雷 第六十四話

将軍徳川慶喜は、常に京と大坂を中心に活動を続けている。遠い江戸では何かと時間の隙間が出来る事で、薩長、さらにこれに土佐が加わった反幕府勢力に対抗するためである。実際、長州征伐が失敗してから、薩長には次々とその幕下に入る諸藩が多くなり、反対に幕府に付き従う勢力は主に会津や東北の各藩であるが、距離的に東北は期待できず、さらに政治感覚も期待できるほど鋭敏ではない為、実質的には会津と桑名の二藩が薩長に対する形で慶喜を補佐している。
 この時期、慶喜は一つの政策に固執といっていいほど躍起になっていた。
 神戸開港である。
 実はかつて幕府は下田、函館、新潟、神戸の四港を開港する旨を出しており、その通り三港についてはすぐに開港となったが、神戸だけは開港に至っていなかった。厳密に述べると、軍艦操練所などとしての開港はしていたが、横浜などの外国人居留地はなく、開港においても対外国用ではないものであった。
 いつまでも履行されない神戸開港に業を煮やした連合国艦隊は淡路島周辺にまで押し寄せ、開港を迫った。慶喜はそれに応じる形で奏請していたのである。
 なぜできなかったか。
 朝廷による反対が強かったためである。実際には孝明帝によるものであった。
 孝明帝が夷狄、外国人の存在を蛇蝎の如く嫌っていたのは有名な話で、京に近い神戸が開港され、外国人がその地を踏むという事に、病的なまでに排斥していたのである。現代の国際関係などを鑑みればいかに稚拙で子供じみたものであるか明白であるかよくわかりそうなものであるが、この時代における外国人に対する認識というのは今日のわれわれの認識を基準に考えてはいけない。ある意味では妖怪や下手をすると悪魔の部類に属するかもしれぬほど、異質の存在であり、そこから出てくる生理的な排斥的感情は無理からぬことではある。
 当然、明治帝もそのような感情を持っていても不思議ではなく、慶喜が最初に奏請したのは三月五日であるが、神戸開港が許されるのは三度目の奏請である五月二十三日で、しかもこの時は朝廷が夜を徹して議論し続けて、正式に通達が出たのは翌二十四日であるというから、いかに感情のせめぎ合いが大きかったかがよくわかる。
 元々、慶喜自身は開国を旨としていた男である。なんら革新をしていない戦国期から抜け出せないどころか退化してしまっている武力で海のはるか向こうからやってくる文明の塊のような諸外国と渡り合えるわけがない事は十分に理解していた。それまでの軍式をすべて改めて顧問団をフランスから招聘し、一気に西洋化をすすめたのも慶喜である。さらに、幕末以前の職制をすべて廃止し、あらたに総裁職を設けて、疑似的なものではあるが内閣制のひな形のようなものまで作っていた。それまで時代に取り残されていた幕府が、玉手箱を開けた浦島太郎の様に急速な変貌を遂げるのはこの頃からである。
 その影響は遠く江戸の軍制にまで及び、それが歩兵や撒兵隊にまで繋がっていくのである。
 が、今の舞台は京である。
 慶喜は神戸開港を成功させ、長州の最終的な処分を終わらせて長州征伐を終了させると、フランス公使であるロッシュと二人三脚のような蜜月さで政治改革を行っていく。
 慶喜の起居は主に二条城二の丸の黒書院である。
 珍しく小姓が起こしに来る前に目が覚めたのは、隅瓦から垂れてくる滴の音が妙に耳に響いた為である。
 ゆっくりと体を起こし、布団を除けるようにして剥がすと、しっとりとした湿り気が首に巻き付いた。これを手の指ではらうようにして首を撫でると指の腹に吸い付いたような汗がついた。これを振るって胸元を肌蹴て風を送り込むのはよいが、何分湿気を帯びた風だけに涼をとれるようなものではない。やおら立ち上がって、ゆっくりと庭先の縁側にまで出てみると、やはり梅雨であった。
「そんな季節であったか」
 と、将軍就任がたった数か月前であるというのに、数年以上も前の様に感じてしまうほど、幕末の時間の濃密さは尋常ではなかった。
 慶喜はそのままゆっくりと背伸びをした。骨の鳴る音がする。その心地よさに少しはにかみながらも、やはり空気を遮断するような激しい雨は少し気分を陰鬱とさせるらしい。やがて小姓が起こそうとしてやってくると、慶喜のすでに起床している姿を見つけて、恐縮して平伏していると、
「いや、構わぬ。この雨で目が覚めた」
 といって、すぐに朝支度を整えるよう伝えた。
 その間の雨は止まず、それどころか雨脚は強くなっていくばかりで、時折雷鳴が顔を出す。
(もうそろそろ夏も近いか)
