『ミネラルウォーター』

PDF

本文

 さっきホームで買ったミネラルウォーターを半分ほど飲み干し、前の座席の方に何気なく目をやると、目の前に座っている人は泣いているように見えた。いや泣いているように見えた、なんてものではない。明らかに泣いていた。ぐしゃんぐしゃんに泣いていた。肩を上下させながら、鼻をずびずびさせながら、目からは大量の涙の粒がこぼれ落ちて、彼女の頬を濡らしていた。うつむいていたので、直接顔を見たわけではないけれど、これを泣いていると言わずになにを泣いていると言うのだろう。もちろん、誰にでも泣きたくなる日はあるし、この女性と同じくらい泣いたことがある人もきっといるのだろう。でもここが電車の車内であることを踏まえると、その泣き方は少し異常だった。

 年齢は大体20代後半から30代前半くらいに見えた。当時の僕が28歳だったのだけれど、大体同い年くらいの年齢な気がした。そういう気がしただけで、これについてはまったく自信がない。最近は年齢がよく分からなくて、中学生なのに社会人に見えるような人もいれば、還暦過ぎているのに40代くらいに見える人もいるから、年齢については本当に分からない。まあでもそれくらいの人が明らかに泣いている。嗚咽をしながら泣いている。僕は人生においてそんなふうに泣いたことはない。電車の中ではもちろん、一人きりのときだったとしても、そんなふうに泣いたことはない。僕は泣いている彼女の存在に気づいた後、結果として彼女をひたすらにじっと見つめ続けることになった。車内で泣いている彼女を一瞥した人は沢山いたけれど、ずっと見ていたのはきっと僕だけだった。

 平日の午後の中央線というと、わりかし空いているんじゃないかと思う人が多いと思うけれど、実際はそんなことはない。意外と混んでいる。僕は東京発の中央線に新宿駅で乗ることがほとんどなのだけれど、新宿駅から乗って混んでいるのに出くわすと、毎回、「平日の午後だっていうのに、どこへ行くんだろう」と思ってしまう。自分のようにニートとフリーターの間のような人生を歩んでいて、ラッシュなんかとっくに終わったくらいにやっと目を覚まして、まあ暇だから本屋さんでも行こうかなと思って、外に出てみると秋晴れの気持ちのいい天気だったので近場の本屋さんではなくて、まあ新宿の紀伊国屋にでも行こうかと行って新宿に来て、その帰りに昼間の中央線に乗る人だってそりゃあ、たくさんいるのだろうけれど、僕はそんなふうには考えずに、他の人に対しては「この人は会社にも行かずなにを平日の昼間に中央線なんかに乗っているのだろう」なんて思ってしまう。とはいえ乗客は、大体吉祥寺とか三鷹を過ぎたあたりから段々減ってきて、まあそれくらいになるとまず間違いなく席は空き、座ることができる。いやはや、やっと座れたな、なんて思いながら座るとなんとなく気が落ち着いて、窓外を流れる住宅街の風景や周りの人たちをなんとなく眺めてみたりする。

 当時僕が住んでいたのは、西八王子という、八王子駅と終点の高尾駅の間に位置する場所で、僕はその西八王子駅から歩いて十五分くらいの、大きな野球場がある公園の隣のアパートの三階に住んでいた。その野球場では年に一回くらい二軍のプロの試合くらいはするらしく、設備自体は本当に立派で、休日になると社会人野球か大学野球や高校野球の公式戦をやっていたし、平日でも高校の練習試合などをやっているときもあった。なんでそんなことが分かるかといえば、僕が住んでいた三階からは、その野球場のバックスクリーンがはっきり見え、毎試合どこ対どこの試合なのかは明確に分かったからだった。引っ越しを検討し始めたときは何より家賃を安くしたくて東京の端に物件を探して目星をつけたのだけれど、この物件を見つけたときは家賃が安いこと以上に野球場の目の前、なんなら野球場が見えてしまうという場所がなんとも楽しそうだなと思って、そのワンルームに済むことにしたのを今でも覚えている。実際は野球の試合自体は三塁側ベンチの応援席が邪魔になってしまい、ほとんど見えず、レフトあたり一帯とバックスクリーンの電光掲示板しか見えなかったのだけれど、それでもまあ、野球が隣でやっている事自体は個人的に楽しく感じていた。応援席からアパートを見てくる観客とは目があったこともあったし、昼寝をしていて歓声で目を覚ますこともよくあったけれど、なぜかそれにはあまり腹が絶たなかった。それ以上に、よく晴れた休日に昼寝をして、隣の野球場から聞こえてくる歓声のせいで目を覚ますというのは、一つの歓びというか、世界にこぼれ落ちている小さな幸せの一つのように感じていた。

