森卓也が、小林信彦の悪口を書いたことから、色々思った事。 ー下ー
『日本橋に生まれて』
1、『生還』
週刊文春の、小林信彦「本音を申せば」が休載になった時、来るべき時が来たかと思った。
同じ年代の作家タレントの多くが亡くなっていっている、それに比べるとこの人は元気だなと思っていた、この年代で新しい映画TVドラマアイドルを見つけ出す好奇心の旺盛さは凄いなと思っていた。とはいえ八十代、いつ亡くなってもおかしくない。しかし、それなら報道がある筈だから生きてはいるのだろうが、もう書けないような体調なのだろうと想像していた。
そう思っていたら、暫くして連載再開、休載せざるを得ない状況の説明が有り、やはり病気をしていた脳梗塞だった。
病気をしていたのは驚かなかったが、連載再開できるほど復活したのは驚いた。八十超えて入院すると、そこから一気にボケてそのまま亡くなると良く言われる。そこから復活して更に闘病記を連載するとは。余程生命力が強いのか、生きる執念か。その闘病記をまとめた『生還』。
私小説的な文章は得意じゃない、と本人書いていたが、これは闘病記だからそうなるよな。病に倒れる前後の状況、入院してからの変化、治療の進み具合、医者看護師、自分の周りの同じ入院患者たち。それらの描写が続く。それが得意な人が書けば、ユーモラスな小説になると思うのだけど。読んでいて余り楽しくはない。医者看護師は割と好意的に描かれているが、同じ入院患者の描写はちょっと不愉快さを感じる。周りも本人と同じか下手すると年下の高齢者なのだけど、その人達に対する対する違和感を感じていて居るのではないか、そこから来る不機嫌さと言う感じがする。
それが”老人に対する嫌悪感”に見える、つまり「自分を同世代の老人と思っていない」のじゃ無いか。
別の本で”病気は治せばいいのだ”と書いている、八十代後半、脳梗塞で左半身が麻痺、右半身は使えるだから文章が書けるのだけど、リハビリしても、左は完全に動くようにはならない、自分の母親がそうだった。普通は「もうこの歳だし、このまま死んでいくのだ」と思うのでは。自分はまだまだ若い、病気は一時的な物と考えているようだ。
気持ちが若い、といえば言えるが。
2、言ってる事が変わった?
闘病記が一段落すると、又今までの形に戻った。エンターテインメントの話、ちょっとした身近な話題、そして政治や社会に対する不満。
政治の愚痴は以前と変わらずの不機嫌さ、”戦後最悪の政治”という定番のフレーズも出た。しかし映画『新聞記者』(見てない)を高く評価しているのは、いくら何でもヒドイ。
ホントかよ。
エンターテインメント系の文章には、病気以前と変化を感じる。
1、新しい映画TVドラマへの情報が薄くなった。(殆ど外出できないのだから仕様が無い)
2、TVのゆるいヴァラエティ番組、タレントに対する批評抜きの感想が増えた。(さんま御殿をずっと見てる、長嶋一茂について延々書いてる)
3、昔語った映画、俳優、アーチストについての、繰り返しの文章が多くなった。
新しく仕入れる情報が少なくなるのだから、3が多くなるのは当然なのだが、その語り方が以前と違っている。
成瀬巳喜夫が好きで、小津安二郎はあまり好きじゃなかった。特に『東京物語』の評価が高過ぎる事に、不満を持っていた。
これだけ見ると別におかしな事は言って無いのだけど、今まで「東京物語」の名前を出すときは必ず、”レオマッケリー「明日は来たらず」にインスパイアされた”と付け加えていた。つまり”マネじゃねえか”と言ってたのだけど、それ抜きで”日本映画ベスト3の一つ”と、淡々と書いていたので、雑誌連載時アレと思ったのだった。何だろう文章の雰囲気変わった?(「明日は来たらず」最近見たけどこれは名作だった)
お気に入りの成瀬巳喜夫作品でも、
「女の中に居る他人」は何度も語って、高く評価してたのだがなー。
その他
喜劇映画のベストテンに入れたし、何度も誉めて居たのだけど、評価が変わったのか、それとも正直になった?
