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あまりにもひとつの視点からばかり世界を見てはいなかっただろうか。

死なないために生きているのだと思っていた。

自分が何のために生きているのかはずっと分からなかったし、生きる理由がなければ生きようとしてはいけないなんて考え方は嫌いだから無理に探そうともしなかった。

この1年、したいことを制限されてばかりだった。

誰かとご飯を食べること、会いたい人に会いに行くこと、行きたい場所へ行くこと、写真でも動画でもなく生身の質量を持ったものに触れること。ずっとずっと当たり前だったものが次々に遠ざかって、願うことさえ許されないことのようになってしまったようで。

みんな我慢しているのだから。もっと大変な人がいるのだから。自分は誰かからの悪影響より誰かへの悪影響を心配しなければならないくらいには強い立場なのだから。それを笑えなくなった言い訳にはしていなかったか。母国語の話し方や感情の吐き出し方を忘れていくことを仕方ないと思っていなかったか。私がしていた我慢は本当にすべて自分以外の誰かを守るために必要なものだっただろうか。本当はそのことでかえって誰かの笑顔を奪っていなかっただろうか。少なくとも私は去年の3割も笑っていないし話していない。

誰にも会わずに引きこもって静かに過ごす。明日ウイルスに感染しないためにそれが最善なのは分かっている。でも1年、あるいはもっと長い間健康に生きていくために、それはたぶん最善ではない。100メートルを走るときのようなスピードでマラソンは走れない。それをやろうとすれば無理が来て当然だと思う。ましてやゴールがどこにあるのか誰にも分からないとなれば。感染さえしなければ健康に生きていけるわけじゃない。ひとつの器官さえ健康なら、それですべてOKになってくれるわけじゃない。あまりにもひとつの視点からばかり世界を見てはいなかっただろうか。

相変わらず、「これが自分の生きる理由です、これが叶わないのなら死んでも良いです」とまで断言できるものはない。けど、少なくとも『家から一歩も出ずに、誰にも会わずに、何も見ず何も触らずその日その日さえ死ななければ良い』とは思えなかったらしい。そもそもそれは、本当に生きていると言えるのだろうか。

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