 国分寺駅を過ぎると、僕が乗っていた車両には僕と号泣している彼女だけになった。空は相変わらず快晴で、車内の床には燦々と午後の日差しが降り注いでいた。彼女の側のマドから光は差し込んでいた。でも、彼女は相変わらず泣いている。むせび泣いている。この女性は人生でこんなに泣いたことがあるのだろうか。なんとなくだけど、ないような気がする。もし普段から泣いている人ならこんなに涙が貯まっているとは思えないし、なんとなく泣くことに慣れている人なら、そんなことばがあるかは分からないけど、もっと〈泣き加減〉を調整できると思う。家まで泣くのは我慢しよう、とか、どうしても泣きたいならせめてポロポロ、くらいにしておこうとか。もちろん、涙を流すというのはなにかしらの感情の発露なわけで、そんな簡単にコントロールできるとは思わないけど、でもやっぱり、何にでも慣れというのはあるのであって、それは泣く場合でも、怒る場合でも一緒で、それらに慣れている人ならもうちょっとうまくやれるはずだと思う。その点彼女は、本当に今にも叫びそうなくらいに泣いている。流石に心配になってきた。いや、もちろん、彼女が泣いているのに気づいたときから心配は心配だ。心配だからこそ、見ているという側面がある。でも、最初に僕が見ていたのは、心配というよりかは申し訳ないけど好奇に近くて、「よくこんなに電車で泣けるなあ」という気持ちが一番だった(ちなみに彼女に対して僕は最初から最後まで、非難や苛立ちを感じた瞬間はただの一瞬もなかった。それはまさに彼女が泣き慣れている人間ではなくて、彼女が切実に泣いていたからだと思う)。でも今は、好奇というよりは本当に心配で、それはやっぱりもう彼女の身体全体が泣いている、泣くことしかできなくなっているからで、このままいくと呼吸困難とかになっちゃわなかいかな、と心配になったからだった。とはいっても僕は本当に医学とか、そういう健康とかの知識がないので、あたりを見回して、なんとなくAEDとかあるのかな、とか探してみることしかできなかったのだけれど、今思うと泣いていて呼吸困難になったからといって、AEDを取り出し電気ショックを与えることが正しいかどうかは分からない。多分間違っていると思う。「大丈夫ですか?」と声をかけようとも思った。それはもちろん、思った。それはなんというか、彼女が大丈夫かどうかを確かめるためというよりは、もはや僕自身の問題として、そこまで泣いている人と広い車内とはいえ、二人きりになり、向かい合っている以上、なにかしらの行動をしなければ気持ち悪い、虫の居所が悪い、変な感じがするから、そうしたいという衝動に駆られた。でもそれは本当に僕のエゴでしかなく、それこそ僕を安定した場所に置くための「大丈夫ですか?」しかにならない以上、そんな「大丈夫ですか?」ならいっそ言わない方がましだと思って、僕はイヤホンを外し、彼女の真向かいの席に座るということだけに集中した。 