元々、作品を見る目は厳しい人だと思うけど、同時に一般の観客にあまり知られて居ない面白い作品や、新しい才能をいち早く見つけて紹介したいと言う気持ちが強い。なので作品に多少欠点が有ったり、100%面白いと思わなくても、そこに目を瞑って誉めている感じは有った。
それが歳を取って病気もしたので、そういう気を遣う事をしなくなった、今までなら言わなかったような「本音」がポロポロ出てくるようになったのだろうな。
3、大瀧詠一は黙らない
新しい物への興味が、以前ほどは無くなった。その分昔何度も語った、作品だけでは無く、出会った「人」について再度語る事が多くなった。しかしそれも昔の繰り返しだけでは無く、今までだったら言わなかったのでは、と思うようなことが有る。
大瀧詠一について何度も書いているが、大瀧詠一が小林信彦に興味が有るという事で紹介された。会ったその日に意気投合、話が止まらくなり家まで行って夜中まで話し込んだというエピソード。今までだと、”もの凄く息が有った”という事しか語られて居なかったのだけど。病気後の文章では、その大瀧詠一に閉口したという話を書いているのが面白い、今までの繰り返しじゃ無くて新鮮。
そう言えばNHKFMでの大瀧詠一のラジオ番組、立て板に水というかヒタスラ喋りまくってたな。話の中身が理解できなかったので1~2度しか聴かなかった。
自分の趣味あるいは関心事に対する情報を集めまくる、そしてそれを切れ目なく喋りまくると言うのはAB型の人の特徴なのではと最近思う。
大瀧詠一、ニッポン放送の辛坊治郎、TBSラジオの臼井ミトン、皆AB型。番組聴いていると、色々な物に興味を持ってやたら細かい情報を集め、それに体系立てて理屈を考え、喋りまくるところに共通するものを感じる。
あと、自分に対する評価というか礼儀がちょっと欠けていたという不満。
ニッポン放送で大瀧詠一プロデュースの番組「マイケルジャクソン出世太閤記」の原作を頼まれたとき。
かなり根に持ってる。話が有った部分もかなり描かれているのだけど、こういう不満違和感は以前は書かれた記憶が無い。今までは書かなかったそうした不満を書くようになったのは、やはり歳を取って今更人にあまり気を遣っても仕様が無い、と思うようになったのではないか。森卓也が小林信彦の批判をしたのもやはりそうだと思う。
よっぽど腹に据えかねたのか、かなり感情的に書いてる。
いままで、病気になる前は言わなかったような事を、言うようになった。相手に気を遣ってと言うのもあると思うが、出てくる名前が作家芸能人文化人と言うような人で、読者にその世界を垣間見せるという、一種のサービスの面が有る。もっと言えば、それら有名人の名前を出す事で自分の文章の商品価値を上げるという計算も有ったと思う。なのでそういう相手に対する自分のネガティブな感情は、あまり出さないようにしていたのでは。
4、「長部日出雄さんの場合」
大瀧詠一その他の人の思い出話は本人が存命だったり、相手に気を遣って今まで書かなかったのだろうな、と思うだけなのだが、「長部日出雄さんの場合」という章だけは他と違う。
昔からよく文章に名前を出していたので、親しい関係なのだろうなと思っていた。この章読んで長部日出雄と絶縁状態になって居たと初めて知った。今までそれを書いたのを読んだ記憶が無い。その事を今回初めて書く。今まで書けなかった、書きたくなかった。その躊躇いを感じる。
そんなに頻繁に会っていて、小林信彦的には親友だと思っていたのだろう、その関係が、何故終わってしまったのか。色々”これじゃ無いか”という予想を書いているのだが、結局確信を持てることが何も無い。
「何故、どうして嫌われちゃったの?ワカラナイ!」と、終始叫んでいるような文章。
そして、分からないなりに何故自分が嫌われたかを考える。
映画を誉めなかったから?
自分を納得させる為に、何か怪しい説明をしている気がする。
どちらにしても”映画の出来が良くないと思ったので誉めなかった(スイセン文を書かなかった)”と言っているのだが、 小林信彦は何かを評価する時、「あの人もそう言ってた」と、人の同意を求める癖が有ると森卓也が書いている。
「でも、中野翠も面白くないって言ってたし」と愚痴ってる。
では社会人としての、人付き合いが悪かったからだろうか?
