E電前夜

 その頃の東京の人達は、感覚的なものかも知れないが、「国鉄」と「国電」とで多分使い分けを行っていた。

「国鉄の中央本線」は新宿から松本方面に向かうが、「国電の中央線」は東京から高尾に向かう。

「国鉄の常磐線」は上野から仙台方面に向かうが、「国電の常磐線」は上野から取手までである。

 そして相模線や八高線は国鉄だが、国電ではなかった。

 使い分けがなされているという事は、「国鉄」というとD51とか赤字ローカル線のイメージなのか。そして「国電」とは「サザエさん」のような電車が走っていた路線である。

 調べてみると国鉄による東京の「国電区間」制定は意外に遅く、1984年であった。この区間は全国の国鉄の路線より運賃が安く計算されるようになっていた。

 院電、省電、といった「国電」以前の呼ばれ方も、特に「区間」や「路線」が意識されたものではなかったのか。
 酷電という言葉がマスコミで使われたが、それほどひどいラッシュアワーが存在していたのだ。

 ゲタ電という呼ばれ方もあった。ゲタみたいに四角い電車とか、ゲタ履きでも気軽に乗れるとかいうのが起源だったようだ。
 ただ、これはマニア的には一部の旧形電車を指す言葉となり、使われる場合に混乱を招いたりもした。

 国鉄が無くなった時に、「国電」の代わりの言葉は生まれない事から、オフィシャル側から提案したような言葉が「E電」だったが、おそらくその頃には東京近郊の一部の電車を区別して呼ぶ文化は消えてしまったのだ。

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