マイナー武将 大島光義

 三国志を読んでいるとなかなかキャラの濃い人がいますね。

 例えば、目を矢で射抜かれた時にその目を食べた、という夏侯惇や、生涯義理に準じ続けた関羽、酒で失敗が多くそれが元で寝首を掻かれた張飛、はたまた敵陣深くから単騎で切り抜けた趙雲、はたまた、一族を殺され、曹操を狙い続けた馬超、そしてその馬超を狙い続けた王異など。

 その中で、「老黄忠」という言葉があります。日本では「老いてなおますます盛ん」という意味になります。

 老(ラオ)の黄忠。この黄忠という人も三国志に出てくる人ですね。五虎大将の一人です。この人は、西暦では148年生まれで、220年没ですので、これを信用すると70代でなくなったことになります。正史では彼の記述が少ないですが、演義では、60代から活躍し、定軍山の戦いでは同じ弓の名手であった夏侯淵を斃して定軍山を奪っていたりします。「三国志(光栄)」では、厳顔とコンビで使ったりした人もいるかもしれません。

 さて。

 では日本で、そういう人がいなかったのか、というとそうではありません。まず、徳川家康が最後の戦をしたのは彼が70代ですし、北条早雲も一説には80代まで生きた、とか。秀吉も天下人の頃は60代超えてますから、実際には黄忠ほどの活躍をしている人がいます。というか、有名であればあるほど長生きです。

 最高齢の戦国武将であり、しかも黄忠と同じく弓の名手で、さらに黄忠より長生きした武将がいます。

 大島光義という人物です。

 この人は小説にもなっています。

 光義は永正五年(1508)生まれで、同年に上泉信綱、松永久秀などがいます。ちなみに織田信長が天文三年(1534)生まれですので、彼の戦国時代の世代がよくわかると思います。

 光義が信長によって召し抱えられたのが光義56歳のときです。この時点で黄忠と似通っているのがよくわかります。信長にはこの弓の腕のすごさから「雲八」という通称までもらう事になります。

 その後、光義は織田方の武将として戦い続けます。挙げておくと、

姉川、坂本、長篠、本能寺の変、加治田・兼山、小田原征伐、朝鮮出兵(これは肥前に在陣)などです。

 そして光義は会津征伐から関ヶ原の戦いに向かう事になりますが、この時齢93です。光義には三人の息子が居ましたが、光義自身は長男と東軍に、次男三男は西軍につきました(この辺は真田昌幸と同じ考えだったと思います)が、東軍勝利となり、美濃の関に領地を持つ事になります。

 光義は慶長9年(1604)年に亡くなります。享年97歳。現代のように医学が発達した時代でも97歳は長命の部類ですが、ましてや平均寿命が40代から50代の時代での97歳は、恐らく濃度的には200歳に近い人生だったと思います。

 今でも、関市では光義を祀るお祭りがあるそうです。前に関に行った時には知りませんでしたが。

 ちなみに関に行く時には長良川鉄道を使うのがよいですが、そうでなければ車で行かなければだいぶ交通の便が悪い所です。あと、刃物会館かどっかではいい爪切りが手に入りますよ。

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