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「ない」という答え


台風のように生きて死にたい、と昔から願っていた。

かつては尖った意味で、今はある種の諦めみたいな意味で、それは変わらず思っている。

台風は突然発生的に生まれ、駆け抜け、巻き込み、泥水と綺麗な空を残して消失してしまう。

我々は人間という立場なので台風は「悪」なのかもしれないけれど、台風一過の澄んだ空を見上げる時「悪」はこちらなのかもしれないとすら思えた。

自然は自由で残酷でそれでいて美しい。

わたしも昔は目を輝かせて夢を語る少女だった。でも絶望をすり抜ける度に諦めを覚えていつしか夢より現実を見るかわいげのない大人になってしまっていた。

「どうなりたいの?」
「どう生きたいの?」
「なにがしたいの?」

そこに明確な答えを持つことは自分の軸を立てるようなものできっと大切な意味があるし、軸のある人はなんとなく幸せそうに見えるのも事実。

でもそれが正解とは限らないし、人生は思い通りにいかないどころか予期せぬ不幸に見舞われることなんてざらにある。だから言葉にしたくないのかもしれない。謎のプライドなのかはたまた恐怖なのか。

世にいう夢って実現可能そうなことを指すことが大半だから、≒ 目的・目標だと思っていて、だからとても答えづらい。
プリキュアになりたいとか宇宙人と友達になりたいとか過去に戻りたいとかそういう極めて叶いそうにないことこそ夢として願ってもいいはずなのに大人になるとそういうのってふざけていると思われる。

夢も結局ゴールではなくて道半ばなのだということを知っている。そしてそれを夢を持たない言い訳にしてきた。

「趣味がないんですよ」「これといった夢がなくて…」「なにがしたいのって言われても…」みたいなのって正解を言おうとするから「ない」に行き着くのであって、答えのない問題に「ない」と答えてるだけなんだろうな。

あなたの夢はなんですかと聞かれて答えられないとしても今日の晩御飯何食べたい?には答えられるかもしれないし、どっちの絵が好き?には即答するかもしれない。

人生は選択の上に成り立っているのでなにも選ばずに生きている人はきっとほとんどいなくて、その人の心の内にしかない目に見えない好き嫌いとか喜怒哀楽はたくさんあるのだろうから、その延長線上に答えはあるのだと思う。

気持ちに正誤があるわけないのだけれど、なんとなく人に否定されたくなくてのらりくらりとかわしてきたところがある。

別の人間である以上どれだけ想ってもどれだけ経験を積んでいても他人の気持ちはわからない。なんならなにを話しても「わかる!」と返されるとわかってないなと思っちゃうくらいひねくれているので溶け合うことはない。

話を聞いてあげることはできても全く同じ気持ちになることはできないし、わたしの気持ちを丸ごとわかってもらえることもない。

それでもわたしは人が好きで、人と関わることを楽しみたいと思っている。

気持ちに寄り添うことも全部をわかることもできないけれど、小さなときめきの共有と小さな共感の積み重ねで築ける関係があるということ。
大切に想っている人たちが笑って幸せな気持ちで日々過ごせることをとにかく願ってやまない。

人に言えるほどの夢も趣味もなくてもいい。自分が大切にしたい人や時間やモノや気持ちが1つでも自分の中で見えていれば十二分じゃない?

わたしはまだ大きな夢を語る人にはなれずにいるのだけれど、もう少しこのひねくれた頭が解けたら、かわいい夢くらいは語れるのかもしれないな。

前向きな諦めを追い風に。
台風のように生きて死にたい。

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