 襟元だけ白い、黒のワンピースに身を包み、黒い革製の光沢のある少しだけ先の丸いシューズを履いていた彼女は、服装だけでいうと少しフォーマルな印象があって、立食形式の食事会とか、ピアノの発表会とか、そういうのに参加するような服装をしていた。だけど特段花束とかを持っているわけじゃないし、本当にそういう催しとかに行ってきた人と判断はしきれなかった。平日昼過ぎの中央線に乗っていて、少しかっちりとした服を着ていて、多分同世代くらいの女性。それらの要素を並べ替えたりなんだりをしても、彼女が泣いている理由はさっぱり分からない。これで「お母さん……」とか一言でも呟いたら、お身内でご不幸があったんだなとか分かるし、「コーヘイの馬鹿!」とか、言ってくれれば恋愛関係だな、くらいは分かるのだけれど、彼女はただ延々と泣き続けるだけで、僕に検討の余地を与えることはなく、本当にただ泣き続けていた。ただ、その泣き方から彼女にはよっぽどなにか重大な出来事があり、それを彼女の中だけでは抱えきれなかった結果として、泣いてしまっているのだろう、というのは明らかだった。重大な出来事はさっき起きたことではないのかも知れない。重大な出来事を彼女が心の奥底に押し込み、それを寝かしつけることに成功し、それでなんとか正気を保って生きてきたけれど、なにかの拍子でそれが今日、午後の中央線の車内で爆発してしまったのかもしれないけれど、とにかく彼女にとって、泣くことでしかどうにかできないなにかが生じてしまったことは、誰の目から見ても明らかだった。彼女はもはや涙を拭うことをやめ、ただ涙をこぼし続けていたので、涙の行き先となった白い襟元は段々灰色っぽく濡れてしまっていた。彼女はそんなことにも一切気づかずに、ただひたすらに泣いていた。

 そもそも人はなぜ泣くのだろう。他の動物も泣くのだろうか。よくわからない。人にしか感情がないから、そもそも動物が泣くことはありえないと考えることはできるけど、なんかそれは違う気がする。人には人の感情しか分からないから、動物の感情の在り方しか分からないはずで、だからこそ僕は、虫には痛覚がないんだ、みたいな考え方はどうかなと思っている。どんな実験をしてそんな結論が出たのかは分からないけど、もし虫を痛めつけて、それに対しての反応がないから痛みはないんだ、と結論づけているならそれはおかしいと思う。だって痛みを感じていても、痛みを表現する方法を虫は知らないだけで、虫の心の中自体では痛みを感じている可能性は十分にあると思う。とはいえ、虫や動物が哀しさや痛みを感じているとしても、あまり涙を流すイメージはない。少なくとも人間のように泣くところは想像できないし、ましてや、目の前にいる彼女のように泣くことは想像できなかった。なぜ感情の発露として目から水を零すという方法を取らなければならないのか。本当によく分からない。僕が泣いたことがほとんどないから分からないだけなのだろうか。

 そういえば最後に泣いたのはいつだっただろう? 記憶にないけれど、中学生以降で泣いたことはないと思う。もちろん生きていれば、泣きたいような出来事は沢山起こる。嫌というほど起こる。一つひとつの出来事を並べ立てれば、それはもうきりがない。悲しいことは沢山あったと思う。でも僕は泣かなかった。というか、涙は出なかった。それは僕の感情が死んでしまっているとか、僕の感情が鈍麻しているとか、そういうことではなくて、本当に純粋に泣く必然性がなかったとしか言いようがない。悲しいは痛い。痛いから苦しい。それはあった。でもどうなっても涙はこぼれなかった。一つの悲しい出来事に一つの涙がある、みたいな対の関係になっているんだろうか。どうだろう。そう考えるのが普通な気もするけれど、彼女を目の前にしてそう考えるのはなんとなく違和感を感じた。彼女をここまで涙させる一つの出来事が想像できなかった。どれだけ凄惨な一つの出来事を想像したところで、彼女の涙には届かないと思った。

