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技術がいくら進歩しても、表現は現実との格闘でありつづけるはず(昨日の続きのような話)

オーソン・ウェルズは史上最高と評される映画「市民ケーン」をつくったが、ハリウッドを追放された。
理由は時の権力者の孤独を赤裸々に描いて、逆鱗にふれたからだろう。
映画「マンク」(アカデミー撮影賞など)はそのあたりの事情を描いていて興味深い。

「市民ケーン」以降も革命的、野心的な映画はたくさんつくられ、映画表現は変化している。私が映画を見始めたのは70年なので、アメリカンニューシネマに私は惹かれた。「俺たちに明日はない」「イージーライダー」の時代だ。
その後も映画はどんどん変わっていく。一体何が変わったのか?

つくり手、マーケット、社会情勢、それと重要なのは技術の変革。
機材の小型化、フィルム感度の向上がカメラの機動力を向上させ、製作コストを下げ、映画をつくる層が広がった。さらにその後デジタル化が進んだ。

フィルムとデジタル。どちらを取るかは撮影業界で永らく対立していた。
当初は質的な差があったが、それは急速に縮まった。
デジタルが変えたのは、撮影だけではない。撮影後の画像処理から制作への連携、さらに画像管理や発表形式に到るまで革新していった。

フィルムを使うから質の良いものができるわけではない。しかし、フィルム撮影の知識や経験はデジタルでよいものをつくる時にも役に立つ。
一方で、撮影現場であまり変化していないことがある。それは現実を相手に仕事をしているという事実だ。
デジタル技術により、撮影後に画像を加工する技術は進んだ。
しかし、モデルは人間だし、天候は自由にならないし、クライアントは気まぐれだ。
限られた時間で必要なカット数と質を確保するために、日々格闘しなくてはならないのがこの現実だ。

質の良い表現はカメラが実現するものではなく、この現実との闘い方にある。他の表現媒体も同じだと思う。
だから、肉体労働であり、体験がなければ太刀打ちできないのだ。
理論や知識はその後に必要になるが、その前に仕事を量でこなし、体得する期間が必要なのだ。
この辺はスポーツや料理人と同じ。いや、どんな仕事も一緒でしょう。

私は、オーソン・ウェルズが大好きである。
もっと上手に立ち回れなかったのかなと思う。
しかし、彼は映画の製作費を稼ぐために俳優として多くの映画に登場している。
これがたまらなくチャーミングだし、彼の映画に賭ける思いを垣間見ることができる。

※「市民ケーン」の話だが、オーソン・ウエルズが主軸ではないです。


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