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恋愛の館 第1部

龍堂永志は幼い頃に父を亡くし、母とアパートで2人暮らしをしていたが、高校生の時に母も過労で亡くなり、天涯孤独となる。自由気ままに女を連れ込み、独り身を謳歌していた永志だったが22歳の時、隣の部屋に短大生の真城姫羽が越して来た事から生活は一変、自分の従兄弟の月川史也まで連れて来て賑やかな生活が始まる。振り回されっぱなしの永志の下に、ある日「高級百貨店を営む貴方の祖父が危篤です」との知らせが。あれよあれよと言う間に、永志は遺産相続人として社長の座と高級住宅街に建つ有名な大豪邸を手に入れてしまった。何故か姫羽と史也も同居する事になり、これから一波乱も二波乱も待ち受ける洋館での生活が始まるのであった。(300文字)

「恋愛の館」第1部あらすじ


        †


 1月4日、木曜日。

 まだまだ寒く雪降り積もる中、無情にもサラリーマンやOLは今日から仕事である。

 しかし、自営業の真城ましろ姫羽ひめはと、音楽教室でドラムを教えている月川つきかわ史也ふみやは、至って暇であった。

 そんな2人が暇だと言う事は、無職生活を謳歌している龍堂りゅうどう永志えいしが大変忙しく、非常に迷惑していると言う事である。

「じゃあ、早速やりますか?毎年恒例の、年末年始報告会。そう言えば今年は、記念すべき5周年だね!」

 姫羽はそう言って、器の中の餅に黄粉をかけた。

 年末年始報告会とは、正月明けにこの3人が集まって、年末年始に何をしたかを報告し合う会の事である。

 何故、毎年こんな事をしているのか…それは、3人が唯一顔を合わせない期間が、年末年始だけだからだ。

「ちょーっと、待った!ったく、人にばっかやらせて…先生っ!自分の食べるもんくらい、自分で用意して下さいよ、って、ア、アチチッ!」

 史也は台所で不満を漏らしながら、小豆を甘く煮た鍋を火から下ろしている。

 永志は静かに煙草の煙を吐きながら、吸殻を目の前の灰皿に押し付けた。

 その灰皿は、縁に可愛らしい熊が腰掛けている青い灰皿で、姫羽が出会って最初の誕生日に永志にプレゼントしたものだ。

「史…今すぐ、寒空の下に行くか?」

「せ、先生の分も、是非ご用意させて下さい…」

 永志の冷めた口調にビビった史也は、即座に2人分の器に餅を入れ始めた。

 3人の溜まり場は、常にこの永志の部屋だ。

 と言うより、姫羽と史也が毎日飽きる事なく勝手に、永志の部屋にやって来るのである。

「先やってるよ、史くん。私はいつも通り、大晦日は朝から遊園地行って友達5人と夜通し騒いでた。ちゃんと、年末年始のカウントダウンも見たよ…まあ、それだけ。次、先生は?」

 姫羽が訊くと、永志は新しい煙草に火を点けながら言った。

「また、それかよ…芸がねぇな」

「そう言う先生だって、毎年同じ話しかしないでしょ?部屋でビール飲んでたとか、煙草吸ってたとか、雑誌読んでたとか、テレビ見てたとか、そんなのばっかで…今度は、史くんと3人で遊園地行こうねって言ったって、全然乗り気じゃないしさぁ…」

「だって、ホントにそれしかしてねぇんだもん、しょうがねぇだろ…大体、今更野郎3人で遊園地なんてかったりぃんだよ…」

「だぁーれが、野郎だ!失礼な!」

 殴る真似をする姫羽の文句を軽くかわし、永志は煙を吐いた。

 其処へ、史也がエプロンを外しながら餅の器を持って来た。

「はーい、出来ましたよーっ!」

 そのエプロンは、真ん中に可愛らしい熊の絵が描かれた青いエプロンで、史也が出会って最初の誕生日に永志にプレゼントしたものだ。

「さ、小豆派の方どうぞ」

「どーも」

 史也に差し出された器を、永志が受け取る。

「で、何だって?姫は、また遊園地?」

 史也が炬燵に入りながら訊くと、姫羽はムッとして口を尖らせた。

「だーって、私達の間で毎年恒例になっちゃってんだから、今更断れないでしょう?」

「ふーん…僕は、楽器の手入れに追われてたよ。何てったって教室中の楽器全部だから、相当時間掛かっちゃって。お陰で、年末年始は全てパー」

 史也がそう報告して肩を竦めると、姫羽は、ん?と首を傾げた。

「え…でも、今までは史くん学生だったし、そんな仕事させられてなかったじゃない。あ、もしかして今年は新人講師なんだから、それくらいやれって伯父さんに言われた?」

 史也は、笑いながら首を横に振った。

「いやいや、今回はたまたま担当の人が急に来れなくなっただけ。誰か、身内の方がお亡くなりになったらしくて…」

「この年末に?それは災難だったねぇ、その人」

「で、人手が足りないから父に頼まれて、僕も手伝ったんだ。急な話だったから、代理も掴まんなかったみたいでさ」

 史也はそう言って、餅を食べ始めた。

「先生は、何してたんですか?また、煙草?」

 姫羽に訊かれた永志は煙を吐き、溜息をついた。

「実はさぁ、俺も喪中なんだよねぇ…」

『は?』

 姫羽と史也は、同時に声を上げた。

 沈黙の時が流れ、それを最初に破ったのは姫羽だった。

「あ、あの、ちょっと待ってよ!何で?だって、先生…」

「そう、俺は家族も親戚もいない、天涯孤独の身の上だったんだよ…去年末まではな」

「ど、どう言う事ですか?」

 史也が訊くと、永志は面倒臭そうに話し始めた。

「大晦日の前の晩、俺んトコに電話が来た…何と、弁護士から。んで、何言うかと思ったらさぁ、貴方のお祖父じい様が危篤状態です!なーんて、言いやがんの」

『はぁーっ?』

 再び、驚く2人。

「ずっと俺を捜してたって言うんだよ、そのお祖父様とやらが。そんで、そいつが死んじゃうと遺産相続の問題が出て来るから、今すぐ来いって…」

「どっ、どう言う事、それ!ドラマに出て来るような、展開じゃない!も、もしかして先生、実は凄い所のお坊っちゃんだったとか?」

 姫羽の質問に、永志はあっさりと頷いて答えた。

「そうらしいよ」

『えぇーっ!』

 叫ぶ2人に、永志は言う。

「あのさ、河内こうち屋デパートって…あるじゃん?」

 河内屋デパートとは駅前にある高級百貨店の事で、此処だけではなく全国に大きな支店ビルを持つ、有名企業だ。

「彼処、高いんですよねぇ。ブランド品や、輸入品がほとんどじゃないですか。ま、うちの母は好んで行ってるみたいですけど。化粧品やら、洋服やら、結構買って来てますよ」

 そう言う史也を横目で見ながら、永志は静かに言った。

「俺、其処の跡取りなんだって」

 流石に、2人は驚かなかった。

 と言うより、驚く以前に声が出なかったのだ。

「でさ、そのジジィの息子である俺の父親?って人が社長だったんだけど、10年前に死んだんだって。だから、既に引退していたジジィが再び社長に就任したらしいんだよ。で、暫く現役で頑張ってたんだけど、そのジジィが突然危篤だって言うだろ?だから孫である俺に、今すぐ来て欲しいって言う訳だ…」

「そ、それで、どうしたの?行ったの?」

 姫羽が興味津々で訊くと、永志は頷いて言った。

「そりゃあ、行くっしょ!だってジジィ死んだら、遺産は全て孫の俺んトコに来んだぞ?普通、行くって!まあ、俺が孫である情報が間違いだとしたって、別に…はあ、そーですか。つって帰って来りゃいいんだから、どっちにしたって俺に損はないだろ?」

「た、確かに、そうですね」

 史也は、素直に頷いた。

「本当は今すぐ来いって言われたんだけど、流石の俺もそんな胡散臭い話を、そうすぐには信じらんなくてさ。だから、1晩考えて明日の大晦日に行くっつー事で、電話切ったんだよ。で、約束通り翌日の大晦日に行ったらジジィの奴、既に死んじまってた」

『えぇーっ?』

 再び、叫ぶ2人。

「まあ、最悪ジジィはどうでもいいんだよ、遺言書に俺の名前さえ出てりゃ。でまあ何やかんやありまして、俺は無事に遺産と豪邸を手にしたって訳。ハッハッハ!」

「いや、ハッハッハって…」

 史也は、顔を引きつらせている。

「ご、豪邸って…確か、季時きときちょうに建ってる、あの洋館の事でしょう?」

 姫羽の言う季時町とは、此処大学通だいがくどおり駅から電車で5駅先にある、白雲はくうん駅前の高級住宅地だ。

「ああ、彼処ですか?そう言えばあの洋館、河内屋デパートの社長宅だって聞いた事がありますよ。うわぁ、凄いじゃないですか!あれ、先生のモノになっちゃったんだぁ!」

 嬉しそうな史也とは逆に、永志は浮かない顔をした。

「但し、問題が2つある…まず1つ目、社長を俺が継がなきゃいけない」

「それは、問題ですねぇ…」

 即座に呟いた史也を、永志は鋭い目付きで睨んだ。

 だが、姫羽は言う。

「何、睨んでんの?史くんの発言、正しいでしょ?大体、先生は絶対に経営者向きじゃない!全国に何十店舗もある、ご立派な超高級有名デパートが倒産!なんて、明日にでも新聞に出ちゃうのが目に見えるようだもん…」

