ドラえもんを読んで「才能」を考える

「ドラえもん」を読んでいて好きな事のひとつに、読者である小学生に「こうしたらいいんじゃない?」と伝えている所がある。


 特に好きな「つづきスプレー」、これは一つの場面を描くとその続きを見せてくれるという道具だ。

 のび太(当然のように絵は下手)はドラえもんの指示に従って、戦艦大和の舳先の部分を丁寧に描く。そこでドラえもんが「つづきスプレー」をかけて、戦艦大和の全体像を(丁寧に描いたのび太の絵柄で)現してみせる。

 ここでよく考えてみると、「のび太って全体像じゃなくて細かい所のアップならば上手いじゃん」という事になってくる。そこにないはずの波の表現もいい感じだ。

 これはF先生からの「絵は全体像を描くのが全てではない」というメッセージになっているのではないだろうか。


 絵を描く話は「ドラえもん」には何度も出てくる。そういえば、(今は知らないが昔は)「どうすればいい絵が描けるか」というのは教えてくれないくせに、絵を描かせて採点するという、理不尽な課題がよく学校で出たものだ。

 できるわけねえじゃん。これで絵を描くのが苦手になってしまう子供も多かったろう。


 絵を見て評価する人がよくないという話もある。「ロボットがほめれば」というエピソードでは「権威のある美術評論家」という人が、のび太の絵を見て「これ、幼稚園のころにかいたの?」と笑い者にする。この件は他の人も書いていたが、子供の絵を評価してこう言う人間は(いるんだけど)ろくな人間じゃないだろう。

 しかもこの人、ドラえもんの「ひょうろんロボット」の力で、パンの看板を「芸術作品」として絶賛してしまう。あるよね、何かの缶のデザインが現代美術になっちゃった事が。この話自体が「絵のいいわるいなんてのは、誰かの意見に揺り動かされてるだけだ」っていう現実に対する皮肉になっているんだけど。

(「チンプイ」ではエリちゃんの下手な歌がマール星の価値観では評価されるエピソードがあった)


「いつでもどこでもスケッチセット」という話では、工事現場のようなごちゃごちゃした風景は苦手と言うのび太だが、実際そこには(話の都合上)「工事現場をシンプルに絵にしたらどうなるか」が描かれているのだ。

 余談だけど、私の小学生の頃の同級生に「工事現場の写生」がむちゃくちゃうまい人がいた。ハマると面白いのかも知れない。


 作品を作る時にはタイトルを付けるのも難しい。「カンヅメカンでまんがを」では「念画紙」という、頭で考えた事が絵になる紙を使うが、頭ではロケットが飛んでいる場面を考えている所に、おつかいを頼むママの声やちり紙交換の影響を受け、タイトルが「宇宙のおつかい」や「宇宙ちり紙こうかん」になってしまう。気に入らないというのび太には悪いが、読んでみたくて仕方ないタイトルになっている。

 この後で「マンガ原作集」というのも出てくる。多分未来のアマチュア向けフリー素材なんだろうけど、F先生も欲しかったんじゃないだろうか。

(「かべかけスタジオ」やいっそ「まんが製造箱」もいいよね)


 最後に、課題というのは学校や友達同士の課題にとどまらない。自分の人生で付き合っていく趣味という課題もある。

「人間ブックカバー」を読むと、読んでみたい本が出てくるかもしれない。

 これが「超大作特撮映画『宇宙大魔神』」や「のび太の模型鉄道」ではちょっとムリだが(鉄道模型が趣味なF先生が狭い面積での楽しみ方を提示してくれなかったのはちょっと残念)、「あやとり世界」みたいにいきなり自分の趣味がブームになることもあり得るし、「王かんコレクション」でのものの価値観は参考になると思う。

 ただ、王かんそのものはなかなか見かけなくなったんだけど。


 忘れていたけど、「週刊のび太」、誰も雑誌に作品を載せてくれないなら自分で作ればいい。でも作品が読んでもらえるとは限らないってのも厳しい話だなあ。

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