 電車が日野駅に停車すると一組のカップルが僕たちの車両に乗り込んできた。年齢は僕たちよりいくつか若く、多分大学生だった。彼らは僕と彼女が向かい合っている席から少し離れた僕側の席に座った。カップルは最初は二人でお喋りをしていて楽しそうだったが(たしか昨日のテレビ番組の話だった)、女性の方が泣いている彼女に気づくと、女性は男性に耳打ちし、二人は泣いている彼女のことを見て、コソコソとなにかを話して、笑った。あざ笑った。コソコソ話に切り替えたせいで僕から彼らがなにを話したかはよく分からない。でもその二人の笑いは明らかに彼女に対する嘲笑であり、雰囲気からして馬鹿にしていることは明白だった。僕は彼らが許せなかった。今にでも二人の前に行って、抗議したかった。あなた達がしていることは間違っている、と。しかし僕はそうすることもできず、ただ端の席から彼らを睨むことしかできなかった。僕は強烈に睨んだ。そんな僕を見て、彼らはまた耳打ちをし、そして隣の車両へ移った。隣の車両に移る彼らを僕はずるいと思った。逃げている人間だと思った。でもだからといって、なにかが起きるわけでは当然なかった。車両には僕と彼女がまた二人だけになった。

 カップルが現れ、そしていなくなった今、僕は彼女と二人きりであることをなぜか強烈に意識するようになった。この空間には僕と彼女しかいない。僕は中学の時に家元を離れ、15歳の頃から一人暮らしをしていた。当然一人暮らしの家に来る恋人はおろか友達すら一切いなかったので、一つの空間に誰かと二人きりになることなんてほとんど経験がなかった。彼女と二人きり。その事実に気づいた瞬間、僕は彼女に申し訳なさを感じるようになった。彼女が泣いて、泣いて、泣いているその空間に僕のような人間しかいないことに対して、謝りたくなった。でもどうすることもできない。現に彼女が泣いているその場所には、僕しか立ち会うことができていない。彼女は今後、こんなに泣くことは一生ないのだろう。そういう意味では、彼女にとって今、この瞬間、この時間はある意味かけがえのないもので、彼女が年老いたとき、思い出すかもしれない一つの風景になるかもしれなかった。涙で濡れた彼女が顔を上げたところで視界に映るのは、オレンジ色の座席の背面であり、焦げ茶色の座面であり、窓外に広がるもこもことした赤っぽい木々であり、てろっとした床に差し込む午後の日差しであり、丸眼鏡をかけたパッとしない男だった。彼女の風景になると思えたとき、僕は少しだけ頬に熱を感じた。頬の熱を感じて、自分の顔を感じた。顔。この顔が彼女の面前に晒されている。彼女もまた、僕に顔を向けている。顔と顔が向き合っていて、僕たちはお互いの顔を見ることができる。顔をつかって、僕たちはお互いの表情をつくっていた。僕は少し頬を赤らめることで、恥ずかしさを感じている顔をしていて、彼女は大粒の涙をこぼして目を腫れさせることで、哀しさのようなものを表現していた。顔に現れた表情が彼女の内面、僕の内面を本当に正確に表現しているかどうかは分からない。でも僕は彼女の顔がなければ、彼女のことを今の百分の一も理解することはできないのだと思うと、やはり顔というものはすごいなと思った。顔の美醜云々のことだけを考えさせるような社会にに対してはうんざりすることも多いし、実際、僕たちの車両にも二重整形をお得な価格で受けることが出来ますという整形外科の広告がいくつも掲げられていたけれど(脂肪吸引とパックで整形しても六万円以下らしい)、そういうもの抜きにして、顔というものは悪くないものだとその時の僕は思った。それと同時に彼女と顔と顔を見合うことができるこの空間というものにどこか不思議さを感じた。泣いている彼女は笑ったらどんな顔になるのだろう、次第に僕は彼女の笑顔を想像するようになった。直視できない彼女の顔を、僕は盗み見るように見ていた。それでも僕の頭の中はいつしか、彼女が笑っているその景色のことで頭がいっぱいになった。彼女を笑わせたいと思うようになった。彼女が笑ってくれたら、どれだけ素晴らしいだろうと思った。

