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「週刊少女コミック」の萩尾望都 Ⅵ 『トーマの心臓』3 -なんだいユーリ-


トーマとエーリク

 1,1 なんだいユーリ

トーマの思い出に囚われたくないと考えたユーリは、独りトーマのお墓に行き、その前で最後に届いた手紙(遺書)を破る。
そして

『トーマの心臓』

「きみになど支配されやしない!」と宣言する。
区切りをつけたと思い、墓地を出ようとするユーリの前に、トーマヴェルナーそっくりの少年が現れる。

同上

まさかと思い声を掛けると、相手はいきなり「なんだいユーリ」と自分の名前を呼ぶ。トーマが生き返った?

同上

死んだはずの人間そっくりの人物が現れる、というのはサスペンス映画ホラー映画で良くある。
亡霊なのか、墓から甦ったのか、それとも実は亡くなっていなかった?
あるいは単なる他人の空似か。
亡くなったあと、ある程度時間が経ってそっくりな人間が現れる、その謎はという物語ならサスペンス映画っぽい。(思いつくのは、ヒッチコックの映画『めまい』)
『トーマの心臓』の場合は、墓地が舞台でお墓の下に埋まっている筈の人間が、突然現れてしかも自分の名前を呼ぶ。その雰囲気はどっちかと言うとホラー映画な感じ
初対面なはずなのに、いきなり「なんだいユーリ」と自分の名前を呼ばれる。ショッキングな展開。

そのあと、その少年エーリクは転校生だとわかる。
トーマヴェルナーが亡くなった直後に、彼そっくりな人間が転校してきたことで、シュロッタ―ベッツ学校は騒然となる。

同上
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謎の自殺を遂げたトーマ、彼そっくりな少年エーリク、混乱するユーリとシュロッタ―ベッツの人たち。
ツマラナイ説明描写抜きで、物語にイキナリ引き込む良くできた導入部ということなのだけど、この展開むかし読んだときからちょっと疑問がある。

まず、ユーリに話しかけられたエーリクが、初対面のはずなのに「なんだいユーリ」と応える。
なぜユーリの名前を知っていたのか、

同上

母親の再婚相手「ユーリ・シド」、それがエーリクには気に入らない。
エーリクの中でユーリ・シドが「気に入らない奴」の象徴で、だからいきなり話し掛けてきたユーリの態度が気に入らないと思ったとき、あてずっぽうで”ユーリ”と呼んだ、そしたらたまたまそれが正解だった、という理屈らしいんだが……
初対面の相手にそんなことする奴いないだろう。

この場面は、トーマのお墓のある墓地で、死んだはずのトーマそっくりな少年が突然現れる、そしてさらにユーリの名前を呼ぶ。そのことでユーリ(と読者)をドキッ!とさせる、それをねらった物語の展開、その効果は出ている。
そのことはそれで良いのだけど、その不自然なセリフの理由は説明しなきゃいけないワケで、それがとってつけた理屈にはなっちゃってる。
ただこれは、疑問に思ったことのなかではちょっとしたこと、難癖みたいなもの。

 1,2 トーマとエーリクは似てるのか

ここから続く場面で、エーリクを見たシュロッタ―ベッツの人たちが皆”トーマ、トーマ?、トーマだ!”と口を揃えて言う。
エーリクの存在が学園に波乱を巻き起こす。そして、一度ケリを付けたはずの「トーマの死」の問題がユーリのまえに立ち塞がってくる。
そういうお話になっていくのだけれど、初めて読んだときからずっと気になってることが有る。
それはつまりトーマとエーリク、ハッキリいって似てないということ。
少なくとも、描かれている絵で見るかぎりはそう。だから、シュロッタ―ベッツの人たちが”トーマにそっくり”と大騒ぎするのが全然納得できない。
歴史的名作である『トーマの心臓』は多くの人が読んでいるワケだけど、読んだひとみんなトーマとエーリクは「似てる」と本当に思ったのだろうか?

『トーマの心臓』のエーリク
『トーマの心臓』のトーマ

絵を比べて見ると、まず髪型が違う。髪の色はこれだと分からないけど、他のコマだとトーマは金髪と表現されてる、エーリクは銀髪か。
エーリク、いつも眉頭が下がって眉尻が上がってる、口もちょっとへの字型。ちょっと短気な性格のように描いている。
トーマ、眉が下がっていて口元は微妙に口角が上がっている。憂いを含んだ目、かすかに微笑んでいるような表情。
モノクロだから分からないけど、目の色も違うらしい。

『トーマの心臓』

確かに顔の輪郭と、目、鼻、つまり基本の形は、同じに描いてる気はする。
しかし、作品のなかの人たちが口を揃えて言うほど、そっくり(に描いている)かなーと思う。

マンガのキャラクター特に主人公のタイプ、カッコいい、美男美女の場合、基本同じように描かれることが多い。
作者の描き癖、好きな顔のタイプが決まっているからか、どんな作品でも主人公の顔がおんなじという作家は多い。(あだち充とか…)
それどころか、一つの作品でキャラクターの顔がおんなじ人もいる。

              Hatena Blog”本読みのスキャット!”より

ある時期からの「ジョジョ」、”メインのキャラクターの顔が皆おなじ”という指摘がある。確かに、ここで引用されてる表紙のキャラクター、おなじ顔してる。
作者の荒木飛呂彦自身「自分のキャラクターはみな同じ顔だから」と、インタビューで語っているのを読んだ記憶がある。

