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生き延びた女の話 後編

何のきっかけもなかったので、私が高校生になっても、大学生になっても、家の中は変わらなかった。

折しも氷河期真っただ中、3流私大生だった私の就職活動は難航し、最後の最後にようやく実家から通える距離の中小企業に拾ってもらった。実家を出る機会を逃しても、私はもはや何も思わなかった。

数年後、弟の就職活動が始まった。私の時より幾分ましになってはいたが、企業が学生に向ける目は相変わらず厳しかった。すぐに潰れるようなやわな人材はいらない。適性を試すために圧迫面接をするところが少なからずあった。威圧的な態度をとる中年男性の面接官に対して、突然トラウマが発動したのか、弟は体が強張って何も話せなくなり、選考はそこで終わった。父がコネでねじ込もうとした企業の最終面接だった。父は怒り狂い、その後弟は目に見えて体調を崩し、留年した。

私は弟に家を出るように言った。すかさず母が「できるわけがないでしょ?あんたみたいに強くないんやから」と言った。弟は何も言わなかった。めげずに私は度々弟に家を出るよう促し続けたが、弟はちらりと私を上目遣いに見るだけで何も言わなかった。母が近くにいれば飛んできて、いつも、「無理に決まっとるでしょうが」と弟を庇った。

私は二十代半ばで家を出ることにした。弟を見捨てた罪悪感がないわけではない。それでも、父は理不尽だけど、むやみに庇う母が正しいとも思えなかったし、ぼんやりと現状を受け入れている弟に対して、私ができることはもうなかった。ということで自分の中で区切りをつけた。

数年後、弟は統合失調症で入院した。退院して何とか社会復帰しようとバイトを始めると、父も殊勝な態度を取り「俺はもう口を出さん、好きにやればいい」と見守る姿勢を見せたが、弟が職場に馴染んでくると、ほどなく大酒をかっ食らった勢いで「バイトなんて社会のクズや、悔しかったら正社員になってみい」と弟に絡み、心折れた弟は再び引きこもったのち暴れて家の壁に穴を空け、措置入院となった。それからは入退院を繰り返し、病状は一進一退、本人と会って話す限りはもう社会復帰は難しそうな雰囲気が漂っている。母は「あの時お母さんが離婚してればこんなことにならずに済んだのに」と泣いているらしいが、私は「あの時」というのがいつのことを指すのか知らない。

家を出てしばらくした後、私は父に聞いたことがある。どうして子どもの頃、私たちにあんな仕打ちをしたのか純粋に疑問だったからだ。「子供らのためを思って厳しく躾けただけや。愛情や」と父は言った。へええ、と妙に納得した。悪いことをしたなんてこれっぽっちも思ってないんだ。

バカバカしくなって、私は自分の過去に蓋をして生きることに決めた。父もああ言ってることだし、大した話じゃなかった。仮に大した話だったとしても、もうあんな昔の話は時効だ。おまけに父の学歴コンプレックスのおかげで私は大学まで出してもらえた。酒とパチンコで借金までしたくせに、私は奨学金すら背負わずに全部親がかりでのうのうと暮らし、成人式の着物まである。まぁ弟はちょっと死にかかってるけど、私は病みもせずに図太く生き抜いたし、上出来な方じゃないか。後は人並みに生きよう。そう思って前だけ見て、私は20代と30代を駆け抜けた。

今、実家との関係は良好である。弟のことはあまり話題に出ないし、両親は離婚せずにまだ二人でいる。実家とは荷物を送り合ったりするし、時々会って食事もする。私の仕事は何度か変わったけど、それなりに積み上げて今がある。自分の家庭も持った。私は生き延びた。あのクソのような子供時代を死なずに生きて、今自分の足で立っている。

私は今まで一度もカウンセリングを受けようと思ったことはないし、また精神科のお世話が必要になったこともない。気づけば子ども時代の記憶は、瘴気を放ちながらも私の中に組み込まれて、今や自身を支えるアイデンティティの一部となっている。

それでも気力が衰えたとき、きっと私は弟と同じ道を辿るのだろう。塗り固めた記憶の蓋の裏でジュクジュクと膿んでいるこの傷が、いつかぱっくり開いて私を呑み込んでしまうその時まで、私は精一杯生き続けようと思う。


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