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『海街diary』⑤ 番外編「通り雨のあとに」後編  ー吉田秋生の「つぐない」ー

 1、『つぐない』

2007年の映画『つぐない』。ネタバレが有ります)
『通り雨のあとに』を読んで違和感を感じた時、これを思い出した。

あらすじ
”イギリスの名家の姉と使用人の息子。その二人の恋を覗き見した妹、彼女が付いた嘘によって、恋人同士は引き裂かれてしまう。やがて第二次世界大戦が起こり、彼はフランスへ、姉は家族と絶縁し、看護師としてロンドンへ。彼は、戦場からイギリスへ、彼女の元へ帰ろうと、海を目指す。辿り着いた海岸には、船を待つ沢山のイギリス軍人が。彼女との再会だけを希望に、イギリスへ渡る船を待つ。自分の付いた嘘に苦しむ妹は、謝罪の為に、姉の住むアパートを訪れる。そこには、姉とその恋人が再会し二人で暮らしていた。”     

文学的というか、かなり格調高い恋愛映画。このあらすじだと、マジメで退屈そうだけど、姉と恋人の関係、妹のキャラクター、その周りの人々が不穏な感じ、サスペンスが有るので面白い。
(『この世界の片隅に』が注目され始めた頃、映画の宣伝に伊集院光の番組に出た片渕須直監督が、この映画を誉めてた。)

”恋人同士は再会し、妹は嘘を謝罪、全てが納まってメデタシメデタシ”に描かれてるのだが、見ていて違和感がある。なんか変だと思う。
嘘によって引き裂かれて、さらに戦争によって遠く離れ、”もう一度会いたいと願い続けた恋人同士”がやっと会うことが出来た、なのに、その「感動の再会シーン」が無い。映画の一番の見せ場を飛ばしてる。妹が会いに行ったら、もう一緒に暮らしてましたって、それは無い。この場面、スゴク嘘くさい

ネタバレ
映画には続きがある。
場面は突然、現代のTV局のスタジオになる。老婦人が今度出版する小説に付いて、インタビューを受けている。
戦後、妹は成長して作家になって居た。「私が子供の頃に付いた嘘、それによって引き裂かれた姉とその恋人に付いての、贖罪の物語です…」。
ここで、この映画の今までは、彼女が書いた本の中身を、映像化したものだったことが分かる。
幼い頃の場面は、自分の経験した事。
「戦後、戦場に行った彼の行跡を調べました」フランスで、戦地を歩き回る場面は、後になって調べた情報を元に描いている。
そして、「彼は、フランスの海岸で亡くなって居ました」!。
では…
「私は、姉のアパートに行く勇気が、有りませんでした。姉には会って居ません。謝罪していません」。
なので、
あの場面は、現実では無く妹が頭の中で創った場面。「現実には再会出来なかった恋人たちを、せめて物語の中で結ばれさせたかった」それがつぐない
だから、それまでと無関係にいきなり幸せな場面になる。文学的な作品と思って見てたら、観客を驚かす、どんでん返しの有る映画だった。

1、物語の中で、その現実とは違う、もう一つ別の世界が描かれている。2、それは、嘘を着いた事、それによって人を不幸にしてしまった事に対する、贖罪の為。
3、現実では幸福になれなかった人に、もう一つの世界で幸せな人生を与えたいと思った。

映画『つぐない』の、これらの特徴。
それって、『通り雨のあとに』に、そのまま当てはまるのでは無いか。

 2、合わせる顔

 第一話「蝉時雨のやむ頃」より

『通り雨のあとに』とその後の『詩歌川百景』のシリーズ、和樹を主人公にして、河鹿沢を舞台にしている。けれども、それは『海街diary』と別な世界なのだと思う。
『ラヴァーズキス』のスピンオフとして始まった『海街diary』、朋章その他同じキャラクターが出てくるけど、設定は微妙に違っていて、実はパラレルワールドだった。『詩歌川百景』と『海街diary』も、それと同じなのはおかしくない。
だけど、『通り雨のあとに』がそうなのは、別な理由もあると思う。