 と直感的に感じた。そういった余情に向く事が出来るのは、懸案事項であった神戸開港がやっとできた事に対する心の余裕というものがあったのであろう。慶喜にとって、この神戸開港は唯一といっていいほどの大きな宿題で、これを終わらせずに捨て置くという事は、後々に禍根となってまた馬関戦争の二の舞になるかもしれず、そうなれば確実に日本は諸外国に、上海のような屈辱を味わう事になる。それに、条約を違約することの重大さは、この「西洋かぶれ」は十分に承知していたわけであり、何としても実現させなければならなかった。
 それが終わった以上、慶喜の仕事は大方やり終えた感がある。やや寝不足乍らも充実した表情であるのはそのせいであろう。
 将軍の御膳は意外にも質素であるが、鱚は必ず出た。「喜ぶ」の旁を以て、縁起が良いとされたからである。これは歴代の将軍皆が食さねばならぬ、いわば「仕事」のようなもので、無論慶喜もこれを食した。後は向付と汁物、飯が少々入っている程度である。
 これを平らげると政務に就くことになるが慶喜の場合、フランス公使であるロッシュを特に重用していて、そのさまは君主と軍師の関係に近いものであった。
 ロッシュという男について少し説明をすると、駐日仏公使であるレオン・ロッシュは、フランス南東部のグルノーブルという所で生まれた。大学を半年ほどで辞めるとアフリカにあるアルジェリア遠征軍に参加することになり、そこからアフリカとの長い関係始まる。一時期、フランスとアルジェリアとの二重間諜の嫌疑がかけられるほど、ある意味ではアフリカに肩入れをしていた男である。
 ロッシュが日本にやって来たのは元治元年で、駐日公使としては二人目になる。当然、ロッシュは日本が出来るわけがなく、通訳として塩田三郎という人物が就く。ちなみに、この塩田三郎は後の在清公使になる人物である。塩田は英語と仏語が出来る数少ない人材で、ロッシュはつねに塩田を使う事になる。
 ロッシュが最初に行った仕事は馬関戦争である。馬関の通行が出来ない状態にあった為、幕府に馬関の通行を求める覚書を英・米・蘭と共同文書の形で提出し、それは認められたのだが、高杉や十兵衛たちによる馬関戦争が起こることになった。その後、幕府の要請によって製鉄所や造船所などの建設に携わるのだが、これはフランスの公式なものではなく、ロッシュが個人的に行っていたらしい。一外交官の範疇を超えた越権行為であることは明白で、ともすれば帰国命令が出かねないほどの危険なものであった。だが、ロッシュは幕府の求めに応じて建設を手伝うだけにとどまらず、代が変わった慶喜には幕府改革の為の提言を数多く行っており、幕府がフランス式に短期間が変わっていったのはこのロッシュによるところが大きい。
 なぜそこまで肩入れをしたのか、という事については諸説あり、一つには英国に対する牽制があったとされる。英国というよりも、公使パークスに対する意識と、英国が薩長に対して支援をしている事に対抗して、幕府を支援していたという事もあるであろうが、最も大きいのは慶喜に対する評価であった。
 ロッシュは、この息子ほどの歳の離れた青年に対して親心のようなものが働いていたのであろう。実際、ロッシュの行動は暴走状態であるといってよく、本国フランスの意向を無視することも出始めていたからである。
 特に慶喜のある意味では直情的である、凡そ政治家には似つかわしくない直線の性格が、反骨の性質を生まれながら持ち合わせているロッシュ自身と合ったかもしれない。俗にいう馬が合うというようなものであろう。
 確かに歴代の将軍にはない果断さというものが慶喜にはあった。剛情さといっても良い一本気な性格は、平時においてはこれが障害となることもあるが、幕末のような有事の時期にはこれは有効に働く事がある。特に、慶喜の場合、これが外交面によく出ていて、ロッシュとの関係や他の異国と付き合う時などは特に縦横無尽といってよかった。
 この時期、ロッシュは大坂にいるが、それでも慶喜との連絡は密であった。慶喜もまた、ロッシュより聞かされる政治体制や、近代国家のあり方といった国家体制の話は滅多に食べられぬ高級料理に鼻孔をくすぐられるような感覚でいくら食べても飽きぬ魅力があった。
 二条城と大坂、と少し離れていても海内と海外に離れたような寂寥さを慶喜は感じている。
「ロッシュ公は」
 と、家臣が言上に来るたびに、何か言っては来ていないか、と尋ねていた。
「いえ、ロッシュ公については何も伺っておりませぬが」
「そうか。で、何だ」
 というのが落語のまくらのように必ず付いて回った。

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