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私の姿

ずいぶんと困っていたけれど、誰にも相談できなかったことがある。自分の容姿に関する悩みだ。


私が私に対して持つルッキズムはかなり強固なものだ。私の容姿は人間じゃない、そう思いこんでいた。醜形恐怖症なのかも知れない。
自分の容姿に関わることを書こうとすると、とんでもなく重くなってしまう。そもそも誰にも相談できないくらいコンプレックスが強烈なので、今までこういう内容を書けたことがない。口にすら出せない。今なら書けそうな気がするので、書いてみようと思う。


自己認識としては、“ブス”よりも“異常”の方がしっくりくる。
私は人のなり損ないとして生まれて、姿形も異常なんだ。可愛くなりたいなんて贅沢は言わないから、せめて普通になって悪目立ちせずに周りと溶け込めたらどんなにいいだろう。

最初に違和感を感じたのは幼稚園の頃だ。並ぶと他の子と頭身のバランスが違うように思えて堪らなく恥ずかしかった。私はおかしい。可愛くない。それ以降集合写真が苦痛だった。
自分の見た目が一因で、お母さんになりたくないなと思っていた。私に似た子どもが生まれてしまったら、その子は自分の容姿で酷く苦しむだろうと思った。私のように。

小学生になって卒業して、中学生になってからはアルバムを自分で管理できるようになった。以降自分の映る写真はすべて処分してきた。
私は首が長く、学校指定のジャージを襟を立てて着ていてもまだ見えるほどだった。そのことをクラスメートに陰で笑われていることを過度に気に病んでいた。出目気味の腫れぼったい瞼もよくからかわれた。
通学途中の信号待ちが苦痛だった。他の歩行者や車に乗っている人の視線が怖かった。車内から見る歩行者は目立つので、私のみすぼらしい姿をまじまじと見られてしまう。
服を買いに行くのも美容院へ行くのも一大決心で、お店の人に話しかけられるのが怖くて声が震える。自分の顔を人に見られるのが怖い。家族と外食に行くのも断るようになった。自分の姿は人を不快にさせると思って、親切のつもりだった。
おしゃれするなんて夢のまた夢。それはよその人──きちんと人間として生まれた人──だけに許される権利だよ。私はただ目立たないことだけに気を付けていればいいの。

高校生の頃、突然「自分も人間なんだ」という気づきを得て驚き、少しだけ自分を普通の人間として扱えるようになって幾らか楽になった。でも、自分の容姿は異常だという意識は変わらず持ち続けたままだった。顔を見られたくなくて人に会えない。友達と出かけられない。いつも断ってしまう。
家にお客さんが来たとき、身なりがきちんとしていればかろうじて笑顔の挨拶はできた。でもそうでないときは辛くて、一度母に「お客さんのことが嫌なわけじゃないし失礼だって分かってるけど、どうしても今自分の姿を見られたくない」と直接の挨拶を断ったことがある。母はそれを許してくれず、部屋のドアをこじ開けて私を引っ張り出し、お客さんの前まで引きずって行こうとした。この時の悶着は、今でも深い傷として痛むことがある。







大人になった今でも自分の写真は一枚も持っていない。
スマートフォンの写真フォルダにもない。自撮りをしたことがない。写真撮影も可能な限り抜けてきた。
容姿のことを考えないようにして自分を誤魔化していれば、なんとかやり過ごせる。私は徐々に対処法を身につけていった。実際の顔は大して変わりはしないけれど、お化粧をするようになったら人の目を見て話しても笑顔がひきつったり声が震えたりしなくなった。別に顔の輪郭や骨格は変わらないし、お化粧で可愛くなるわけじゃない。元が醜いから努力をしたって成果はたかが知れている。でも、素顔に一枚膜が出来るだけで私と相手が心理的に隔てられるように思えて「これで私が人間じゃないってバレない」のような気持ちに救われるのだった。
けれど身につけたのはあくまでも対処法で自己肯定感ではないから、嘘をつきながら生きているみたいだった。
ひとたび自分の容姿問題を直視してしまうと酷く泣けてきて、死んでしまいたくなる。
どうして私はこんな状態で平気で生きているんだろう。こんな姿を晒してよく恥ずかしくないな。私は自分の醜さから目を逸らして、ただ逃げているだけじゃないか。
本当の問題は容姿ではなく、周りの対応でもなく、私の受け取り方にあるのだと今なら分かる。

一度、これでは駄目だと本気で自分の自己肯定感と向き合ってみようと取り組んだことがある。容姿のことも含め、私は私を責めてばかりいたから。
「私は愛されている大切な存在です」と毎日自分に言い聞かせるのは思った以上に苦痛だった。写真恐怖症も克服したくて簡易的なアルバム帳を購入し、親切心で撮ってもらった写真をしばらくファイリングしてみたりした。

“自分で自分のことを愛してあげましょう。
そのままの自分を認めてあげましょう。
許してあげましょう。”

駄目だった。
そうしたところで何になるのだろう。現実は変わりはしないのに。

出来ていないのに自分を認めるなんて甘ったれていると思った。私がセルフで私を愛するという行為は酷く滑稽だった。口に出したところで嘘くさい。自分が愛されるべき存在とはどうしても思えずイライラした。
かえって精神は不安定になり、泣きながらアルバム帳を捨てるという顛末となったのだった。

他人からの正当な評価を得て、それが10個くらい貯まって、それでやっと、自分にはそれだけの価値があるのだという1ポイントになる。1ポイントがさらに10個貯まってやっと評価を直視できる。それが自信になる。そんなふうに生きてきた。
小説やイラストだって、自分だけが上手いと思い込んでいたって何の客観性もないじゃない。私は幾つもの他者評価を集めてはじめて、自分の小説に自信が持てるようになったのだから。







思うに、私の容姿に対する歪んだ認知は「自分は愛されない存在だ」という思いと強く紐付いているように思う。どうして愛されないかといえば、周りと同じようにするのが下手だから。どうしてそう思うかといえば、そのことで随分母に叱られたから。そもそも誰に愛されないって、母に、なのだ。

子ども時代の母親というのは絶対的な存在だから、「お前は恥ずかしい」と評されたら、恥ずかしい私になるしかなかった。母親に愛されていないと感じるということは、誰にも愛されていないと感じるのと同じだった。自分で恥ずかしい自分に寄せて、愛されない私としてわきまえていることが、人に迷惑をかけない振る舞いだと思っていた。

みんなと同じように出来ない罪悪感を容姿の問題とすり替えて、私はいつまでもそのコンプレックスに手こずっている。

手こずっていた。

今になってやっと、私は自分の姿を認められるようになってきた。まだずいぶんぎこちなくはあるけれど。


そのことについてはまた別の記事に書いてみようと思う。今回は、ここまで。

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