見出し画像

わたしと友だちになるまえの


友達の過去の写真を見せてもらった。私と友達になる前の、私の知らない。美形で繊細で内気そうな青年だ。見ているうちにスケッチしたくなって、ペンを持った私の右手はそわそわ動き出す。



描き進める内のめり込んで、内面世界に没頭してしまう。人は彫刻ではないから、骨格だけが印象を左右するわけではない。生きていくなかでの事情やしがらみや性格が外見に表れる。特に面識のある人物をモデルとして絵を描くときはどうしたってその人の内面を考えざるを得ない。目はこんな形、鼻はこう、彫りが深くてパーツの配置が完璧で……などと思う一方で、浮かべられた何とも言えない表情の正体を探りたくなる。

写真に収まるその瞬間、彼はただカメラを見つめていただけだ。なのに向けられた目はなぜだか私の心をきゅっとすぼませる。
私を知らない、私の知らない時代のあなた。「でも内面はこの頃とあんまり変わっていないんだよ」と時折当時の様子を話して聞かせてくれる。大学生になってからの慣れない一人暮らし、寂しがり屋で、賑やかな集まりへ行くものの却って孤独を感じたこと、一人ぼっちの部屋で誰に聴かせることもなくキーボードを弾いて自分を慰めるしかなかった頃の話。そういう情報を得ていた先入観も手伝ったのかも知れない。顔の造形自体は変わらないのに今よりなんだか所在なさげで、自分の居場所がないと感じているように見えるのは、私の思い込みだろうか。

今のあなたの方がずっと幸せで優しげな表情になっているのは嬉しいけれど、不器用で寂しそうな目をした昔のあなたにも、なんだか手を差し伸べたくなってしまう。私、あのあなたにも「話聞かせてよ」って言って寄り添えたらよかった。
「過去はどうあれ今が幸せならいいじゃない」って、それはそうなのに。
だけど、昔はどうあれ、今は友達だからさ。昔の寂しかったあなたも、やっぱり大事に思ってしまうんだよ。
きっと重なるのだ。苦しくて寂しくて一生懸命だった過去の私と。
私が人生で最も苦しかったのは小学生時代だった。子供ゆえに困り事があっても上手く躱すような知識経験を身に付けていなかったから。暗闇の中で殴られているような、手も足も出ないような恐怖感。上手く逃げることも知らず、ダメージをまともに受けるほか無かった。

今でも疲れ果ててしまうとき、あの頃の私が熱心に描いていた女の子やうさちゃんの絵を思い出して再現してみたりする。そうしていると小学生の私が蘇る感覚がある。今になって子どもの頃の私がいじらしく、可愛く思えるようになった。
私、あんなに幼かったんだ。あんなにけなげに笑顔で耐えていたんだ。すごくかわいいな、優しくしてあげたい。
私であったはずのその子は大人になった今は半分他人になっていて、俯瞰できるからこそ愛おしく思える。あの子に「心配なんかしなくても、あなたはちゃんと人間だし、ちゃんとかわいいんだからね」と言ってあげる。
友達が鍵盤に触れることで自分を癒そうとしていた同じ時代に、私はうさちゃんの絵を描いて自分への癒しを試みたのだった。
過去の私と今の私は繋がっている。だから過去の私が癒されることは、決して今の私に無関係なことではない。たとえ今があの頃に比べれば穏やかな日々であってもだ。私は今もあの子と一緒に生きている。




「私は、あなたが自分の良さが分からなくなった時に思い出させる係ね」

そう言ったことがある。その発言を受け止めて、本当に頼って弱みを見せてくれる柔軟さに驚かされる。あなたはきっと、自分の中にあるそういう良さの多くに気づいていないだろう。
あなたは優しい。
もちろん私にも優しく接してくれるのだけれど、もっと掘り下げたところ、人としての基盤が優しい。