「ひ、姫っ!」

 慌てて史也が、姫羽を注意する。

 永志は、ムッとしながら言った。

「ひ、非常に腹立たしいが、言い返す言葉は見つからない…まあいい。そして2つ目、遺産を相続した者にはもれなくおまけが付いて来る」

 それを聞いた姫羽は、嬉しそうな顔をした。

「おまけ付きなんて、ラッキーじゃない!何が、不満なの?」

 永志は、新しい煙草に火を点けた。

「それがさ、遺産相続の条件が病人介護なんだよ…」

「病人?お祖父様の他に、まだ病人の方がいらっしゃったんですか?」

 史也が訊くと、永志は嫌そうな顔をして呟いた。

「俺の弟」

 再び、沈黙が流れる。

 永志は、厭味の混じった口調で言った。

「ボクちゃんは小っちゃい頃から病弱でぇ、あのお屋ちきを1歩も出た事がない、箱入りむちゅ子なんでちゅーっ…みたいなのがいんだよ、1人」

「え、えーっと…ちょーっと、待って?じゃ、じゃあ、先生ってば、全然天涯孤独なんかじゃなかったんじゃない!」

 姫羽が驚くと、史也もうんうんと頷いた。

「確か、お父様は先生が2歳の時に亡くなられたと、お母様から聞いていたんでしょう?と言う事は、亡くなったお母様は先生に嘘をついていた事になりますよね?それにさっき、お父様は10年前に亡くなってたって仰いましたけど、確か先生のお母様も10年前に亡くなった筈では?」

 永志は、ゆっくりと煙を吐いた。

「偶然にも、同じ年に死んでたみたいだな」

「やっぱり離れて暮らしてても、夫婦は夫婦なんだぁ…」

 変な感心をしている姫羽を見ながら、永志は溜息をついた。

「とにかく…仕方ねぇから、その条件を飲んだんだよ」

「じゃあ先生、弟さんの面倒看るの?」

 姫羽が訊くと、永志は首を横に振った。

「いや…つーか、別に直接俺がその弟って奴を、手厚く看病してやる訳じゃねぇの」

「え…だって、条件なんでしょう?」

 姫羽が訊き返すと、永志は煙を吐きながら言った。

「あれだけの豪邸だ、従業員が住み込みで何人かいんだよ。そいつらが、今までずっとそのお坊ちゃんの面倒看てたらしい。だから、俺があの屋敷に移り住んだ所で、何ら変わりはない」

 姫羽は、眉間に皺を寄せて考え込んだ。

「え、待って?うーんと…って事は先生、ひょっとしてこのアパート出るの?」

 永志も一瞬考え込んでしまったが、首を傾げつつ頷いた。

「ま、まあ、そう言う事になるんだろうなぁ…」

「えっ?そ、そうなんですかっ?じゃあ、ついに先生もお母様との思い出のあるこのアパートを、出られるんですね?だったら、僕達の事はどうなさるおつもりで…」

「おいおい!何で俺が、テメェらの事まで一々考えてやらなきゃなんねぇんだよっ!」

 史也の台詞を聞いて、怒りを露にする永志。

 しかし、姫羽は言う。

「何言ってんの、先生!私達の存在は先生にとって、お母様に続いて第2の家族と言っても、過言じゃないんだよ?それを、そんな見捨てるような言い方して、いいと思ってるの?正直言って、私もこのアパートを出て先生と一緒に、そのお屋敷に住む覚悟は出来てるんだからね!」

 永志は、目を丸くした。

「お、お前っ、自分が何言ってるか…」

「僕も自宅を出て、先生と一緒に暮らしてもいいですけど…」

「史、テメェっ!」

 永志は、声を荒げた。

「お前は、このすぐ近所に両親と暮らしてんだろーがっ!何つって、親に言うんだよっ!」

 史也は、あっさりと答えた。

「別に、先生について行きますと言うだけです。それに、勤務先のムーンリバーはお屋敷のすぐ近くにあるんですよ?白雲駅前に。此処の自宅からなら電車通いしなきゃなんないのが、あのお屋敷からなら徒歩で通えます」

「私も!うちの店、お屋敷の近くなの。ああ、これで電車代が浮く!先生、決まり!早速、お屋敷行こう!先生の許可は出てるんだから、後は弟さんの許可だけでしょ?」

「お、俺は、許可してねぇぞっ!」

 憤慨する永志に、姫羽は笑って言った。

「まあ、落ち着いて。やっぱり私達がいないと、先生は生きて行けないよねぇ?ほら先生、早く電話しなよ。そちらのご都合に合わせますが、なるべく早くお伺いしたいですってね!」

「お、お前らなぁーっ…」

 キレそうなのを必死に堪え、永志は仕方なく屋敷に電話したのだった。


     †


 龍堂りゅうどう永志えいしは25年前、2歳の時に母の典永のりえと2人で此処『ピースアメージュ』と言う、小さなアパートに越して来た。

 母曰く、父の鷹志たかしは永志が2歳の時に亡くなった為、すぐにこのアパートに越して来たとの事だった。

 それから母は永志の為に必死に働き、貧乏ながらも精一杯生きて来た。

 それが祟ったのか、10年前…永志17歳、高校2年生の時に母が死亡。

 母からは何も聞いていなかったので親戚の有無も分からず、永志は天涯孤独となってしまった。

 母の遺言には『銀行に貯金があるからそのお金で一流大学を卒業し、立派な大人になりなさい』と書いてあった。

 その後の永志は必死に勉強し、有名画家も輩出していると言う白雲美術大学を優秀な成績で卒業した。

 コンクールでも、いくつか賞を取っている。

 しかし卒業後、永志が働く事はなかった。

 何故なら…母の遺言には、『一流大学を卒業して、立派な大人になりなさい』としか書いていなかったからだ。

 働いて…とは、何処にも書いていなかった。

 永志は、母の願いは既に聞き届けてやったものと考え、1日中部屋の中で暮らす生活が始まったのだった。

 結構…いや、かなりいい加減な男である。



 真城ましろ姫羽ひめはの父である克典かつのりは、出版会社勤務。

 母の可南子かなこは県外のムーンリバーミュージック支店ビルで、ピアノ講師をしている。

 ムーンリバーミュージックの社長である可南子の兄は、史也の父親だ。

 母の影響で3歳からピアノを始め、母のようにピアノ講師になる事を夢見ていた姫羽だったが、中学生の頃から保育士になる事を決意し、実家を出て県外の白雲市大学通にある白雲保育短期大学に入る。

 其処の下宿先アパート『ピースアメージュ』で、隣人だった永志と出会う。

 短大卒業後は白雲市の高級住宅街、季時町にある私立の名門聖マーガレット幼稚園の保育士として働く。

 ちなみに、此処はお受験に受かった優秀な子供しか入れない、気品溢れる幼稚園である。

 元々手先が器用でハンドメイドが趣味だった姫羽は、職場でもその腕を買われて可愛らしい掲示物や、配布用プリントなどを率先して作成し、保護者達からも評判が良かった。

 保育士の仕事は嫌いではなかったが、いつかはその趣味を生かした自分の店を持ちたいと思っていたので、思い切って僅か3か月で保育士を辞め、貯めていた資金で季時町に小さな店をオープンした。

 自分のハンドメイド作品は勿論、新人作家を発掘して委託販売も行なっている。

 但し季時町は高級住宅街であり、店の借り賃もバカにならない。

 其処で学生が多く、家賃も安いこの大学通駅前の『ピースアメージュ』に、通勤時間を掛けてでも住み続けていたと言う訳である。



 月川つきかわ史也ふみやの父である都生雄ときおは、大型楽器店と音楽教室を兼ねた、全国にビルと生徒を持つムーンリバーミュージックの社長であり、姫羽の母可南子の兄でもある。

