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散文「りんごを輪切りにして食べる」

器用じゃない。字もあまりうまくない。左利きだけどそうだ。というか、左利きだからそうだと思っている。左利きは器用だと言われることがあるけれど、それは「右手と左手、どちらもある程度使える」という意味での器用で「何かの物事を精巧に行える」という意味での器用ではない。

なので。

りんごの皮を剥くのがとても下手だ。びっくりするくらい下手だ。僕がりんごの皮を剥くと、りんごのマントルの部分しか残らない。コアの部分しか残らないで、皮の残骸の方にりんごのほとんどが持っていかれてしまう。しかもりんごのマントルの部分は種がある(大事なところだから中央にあるのだろう)。だから食べる部分がほとんどない。剥く僕はそれでいいかもしれないけれど、これでは食べる僕がたまったものではない。だから一人暮らしをしてからりんごを食べる機会は極端に減った。りんごが好きなのに。

とはいえ、あの赤い個体を丸かじりにするワイルドさはどこにもないし、そんな破天荒なスタイルを取るくらいなら、りんごを食べる必要はないと思っていた。りんごが好きなのに。

でもこの前、近くの八百屋さんの表に税抜398円で、美味しそうなりんごが5個くらい入ったりんごの袋を見つけた。セザンヌのりんごみたいだった。僕の中でのりんご欲みたいなものがうずいた。買った。家に持って帰る。キッチンに置く。そして「はて」と思う。「どう切ろうか」。

結果、輪切りにして食べた。どこでそんな食べ方を知ったのか、全く記憶にない。少なくとも実家でそういう習慣はないし、友達の篠原くんの家で頂いた記憶もない。テレビで観た? テレビでそんなことをやるだろうか。でも、そう思うとこの世界というのはとても不思議で、「どこで教えてもらったのか知らないけれど、なぜか知っていること」で溢れている。

ここを「ひじ」だと習ったか。ここを「ひざ」と習ったか。わざわざ習ったわけではない。どこかで誰かがそう言っているのを観たり聴いたりして、それを知ったのだ。何かの本で(確か三浦綾子さんの本だ)、子を育てる母が子に対して語りかけることばの尊さについて話していたが、あれはまさにやわらかな離乳食を与えるように、やわらかなすりおろしたことばを口移しのように親が子に与えているのだと思う。そういえば、離乳食で僕はとてもりんごが好きだったらしいことを、たった今思い出した。そんな話をするつもりはなかったのに(書くことは不思議だ)。

りんごの輪切りはとっても美味しい。なんせ、皮と実の間に甘い部分があるらしいのだ。そりゃあ美味しいに決まっている。皮と実(身)の間はだいたいにおいて、大事ななにかがある。30歳を前にしてそういうことは分かってきた。あとのことはほとんどわからない。

りんごが美味しい朝。

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