友達になって聞かせてもらう言葉の端々から、パズルのピースが徐々に埋まってゆくように内面の特性が徐々に見えてくるような感覚になることがある。この人には生まれ持った優しさと、人のために何かしたいベースとが備わっているんだなと段々に分かってくる。奉仕の精神、サービス精神みたいなもの。一貫しているからそれが生き方になっている。「確かに、自分が役立たずって感じるとすごく悲しくなるかも」とは彼の談だ。
自分が人のために何かをしたとき相手の嬉しそうな顔を見るのが好きで、つい張り切る。場を盛り上げて周りが笑うのが好き。努力してやっているんじゃなくて、もともと魂に深く根付いている性質だ。だからいつの時代のあなたにもあるものだと、写真の顔を描きながらそんなことを考える。
あなたはネガティブも含めて基本的に何事も包み隠さず話す。嬉しい時は全力で喜ぶし、怒りの感受性も高い。辛いときは辛いと言う。正常な良心の持ち主で、私を肯定してくれて、率直で、だから信頼している。

だから、私は時々強烈にあなたから逃げたい。

大好きで甘えたくなるから、親身になって話を聴いてくれるから、心地よく寄り添ってくれるから、逃げたい。逃げたくて怖くて、座り込んでわんわん泣きたい。底冷えするような、バランスを取ってどうにか立っていた瓦礫の足場が崩れていくような恐ろしさだ。友達でいられなくなるかも知れない事態に陥ったとき、あんなに寂しくてたまらなかったくせに。

「逃げたい」と「離れたい」は微妙に違って、逃げたくはあっても離れたい訳じゃない。関わりたいけれど関わることに怯えてしまうような。優しくされるの、嬉しいけれど本当は怖い。自分が幸せを感じるという状態はいつだって後ろめたい。
あんまり私の全部を知ろうと思わないでよ。だって私はネガティブ思考が強すぎる。それらをあなたに撒き散らしてあなたが疲れ果てるのが嫌だ。そしてとうとう私を見放す日が嫌だ。
だから見捨てられないように私はいつも安定を演じてしまうの?
ああ。ぜんぜん歪んだままだ。振り返って自分で「大好きだよ」なんて慰めたって、癒えていないじゃんか、子どもの頃の私。

文章は孤独だ。しかしその孤独さゆえ、救いの場でもある。誰にも話せないそれらを抱えて文章に逃げるから、その逃げ場にもあなたがいて受けとめてくれると、私のきたないものをそこへ吐き出せなくなってしまう。

写真の青年に心動かされ、ただ美しいものを、美しいままであるようにと集中して描いただけのつもりだった。なのにあなたは、「こんなに内面まで表現できるなんてすごい!」と大袈裟なくらいに感動して、過剰に褒めてくれる。
どういう言い回しだったか忘れたけれど、あるとき私に「あなたと話すようになって、今になって寂しかったあの頃の自分もちゃんと振り返って癒されている感覚があるよ」というようなことも言ってくれて、それはとても嬉しかった。私が望んでいた効果だから。
癒されたらいいと思う。今のあなたと地続きの昔のあなたが。そうしたら私は、過去のあの青年に寄り添って、話を聴いているのと同じことが出来ているはずだ。








優しい愛情は、痛い。

自分にまっすぐ向けられる真摯なものであればあるほど。治癒に伴う必要な痛みなのだと思う。けれど時折痛くてかなわない。
あのね、聞いて。私にとって“幸せ”というのは贅沢品で、私、自分がそれを享受すると悪いことをしているみたいな気持ちになるよ。
肩に力が入って、慣れなくて、怯え疲れて。自分が大事に扱われるというこの状況がなんだか異常事態みたいで、誰にも関心を向けられない通常状態に戻らねばと思うような。
「大好きなあなたが大丈夫なように」と、言って言われて、そのやり取りを繰り返す何度目かで、私は正常になれるだろうか。

息を止める。
全部固まって、不動になれ。
あなたが幸せであれ。


そして私の涙は一生固形物のままで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?