 母の沙苗さなえは、専業主婦。

 史也は3歳の頃からムーンリバーでドラムを習っており、高校時代は友人とバンドも組んでいた。

 勿論担当はドラムではあるが、幼少時から自社教室で様々な楽器を触っていたお陰で、一通りの種類は器用に演奏する事が出来る。

 その為、ライブハウスなどに行くと、メンバーが足りない時や病欠時の代わりなど、何かとバンドマン達からは重宝がられていた。

 若気の至りで、音楽の道に進むんだ!などと言い、父親にプチ反抗した時期もあった。

 しかし、結局はムーンリバーのドラム講師になる為、取り敢えずは大学通にある白雲音楽大学を受けて見事合格。

 今年の3月に大学を卒業し、父のコネでドラム講師となって充実した日々を送っている。

 とは言え、今でも別の科の講師の代打どころか、楽器のメンテナンスまで不本意にも任されてしまう、器用貧乏な史也なのであった。



 そもそもの3人の出会いは今から5年前、3月下旬の事だった。

 姫羽が生まれて始めて1人暮らしを始める、記念すべき第1日目。

 とにかく県外の短大に受かってしまったので、姫羽は必然的に実家を出る事を余儀なくされた。

 しかし、口うるさい両親から逃れられると言う事もあり、姫羽は今日と言う日をずっと楽しみにしていたのだ。

 実家を出た姫羽は列車を乗り継ぎ、長い時間を掛けてようやく借りたアパート『ピースアメージュ』に辿り着いた。

 此処ら辺は大学通と呼ばれ、町名も同じで大通り沿いに様々な有名大学が密集して建っている。

 姫羽が借りたこのアパートも、住人のほとんどは学生だった。

「おーい、姫ぇーっ!」

 外付きの階段を上っていた姫羽は、名を呼ばれて手摺りから下を見下ろした。

 向こうの方から同い年の従兄弟、史也が手を振りながら走って来るのが見える。

「史くん!手伝いに来てくれたの?」

 トントンと階段を上って来る史也を見て、姫羽は嬉しそうな顔をした。

 史也は、頷いて言う。

「だって、約束しただろ?来ないと、殺されそうだったか…」

「何か、言った?」

「い、いや、えーと…さ、3階だったよな」

 史也は冷や汗をかきながら、姫羽を追い越して3階へと向かった。

 姫羽は肩を竦めると、黙って史也の後を追った。

 史也一家はこの近所に住んでおり、姫羽が『ピースアメージュ』に住む事が決まった時、掃除や荷物の運び入れをあらかじめしておいてくれていた。

「此処だ、302号室…入ろ!」

 姫羽は鍵を出し、ドアを開けた。

「うわ、結構広いんだ。それに、綺麗だし…あ、入って」

 姫羽は史也を招き入れ、窓を開けた。

 角部屋なので窓が沢山あり、風通しも良い。

「さーてと、じゃあ早速荷物整理を始めよっか。はい、史くんは本類ね」

 姫羽は、史也に本類の入ったダンボールを容赦なく押し付けた。

「ぐおっ!お、重たい…」

「私は、衣類を片付けるから!」



 2人でやったせいか、荷物整理は案外早く終わった。

 後は、お隣さんへの挨拶だけである。

「うーっ、緊張する…史くんも、一緒に来てよね」

「う、うん…」

 姫羽と史也は部屋を出て、恐る恐る隣の301号室の前まで来た。

 ちなみにこのアパートは3階建てであり、1つの階には1号室と2号室しかない。

「ふ、史くん…インターホン押して」

「えっ?な、何で僕が…」

「いいから!」

 姫羽は嫌がる史也の手を無理矢理握り、インターホンを押させようとした…その時、突然ドアが勝手に開いてしまったのだ。

「ヒッ、ヒィーッ!ど、どーすんのよっ!」

「ど、どーするったって…」

 2人はあたふたしていたが、ドアは勝手に開いたのではなく…ただ単に、中の住人が開けただけだったようだ。

「誰だよ…うっせぇなぁ…」

 中から出て来たのは背が高く、不精髭を生やし、煙草を銜えたとっても人相の悪いにーちゃんであった。

「あのさぁ、近所迷惑だから人ん家の前でイチャつくのやめてくんない?手ぇ握り合って、ウザイんだけど」

 姫羽は慌てて史也の手を離し、首を横に振って言った。

「ち、違うんですっ!あのっ、私っ、今日隣に引っ越して来たんですっ!ま、真城姫羽って言いますっ!彼は従兄弟の月川史也と言って、近所に住んでるから手伝いに来てくれたんですっ!あのっ、よ、宜しくお願いしますっ!」

 姫羽は頭を下げながら、史也の頭も無理矢理掴んで下げさせた。

「ちょっ、な、何で、僕まで!」

「いいのっ!従兄弟が世話になるんだから、史くんも親身になって!」

 隣人は、頭をクシャクシャとかいた。

「あっそ…で、タオルの1枚も持って来てくれた訳?」

「え、あの、は、はい、ご名答、ですね…」

 姫羽は言われた通り、慌ててタオルの包みを取り出した。

「ど、どうぞ」

「どーも…」

 隣人は煙草の煙を吐きながら、それを受け取った。

「それで、その…そちらのお名前も、是非お伺いしたいのですが」

 姫羽が遠慮がちに訊くと、隣人はドアの脇の表札を指差した。

「其処に、書いてあんじゃん」

 表札を見ると、『龍堂』と書いてある。

「りゅ、龍堂さん、ですか…下のお名前は?」

 続けて姫羽が訊くと、隣人は嫌そうな顔をした。

「どーでもいいだろ、んな事。何でアンタに、そんな事まで教えなきゃなんない訳?」

「ま、まあ、いいじゃないですか!これからは、隣同士なんですから。それとも、答えたくないような名前なんですか?」

 姫羽は最初が肝心であり、此処で舐められてはいけないと強気で訊く。

「え?い、いや、別に…」

「じゃあ、教えて下さい!」

 隣人は姫羽に押されつつ、名前を言った。

「え、永志…」

 姫羽は、笑顔で言った。

「永志?龍堂永志さんですか?」

「そうだよ!どっか、おかしい…」

「ちなみに…おいくつなのでしょうか?」

 更に、姫羽が訊く。

 永志は驚きながらも、何となく答えてしまった。

「と、歳は二十二。今月大学を卒業したばっかで、来月からは無職…」

「無職…そうですか…まあ、不景気ですもんね…私の友人も、地元でも都会でも決まらず、随分と地方の仕事しか空きがなかったとかで…」

 姫羽は、とにかく警戒心を解いてもらおうと必死なだけだったのだが。

「ア、アンタさぁ…」

 永志は、徐々に苛付き始めて来た。

 それを察した史也が、すかさず割って入った。

「と、とにかくですねぇ、今日からどうぞ宜しくお願い致します!分からない事とかあるでしょうから、助けになってやって下さい。そ、それじゃあ、また!」

 史也は愛想笑いをすると、姫羽の腕を無理矢理引っ張って、部屋に連れ戻した。

 急いでドアを閉め、溜息をつくと史也は姫羽に言った。

「姫、しつこ過ぎだって…」

 姫羽は、口を尖らせる。

「だって…このアパート、1つの階に2部屋しか無いんだから、やっぱりお隣さんの事は、色々知っておいた方がいいでしょう?何かあった時に、知ってた方が安心だし。勿論、こっちの事も…」

「何者かも分からない人にあれだけ色々訊いた後、更に自分の事までベラベラと喋るつもりだったのか…なあ姫、よーく聞けよ?お隣さんだからって知っていい事と悪い事があるし、言っていい事と悪い事があるんだ。ただでさえ、あんなに人相が悪い人だってのに」

「そ、それは、謝る。けど、お隣さんを人相だけで判断するのは良くないよ。本当は、いい人かもしれないし。だから私は、それを知りたくて…」

 姫羽の言い分に、史也は困った顔をした。

「そんなの、徐々に分かって来る事だって。こんな初日から、知らなくたっていいんだよ。ああ僕、今晩此処に泊まろうかなぁ。あまりにも姫が世間知らずだから、心配だよ…」

 しかし、姫羽は笑って言った。

「大丈夫だって!そんな事より、史くんもちゃんと自分の勉強頑張ってよ?とは言っても、史くんの場合は3歳の頃からドラムやってるし、伯父さんも期待してるみたいだから、もう将来は決まったようなものだけどね!」

「そ、そんな事ないよ。将来が決まってたって、大学を卒業出来なきゃしょうがないんだからさ。ま、精々留年しないように頑張ってはみるけど」

「うん!お互い、頑張ろうね!」

 2人は、固い握手を交わした。



 それからと言うもの、史也の忠告の甲斐もなく姫羽の攻撃は続いた。

 ピンポーン。ピンポーン。

 朝から、永志の家のインターホンは常に鳴りっぱなしだった。

 やっと学生と言う肩書きから逃れ、朝寝坊と言うものも誰に文句を言われる事なく出来るようになったと言うのに、それを邪魔するのは一体…。

 永志は、眠い目を擦りながら渋々ドアを開ける。

 すると其処にはいつも、隣に越して来たうるさい女が立っているのだった。

「あ、龍堂さん。おはよう御座います!やっと、起きたんですか?もう、とっくに朝なんですよ?これ、実家から送られて来たお菓子なんですけど…宜しければ、どうぞ!」

「あ、龍堂さん。おはよう御座います!まだ、寝ていらっしゃったんですか?同じアパートでも、時差があるのかな?これ、作り過ぎちゃって…1人分の料理って、まだ慣れなくて…宜しければ、どうぞ!」

「あ、龍堂さん。おはよう御座います!随分と、お寝坊さんで…龍堂さんって、呑気な方なんですね!あ、昨日ゴミ袋無くなったのに、買い忘れたって仰ってたから…宜しければ、どうぞ!」

 姫羽の笑顔は、毎日変わらず爽やかだった。

 しかし毎回思うのだが、何だろうこの苛立ちは。

 こんな悪気のない爽やかな笑みを浮かべながら、優しい口調で話しかけられているにもかかわらず、何処かしらこの女の言葉の中には、厭味が混じっているような気がしてならない。

 だが、そんな事にはお構いなしで姫羽は言う。

「あ、龍堂さん。おはよう御座います!実はご相談したい事があるんですが、お邪魔しても宜しいでしょうか?」

「はぁ?」

 永志の声が、裏返る。

「これから私が頼れる人は、龍堂さんしかいないんです!お金もないし、勉強もしなきゃならないし、それ以前にまず生きる為に家事もしなきゃならないんです!初めての1人暮らしで、どんなに心細いか!あ、そう言えば朝から何も食べてない…宜しければ、朝食ご一緒させて下さい!」

 勝手にベラベラ喋りながら勝手に上がり込んだ姫羽に、何となく朝食を出してしまう永志。

「うわーっ!流石です、龍堂さん!いただきます!」

 嬉しそうに永志の手料理を食べる姫羽を、何となく見つめてしまう永志。

 まあ、悪い奴ではなさそうだが…などと、思いそうになるのを必死で否定しつつも、勝手にテレビを見て大笑いした後、勝手に自分の部屋へと帰って行く姫羽を、結局永志はただ黙って見送るのだった。

