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人間は考える「管(くだ)」である

私はシスプラチンという抗がん剤を投与されている。
ロシアの怪僧ラスプーチンみたいな名前だが、これは腎臓に負担をかける。
なので、点滴を毎日2ℓほど入れて腎臓を洗滌(せんじょう)するのだ。
洗滌がうまく行っているかどうかは尿の量を計ることで確認する。
トイレに行く度に私は尿量を測定している。健康な状態なら1回に300ml前後出る。
これが投与して半日くらい経つと100mlも出なくなる。溜まった水分は全身にむくみとなって現れる。点滴と別に水分摂取で腎臓洗滌をバックアップ。朝から晩まで2時間置きに尿量を計る、水分を摂取する。この繰り返し。
自分がパイプになった気分だ。

「人間は管だ」という話を聞いたことがある。
何で読んだのかと思いネットを検索してみた。いっぱい出てきた。

◎自然科学カフェ:人間は「管」である。
http://naturesciencecafe.blog.fc2.com/blog-entry-31.html
生存にもっとも必要な食べ物の摂取の観点では、脳が意識するのは、せいぜい食べ物が腐っていないかを目や鼻や舌で感じるだけである。食べ物の良し悪しの判断の大半は腸に依っている。この意味でも人間は「管」であるといえる。

要は、人間も動物も口から排泄器へと繋がる消化管を主軸に成り立っているというわけだ。なるほどね。

そして、検索を続けていて行き当たった。
「人間は管」という概念に最初に出会った小説に。
筒井康隆さんの「コレラ」だ。初期の短編だ。
カミュの「ペスト」に触発されて書いたパロディだ。高校時代に読んだ。
彼はこの小説で、人間は中心に汚物を貯め込んだ管に過ぎない、と喝破するのだった。
とんでも描写の連続なのでこの短編を人には薦めないが、私の記憶の奥底にこびりついていたか。

やれやれ、頭がすっきりした。さて、おしっこを計る時間だ。
人類のアイデンティティを科学的な計測によって実感できる瞬間だ。

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