これも又、随分と自分を卑下しているけど、想像じゃなくそういう事実が有ったのだろうか。
色々ああでもないこうでもないと考えるのだが、最終的に「ひがみ」の話になる。
5、僻み
なんか、引用してて凄く文章がギクシャクしてる。病気明け、それも脳梗塞で左が動かないとなると、頭の働きも抑制されるのだろうとは思うが。
それはそれとして、随分正直に書いている。そんなに他人を僻んでいたなんて、今まで書いたこと無かった。昔”直木賞を獲りたい”とは書いていたが、それは”そうなれば小説家として評価が確定して生活が安定する”言う意味だった。
自分と同世代で同じような場所に居た人が、自分より高く評価されるのは面白くない、心に暗雲が広がる、僻む気持ちが抑えられないというのは良くわかる。
「長部さんの直感は必ず当たっていた」と長部日出雄の「人間観察」が鋭かった、みたいに書いてるけど本当だろうか。結構露骨にバレバレに僻みが見えていたのでは無いか。
映画評論家時代にも、「僻みっぽい人」と思われてたらしい。本人だけが、自分のそういう部分を「上手く隠せてる」「気が付かれてない」と思っているけど周りからは丸見え。
長部日出雄もそれが嫌になり、付き合いを避けるようになって行ったのでは。
「その意味は分かる」というが、書いてないので全然ワカラナイ。
「でも、自分にだけ冷たかったんじゃ無いもん!」と強がる。
いろいろ考えてみているが、結局これという決定的な理由は分からないままのようだ。
センチメンタルな文章だけど、若い頃それだけ親しかった。不安で三日と開けず会っていた、その関係が絶縁してしまった。この文章今読み返すと切ないよな。
6、小説家の肩書
自分の周りの人間が文学の賞を取ったとき、小林信彦は何故そんなに僻んだのか。「生活を安定させたいから?」「僻みっぽい性格だから?」
どちらの理由も当然有るだろうが、一番の理由は「社会に自分の存在を認められたかった」からだと思う。小説家が認められるというと、小説が売れるとかファンに支持される、それが一番の心の拠り所になるのが普通一般的だと思うのだけど、小林信彦にとってはどうもそうじゃ無いようだ。それよりも文学賞を取る事が「社会に認められる」ことらしい。
小林信彦は小説を書くことが「好き」なのだろうかと思っている。もちろん嫌いならそれを職業にする筈は無いのだが、じゃあ何が有っても小説を書かずに居られない人だろうが。夢枕獏は後書きやエッセイで「小説が売れなくなっても、自分は小説をぶっかくしかない」と書いているが、そういう感覚が有るだろうか。
今のところ最後の本『日本橋に生まれて』は週間文春連載のエッセイをまとめた本だし、病気する前から何年も小説を書いて居ない。Wikiによると2015年『つなわたり』(読んでいない)が最後らしい。
”小説を書く事”に対して実はそんなに熱意が無いのだ思っている。にもかかわらず文学賞は欲しいと思っている、知り合いが賞を取ると僻む。何故なら、小林信彦にとって「小説家」と言うのは、自分がまともな社会人であることの証明だから。
「やりたい事」は映画笑いアイドルその他を見て、その感想あるいは批評を書く事。だからそれは病気から復活した後もずっとやり続けている。
しかしそれだと、エッセイストコラムニスト評論家で悪い言い方すれば「雑文書き」になる。今の時代なら、それはそれでちゃんとした仕事だと思うが、小林信彦が若かった時代には「適当に遊んでいながら金を稼いでいる人」で、まともな社会人として認められない雰囲気が有ったと思う。
だから「小説家」という肩書が必要だった。
小林信彦にとって「小説家」と言うのは「やりたい事」ではなく、あくまでも自分の社会的な地位や肩書の為にだけ必要な物なので、小説が売れれば良い訳では無い。ちゃんとした権威に認められた小説家でなければならない。その認められたことの証明が文学賞。だから知り合いが文学賞を取ると僻む。
7、松本伊代
結局「やりたい事」は映画笑いTVドラマアイドルを見ての感想。脳梗塞から復帰した後もそれをずっとやり続けていた。しかし車椅子生活になって外出は儘ならなくなった。なのでやる事と言えば、家で本を読むかDVDを見るかが多くなる。そしてTVを見ての感想が増えた。
特に、昔ならバカにしていたようなゆるいバラエティー番組の、それも批評抜きの単なる感想文が多くなった。
病気の影響も有るだろうが、やはり老いは感じる。これは、と思ったのは
小林信彦が松本伊代の名前を出すことのオカシサ。
最初に小林信彦の名前を意識してから四十年近い時間が経った。
終わり
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