 気づけば僕は、口をすぼめていた。すねているわけでもなければ、表情筋を鍛えて小顔になろうとしていたわけでもない。彼女に笑って欲しくて、変な顔をしてみたのだ。想像したのは昔やっていたゲームに出てきた赤いタコだった。タコの顔真似をしてみたところで彼女が笑うとは思えなかった。でもいつも自分の家のユニットバスの鏡で見ている辛気臭いだけの顔で彼女の前でいるくらいなら、変顔の一つでもしてみたくなったし、なによりその時の僕は彼女の笑顔を見たくなってしまっていた。最初はほんの少しだけ唇を突き出して口をすぼめていた僕は次第に大胆になった。思い切って、一瞬思い切り頬に力を込め、ギューッと唇を尖らせてみた。彼女はずっとうつむいたままでこちらを見ていない。やはりダメだ。見てもらわない変顔は、見せることのない手品や聴かせることのないチェロの演奏と一緒で誰かに作用することはない。それはとても残念なことだけれど、仕方ないことだと思う。でもなぜか諦めきれなかった僕は、今度はひょっとこをやってみよう、と思った。口をすぼめて、更に横にくいっと唇を持ってくるのだ。口をすぼめるのは日常の中でありえる顔の表情だが、ひょっとこはなかなかない。だからこそひょっとこはお面になっているし、ふざけている大人が頭にそのお面を乗せたりするのだ。僕はもう一度唇を思い切りすぼめると、今度はぐいっと左目にくっつけるような気持ちで唇を尖らせてみた。そのときだった。なんと彼女がふと顔を上げた。しかもその、ひょっとこ顔のまま、彼女と目があってしまった。まずい! と思った。彼女に笑って欲しくて、見て欲しくてやった変顔だったのにいざ見られると、僕はとてつもなく恥ずかしい気持ちになり、急いで辛気臭い顔を取り戻し、何気なく左手で鼻の頭を掻いてみせることで、それを誤魔化してみた。それから僕は彼女のことを見ることができなかった。恥ずかしさのあまりに。

 電車は立川駅に停車した。乗客は一人も乗ってこなかった。僕はドアが開いたタイミングであたかも、駅のホームが気になるような素振りをしながら、久しぶりに彼女の顔を見てみた。すると彼女は泣き止んでいた。まだ、目は赤かったし、鼻もすすっていたけれど、涙自体は止まっていた。僕がひょっとこの顔をしてから、立川駅に停車するまでの間に彼女の中になにかがあったのだろう。彼女の涙は静かに引いていた。もしかしたら僕の変な顔を見て、少しだけ気が楽になったのだろうか。だとしたら最高に幸せだ。そんな幸せが人生にあっていいのだろうか。でも僕は、彼女と目が合ってからすぐさま変顔をやめたので、彼女が僕のひょっとこの顔を見ていたかすら分からない。いや、見ていたとしても笑って元気になったということはないだろう。電車の向かい座席に座っている知らない男がちょっと口をすぼめたくらいで笑っていたら、この世界は楽しくて明るくて仕方ない。しかし世界はそんなふうにできていないと僕には思えたし、彼女の世界もまた僕の世界と同じくそんなに明るいものだとは思えなかった。いずれにせよ、そのとき、涙は止まっていた。それが喜んでいいことなのかどうか、その時の僕には判断できなかった。もちろん、泣き止んでくれたのは嬉しい。でも、涙が枯れてしまったとしたらそれが嬉しいことなのかどうかは分からないと思ったのだ。──涙が枯れる。いかにももったいつけた表現で、慣用句としてのこの言葉を僕はこれまでの人生で使ったことはなかった。この言葉を嫌悪していたのだ。でも人生で初めて本気で泣き続けている彼女という人を見た今、僕は比喩ではなく、本当に起こり得ることとして、涙が枯れる、ということを考えていた。彼女は今日、午後の中央線で涙を使い果たしてしまって、これからの人生でまた悲しいことが起きた時、泣けなくなってしまったらどうしよう、と思うようになった僕は、さっきまでひょっとこの顔をしていたのに、今では彼女の涙を望むようになってしまった。泣きたいときに泣けるよう、涙は涙として、彼女の中に在り続けるべきだ。