『通り雨のあとに』を読んで、最も変、違和感を感じるのは、当然、そこに登場するすずが、最初から最後まで顔を隠してる事
ハッキリ言って、幽霊みたい。

すずは和樹の初恋だったらしい、

そうなら、3年ぶりにやってきて、大人っぽくなったすずに、和樹がドキっとする。そして昔の気持ちを思い出す。みたいな場面が有っても良い。その為には、すずの顔を見せたほうが良い筈。
『海街diary』と『詩歌川百景』の繋ぎというだけなら、すずが顔を隠す必要は無い。『海街diary』の朋章は普通に顔を出してる。

『想い出蛍』のラストですずは、和樹智樹の事を「幸福でいて欲しい」と思う。今まで陽子、和樹智樹の事を嫌いと思っていたのに、気持ちが変わった。

でもそれは、「これからは、彼らと、親しく付き合って行こう」という事じゃ無い。

イヤな事ばかりと思っていた、この土地、そして陽子和樹智樹に対して、「良い思い出もあった」と気付くことで、「コダワリ」が無くなった。
「嫌い」だったから相手を「不幸に成れば良い」みたいに考える、自分の中の暗い感情が浄化された。だから「幸福でいて欲しい」と思えるようになる。
すずの中で、和樹智樹、陽子そしてこの土地が、文字通り「思い出」になった。つまり、「もう二度とここには来ない」と言う事なのだ。実際、『海街diary』の中で、この土地を舞台にする事は二度と無く、すずも一度も思い出さない。

だから、このあとすずが河鹿沢に来る理由、そして和樹達と親しくする理由は無い。まして光道走馬その他鎌倉の人達には、もっとない。
『海街diary』の世界のすず達が、河鹿沢に度々来て、和樹たちと親しく付き合うのは、それまでのお話とのツジツマが合わない。だから「通り雨のあとに」は、パラレルワールドであり、本編とは別な「番外編」にせざるを得なかった。

吉田秋生は「想い出蛍」の中で和樹に、「友だちと別れるのがイヤだから、ここに残る」と”ウソをつかせた”

それは、お話の上では、必要な、やむを得ないウソだった。でも、その結果和樹は、母親、弟と引き裂かれて”一人ぼっち”になってしまった。
その、自分がつかせたウソの後ろめたさが、和樹を主人公とした番外編「通り雨のあとに」を描かせた。
この世界では、和樹に弟のが居て、幼馴染の彼女が居る。さらに、鎌倉の人達とも付き合いが有り、すず光道たちが何度も訪れている。


和樹が、色々な人達に囲まれた幸せな世界。
しかし、これはあくまでも”和樹が救われた設定の、もう一つの世界”なのであって、『海街diary』の和樹が、幸せに暮らしている、という事では無い。
『海街diary』の和樹は、鎌倉に行かなかった”すずのもう一つの姿”として、一人ポツンと取り残されている。それで終わりじゃなきゃいけない。そこは変えられ無い。
『海街diary』の世界は変えられないので、和樹を幸せにするためには、別な世界にするしか無かった。

映画「つぐない」の中で、主人公の少女は、現実には再会出来なかった恋人たちを、小説の中で再会させ幸せに暮らさせた。同時に、その中に自分を登場させ、自分の付いた嘘について告白し謝罪した。
「通り雨のあとに」、つまりこれは、吉田秋生の”つぐない”で、映画「つぐない」と同じ事をやろうとしている。

「通り雨のあとに」に出てくるすずが変なの、何でだろうとずっと疑問だった。顔が描いて無いのも、セリフが妙なのも。
このすずは、作者の吉田秋生なのだと思う。
和樹が幸せに暮らす、『海街diary』とは別な世界の物語を描き、その中に、和樹に対して謝罪する為に、すずの姿を借りて自分を登場させたのだ。
「あの時は、こっちの都合であなたにウソをつかせちゃったね、ゴメン」と言うために出て来ている。
ただしそれは、直接言葉では言われない。それは当たり前で、表面的には彼女はすずで、すずは別に、和樹に何も酷い事してないのだから、謝罪の言葉を言ったらオカシイ。
スジの通らない事をした自分が、後ろめたさを抱えたまま、直接には何も言わず、ただ和樹の前に立って居る。その事によって「つぐない」をしているのだ。

そう考えれば、「通り雨のあとに」すずが、和樹の前で、最初から最後まで帽子で顔を隠している(顔が描かれて居ない)理由が分かる。

つまり、合わせる顔が無い。          
                             
 終わり

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