 それから暫くの間は、永志は朝から何が起こっているのか、さっぱり理解出来ずにいた。

 そして、これが毎朝の日課となっている事にも気付けずにいるのだった。



 ようやくこの状況がおかしいと永志が思い始めた、ある昼の事。

「龍堂さん、いますか?」

 姫羽は、いつも通りやって来る。

 しかも…何と昼時は、必ず史也を連れて来るようになったのだ。

 こんな光景すら、既にいつもの事となってしまっていた。

「あ、龍堂さん。お昼、一緒にどうですか?史くんが、コンビニ弁当買って来てくれたんです」

 ドアを開けた永志にそう言った姫羽は、やはり勝手に部屋に上がってしまった。

「ど、どーも、その、お、お邪魔致します…」

 こんな生活が始まってから大分経つと言うのに、未だに史也はビクビクと遠慮しながら部屋に入っていた。

 だが、これが当たり前の態度ではなかろうか…とは、敢えて誰も言わない。

 最近の3人は、何となくお互いの事を色々話すようになっていた。

 永志がかなりの女好きな事、母親が亡くなってからは数え切れないほどの女性をこの部屋に連れ込んで、遊びたい放題遊んでいた事…そして。

「じゃあ龍堂さんは、もう頼れる親戚とか誰もいないんですか?」

 姫羽の質問に、永志が答える。

「つーか…まあいるのかもしんねぇけど、お袋は何も言わずに死んだから、いたとしたって何処にいるかも分かんねぇし、別に探す気もねぇし…」

 史也は水を飲み干した後、ゴミを片付けながら訊いた。

「じゃあこれから先も一生働かず、こうして1人で此処で暮らすつもりなんですか?いくら、お母様の遺言にそれしか書いてなかったからって、あまりにも何と言うか…」

 永志は、煙草を銜えて火を点けながら言った。

「今んとこは、お袋が死んでまで働いた金がかなり残ってんだ。だから、当分はそれで暮らす。でもその金がなくなったら、それはそん時に考える。働き口があれば、働くし…」

「計画性ないなぁ…大丈夫なんですか?」

 姫羽が心配して訊くと、永志は煙を姫羽に向かって吐きかけた。

「テメェに、んな事言われたかねぇんだよ!ったく…大体越して来てからと言うもの、この状況は何なんだよ!厚かましいにも、程があんだろ!」

「ゲホゲホッ…い、いいじゃないですか!お陰で此処までお互いの事を理解し、こんなに仲良くなれたんですよ?今日からは私達が龍堂さんの家族になりますから、心配しないで下さい。もう、淋しい思いはしなくて済みます。これからは、3人で仲良くやりましょう!」

 そう言ってニコニコ微笑む姫羽を見ている内に、永志は無性にムカムカして来た。

 そして、今までの鬱憤を一気に吐き出した。

「ざけんなっ!いいから帰れよ、お前らっ!食うもん食ったんだから、満足しただろっ!俺はこの5年間、たった1人で静かに暮らして来たんだよっ!しかも大学だって卒業したばっかで、やっと自由になれたってのに今度はお前らが越して来やがったっ!これ以上、人の生活ぶち壊すんじゃねぇっ!」

 永志はそう怒鳴って、テーブルを思い切り叩いた。

 沈黙の時が流れる。

 ゴミを始末し終えた史也は、黙ったままの姫羽を連れて永志の部屋を後にした。



 その日の夜。

 姫羽の部屋のドアを、ノックする者があった。

 姫羽がドアを開けると、其処には永志が立っていた。

「寿司、買って来たぞ…食うか?」

「寿司、嫌い」

「はぁ?」

 永志は裏返った声を出したが、姫羽は無表情で言った。

「入ったら…どうです?」

 永志は、黙って姫羽の部屋に入った。

「何だ…引っ越して来てから大分経つのに、殺風景な部屋だな」

 そう言って永志が座ると、姫羽は冷蔵庫から緑茶のペットボトルを無言で取り出した。

「ど、どうしたんだよ…やけに、大人しいな」

「別に…早く寿司、食べましょうよ」

 姫羽は割り箸を割ると、どれを食べるか選び始めた。

 永志は、姫羽に言う。

「お前、寿司嫌いなんだろ?」

「ええ、思いっきり…」

 姫羽の冷めた返事に、永志は溜息をついた。

「じゃあ、分かった。お前、先に食えそうなの取れよ。残りを、俺が食うから」

 姫羽は、自分の食べられそうなネタを皿に取り分けた。

 そして残りを永志に渡し、黙って食べ始める。

 永志は、残った寿司を見つめて言った。

「お、お前さぁ…わざと、やってる?」

 残っていたのは玉子、いなり、鉄火巻、カッパ巻などの安いものばかりで、姫羽が食べていたのはウニ、トロ、イクラ、甘エビなどの高いものばかりであった。

「あ、あのぉ…真城、さぁーん?」

「龍堂さん、食べないんですか…」

「なっ!」

 無表情のまま白々しく訊いて来る姫羽に、永志は一瞬腹が立った。

 しかし怒鳴る気にはなれず、黙って寿司を食べ始めた。

 一緒に買って来たビールを飲み、床に寝転がった永志は酔ったついでに言った。

「姫…昼間、悪かった」

 すると、姫羽はようやく笑顔を見せた。

「へぇーっ…やっと、姫って呼んでくれる気になったんだ」

 永志は、少し顔を赤らめた。

「俺、他人に褒められたり同情されたりすんの、大っ嫌いなんだよ。勿論、バカにされんのもな。大体、母子家庭だったからそう言うのって、小さい頃からしょっちゅうでさ…けどやっと大学卒業して自由になって、人と関わんなきゃうるさい事言われずに済むって思って、俺はこれから1人で自由に生きてくつもりだった」

 黙って永志の話を聞く、姫羽。

「そんな時にお前らが現れて、家族になろうだなんて抜かしやがった。正直ムカッと来たっつーか、ウザく感じた。お前らは、俺の事思って言ってくれたのにな…だから、謝ろうと思ってさ。会った時からギャーギャーうるさかったお前が、そんなに無口だとキモイじゃん?」

「そんな風に素直に謝っちゃう龍堂さんも、気持ち悪いっちゃあ気持ち悪いですけどね」

 そう言って、姫羽は笑った。

 永志も、静かに笑う。

 こうしてこの日は、2人とも床に寝転がったまま眠ってしまったのだった。



 翌日。

 永志は、姫羽に起こされた。

「龍堂さん、龍堂さんってば…こらーっ、永志ぃ―っ!起きろーっ!」

「うわっ!」

 突然耳元で大声を出され、永志は飛び起きた。

「なっ、何だ、どうしたっ!」

「ようやくお目覚めですか。朝食買って来ました、勿論コンビニのです」

 姫羽は袋からおにぎり、パン、味噌汁、コーンスープ等を取り出した。

「どうぞ、好きなの選んで下さい」

「じゃあ、おにぎりとコーンスープ」

 永志の台詞に、姫羽は絶句した。

「お前は遠慮なく、パンと味噌汁を食えよ」

 姫羽は、唖然としながら訊いた。

「つーか…その組み合わせ、わざとですか?」

「昨日のお返しだ、さっさと食えっ!ああ、それにしても会って間もない女の部屋に泊まってしまうとは、天国のお母様に顔向け出来ねーよぉ…」

 そう嘆きながらおにぎりを食べる永志に、姫羽は言った。

「何、言ってんだか。お母様が亡くなったのは、龍堂さんが高校2年の時でしょ?どうせその後の龍堂さんは、天涯孤独である事を武器に泣き落としに入って、色んな女の子と1晩を共に過ごしてたんじゃないですか?その方が、よっぽどお母様に顔向け出来ないと思いますけどね…」

 永志は、無表情で黙り込んでしまった。

 姫羽は、ハッとして謝った。

「ご、ごめんなさい…私、また何か無神経な事…」

 永志は、フッと笑う。

「しおらしく、謝ってやんの…バーカ、違うよ。図星だっただけだ」

 姫羽は、目を丸くした。

「えぇーっ!本気で、お母様の死をダシにして女たぶらかしてただなんて、信じらんないっ!」

「う、嘘だよ、嘘っ!んな事より俺、取り敢えず部屋帰るわ…朝飯、サンキューな」

 永志は軽く手を上げると、姫羽の部屋を出て行った。

 こうして春休みの間、永志、姫羽、史也は厚い友情(?)を築いて行ったのである。



 そして4月、姫羽は短大1年生、史也は音大1年生、永志は無職1年生(?)として新たな生活がスタートした。

 史也がある提案を持ちかけたのは、それから1ヵ月後のゴールデンウイークの事である。

 永志は相変わらず部屋に閉じ籠もり、ダラダラとした日々を過ごしていた。

 姫羽は、学校で出された課題が終わりそうにないからと言う理由で、この連休は実家に帰らない事にした。

 だが実際は、此処での生活が気に入ってしまい、あまり帰りたくなかったのである。

 うるさい実家で過ごすより、永志や史也と一緒に過ごした方が何十倍も楽しかった。

 その、ゴールデンウイークに入る前日。

 突然史也から呼び掛けがあり、相談したい事があると言うので3人は何故か…と言うより当然の事ながら、永志の部屋に集合した。

「どーでもいいけど、何でいっつも俺の部屋なんだよ…」

 床のクッションに寝転んだ永志は、今更ながらぶつぶつ文句をたれている。

 それを無視して、姫羽は言った。

「で、どうしたの?相談事って、何?」

 史也は、永志に言った。

「永志さん、あの…いいアルバイトがあるって言ったら、乗ってくれます?」

「は?」

 永志は、眉間に皺を寄せた。

「実はですね、僕とジャンルが違うとは言え、子供の頃から優秀な成績を修め、美大もトップで卒業したと言う永志さんに、是非とも家庭教師をお願いしたいと…」

「は?」

 再び、永志が問う。

「あ、ですから…」

「は?誰を、教えんの?」

「あ、ですから…僕です」

 永志は明らかに嫌そうな顔をして、史也を見ている。

「なっ、何ですか、その顔はっ!人が折角、家庭教師の平均給料の3割増しで雇ってやろうと思ってんのにっ!」

「乗ったっ!」

 永志は、勢いよく飛び起きた。

「えぇーっ?」

 叫んだのは、姫羽だ。

「だったら、私も!史くんばっか、狡い!」

「い、いや、だからそう言う問題じゃないだろ?お金は、どうすんだよ」

 史也が訊くと、姫羽は口を尖らせながら携帯電話を取り出し、何処かにかけ始めた。

「あ、もしもし、お母さん?私だけど…あの…家庭教師を、お願いしたいと思ってて…」

「おいおい、いきなり実家に掛けるなよ…」

 呆れる史也。

「え?ああ、お隣さんが大学卒業したばっかの人だって言ったでしょ?すっごい優秀で、いい人なんだよ。勉強教えてくれるって言うんだけど、その人も中々就職先がないみたいだし、タダでってのも悪いじゃない?それに実は、そもそもこれって史くんのアイデアで…え、いいの?そうそう、メチャメチャ難しくて結構大変なんだ。え?ああ、ほんと?分かった、じゃあまた電話するね!」

