雷 第十一話

余震がようやく収まったのは十一月に入ってからで、丸一月、江戸は余震の不安の中にあったことになる。
 幕府は十一月二日に江戸市中の寺々に供養を施すよう命じ、一斉に施餓鬼が行われた。本来施餓鬼とは無縁仏や餓鬼道に落ちてしまった霊魂を供養するためのものであるが、この場合は犠牲者を弔うというほどの意味であろう。
 無論、十兵衛の家族であったおみよと虎次郎も弔われることになった。十兵衛の落ち込みようは尋常ではなく、ややもすれば自ら腹を切って死ぬかもしれぬほどに憔悴しきっていた。
 この頃、十兵衛が起居していたのは観音寺屋ではなく、田原町の道場であった。道場に戻ったのは、観音寺屋に比べて被害が少なかったことと、十兵衛の憔悴ぶりを知った又十郎が無理に泊めたのが契機であった。
 道場には十兵衛だけではなく、被災した近くの者やあるいは道場の門弟たちなどが集まって、私的な避難場所として使われていた。その間、稽古はなかったか、というとそうではなくむしろ十兵衛の稽古ぶりはすさまじい。
(危うい)
 と又十郎は見た。どこかに十兵衛の剣呑さを感じたのかもしれない。
 その又十郎の思いとは裏腹になって十兵衛の技量は加速度的に上がっていく。それだけではなく、十兵衛の筋肉がますます締まって全身がばねのようになって、中年の男のそれとはまったく思えないほどである。

 翌安政三年になっても地震はおさまらず、七月二一日にタウンゼント・ハリスが下田に入ったその二日後、今度は八戸で起こった。八戸では津波も起こり、被害は江戸ほどではなかったものの、それでも被害は大きかった。江戸でも八月に大型の台風が押し寄せ、二三日から二五日に至るまで、ほぼ暴風雨圏内に晒され続けた。更に地震(恐らくは余震の類であろう)が起こったというのだから、まさに江戸末期は泣き面に蜂というには生温いほどの不運の連鎖である。
 この台風の被害は田原町の道場にも及び、地震では持った道場もこの台風で半壊の憂き目にあった。この安政年間は泰平であった江戸の惰眠を壊しつくそうとする『何か』の意思が働いたとしか思えないほど、天変地異が集中して起こっている。
「どうなるのか、この江戸は」
 半壊した道場を見上げながら、又十郎は嘆息した。恐らく、江戸に住む者ならば同様の悩みを持っていたであろう。道場主である松田四郎は地震の被災は幸運にも見舞われなかったが、その頃から病は重くなり、この年の三月にすでに死去していた。本来ならば、道場を継ぐのはこの岡部又十郎のはずであるが、本人は
「恐らく、こういう道場はもう古いだろう。ただでさえ、千葉や桃井、斎藤といったところに人がいるのだから、道場はたたむ」
 といって閉めるつもりであるらしい。実際、門弟のほとんどが先ほどの千葉、桃井、斎藤といういわゆる三大道場に変わり、残っているのは吉川新八郎と十兵衛のみであった。
 この事を聞きつけた新八郎はだいぶ良くなった腕を試そうと道場に駆け込んだ。
「先生」
 又十郎は十兵衛と共に道場の片付けに入っていた。といっても、道場主であった松田四郎が亡くなった時にすでにある程度の整理はしていたため、それほど家財道具があるわけではなかったが。
「腕は、もうよいのか」
「それよりも、道場を閉めるのですか」
「ああ、お前に伝えることがそびれてしまってすまなかったが、そうだ」
 新八郎は従容として又十郎の言葉を聞いた。特に動じる気配はなかったが、
「最後に、十兵衛殿と勝負願いたい」
 だるま、といわず名前を呼んだところに新八郎の意思が見て取れた。
 二人はそれぞれ竹刀をもって、道場中央で対峙した。それぞれ正眼で構える。
 十兵衛が敢えて切っ先を下げて誘い込んだ。新八郎、それを見て籠手を狙う。しかし十兵衛の手首が返って竹刀の柄を抑えると、飛びのきざまに面を狙った。新八郎、これを読んで躱すと、今度はがら空きの胴を狙った。十兵衛、逆に飛び込んで体勢を崩させて打たせない。そこからは力勝負に移った。じりじりと竹刀を鳴らしながら、互いに一歩も譲らず、また数合打ち合って決まらぬと、膂力勝負に出る。互いに一歩も引かず、勝負はつかなかった。
「これで、思い残すことはない。……先生、ありがとうございました。十兵衛殿、ご内儀と御子息の事は無念であったが、力落としの無いようにしてくだされ。いつか、乗り越えられることを」
 新八郎はそういうと、道場を後にした。新八郎は、できて間もない築地にある幕府直轄の訓練機関である、講武所という所に入るらしい。

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