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来たるべき旅立ちを前に

転勤が決まった、と友人から聞かされた時、僕は「今度は俺が置いて行かれる番が来たのだな」と感じた。

彼とは小学五年生の頃からの付き合いだ。僕が道外の大学へ進学したことを機に一旦は距離が離れたが、就職でまた北海道に戻って来たことで交流が再開した。若い頃は「社会人になれば立派な大人だ」と思いがちだが――これが間違った認識であることは、夕方のニュースを見れば立ち所にわかる――僕らもやることと言えば、いまだにお菓子をつまみながらゲームにカラオケと、昔思い描いていた大人とは程遠い遊びをしていた。

「それじゃあ、今お前とやってるゲームの続きを進めるのは、もう難しそうだなぁ」

あまり感傷的に聞こえないように気を遣いながら、僕はそう呟いた。「寂しさ」などという、ポケットに仕舞い込んだチョコレートのようなぬるくベトつく感情を、彼には感づかれたくなかったのだ。俺らは感傷的なセリフなどとのたまう湿っぽい仲ではない。そう思っていた。

「頻尿のお前が来なくなると、俺の部屋のトイレも節水になるわ」

照れもあるのだろう。二人とも口をついて出るのは冗談ばかりで、個人的なことを話すのは苦手だった。たとえば彼は、突然大学を休学して地元に戻って来た時もその理由を語らなかった。僕もあえて詮索せず、「まあ暇になったなら時々遊びに来いよ」とだけ言った。後に別の友人の母親が、彼の母親の口から聞いたのは「あの子は心がダメになったのよ」という一言だった。

当然お互いの恋愛の話などしたこともない。僕が自分の結婚を報告した日、彼は「もう、これまでみたいに遊べなくなるんだなぁ」と微笑んで言った。大学からドロップアウトした彼には、今さら顔を合わせられる友達はいなかった。平日は自宅で寝たきりの祖父の介護をしながら、週末に僕と遊ぶ生活をしていたのだ。「たまには時間を作って遊ぼう」と、僕はその場しのぎの返事をした。僕は彼を置いて行くのだ……そんな罪悪感が心に沈殿した。しかしどういう形にせよ、子供の遊びというものはいつかは終わる。それだけだ、と自分を納得させた。

「予定では半年間の転勤と言っても、長引く可能性は高いんだろう?まあ、ようやく入った会社に逆らうわけにもいかんだろうが」

彼が30歳にして社会人となったその一年後、僕の結婚生活が終わった。離婚する旨を告げた時、彼はその理由を聞かなかった。僕が彼に休学の理由を聞かなかったように、だ。それが気遣いなのか興味がなかったのかはよくわからない。しかし「その分、俺らのゲームとカラオケがまた再開するってわけだな」という彼の明るい物言いが、調停を進める僕の心をいくらか軽くしていたのは間違いのないことだった。

「今日でカラオケもしばらくはお預けだなぁ」

僕らは最後の日、よく行っていたカラオケ屋に半年ぶりに向かった。ウーロン茶を飲み、アイスを食べて、コーヒーを飲み、僕らは大いに歌った。キリンジ、サニーデイ・サービス、カーネーション、電気グルーヴ……これは高校の頃に聴いていた。これは予備校の頃だ。これは……いつも一緒に歌う大半の歌は、彼が勝手に僕から吸収したものだった。

我が家からほど近いバス停まで彼を送るために、僕は車を走らせた。少し開いたウインドウからは夜の空気が流れ込んできた。

「いや、しかし、こんなに一緒に歌ったのは久しぶりだったな」

僕が笑うと、彼は微笑んで言った。

「もう、これまでみたいに遊べなくなるんだなぁ」

あの時と同じ言葉だ。瞬時にそう気づき、僕はあの日感じた罪悪感の残渣を心の奥に認めた。言葉を探す僕の代わりに、カーステレオから流れる音楽が滔々と車内を満たした。

「寂しいな」

不意をつかれた思いがした。彼がその言葉をはっきり口にするとは思っていなかったのだ。俺たちはそういう仲ではなかったはずだろう?

「いやあ、まあ……」

しかし次の瞬間、僕は気づいた。
そうか……お前もあの時の俺と同じ……俺を「置いて行く」と思っているのか……そうなんだろう?
僕は彼の溢れた本心を、笑いで誤魔化そうとしている自分を見つけた。違う。そんなジョークで誤魔化す時ではない。きっと終わりなのだ、これで。

「……そうだな……寂しいな」

まるで長年隠していた傷跡を見せるように、僕はその言葉をそっと取り出して、彼の傍に置いた。

休学と離婚。長い人生の中で、お互い必要な時期にたまたま近くにいた。そしてその時期はこれで終わったのだろう。いや、正確に言うのであれば、きっと僕らの再会は、今日でその役割を終えたのだ。

「向こうで良い奥さんを見つけな」

そろりと車を出すと、彼はバス停で少し照れくさそうに手を振った。「お前がいてくれて助かったよ。ありがとう」などとは決して言わない。それでもその夜、僕らは最も近づいて、再び別れた。

ウーロン茶とコーヒーを飲み過ぎた頻尿男が僕の部屋のトイレを借りに来たのは、その五分後のことだった。

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