 そうして携帯電話を切ると、姫羽はにっこり笑った。

「いいって!」

「マジかよっ!」

 叫んだのは、永志だ。

「史だけならともかく、お前まで面倒見んの?ただでさえ、日常生活も面倒見てやってうんざりしてんのに、勉強もかよ…勘弁してくれって!」

「其処を、何とか!こちらも、お金払いますから!」

 姫羽に痛い所を突かれて、永志は黙って肩を竦めた。

「じゃあ、決まりですね」

 史也が嬉しそうに言うと、永志は煙草に火を点けた。

「だったらお前ら、俺の事先生って呼べよ」

「やだ」

 姫羽が即答すると、永志は煙を吐きかけて来た。

「教えねーぞ!」

「セ・ン・セ!宜しくお願いしまぁーす!」

「ウエッ…」

 永志は、ガクッと肩を落とした。

 史也は、ニコニコしながら言う。

「じゃあ先生、明日から毎日お願いしますね!」

「えっ?ま、毎…」

 永志は、絶句した。

 それからと言うもの、3人の絆(?)は益々深まって行ったのである。

 そして、出会ってから2年後に姫羽が無事現役で短大を卒業し、実家に帰る事なくこっちの幼稚園で保育士になったものの、結局夢だったハンドメイドショップの方を始める事になった後も。

 それから、更に2年後に史也がこれまた無事現役で音大を卒業し、ムーンリバーミュージックのドラム科講師になった後も。

 決して3人が離れる事はなく、何だかんだ言いながらも一緒にうまくやって来た。

 そんな出会いから5年目の今年、天涯孤独だった永志はあの全国各地の主要都市駅前に立派な建物を構える、超高級有名デパート河内屋の遺産と屋敷を相続したのである。


     †


 一昨日、結局姫羽の言うがまま電話をさせられた永志は、今日の午後に屋敷へ行く約束をした。

 3人はうっすらと雪の積もる大学通を歩き、電車に乗って5駅先の白雲駅で降りた。

「この白雲駅からでも、あれだけはっきりお屋敷が見えるんだよ?って事は、目の前に行ったらどれだけ大きいんだって話だよね?」

 姫羽は白い息を吐きながら、早くも興奮している。

 永志は、溜息をつきながら言った。

「はぁ…行くぞ」

 白雲駅前には河内屋デパート本店を始め、史也が勤めるムーンリバーミュージック本社ビル等、様々な建物が聳え立っている。

 しかし一歩住宅地に踏み込むと、其処にはしんとした静けさと驚くばかりの豪邸が所狭しと並んでいた。

 そんな季時町内に、姫羽のハンドメイドショップ『ピースアメージュ』もある…そう、あの思い出のアパート名を名付けたのだ。

 3人は、閑静な住宅街でペチャクチャと喋り声を響かせながら、徐々に近付いて見える屋敷へと急いだ。



「此処じゃない?」

 最初に口を開いたのは、姫羽だった。

 3人は、屋敷へと続く凍りついた長い階段を滑りそうになりながら上り切り、門の前に立っていた。

 永志は1度来ているが、初めてこんな近くまで来た姫羽と史也は、あまりにも屋敷が大き過ぎるのと、あまりにも玄関までの距離が長過ぎるのに驚いて暫くの間、声も出なかった。

「せ、先生…これは、凄過ぎますって…」

 史也はそう呟いて、屋敷を見上げている。

 永志は、軽く深呼吸をして言った。

「入るぞ」

 大きな門を音を立てながら、3人で押す。

 入った後にきちんと閉め、玄関のドアまでの道程を再び歩いて行った。

 玄関前は、車で1周出来るくらいの広場のようになっており、木や花が中央に植えられている。

「ふぅ…やっと着いた。すみませーん、どなたかいらっしゃいませんかーっ?」

 着いた途端に、ドアに向かって大声を張り上げる姫羽を見て、永志は頭を抱えた。

「お前なぁ…呼び鈴押せよ、呼び鈴っ!」

 永志が呼び鈴を押すと、屋敷内にジリリリリと言う音が響き渡った。

 暫くすると、黒いスーツに黒い蝶ネクタイをしたガタイのいい男が、無表情で出て来た。

 髪はオールバックで、乱れる事なくカチッと固まっている。

「あ、あのっ!」

 元気良く姫羽が自己紹介をしようとすると、その男は静かに言った。

「永志様、お待ちしておりました。どうぞ」

 3人は顔を見合わせたが、黙って中へ入る事にした。

 入った途端、姫羽と史也は目を丸くした。

 青い絨毯張りの床、3、4階分くらいありそうな吹き抜けの天井、そして豪華なシャンデリア。

 まるで、ホテルのロビーのようだった。

「ふ、史くん…っ」

 姫羽は焦りながら史也の腕を掴んだが、史也は無言で頷く事しか出来なかった。

「こちらへどうぞ」

 男は、入って左の廊下を歩いて行く。

 3人は黙ってついて行き、1番手前の部屋に通された。

 その部屋を見て、再び姫羽と史也は驚いた。

 同じく揃いの青い絨毯張りの床、豪華な革製のソファー、棚や壁に飾られている美術品の数々。

 まるで、お偉方専用の応接室のようだった。

「こちらで、少々お待ち下さい」

 それだけ言って、男は部屋を出て行った。

 途端に口を開いた姫羽は、永志に言った。

「せ、先生っ!」

「何だよ…」

 嫌そうな顔で、永志が答える。

「こ、これ、王室並みの生活が出来るよ!此処に住もう、3人で!」

「そうですよ!僕もこれで、決心がつきました!」

 と、史也も意気込んでいる。

「お前らなぁ…」

 永志は、頭を抱えた。

「無理矢理決心つけてまで、一緒に住んでくれとは頼んでねぇぞ…」

「まあ、そう固い事言わずに…そうと決まったら、こんな所でのんびり休んでる場合じゃない!早く、先生の弟さんに会いに行こう!」

 姫羽は立ち上がって、部屋のドアを開けようとした…その時。

 ノックの音と同時に、突然ドアが開いた。

「失礼致しま…あっ!」

「うわっ、び、びっくりしたぁーっ!」

 取っ手に手をかけていた姫羽は廊下側へ引っ張られ、前につんのめってしまった。

 倒れた姫羽の下に、若いメイドが倒れている。

「も、申し訳御座いません!お怪我は、御座いませんかっ?」

 メイドはそう言って起き上がろうとするが、姫羽が覆い被さっていて動けない。

 姫羽は、目を丸くしながら言った。

「なっ、何て、可愛いらしい…」

 長い髪、色白で愛らしい顔立ち、そして白いレースのエプロン。

「あ、あの…」

 姫羽の下で、メイドは戸惑っている。

「あ、ごめんごめん…」

 照れ笑いしながら姫羽が立ち上がると、メイドも顔を赤らめながら言った。

「あ、あの…只今、お茶のご用意を致しますので」

 廊下に置きっ放しだった銀のワゴンを引こうとするメイドを止めて、姫羽は言った。

「あ、あのっ!私、真城姫羽と言います。一応、ハンドメイドショップを経営してます。もしかしたら…って言うか、絶対このお屋敷に住まわせてもらうつもりだから、そうなった時は宜しくね!」

「えっ?そ、そうなんですか?」

 メイドは、驚いている。

 史也も、笑顔で言った。

「僕も同じです。月川史也、駅前のムーンリバーミュージックでドラムを教えてます」

「私達、従兄弟同士なの。先生とは…あ、龍堂さんとはアパートがお隣同士でね、何やかんやで5年もの間、従兄弟共々お世話になっておりまして…ねえ、先生?」

「え…お世話、したっけ?」

 姫羽の台詞を聞いて、嫌そうな顔をする永志。

 しかし、姫羽も負けてはいない。

「ああ、間違えました!私共が、龍堂様をお世話させて頂いたんで御座いましたね?私と先生はもう一心同体、運命共同体なんだから。5年もお隣さんやってたんですからね?ええ、ええ!!!!!」

 其処で、メイドがポツリと呟いた。

「何だか…羨ましい、です。私、家族がいないものですから…」

「えっ…」

 唖然とする、姫羽。

「生まれた時から、ずっと施設にいたもので…だからお2人のように、従兄弟同士仲良く一緒にいられる事が羨ましいです…そして、赤の他人なのに永志様とお2人のように、家族同様親しく接する事の出来る人がいる事が、羨ましい…」