 泣き止んだ彼女はしばらく窓外の景色を眺めているだけだったが、急に駆られるようにして、バッグの中から煙草の箱を一つ取り出した。赤色のパッケージに、なにか英語が書いてあった。父が吸っていた煙草と同じ銘柄だったように思うけれど、煙草を人生で一度も吸ったことがない僕はその煙草が吸うとどんな味がするのか、どんな気分になるのかはもちろんなんという名前の煙草かなのかすら分からなかった。車内で煙草を吸うつもりなのだろうか? それでもいいと思った。もちろん正しいことではない。マナー違反を超えて、迷惑行為と言われても仕方ないし、もしかしたら法律違反かもしれない。でも今、この車内にいるのは僕と彼女だけだったし、あれだけ泣き続けている彼女を見ていた僕からすれば、煙草の一本くらいは吸わせてあげたかった。ライターを持っていたら、「どうぞ」なんて言って、彼女がくわえた煙草の先端に火を灯してあげたいとすら思った。

 結局、彼女は煙草を吸わなかった。吸わない代わりに煙草の箱の蓋を開け、彼女はその中の匂いを何度も嗅いでいた。すーはーすーはーという彼女の息遣いが向かいの僕にもはっきり聞こえるくらいに、彼女はその匂いを嗅いでいた。煙草は吸わなければ意味がない、吸うことでしかリラックスできないはずで、煙草の匂いを嗅いだところで不安が取り除かれるのだろうか、とも思ったのだけれど、彼女の匂いを嗅ぐ姿は、海に溺れた人がなんとか水上に顔を出し、息をしているようにも見えて、彼女はリラックスするためというよりは、生きるためにそうしているのが分かった。僕にはその匂いがどんな匂いなのかは分からないけれど、それが彼女にとってしなければならないことであることは分かった。彼女の顔と息遣いは、そのことをはっきりと示していた。人間は息をしなければ死んでしまうけれど、彼女は今、まっさらな状態で息をすることはできず、煙草の香りだけが彼女が息をすることを手伝うことができたのだと思う。煙草を経由して、彼女は生きていた。僕のひょっとこは、そこに何の関係もなかった。

 電車は八王子駅に到着した。残った停車駅は僕が下車する西八王子駅と終点の高尾駅だけになった。僕は八王子駅で彼女が降りると思った。大きな駅はこの八王子駅で終わりだからだ。でも彼女は電車を降りなかった。降りる素振りすら見せなかった。車両には数名の乗客が乗り込んできた。彼女は静かに煙草をしまって何もなかったような顔をした。それにつられた僕もなぜか「煙草なんてこの世に存在してませんよ」というような澄まし顔を気づけばつくっていた。僕らの顔の作り方がうまかったせいか、乗客たちは僕たちになんの違和感もなく、それぞれの思うままに座席を選び、そこに座って、各々のことをしていた。僕は彼女と共同でなにかをやり遂げた気分になり、心臓の奥に小さなあたたかさを感じた。それがどれだけ他愛のない小さなことだったとしても、僕たちは一緒にひとつのことを成し遂げたのだ。
 彼女は黒いワンピースの袖で涙を拭っていた。一生懸命、何度も涙を拭っていた。涙は乾いていたけれど、彼女は何度も強く袖で目の辺りを拭い続けた。その結果、目の周辺の赤みはより強調され、見方によってはお風呂帰りで顔が火照っているようにも見えた。もちろん、お風呂に入って火照るとすれば顔全体なわけだし、目立つ赤みは頬の部分に出るはずだから、目のまわりが赤いのは、どう考えてもお風呂上がりの顔ではない。でも電車の車内でまじまじと乗客の顔を見るなんてこと早々ないだろうから、乗り込んできた乗客がふと見たくらいであれば、彼女の顔は銭湯帰りの呑気な人に見えたかもしれない。もちろん、そんなことはきっとないのだけれど。

