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シャニマスに真剣な人たちの言説

そのうち「アイドルと消費」をテーマに長めの文章を書きたいと常々思っているが、テーマの重さと忙しさでまだ覚悟が決まらずにいる。というわけでリハビリがてら短めのものをと筆をとった。このnoteは別に読む価値ないです。

最近私はシャニマス関連のdiscordサーバーに多く入るようになり、Twitterで関わる人もシャニマス関連の人たちが増えてきた。そういうコミュニティにいるとよく聞く言葉がある。それは「コミュを読め」である。これはそれなりにシャニマスというコンテンツにのめりこんでる人たちの口から出るものである。なぜシャニマスに真剣な人たちがこのようなことを言うのかといえば、アイドルたちの人間性を理解するのにはまずコミュを、すなわちその人に関する物語を読まないことには始まらないからである。

コミュを読んでいないと私たちは二重の意味で物語を共有できなくなる可能性が生まれる。では誰と誰とが物語を共有できなくなるのか。一つはアイドルとプレイヤーである。プレイヤーはアイドルの物語を知ることができず、アイドルへの理解に差し支えてしまうかもしれない。もう一つはプレイヤーとプレイヤーである。「このカードの話を誰かとしたいけど周りに読んでいる人がいないから無理だ」という経験がある人もいるだろう。

この「物語の共有されなさ」が加速すると「○○(アイドル)の話をしたいならまずはコミュ読めよ」「コミュ読んでないやつが○○の話をするな」という言説に繋がっていく。実際にそんなこと言う人間はいないと私は思っているが、【NOT≠EQUAL】三峰結華を持っていない自分が三峰結華についての解釈を語ってもいいのだろうかと尻込みをする人を私は実際に見てきた。というか私もその一人である。

















うるせ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
















知らね~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~














そもそも人間と人間との間に共有されえない物語があるのは当然のことだろう。私は両親でさえそのすべての物語を知っているわけではないし、もちろん両親でさえ私のすべての物語を知っているわけではない。事実、両親は私がシャニマスにドはまりしてこんなきしょいnoteを書いていることなどつゆほども知らないのである。それでも私は両親がこのnoteを読んだらどんな反応をするだろうかについて想像を巡らせることができる。「どうしてこういう反応をするのか」の想像の下敷きに決定的な物語(たとえば母にキモイことを言ったら嫌な顔をされたという過去)などなくても、母のしかめっ面を思い浮かべることは容易い。決定的な物語は確かにその人間の理解の補助にはなるだろうが、決して必要不可欠というわけではないはずだ。それでもまだ物語に固執するのならば、それは対話者というよりも消費者の態度だろう。そしてそういった物語にこだわる態度の根底にあるのは「物語をより多く知っているほどその人のことを良く知っている」というグロテスクな思想なのではないだろうか。それではただのデータ集積ではないか。

もちろん、何もコミュを読まずに「あんたはふゆとここで死ぬのよ」を擦るようなやつに対してコミュなんて読まなくていいと開き直ってもいいと言っているわけではない。ただ、それなりにコミュを読んできた人たちが、アイドルを理解する上でいわゆる重要な話が盛り込まれた限定カードを持っていないだけで解釈に卑屈になったり敬遠してしまうような空気がもしも本当にあるというのなら、それは絶対に間違っていると主張したいのだ。

「コミュを読め」と喚き散らすキツイオタクたちはアイドル達との対話と有機的な人間理解を求めて実は誰よりも単なる消費者になってしまっていないか、鏡を見てよく確認してみるべきだ。








俺じゃん。

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