 俯いてしまったメイドを見て、3人は顔を見合わせた。

「あっ…も、申し訳御座いません!初対面のお客様に対して、このような事を…た、大変、失礼致しました!」

 慌てて頭を下げるメイドの肩に手を置くと、姫羽は明るく言った。

「ねえ…名前、まだ聞いてなかったよね?」

「あ…さ、桜井さくらい明里あかりと申します」

「へえ、明里ちゃん?もう、私達は今日から友達。で、一緒に住むようになったら家族だよ。だからさぁ、お部屋に遊びに行ってもいいかなぁ?ねえ、いいよねぇ?」

 すっかり明里を気に入ってしまった様子の姫羽を見て、永志と史也は同時に溜息をついた。

「は、はいっ!」

 明里は快く頷き、3人にミルクティーとお菓子を出した。

「こちら、どうぞお召し上がり下さいませ」

「ちょっと見てよ、これ!何か、高級そうなお菓子!」

 姫羽が、トレーに乗ったチョコレートやクッキーを見つめていると、史也が1つ手に取った。

「これは確か、海外から呼び寄せたお菓子専門の一流シェフに作らせたと言う、河内屋オリジナルのものですよ。僕も1度、食べた事があります」

 そう言ってパクッと1口で食べる史也を見て、姫羽は眉をピクリと上げた。

「へ、へぇーっ、そお。流石は、ムーンリバーミュージック一族…で、勿論先生は食べた事、ないんでしょう?」

「ある訳ねぇだろ!」

 永志の返事を聞いて急に機嫌の良くなった姫羽は、ニコニコしながら言った。

「だよね?さあ、明里ちゃんもどうぞ!」

「い、いえ、私は…食べたいのはやまやまなのですが、勤務中ですので…」

 明里が困っていると、姫羽は肩を竦めて言った。

「そう、残念…ま、此処に住む事になれば、いくらでも明里ちゃんとお茶出来るもんね?」

「はい!楽しみにしております!それでは後程参りますので、失礼致します」

 出て行く、明里。

「何だか、絵に描いたような可愛らしいメイドさんだったねーっ!」

 姫羽は、早くもワクワクが止まらない様子。

「お前なぁ…まだ、此処に住めると決まった訳じゃねぇんだぞ?」

 呆れる永志。

 姫羽は、ムッとして言った。

「先生だって、まだ正式な相続手続きが完了した訳じゃないんでしょ…」

「うっ…」

 永志は痛い所を突かれ、黙り込んでいる。

「と、とにかく、早いトコ食べて、弟さんに会いに行きましょう。話は、それからですよ?」

 史也に宥められ、2人は大人しく頷いた。



「こちらが、典鷹のりたか様のお部屋です」

 明里に案内されたのは、廊下をずっと歩いた1番奥にある突き当たりの薄暗い部屋だった。

「先生…弟さんって、典鷹さんって言うの?」

 小声で姫羽が耳打ちすると、永志は首を傾げた。

「さあ…どうやら、そうらしいな。此処んちは、名字も大河内おおこうちって言うらしいし」

「へぇーっ…あ、だから『河内』屋デパートなのか…」

 その会話を聞いて、史也は苦笑いした。

「先生…弟さんの名前くらい、ちゃんと把握して下さいよ。それから姫も、名字聞いて納得してる場合じゃないでしょう」

『はーい…』

 大人しく声を合わせて返事をする、永志と姫羽。

 明里は、部屋のドアをノックした。

「どうぞ」

 返事を確認して、明里は言った。

「典鷹様、永志様とお友達の方がお見えになっておりますが」

「お通しして下さい」

「では、失礼致します」

 3人は、中に入った。

「それでは、ごゆっくりどうぞ」

 明里が廊下に出て、ドアを閉める。

 3人は、入口に突っ立ったままベッドの方を見た。

 典鷹もベッドに寝たまま、こちらを見る。

「あの、大変申し訳ありません、お見苦しい格好で…ベッドに寝たまま皆さんにお会いしなければならない事を、どうぞお許し下さい」

 姫羽と史也は、顔を見合わせた。

 顔立ちは何処となく永志に似ているが、肌は白く上品な雰囲気を漂わせており、言葉遣いも丁寧だ。

「あの…し、失礼ですが、本当にこの人の弟さんで…」

 途中まで言いかけた姫羽の頭を、殴る永志。

「痛っ…な、何すんのよ、暴力教師っ!」

「弟じゃなくて、誰なんだよ!」

 すると、典鷹は静かに微笑んだ。

「申し遅れましたが…僕は、大河内典鷹と申します。兄さんの、歴とした弟です」

『に、兄さん…っ』

 姫羽と史也は、声を揃えて呟いた。

 永志の顔を見ると、心なしか赤くなっている。

「どうぞ、そちらのソファーへお掛け下さい」

 3人は、ベッドの横にあるソファーに腰掛けた。

 早速、姫羽が自己紹介する。

「あ、あの…は、初めまして!私、真城姫羽です。この近くで、ハンドメイドショップを経営しております」

「僕は、月川史也です。駅前のムーンリバーミュージックで、ドラムを教えています」

「ちなみに私と史くんは従兄弟同士で、史くんのお父さん…私の伯父なんですけど、ムーンリバーの社長をしてるんですよ」

 2人が自己紹介を終えると、典鷹は淋しげに微笑んだ。

「そうですか、貴方も社長の息子さんでいらっしゃるんですね。しかも全国規模の会社となると、息子の立場も色々と気苦労が絶えないものです…」

 思わず、3人は顔を見合わせた。

「あ、あの…」

 其処で、姫羽が質問した。

「典鷹さんには、失礼ながらもお伺いしたい事が沢山あるんです。先生とは…あ、学生時代に私達の家庭教師をしてもらっていたので、未だに先生って呼んでるんですけど…え、永志さんとは5年間アパートが隣同士で、大変お世話になりまして…本人も、もうご家族はいらっしゃらないと仰っていたものですから、典鷹さん達の存在を知って私達も非常に驚いているんですけれども…」

 すると、典鷹は静かに話し始めた。

「兄さんからお聞きになったかもしれませんが、僕達はこの年末に祖父が亡くなったのを切っ掛けに、初めて出会いました。僕は母がいませんでしたので、ずっと祖母に育てられていました。祖母は、父が亡くなった翌年に息を引き取りました」

 3人は、黙って典鷹の話を聞き始めた。

「僕は生まれた時から心臓が弱く、寝ては起きを繰り返す生活を余儀なくされました。学校へは通っていたのですが遅刻早退ばかりが続き、小学4年生からは学校へ行っていません。フリースクールにも中々通えなかったので、直接其処の先生に来てもらってずっと自宅で勉強していました」

「そうだったんですか…」

 驚く史也。

「10年前に亡くなった父の話によりますと母は僕が生まれた後、すぐに当時2歳だった兄を連れて家を出て行ったそうです。原因は、父にありました。全国に店舗があるデパートを切り盛りしていたので仕事が忙しいのを理由に、僕を妊娠していた母を1度も見舞ってやらなかったそうなんです」

 姫羽は、眉間に皺を寄せた。

「でも、昔から仕事一筋ではなかったんです。僕が生まれた時、父は社長を継いでまだ半年でした。河内屋と言えば、皆さんもご存知の通り歴史のあるデパートですし、代々の社長は立派に偉業を成し遂げていたので、当然新社長である父にも期待がかかる訳です。なので必死だったんだと、後に父は言っていました」

「まあ…何千人もの社員と、その家族の生活を背負ってるんですもんね…」

 史也はそう言って、溜息をついた。

「母は何回か僕を引き取りにこの家を訪れたらしいのですが、祖父がそれを許さなかったそうです。そもそも祖父は厳格な人で、普通のサラリーマンの娘だった母を、いずれは社長を継ぐであろう大河内家の1人息子である父の嫁に迎えるのには、反対していたのです」

「相当頑固な方だったんですね、お祖父様は」

 姫羽がそう言うと、典鷹も静かに頷いた。

「しかし逆に祖母はとても優しい人で、父と大学の同級生だった母の結婚の時も2人の為に祖母が何とか説得し、その熱意に負けて祖父は結婚を許したんです。兄が生まれた時は跡継ぎが出来たと、祖父もとても喜んでくれたそうです。父も母を気遣って、家事を手伝ったりしていました」

「いいお父様じゃないですか、その頃はまだ…」

 史也がそう言うと、典鷹は俯いた。

「しかし仕事の量が増えるに連れ、父は段々忙しくなって来ました。余裕もなく仕事漬けの日々が続き、父は家庭を顧みる事が少なくなりました。そして2人目の子供である僕を出産後、母は兄を連れて出て行きました。祖父はそれは怒ったそうです、やっぱりロクな女じゃなかったって」

「その言い方は、酷い…っ」

「ほんと、酷いな…」

 姫羽と史也が、憤慨する。

 典鷹も、頷いて言った。

「祖父は怒るばかりでしたが、父は自分に非がある事が分かっていました。祖父は仕事の面でかなりの成功を収めていたので、父はプレッシャーを物凄く感じていました。だから家庭を犠牲にしてまで、会社を盛り立てたのです。ようやく社長として仕事にも慣れて来た頃、父は母と兄のアパートへ謝りに行ったそうなんです」

「えっ?それで、どうなったんですか?」

 史也が訊くと、典鷹は首を横に振った。

「駄目でした。僕を引き取りにこの家に来る度、母は祖父に言葉の暴力を受けていた為、今更あんな家には戻りたくないと…でも、夫婦ですから心の底から嫌いにはなれず、別々に暮らしていても籍を外す事はなかったそうです」

「そうですか…それでも一応、名字は御自分の龍堂を名乗っていらしたんですね…」

 姫羽がそう言うと、史也も頷く。

「先生には、知られたくなかったのかもしれないね…お父様の存在も、隠していたくらいだから…」

 典鷹は、話を続ける。

「母が時々僕に会いに来てくれていたのは知っていたので、この家に置いて行かれた事に対して母を恨んだ事はありません。むしろ、折角会いに来てくれたのにどうして母を追い返すのかと、祖父を恨みました。だから今お話したような事を父から聞かされ、父が亡くなった時に思わず祖父に恨み言をぶつけてしまったんです」

「な、何て、言ったんですか?」

 史也が訊くと、典鷹は静かに言った。

「お祖父ちゃんのせいでお父さんは死んだんだ、お母さんだってお祖父ちゃんさえいなければ出て行ったりしなかったんだ、って。脇で祖母がすすり泣いていた姿が、今でも目に焼き付いています」

 一瞬、皆が黙り込んだ。

「え、えーと…お母様は過労でお亡くなりになったと先生から聞きましたけど、お父様は?」

 沈黙を破って史也が訊くと、典鷹は答えた。

「父もです」

「え、お父様も過労で?」

 驚く姫羽。

 典鷹は、頷いて言った。

「母と兄が出て行ってから、父はずっと後悔していました。祖父は母と僕を会わせなかったのは勿論、父にも会わせようとはしませんでした。その事で、祖父と父が何度も喧嘩しているのを見た事があります。母を守れなかった自分に、父はとても腹を立てていました。仕事も休めなかったので、相当参っていたようです」