 電車はまもなく下車駅である西八王子駅に到着しようとしていた。僕の家はこの駅から歩いた場所にあるわけで、僕は西八王子駅で降りるべき人間だった。仮に泣き続けていた彼女にどれだけ関心があったとしても、「彼女が降りる駅で降りよう」なんて考えていいはずがなかった。それはいわゆるストーカー行為だ。どんな理由があったとしても、彼女をつけるなんてことしたくない。いや、どうだろう。僕は別に彼女の私生活を知りたいと思ったわけじゃないし、ついていくと言ってもせいぜい改札を出て少ししたところくらいで、それはついていくといよりはむしろ、見送る、くらいの気持ちだったわけで、許されるべき行為のように思えた。でも僕が最寄り駅である西八王子駅で降りようとしたとき、彼女が降りず、彼女の向かっていた駅が終点の高尾駅であることが判明したとして、降りるべき駅を間違えたような素振りをして座席に座り直すことはとてもアンモラルな行為に思えた。それはたしかにそこまで大きな悪ではないかもしれない。日々、殺された動物や植物をなんの罪悪感もなく身体に取り入れる行為や、世界の飢餓の問題に向き合わないことの方がよっぽど悪い行為である可能性もある。僕は僕の悪について誰よりも知っている。自分がろくでもない人間で、悪意と偏見に満ちた人間で、生きる意味のない人間で、死んだところで誰も悲しまない人間であることを。でも、このときの僕は、彼女という存在に対し、少しでも誠実でありたいと思った。彼女への関心が完全に誠実なものになるとは思えない。でも彼女とこの車内で過ごしてきた三九分で、僕は彼女という人に関心というよりもむしろ、好意というかなんというか、親しみのようなものを感じていた。だからこそ僕は彼女に笑って欲しいと思って、ひょっとこの変顔をしてみたし、煙草の箱を開けて匂いを嗅ぐ姿も素敵だと思ったし、八王子駅で乗り込んできた乗客に煙草の存在を悟らせないために彼女と誤魔化した。そのときに感じた心臓の奥のあたたかさは今もなお続いていて、そんな感覚を人生で味わったことがなかったので、僕は八王子駅から伸びる西八王子駅の車線が永遠に続き、この時間がずっと続いてほしいと思った。
 彼女が泣き腫らした顔でビジョンを見上げると、車内アナウンスがまもなく西八王子駅に到着することを告げた。僕と彼女が乗っていた電車は次第に減速していった。窓越しに見える景色たちは少しずつ動きが静かになり、そしていつしか、停止した。ドアが開いた。僕は心の中で「さようなら」と彼女に言って、立ち上がった。

 すると彼女もまた、立ち上がり、西八王子駅のホームに降りた。彼女の髪は長くて、彼女はその長い髪を一つにまとめていた。彼女の揺れる髪は、ホームに飛び出して、そしてどこかへ消えた。
 彼女と同じ駅で降りたことに僕は奇跡を感じざるを得なかった。人生というのは小さな奇跡でできているのかもしれないと思った。生まれたこと自体が奇跡であるとか、世界が存在すること自体が奇跡であるとか、そういう類の奇跡ではない。もっと小さくて気まぐれで、なんでもない奇跡だった。

 改札を出たところにある自販機の前に彼女はいた。
 彼女が左上の方のボタンを押すと、ガシャンという小さな音がした。彼女はしゃがみ込み、取り出し口から緑色のラベルがついた500ミリペットボトルのミネラルウォーターを取り出した。ペットボトルを手にした彼女は右手で蓋を開けると、人目も気にせず、左手に持ったミネラルウォーターをごくごくと飲んだ。彼女は一気に飲み続け、残りわずかのところで飲むのをやめた。唇の両端についた水を手のひらで拭き終えた彼女はどこか晴れ晴れとしていて、満たされた顔をしていた。彼女が飲んでいたミネラルウォーターは、僕が新宿駅のホームで買い、ずっと手に持っていたものと同じ銘柄だった。

 家に着くと、風に揺れる洗濯物の白いシャツを夕陽が照らしていた。洗濯物はよく乾いていた。シャツを取り込むといつもの野球場が見えた。野球場のバックスクリーンには高校野球の練習試合の結果が掲示されていた。6対0で負けていたそのチームは9回の裏に7点を返し、サヨナラ勝ちをしていた。

 どれだけの時間が経ったのか。気づけば僕は眠っていた。辺りは驚くほど真っ暗で、息は浅く、胸の奥の方が痛くて、頬に触れた枕は冷たく濡れていて、ユニットバスの鏡に写る僕は、目の周りが真っ赤に腫れていた。この顔で変な顔をすれば、彼女はきっと笑ってくれると思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?