雷 第三十三話

この頃の五卿は功山寺に移る前で、山口の湯田という所に滞在していた。この五卿の追放は勤皇色の強い長州諸隊にとって屈辱であり、さらにそれが事もあろうに薩摩から提言されたことで、なおその反発が強くなっていた。
 とはいえ、このままではいずれ自沈してしまう事も目に見えている。この第一次長州征伐について、躍起になっていたのは幕府だけであり、その他の諸藩に関してだけ言えば、実は長州の敵ではなく、むしろ潜在的味方である事の方が大きかった。しかし、度重なる政治的失脚と暗闘の敗北で心身ともに傷つき、ある意味では不信に陥っていた長州にはそれが見える筈もなく、猜疑心が覆い尽くしていた状態である。
 それは重く閉じた鉄の扉の取っ手に鎖を巻き付けて、その上に南京錠で鍵をかけてその鍵を捨ててしまったようなもので、西郷は南京錠を外し、鎖を解いて、重い重い扉を開かねばならない。しかも厄介な事に、これを単独で行おうというのである。
「それは無理だ」
 岩国から広島に向かう道中で、税所は進言した。
「長州はただでさえ我らに対する恨みは大きい。容易ではありませんぞ」
「だから、おいが行くといっている。恐らく、おい以外では誰も出来んであろう」
 西郷が天性の政治家でありながら、また天性人徳を下げないという聊か不思議な気質が此処でも垣間見えたのである。

 果たして、それは成立した。
 三家老の切腹、四参謀の斬首はその通りに行われ、その切腹した家老の首実検には名代、成瀬正肥、永井尚志、戸川安愛の三名。長州川は吉川監物、志道安房の二名が立ち会った。場所は広島国泰寺である。
「ご苦労であった」
 成瀬は名代らしく、仰々しい物言いで吉川に告げると、
「次に、であるが」
 と切り出した。
(五卿の追放か)
 吉川はそう睨んで、素早く頭を回転させながら、西郷を巻き込むことを考えていた。しかし、成瀬が切り出したのは、
「条件である」
 といった。
「藩主父子を後ろ手にて出頭せしめ、山口城の破却を命じる」
 というものであった。吉川の頭の中には全く思いもよらぬことであり、この条件は絶対的に飲むわけにはいかぬものであった。控えの間で待機していた西郷は団栗眼を更に見開き、不動明王さながらの顔になっていた。この時同じく交渉役をやっていた辻将曹は、この西郷の表情を見て、事の重大さを知った。
「お、お待ちくだされ。この開戦猶予の条件は、家老の切腹及び参謀の斬首、おわします五卿の動座であったはず。これは約束が違う」
「何を申すか。そもそも、度重なる不届至極、本来ならばすぐにでも改易であるところを、格別の憐憫と情でもってそれを免れよう、というのだ。ありがたく頂戴するのか筋であろう」
(何を言っている)
 成瀬の物言いは全くの時代錯誤であった。すでに天下泰平の世は過ぎ去って、いうなれば新しい政治的機軸を打ち出さねばどうにもならない状況に置いて、まだ幕府の面子しか考えていない。全く、旧時代的である。
「されど、総督参謀の西郷吉之助殿が、三条件でよい、との仰せでござった。これではどちらが正しいのやら、ちと分かりませぬ」
 吉川は華奢な体を大いに震わせて言った。寒さではない震えである。
「西郷はたかが薩摩の小童であろう。この成瀬は総督名代である。従って、この上意は総督の御意志であり、同時に御公儀の御意志である。速やかに遂行されよ」
「ならば、参謀という職につかれておられる西郷殿の立場がありますまいか。名代が総督の意志であるとするならば、参謀な何のためにありましょうや」
「黙れ!!罪人のくせしてえらそうな物言いをするでない」
 西郷は控えの間で、
(幕府は終わった)
 と思った。西郷は一連のやり取りを聞いて、勝の言っていた「当てにならねえ」という現実をまざまざと聞いてしまったのである。のみならず、長州に対する情が一段と深くなった。
(何とか救いたい)
 すでに西郷の長州に対する思いは政治的な価値を飛び越えて、一種の判官びいきのようなものになっていた。心情的にも幕府に一片のしがらみもなくなっていた。
「西郷殿。今は出てはいけません。必ず、方策があります」
 杉は西郷をなだめた。
 吉川は顔面が蒼白している。
「どうしてもと仰るのであれば、長州はよんどころなく死守致す」
 と、今にもつかみかかりそうな怒りをとどめていった。さすがにこの気色ばむ姿を見て、永井は
「西郷に一度預けましょう」
 とだけ言って、首実検は終わった。
 吉川は三者の首を持ち帰り、広島を後にした。
 永井は、西郷に
「成瀬殿の条件をどういたす。それがしはあれでいいと思っているが」
 と問うた。すでに心が幕府からまったく離れてしまっている西郷にとって、煩わしさ以外何もなかったが、かといって総督参謀という立場上、放り投げるわけにもいかず、
「これはできますまい。そうでなくとも士気が低い中で、これ以上無用な争いはするべきではありません」
 と答えた。
「ならば、あの三条件で言いというか」
「はあ」
「話にならん。反逆者は改易が御定法であるぞ」
「では、その御定法が通じるのであれば、我ら薩摩も改易ですな」
 西郷の腹の底が冷えるような凄みに永井は少しひるんだ。
「しかし、それでは納得できぬ連中がおるであろう。それを説諭できるか」
「やりましょう」
 西郷の意識の中に、薩長という文字が浮かび上がり始めていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?