雷 第四十二話

喧騒が闘牛の様に土煙を上げて暴れまわっている中、再び海路によって十兵衛は水戸に向かった。
 途中、何度か寄港しながら江戸に着き、さらにそこから陸路で水戸に向かうのである。
 当時の水戸は、高杉が内乱を起こしたほぼ同時期に同じような内乱が勃発していて、長州では攘夷派が勝利していたが、水戸では諸生党という、長州でいう所の俗論派のような集団が勝利し、すでにその実権を握っていたのである。
 十兵衛が水戸に入ったのはちょうどその時期で、水戸では『天狗党』という攘夷派の壊滅に向けて落ち武者狩りを行っていた最中である。
 十兵衛は途中、筑波山の近くの土浦というところで足を休めた。霞ヶ浦の水郷を見る事の出来る風光明媚といっていいところで、そこに立つ土浦城は別名を亀城と呼ばれた。霞ヶ浦の水害にも屈することなく、亀の甲羅の様に浮かびながら存続していた所からついた名前らしい。十七世紀末ごろから土屋氏の本拠となっていて、元々甲斐武田氏の家臣であった土屋氏が、武田滅亡後に徳川家に仕えていた。その後、上総久留里に領地を持ったのが、初代藩主である土屋民部少輔という人物である。ところが三代藩主である土屋伊予守という人物の素行に問題があった為改易となっていた。しかしその後、民部少輔の次男である但馬守数直が、土浦に入り、藩主となった。その後駿河田中藩に転封し、また土浦に戻る、という何とも忙しい大名家である。
 十兵衛が入った頃の藩主は土屋采女正寅直という人物であった。
 旅籠は、土浦城下より少し離れた、筑波山に近い一軒家にしかない。
 十兵衛は、
「急な客だが、よいか」
 と旅籠の前で鼻歌を歌っていた若者に声をかけた。若者は、虚空の蝶でも追いかけているようなどこか呆けたような表情をしていて、
「ええよ」
 とだけ答えると、ゆっくりと腰を上げた。そして、
「客だよ」
 と短く伝えると、そのまま元の場所に戻ってまたゆっくりと辺りを眺めている。
(変な男だ)
 と十兵衛は少々気の毒に思いながら。草鞋を脱いだ。
 旅籠といっても大きな城下や宿場町の本陣の様に立派なものではなく、民家を少々改造して、無理矢理に部屋を作ったような印象があった。十兵衛の他に客はおらず、店の者たちは少々暇を持て余している様子である。出てきたのは若い女中で、
「こちらにどうぞ」
 という言葉が無機質に響いた。
 すでに夜は更けきってあたりの光源も見つからず、規則的に配置された蝋燭だけが十兵衛の行く先を指し示している様にほのかに照らしている。十兵衛が通された部屋は一階の奥の四畳部屋で、それほど広いわけではないが、一人である十兵衛には十分な広さである。
 十兵衛は部屋に入るなり、
「すまんが湯漬けでいい。少し腹をすかしているので、所望したい」
 といった。女中は何も言わず、折るようにして頷くと、そのまま障子を閉めた。
(間違えたかな)
 後悔の念がなかった、とは言わないがそれでも聊か不安な心持である。旅籠に来て心が休まらぬ、というのは何とも不都合である。といって、他に旅籠があるわけでもない。
「野宿をするよりはましか」
 十兵衛はそう割り切った。暫くして、湯漬けと沢庵が数切れ乗った皿が運ばれてくると、
「どうぞ」
 と例によって無機質な声である。十兵衛は音を立ててかきこんで胃の中に置くと、猛烈な眠気が襲ってきた。疲れがたまったものではない。
(やられた)
 と、十兵衛はやはり後悔しつつその眠気と戦いながら、どうにか刀を引き寄せた。が、脳と身体とをつなぐ神経が寸断されているようで、四肢の自由がきかない。それでも十兵衛は柄を握った。拳が震えている。
「ど、どう……いう……」
 わけだ、と言おうとしたが言葉は声にならない。口を開け閉めしているだけで、息が漏れている程度では声にならぬであろう。
 十兵衛の微かな視線は足元にある。部屋に数人の足が見えた。
「しぶといねぇ、まだ落ちなさらぬかい」
 声に聞き覚えがある。旅籠の前にいた男である。口調は先ほどと全く違っている。
「とにかく、殺っちまおうや」
「いや、まだだ」
 と数人と声が飛び交っている。
「どうせ、諸生党の者に違いあるめえ。だったらさっさと」
(しょせいとう??)
 聞いたことがない。十兵衛の意識はすでに混濁しているが、辛うじて聞き分けることができる。
「それにしても」
 と声の主の一人が舌を巻く。
「しぶとい男だ。まだ、落ちねえ」
 近づいてくる。すでに九分九厘死に体になっている十兵衛の体を足で転がした。抵抗しようにも足の小指一つ動かすことが出来ない。足のつま先でバランスを取るような危うさで意識を保たせている。
「おう、とにかく荷物を探せ。密書か何か入ってるかもしれん」
 というと、一斉に部屋中を荒らしまわっている。元より、背中に背負った柳行李には桂から貰った慰労金と手形がある程度で、他には腰の大小のみである。
 十兵衛はその事を告げたいが、どうすることも出来ず、ただ涎を垂らしながら眺めているに過ぎない。
「密書なんかねえぞ」
「そんなことはない。どこかにあるはずだ」
「しかしよ、こいつ南から来たんだぜ。諸生党の連中が来るとしたら、北からじゃねえのか」
「江戸から来ることだって考えられるだろ」
「それに、この手形、長州からの物だぞ」
 その声が響いたとき、荒らしまわっていた動作が一気に止まった。
「だ、だったら。……こいつは」
 というと、また一斉に動き出した。暫くして、ぐい、と十兵衛は顔を持ち上げられると、何かを流し込まされた。次第に手足の自由を取り戻し、四肢が思いのままに動かせられるようになった。十兵衛は、揺れる落ち葉を真っ二つに切らんばかりの早業で刀を抜くと、目の前にいた男の鼻先につけた。針で開けたように小さな血の滴が出来た。
「どういうつもりだ」
 まだ多少の意識の混濁は残っているものの、すでに覚醒に近い状態である。
 部屋を目で見渡すと男が四人ほどいる。どれも旅籠の連中である。目の前にいるのは、鼻歌を歌っていた男であった。
「一応、名前を伝えておくと楠十兵衛という者だ。元は江戸の浪人で、浪士組から新徴組に属し、その後は長州に渡った。長州では高杉晋作という男と行動を共にした者だ。どこで関わり合いがあったか」
 普通に言ったつもりであったが、男たちはすでに肩を首に付けんばかりに竦めていて、どれも神妙な面持ちである。十兵衛は再度、
「どういうつもりだ」
 と、今度ははっきりと怒鳴った。すでに意識は完全に覚醒していた。鼻歌の男が、たまらず
「申し訳ない」
 と這いつくばるように頭を下げた。合図になったのか、その場の全員が同じように謝りだしたのである。意外な反応に十兵衛は戸惑ったが、
「話をしてくれんか」
 今度の口調はまた穏やかなものに変わっていた。

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