マンガで中心になるキャラクターは、基本若くて、美男美女が多いから顔の描き分けは難しい。
だから多くの作品で、人物の顔の「かたち」以外の部分を変えて特徴を出そうとする。髪型、髪の色、瞳の色、服装、メガネを掛けているか、髭が生えているか等。一種の記号によってキャラクターを描き分けている
それらが違ったら、顔のかたちが同じでもそれは別な人物、そういうお約束。
特にむかしの少女マンガでは、若いカワイイカッコイイキャラクターしか描けない人も多かった、そこに髭を付けたら「オジサン」皺を描いたらそれで「老人」それでOKな時代だった。
(そういうなかで萩尾望都はキャラクターの描きわけが上手かった「萩尾望都は、シワを描いてないのに老人と分かるのがスゴイ」と言われていた)

トーマとエーリク、髪型髪の色が違い、目の色が違う。性格を表す、眉口元の描き方が違う。
それだけ違ったら、マンガのキャラクターとしては完全に別人。そのはず。
だから、当時の自分にはトーマとエーリクが似てるとは全然思えなかった。
それなのに、ユーリはじめ皆が”トーマだトーマだ”と言いだしたので、読んでいて驚いたのだった。
萩尾望都の絵の技術からして、シュロッタ―ベッツの人たちと同じように、読者が見ても「ソックリ」と思わせるように、描くことも出来たのでは。

トーマが鉄橋から足を滑らせて(実は飛び降りて)死んだ。エーリクがシュロッタ―ベッツに転校してきたとき、そのショックがまだ収まっていない。
だからトーマとエーリク、実際は「ちょっと似てる」だけなのだけど、心の中にある死んだトーマのイメージに引っ張られて、みながエーリクにトーマを重ねてしまう。(だからトーマのライバルで、思い入れが無いアンテは「ありゃトーマじゃないよ」という)
そういう人のなかにある「思いこみ」を表現するために、トーマとエーリクをワザとあんまり似て無いように描いてるのではということも考えている。

 1,3 『11月のギムナジウム』の疑問

『トーマの心臓』の番外編『11月のギムナジウム』。
『トーマの心臓』では冒頭で亡くなって、その後は思い出、回想シーンでしか登場しないトーマ、それが生きて出てくる。
初めて読んだとき”トーマってこんなキャラだったんだ!”と驚いた。
転校してきたエーリクと初対面したとたん何故か大笑いする。

『11月のギムナジウム』

そしてオスカーと二人でからかう。

同上

『トーマの心臓』のなかで、思い出として語られるトーマは、大声出したりしない。他の生徒(ガキども)と一緒になって騒いだりせず、一歩引いていつも静かに微笑んでいるようなイメージ。

『トーマの心臓』のトーマ

先に『トーマの心臓』を雑誌連載で読んでて、『11月のギムナジウム』は単行本で後から読んだ。
比べて見ると、エーリクのちょっと短気ですぐカッとなるけど純真なキャラは同じなのに、トーマはいつも不機嫌でちょっと性格悪いような描かれ方、それが意外で”このトーマなんか違う”と思ったのだった。
そもそも別な作品なのだし、キャラが違っても当然ではあるけど。
これは疑問というより違和感。

『11月のギムナジウム』で疑問に感じたのは、クライマックスの場面。
マンガの終盤、エーリクの母は、ギムナジウムから久しぶりに帰って来た息子を迎える。

『11月のギムナジウム』

玄関先でひとことふたこと言葉を交わし。

同上

そこで分かれる。

同上

母親は、息子のエーリクだと疑わなかったが、やって来たのはトーマ・シューベルだった。
エーリクからそれを聞いて驚く母親。

同上

実は、トーマとエーリクは赤ん坊のころに引き離され、別々に育った双子の兄弟だった。

同上

エーリクから、やって来たのがトーマだと知らされる場面。

同上
同上
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この一連のセリフ、とくに「悲鳴をあげるのだろうと、ぼくは思った…」というところ、いきなり「悲鳴をあげるだろう」という飛躍がスゴイ、単に「驚くだろう」「信じないだろう」とかだったら平凡。こういう意外な言葉の選択ちょっと思いつかない。
「言葉の感覚」というより「モノの見方」が普通の人と違う感じ、何も考えず型通りのセリフをそのまま出して来ない。自分の目で見、自分の感覚でオリジナルな言葉を紡いでいる。そういうところが当時、萩尾望都が同時代のほかのマンガ家と違うと思わされたところ。

そういう素晴らしい作品なのだけど、それとは別に疑問がある、それは「ずっと一緒に暮らしてきたエーリクと、赤ん坊のころに別れてほぼ初対面のトーマを、母親が見間違うだろうか」ということ。
双子だから顔は同じ、髪型髪の色は違うけどレインコートのフードを被っていたので母親には見えない(そのために雨を降らせてる)、だから気がつかなかった、ということなんだけど…
そうだとしても「しゃべり方は違う」「表情も違う」「ちょっとした仕草が違う」つまり「全体の雰囲気が違う」はず。
TVで上手いモノマネタレントを見ると”ホンモノそっくり”と思う。でもそれは、マネされる人の特徴をよく捕えていると思うのであって、本人と区別が付いていないワケではない。
「似ている」ということと、「本人と思いこむ」ことのあいだには、天と地の違いがある。
ましてや母親が、息子にそっくりな子供を見て一瞬ドキッとしたとしても、自分の子供と見まちがうことは無いだろう。
その場面、説明なしで母子の会話だけで進み、読者にも後から真相がわかるので「そうだったのか!」という驚きがある。だから名場面ではあるのだけど、後から思い返すとちょっと無理がある展開ではある。
ただそこをキッチリすると、そもそもお話が成り立たなくなっちゃうワケで…なのでそれを言っても仕様がない、それは「疑問」というより「ツッコミどころ」というのが正しいかもしれない。

『トーマの心臓』と『11月のギムナジウム』どちらもトーマとエーリクあんまり似ていないように描いている。
それは萩尾望都があえてそうしている、似ていないことに意味があるのだと思う。

                              続く


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