ケバブ屋さんとカルディとファミマ。

ひとりぼっちだなあ、と思って生きている。初めて思ったのはきっと中学の1年とか、2年の自転車通学の帰り道だけれど、それ以来、この感覚がなくなったことはない。薄まるときもあれば、あんまり感じなくなるときもあるけれど、なくなったことは多分一度もない。

引っ越して一ヶ月が過ぎ、いくつかの行きつけができた。といっても、お酒が飲めるわけでもないので、夜な夜な煌々と光る居酒屋さんや焼肉屋さんに入るわけもなく、単によく行く場所ができたという意味でしかない。
そんななんでもない行きつけの中で、近くにあるケバブ屋さんとカルディとファミマの、そこに働いている人たちのことを書いてみる。僕はここに働く人達のことがきっと好きなんだと思う。

歩いて数分の場所にあるこのケバブ屋さんのご主人はきっと50過ぎくらいの外国の人。この人はいつも缶のお茶をサービスでつけてくれる。お茶をレジ袋に入れるときにちらっとこっちを見て、少しだけ笑ってくれる。それがきっと、サービスのサインなのだ。そのサインに気づく度、照れくさくて僕も微笑んで小さく会釈するくらいしかできないけれど、それでもとっても嬉しい。

商店街に軒を連ねているカルディの店員さんは自分と同世代の女性。上のケバブ屋さんのようにサービスしてくれたり、こっちを見て笑ってくれるわけではない。そうじゃないんだけど、この人の仕事を見ていると、すごく胸を打たれる。とにかく真っ直ぐというか、真摯なのが横顔に出ている。レモンケーキとコーヒー豆のパックを紙袋に入れるとき、そっと入れてくれる。その表情は真剣そのもので、渡してくれるときも「ありがとうございます」と一字一句綺麗に、ぬかりなく発音してくれる。自分がのんべんだらりと生きてしまっているからかもしれないけれど、ここまで実直な感じの人ってあまり見たことがなくて、その職人さんのような真摯さが本当に素敵だなと思う。

最寄りのファミマの店員さんは多分自分より少し上の男性。背が高くて、髪の毛の襟足を金髪に染めていて(金髪だったのがそうなったのか、最初からそうしているのかは自分には分からない)、接客のコンテストとかに出たら優勝することはないのだろうな、というような話し方の人。だけど、この人が素敵なのはあまり壁がないことで、特に世間話をするわけでもないんだけど、明太子パスタを温めてもらっているときもなぜかずっと普通に目があっている。特になにを話すわけでもないけれど、ただなんとなくお互い目があっていて、それがどことなく楽しい。年齢も近いんだし、ちょっとくらい話せばいいじゃんと思う人もいるだろうけれど、僕とその人の間では、話さないことが楽しみになっていて、なんでもない客、なんでもない店員さん、なんでもない関係性でしかないんだけど、そのなんでもなさ、みたいなものを、お互い、面白く感じているような気がする。

なにかの本で、道端の石ころは、それぞれが唯一無二で、その唯一無二の石ころで溢れているのがこの世界なのだというのを読んだことがある。なんて悲しいことを言うんだと思ったけれど、そういうことだと思う。

僕はひとりぼっちで街を歩き、その街にはそれぞれひとりぼっちの人たちが働いている。僕たちは道端ですれ違うだけの関係だけれど、そこにある一瞬の微笑みや、横顔や、目線によって、やり取りをしている。なんでもないことかもしれないけれど、僕はそれによって生きることができているし、それがあるからこの世界は美しいと思える。

ケバブ屋さん、カルディの職人さん、ファミマの店員さんへ。
皆さん、平日ちょこちょこくる丸メガネのフリーター風情の人間がこんなふうに思っているとは一ミリも思っていないと思いますが、本当にありがたいなといつも心から思っています。あなた方のおかげで、人生はひとりぼっちだけれど、それでも今日もまたしあわせだと思えます。ありがとうございます。

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