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オードリー東京ドームライブ

いや~すごかったね…
掲題の件ね。

ライブの内容は拙Youtubeで散々語らせていただきましたが
改めて「推し」という行為について感じるものがあった。

「推し≒応援すること」と考えてみる。
ぼくは人生で何かを応援したことがほぼない。
(それでいて人からの応援は貪欲に求めていた)

人はいろいろなものを応援する

野球チーム
路上ミュージシャン
長距離走者
地下アイドル
こども
売れない芸人
赤組や白組
最愛の人
動物番組に出てくる弱者側の動物

特に箱根駅伝の沿道とかで応援する人はすごい。
目当てのランナーがいるとして、
そのランナーを応援できるのなんて…

一瞬だぜ?

大事なことなのでもう一度言う。

「動物番組に出てくる弱者側の動物」(そこ?)

何かを応援できる人に憧れていた。
自分を差し置いて他人にエールを送れる懐の広さに、
人間の格の違いを感じてきた。
ぼくは人の成功を喜べる了見を持ち合わせていないからだ。

応援は「投票」のようなものかもしれない。
あまりよくない発想だが、
投票するときはいつも「たかが1票」と思ってしまう自分がいる。
例えば国民投票なんてものを考えてみると
母数1億に対し1票は0.0000001%だ。
つまり、自分の投票で世界が変わるなんてことはあり得ない。
それでも。
自分が良いと信じるものに投票する。
結果はどうあれ、その行為が正しいということを信じて。

芸人(特に売れていない)を応援する行為もそれに近いのかもしれない。
1人が応援してもその人が食えるわけではない。
応援したところで一切成功につながらないかもしれない。
それでも。
結果は関係なく、応援する。
(でも、やるんだよ)
大げさかもしれないがぼくはその姿に
「信仰」や「祈り」に近い神聖さすら感じてしまい、
応援する人に感動する。
(もちろん我欲タイプの応援もあると思うが)

話はこのバースの頭に戻るが
オードリーのライブに集まったたくさんの応援する人たち、
ぼくは、気づいたら応援する人を応援する気持ちになっていた。

だって、すごいじゃん。
20年前にたった10人相手に自宅でライブをしていた2人が
16万人もの人を集めたんだぜ?
応援しててよかったねって。
世界変わるじゃんって。
しかもあなたたち1人1人がちょっとづつ変えたんだよって。

推すことを知らない男に推させるなんてさって。





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