「その後、お祖父様は?」

 姫羽が訊くと、典鷹は答えた。

「父の死後、再び祖父が河内屋の社長に就任しました。その傍ら、祖父は空いた時間に母と兄の住所を調べ始めたんです」

「お父様には、お訊きにならなかったんですか?お母様と先生に謝りにアパートへ行った事があるんですから、ご存知だったのでは?」

 史也がそう言うと、典鷹は首を横に振った。

「祖父は、母と兄の住所を意地でも訊こうとしなかったんです。しかし意地を張った結果がこれですから、祖父も後悔したんでしょう。父とも散々揉めていましたし、僕もあんな事を言ってしまいましたからね。でもやっと居所を掴んだ時、母が父と同じ頃に既に亡くなっていた事を知りました」

「今更後悔しても、後の祭りだったと…」

 史也の台詞に、頷く典鷹。

「祖父は母に謝る事が出来なかった代わりに、一刻も早く兄を引き取りたかったのです。それが、せめてもの償いになると思ったのでしょう。しかし祖父は母に対して酷い事ばかり言って来たので、恐らくその事を聞いているであろう兄にも自分は嫌われているのではないかと思い、兄に会う事をとても怖がっていました」

「でも先生は家族がいるなんて事、全然聞かされてなかった訳ですよね?お父様の事ですら、2歳の時に亡くなったって聞かされてたくらいだし…ましてやお祖父様の悪口なんて、お母様は先生にこれっぽっちも漏らす事なく、一生懸命働いて先生をたった1人で育ててくれたと…」

 姫羽はそう言って、溜息をついた。

「僕も1度も会えませんでしたが、母の事はとても誇りに思っています。母の死を知ったのは父が亡くなった半年後でしたが、それから更に半年後に優しかった祖母も亡くなりました。祖父と違って、祖母は僕を育てながらずっと母と兄の身を案じていました。何度も何度も、頑固な祖父に掛け合ってくれていたんです」

「本当にお優しい方だったんですね、お祖母ばあ様は」

 史也がそう言うと、典鷹は柔らかく微笑んだ。

「母が亡くなった事に関してはとても残念がっていましたが、兄が元気でいる事を聞いて安心したのか、祖母は静かに息を引き取りました。それからの祖父は人が変わったように温和になり、河内屋の従業員を採用する時も引き取り手や働き口のない孤児院の子供達を、会社の寮に住み込みで雇ってあげるようになったんです」

 姫羽と史也は先程のメイドの話を思い出しながら、嬉しそうに顔を見合わせた。

 典鷹も、笑顔で言う。

「昔はただ厳しいだけの社長でしたが、社員に対して思いやりが持てるようになったんです。僕に対しても、小さい頃からすぐに跡継ぎの話を持ち出してプレッシャーばかりかけていたのが、それ以来自分のやりたい事を後悔のないようにやりなさいと、言ってくれるようになりました」

「それで…大晦日に、お亡くなりに?」

 史也が訊くと、典鷹は淋しげに俯いた。

「弁護士に頼んで、何とか兄と連絡を取る事に成功しました。亡くなる間際まで『永志はまだか、永志はまだか』と、ずっと呟いていました。最期に『鷹志と典永さん、そして永志にすまなかったと伝えてくれ…』そう言って、涙を流しながら亡くなりました。鷹志は父、典永は母の名です」

 姫羽と史也は、胸がいっぱいになった。

 確か永志はその晩、電話を切ってしまった為に結局祖父の死には間に合わなかったのだ。

「散々怒鳴りながらも、心の底では母と兄を愛していたんです。そんな祖父の本音が死ぬ間際に分かって、僕は父の葬儀の時にあんな心無い台詞を吐いてしまった事を、酷く後悔しました。温和になってからの祖父は、毎日のように『後悔しない人生を、送りなさい』と言っていました。それなのに僕は、既に後悔を…」

 典鷹はそう言って、深い溜息をついた。

「典鷹さん…あの…」

 姫羽は、なるべく明るく言った。

「そう、ご自分を責めないで下さい。きっとお父様のお葬式の日、典鷹さんに言われたからこそ、お祖父様も目が覚めたんですよ。今頃、典鷹さんに感謝している筈です。それに…こうしてずっと離れ離れになっていた兄弟がようやく出会えたんですから、これからは2人で後悔のない人生を、1から歩んで行けばいいじゃないですか」

 それを聞いて、典鷹は優しく微笑んだ。

「有り難う、真城さん」

 そんな典鷹の笑顔に何故かドキッとしながら、姫羽はたじろいで言った。

「い、いや、そんなっ!あ、あの、ですね、典鷹さん…こんな時に何ですが、実はその…私と史くんを、是非こちらのお屋敷に住まわせて頂きたいと思いまして…」

「姫っ!こんな時に、不謹慎だよ!」

 史也が声を裏返らせながら、慌てて言う。

「でも…あ、も、勿論、家賃はきちんと払います!今日は、そのお許しを典鷹さんに頂こうと思って、こちらにお邪魔した訳なんですけど…」

 史也が止めるのも聞かず、姫羽は本人なりに遠慮しながらベラベラと用件を言った。

 典鷹は、吹き出すように笑った。

「そうでしたか…こちらは、全然構いませんよ。お2人とも悪い人ではなさそうですし、兄が心から信頼してる方達でしたら僕も大歓迎です」

「だ、誰もこんな奴ら、信頼なんかっ…」

 慌てて永志は否定したが、それを無視して典鷹は話を続けた。

「屋敷内は僕と祖父と従業員だけでしたから、とても淋しかったんです。祖父も亡くなった今、貴方達が来て下さればきっと屋敷内も明るくなるでしょう。部屋は沢山空いていますから、茅ヶ崎ちがさきに言って下されば…」

「茅ヶ崎?」

 姫羽が訊くと、典鷹は答えた。

「此処の執事です。多分、応接室へは茅ヶ崎が案内したと思うのですが…」

「ああ!もしかして…黒尽くめの、背が高くて無表情の…」

「姫っ!」

 姫羽の失礼な発言に、怒鳴る史也。

 典鷹は、笑って言った。

「そ、そうですそうです!でも…茅ヶ崎には悪いですが、無表情なのは事実ですから。アハハハハ!」

 そんな典鷹を見て、姫羽も嬉しそうに言った。

「典鷹さん、やっと大きな声で笑ってくれた。良かった…」

「えっ…」

 姫羽の笑顔を見て、典鷹は少し顔を赤らめた。

「そうと決まったら、さっさと行くぞ」

 突然永志は立ち上がり、ドアの方へ歩いて行った。

 姫羽と史也も、慌てて立ち上がる。

「それでは、取り敢えず失礼します」

 史也がそう言って頭を下げると、姫羽も言った。

「有り難う御座いました。ちゃんと、安静にしてて下さいね?引っ越したら、毎日お見舞いに来ますから!」

「姫っ!ご迷惑だよ!」

 史也が眉間に皺を寄せて言うと、姫羽は口を尖らせた。

「別に、いいじゃない!ね、典鷹さん?」

 典鷹は、笑って言った。

「はい。毎日、待ってます」

「ほらね?じゃあ、失礼します!」

 こうして3人は、騒がしく部屋を出た。

 廊下を歩きながら、史也は永志に言った。

「先生、これで全てが分かりましたね。でも…何かすみません、家庭内のプライベートな事なのに僕達まで聞いちゃって。別に誰にも喋りませんから、安心して下さい」

 それを聞いた永志は、笑いながら史也の頭を小突いた。

「バーッカ!柄にもなく、気ぃ使ってんじゃねぇよっ!ま、まあ、その、何だ…い、一応、お前らの事は信用してるし…」

「えぇーっ、ホントにっ!それはすっごく嬉しいよ、セ・ン・セ!」

 そう言って腕にしがみ付いて来た姫羽を張り倒して、永志は怒鳴った。

「調子に乗んな、ガキが!」

「はぁーっ?誰がガキだっ!この暴力教師っ!」

「やめろ!その誤解を招くキーワード!」

 2人の低レベルな会話に、どっちもどっちだと思いながら溜息をつく史也であった。



 元いた応接室へ戻ろうと廊下を歩いていると、前から慌てて来る明里と鉢合わせした。

「も、申し訳御座いません!ご案内も致しませんで…」

 しかし姫羽は、そんな事にはお構いなしで明里の手を握った。

「ねえ、明里ちゃん!今、典鷹さんに許可もらって此処に住む事になったんだよ!お部屋、遊びに行くから待っててね?どんなお部屋に、住んでるのかなぁ?フフフフフ…」

「だから、お前は…」

 頭を抱える、永志。

 明里は、嬉しそうに言った。

「本当ですか?良かったです!皆さんがいらしてくれたら、きっと此処も楽しくなります!」

「じゃあさじゃあさ、茅ヶ崎さん呼んでくれない?早速、お部屋を用意してもらいたくて…私達、此処で待ってるから」

「はい、かしこまりました!」

 明里は慌てて、元来た廊下を戻って行った。

 3人も応接室に入り、ソファーに座って待つ。

「でもさ、典鷹さんって…結構、素敵な人だったね?」

 突然、姫羽が言った。

「カッコいいんだけど、可愛い系みたいな。色白で上品な顔立ちしてるし、何となく儚い感じがして守ってあげたくなるって言うか…」

「流石は兄弟、やっぱり先生と似てますよね」

 史也もそう言ったが、永志は黙ったままだった。

「先生って、皆から愛されてたんだね…」

 姫羽が、ポツリと言った。

「お母様は勿論の事、離れて暮らしてたお父様も、お祖父様も、お祖母様もみーんな先生の事愛してたし、心配してたんだね。勿論、典鷹さんも…今となっては、先生にとって世界でたった1人の肉親なんだから、大切にしてあげないと罰当たるよ?」

