と京女らしい典雅さで誘った。
「で、では」
 と言いながら、黒田は少し手間取った。上手く草鞋が脱げないのである。

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