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困窮層DE京大出身の僕の今昔物語 黒のピース5 「最初の夜逃げの終わりの日」
どんなに人里離れた山奥だと思っていても、そこは誰かの土地だった。
少なくとも、僕たちが過ごしていた山は私有地だった。
山中に暮らし初めて約1ヶ月くらい。
丁度、父が10回目程度の下山をした次の日の日中、6、7人のおじさんや若いお兄さんになんやかんや声をかけられて、下山することになった。
遺体を舐めさせられと発狂していた母に驚いた人たちは、すぐさま警察を呼んで騒ぎになったように思う。
父はおじさん二人に暴れていたところを取り押さえられていた。
僕は一時的におそらく警察に保護されて、気付いたら綺麗な部屋のたくさんある場所に運ばれていた。
そこで、僕は生まれて初めての温かい食事をもらうことができたし、お風呂にも入れてもらった。
沢山のお皿があった、お茶碗に、味噌汁椀に、大きめのお皿にコップにおはし。
真っ白なあたたかいゆげが出ていた白いご飯を口にいれた瞬間、僕は食べたものが口から1粒も出ないように大声で泣いた。
肺か胃が、ぎゅっと締め付けられるような苦しさを感じていたけれど、あたたかい食べ物が喉に通っていくと、身体中から何かが込み上げてきて泣きながら食事をもらっていた。
泣きつくして食事を終えると、ぼんやり覚えているのは、石鹸みたいな匂いのする女の人が泣きそうな顔で「大丈夫やけん」と何度も言って、僕の手やら耳やら顔やらを消毒してくれていた。
入れ替わりで、6人の人が泣きながらか、泣きそうな顔をしながら僕に声をかけにきてくれたり、話を聞きにきてくれた。
恐らく時間にして半日程度。
そのまま僕は保護されるわけでもなく、両親が刑務所に入りましたというオチもなく、何事もなかったかのように両親は僕を迎えに来た。
不法侵入とは知らずに家族でキャンプをしていただけ、遺体は他殺の可能性はゼロだったので、問題にすらならなかったらしい。
子供に1日小さなあんパン一つでも与えていれば栄養が足りてない体でも保護者は罰されることはない。
僕は、怪我をしていようが生きているのでそのまま両親の元へ戻された。
何歳の子供には1日何キロカロリーは摂取させるとか、3食必ず食べさせないといけないという法律があれば別なんだろうけど。
しつけと体罰、暴力の差はとても曖昧で僕の血だらけの姿は、しつけの一貫だとされた。
僕はその綺麗な場所から、父の車に乗り込むときに何度も「大丈夫やけん、大丈夫やけん」と女の人が泣きながら窓から強く僕の左手を、両手で握ってくれた。
父に怖そうな顔で叱責していた警察官のおじさんは、去り際「次来た時は、うまい広島焼食わしてやるけん」と言って、僕にビニール袋に入った沢山のお菓子をくれた。
出発するときも、道路を走っている間も、前に座っているはずの両親は今度はずっと無言。
夜中だったと思うけれど、どこかのサービスエリアで駐車した父の車の中、初めて父がその日しゃべった。
「福岡行くで」
当時の僕は、日本地図の位置なんて知らなかったが、父は大阪方面ではなく真逆の西へ車を走らせていた。
福岡県には、父の従兄弟が町工場を経営しているらしく、警察署で連絡をしたら家族3人で訪ねてきても良いという話、らしい。
母は無言のままで、僕は「はーい」と返事をしたままお菓子の袋を持って久しぶりの頑丈な屋根の下で眠りについた。
あんな人たちがお父さんやお母さんだったらいいのにな。
その頃前の席から、「お前が死ねやぁぁぁぁ」とか「夫に恥かかせる女がどこにおるんじゃボケぇぇぇぇ」と言う音と共に、ライターの音がして「燃えろ燃えろ燃えろ」と叫ぶ父の絶叫が響いていた。
毒親と呼ばれる存在に悩んでいる人も、貧困に苦しんでいる人も、困窮を恐れる人も、犯罪者になってしまいそうで不安な人も、そんな人に興味がある人にも役立ってくれると嬉しいです。