「つーかお前、さっきからカッコいいだの可愛いだのって…妙に典鷹の事、気に入ったんだな」

 そう言って、永志は煙草に火を点けた。

 姫羽は、首を傾げる。

「って言うか、ずーっと前から先生の事もカッコいいなって思ってたけど?」

「はぁ?」

 声が裏返る、永志。

「あ、話を元に戻すけど…私や史くんだって先生の事愛してるし心配してるんだから、それだけは絶対に忘れないでよね!」

 すると、永志は煙を姫羽に向かって思い切り吐き出した。

「ブワァーッカ!気持ち悪いんだよ、テメェはっ!」

「ゲホゲホッ…ちょっと、先生っ!」

 その時ノックの音がしてドアが開き、茅ヶ崎が入って来た。

「失礼致します、こちらにお住まいになる事が決まったそうで。申し遅れましたが私、執事の茅ヶ崎興人おきとと申します。宜しくお願い致します」

「真城姫羽です!」

「月川史也です、宜しくお願いします」

 2人が、自己紹介をする。

 頷いた茅ヶ崎は、ドアを開けた。

「では、取り敢えずお部屋にご案内致します。どうぞ」

 3人は、茅ヶ崎の後に黙ってついて行った。

 玄関の正面にある、大きな階段を上って行く。

 上を見上げると大きなシャンデリアが吊り下げられており、振り返ると下の方に玄関のロビーが見えた。

 4人は更に上へと続く階段を上って3階に到着し、長い廊下を歩いて突き当たりの部屋の前で止まった。

 振り返った茅ヶ崎が、3人に言う。

「こちらが、お部屋となります。此処が永志様、あちらが姫羽様、その隣が史也様です。これがお部屋の鍵ですので、ご自由にお使い下さい」

 3人は、早速それぞれの部屋に入った。

「……」

 これは、永志の反応である。

「うわぁ、すっごーいっ!シャンデリア、天蓋付きベッド、レースのカーテン、ソファーセット、お揃いのタンス、テーブル、椅子、机、鏡台…何から何まで、夢みたいな部屋!」

 これは、姫羽の反応である。

「こ、こんな広い部屋、どうやって使おう…」

 これは、史也の反応である。

「如何でしたでしょうか」

 揃って廊下に戻って来た3人に、茅ヶ崎が無表情で訊く。

 姫羽は、興奮しながら言った。

「如何でしたも何も…もう、最っ高ですよ!私、一目で気に入っちゃいました!明日にでも、即引っ越します!」

「明日ったってまだ荷物まとめてないし、先生や姫は今のアパートを引き払う手続きが必要だろ?」

 史也がそう言うと、姫羽は溜息をついた。

「そ、そうだった…でも、今週中には絶対引っ越します!」

 茅ヶ崎は、頷いて言った。

「かしこまりました。ではこちらもそのように準備致しますので、ご引っ越しの際にはご連絡下さい」

 そんな訳で、この日から民族大移動が始まったのである。


        †


 最初に引っ越して来たのは史也で、1週間後にはこちらの屋敷へ既に住み始めていた。

 次が永志と姫羽で、更にその3日後であった。

「あ、明里ちゃん!とーっても、会いたかったよーっ!」

 そう言って、姫羽は即座に明里を抱きしめた。

 明里も姫羽を抱き止めて、嬉しそうに微笑む。

「皆さんがいらっしゃるのを、心待ちにしておりました。今日からどうぞ、宜しくお願い致します!」

「こちらこそ、宜しく!」

「では、お部屋へご案内致します。午前中の内に、お荷物は運んでおきましたので」

 茅ヶ崎は永志と姫羽の手荷物を軽々と両手で持つと、スタスタと階段を上って行った。

「スゲェ、怪力…」

「茅ヶ崎さん、男前っ…」

 呆気に取られながら2人も階段を上ろうとすると、上から史也が下りて来た。

「あ、姫!先生も、お久しぶりです!」

「よお、史」

 軽く手を上げる、永志。

「史くん、久しぶり!此処の生活は、どう?」

 早速姫羽が訊くと、史也もその他の手荷物持ちを手伝いながら言った。

「此処は快適だよ。そっちに広い食堂があって其処で食事をとるんだけど、すっごい豪華なメニューなんだ。味も最っ高でさぁ!」

「ホントに?それは、楽しみーっ!早く、ご飯食べたいっ!」

「お早くお願い致します」

 上の方から、茅ヶ崎の単調な声が聞こえる。

『はーい…』

 3人は、声を揃えて大人しく返事をした。

 階段を上って最上階の3階に着くと、早速永志と姫羽は荷物の整理に取り掛かった。



 片付けをさっさと終えた姫羽は、最初に隣の史也の部屋に行った。

「開いてるよ」

 ノックをしたら中から声がしたので、姫羽はドアを開けて中に入った。

「失礼しまーす!」

 史也の部屋も、姫羽の部屋と同じ大きさだった。

 史也は、ソファーに座って雑誌を読んでいる。

「どう史くん、もう慣れた?」

 姫羽が向かいに座って訊くと、史也は雑誌を閉じて言った。

「まあ、慣れたと言えば嘘になる。それに…とにかく、この広さだろ?明里ちゃんの話によると、先生の部屋は個人専用の風呂やトイレもついてるらしくてさ、俺達の部屋の3倍の広さがあるんだって」

「ふーん、もう明里ちゃんと仲良くなったんだぁ…もしかして明里ちゃんの事、狙ったりとかしてる?」

 ニヤニヤしながら訊いて来る姫羽に、史也は顔を赤らめながら答えた。

「バッ、バカ言うなよ!そっ、そんなんじゃ、な、ないよ…」

「でも私ですら、抱きしめたいくらい可愛いって思ったんだからさ…あの子、いいと思うよ?」

 姫羽が真剣な顔で言うので、史也も呟くように答えた。

「そ、それは、まあ…」

「あーっ、本音が出た!やっぱり、下心があるんだ!」

「ちっ、違ぁーうっ!」

 史也がそう叫んだ時、ノックの音がしてドアが開いた。

「お前ら、うるせぇんだよ!廊下まで、会話が筒抜けだぞ!」

「嘘っ!」

 史也は焦って、思わず立ち上がった。

 永志が、溜息をついて言う。

「嘘ってお前、どんな話してたんだよ…冗談に決まってんだろ、下行くぞ」

「あ、もしかして典鷹さんトコ?行く行く!」

 妙に嬉しそうな姫羽を見て、永志は舌打ちをした。

「チッ…おい、史!お前も来い!」

「は、はい!」



 3人は1階まで下り、典鷹の部屋へ向かった。

 典鷹の部屋のある一角は、相変わらず薄暗い。

「典鷹さん?真城です!」

「どうぞ、入って下さい」

 中から、典鷹の声がする。

 ドアを開けると、典鷹はベッドの上に起き上がって座っていた。

「皆さん、お久しぶりです。楽しみにしていたんですよ、皆さんがいらっしゃるのを」

 嬉しそうな典鷹を見て、姫羽もニコニコしながら言った。

「私も、典鷹さんにお会いしたかったです!今日からは僭越ながら、家族の一員と言う事で…よ、宜しくお願いします!」

「家族か…とても、いい響きですね。こちらこそ、宜しくお願いします。真城さんと史也くんがいらっしゃった事もとても嬉しく思っているのですが、何よりも兄と一緒に暮らせる事が僕にとっては最高の幸せなんです」

 典鷹が恥ずかしそうに微笑むのを見て、史也も笑顔で言った。

「そうですよね!先生も、とても喜んでいるんですよ?この人相の悪い顔からは、非常に読み取りづらいかもしれませんけど!」

「お、お前…」

 永志は、顔を引きつらせている。

「僕も、何となく体の調子が良くなった気がするんです。これも、皆さんのお陰かな」

 典鷹がそう言うと、姫羽は首を横に振った。

「いえいえ、それは典鷹さん自身のお力ですよ。病は気からって言いますし、典鷹さんが良くなろうと思えば元気になるものだと思います!」

「確かに、そうかもしれませんね。母と兄の家出に始まり、祖父と父との口論、次期社長と言う名のプレッシャー…色々毒になるようなものが、この家には沢山詰まってた。けど、貴方達3人が来て下さった事によって、徐々に浄化されて行くような気がします。本当に、有り難う」

 そう言って、典鷹は優しく微笑んだ。

「あ、ところで典鷹さん…史くんの事は史也くんで、私の事は真城さん…ですか?」

 姫羽が気に入らない様子で言うと、史也が笑った。

「まあ、僕は先にご挨拶を済ませていたから、その時に気軽に名前で呼んで下さいとお願いしたからね」

「だったら典鷹さん、私の事も気軽に姫羽でいいですよ?」

 姫羽にそう言われて、典鷹ははにかみながら頷いた。

「わ、分かりました…姫羽さん」

 暫くお喋りをした後、3人は典鷹の部屋を出た。

「見て!あれ、中庭じゃない?」

 廊下の途中に中庭に出られる入口を、姫羽が見つけた。

「へぇーっ、凄いなぁ…」

 史也も、驚いている。

 真ん中には大きな噴水があり、白いベンチやテーブル、椅子なども配置されておりお茶が飲めるスペースとなっていた。

 全面硝子張りで、廊下からその様子がよく見える。

 しかし今は其処ら中に雪が積もっており、噴水にも氷が張っていてとても出られる状況ではない。

「春になったら、皆でお茶でも飲みたいなぁ…」

 姫羽がそう提案すると、史也も頷いて言った。

「いいねぇ!勿論、先生も強制参加ですよ」

「はいはい…」

 永志は、肩を竦めながら返事をした。


        †


 姫羽も史也も朝から仕事で出掛けてしまった、ある日の事。

 永志は1人、暇だった。

 仕方なく、午前中はまだ終わっていない部屋の整理をした。

 午後は、下の階にある図書室へ行く。

 元美大生なだけあって、永志は柄にもなく美術書や画集に没頭していた…しかし。

「ん?」

 ふと、妙な感覚に囚われた。

 人の声が、聞こえた気がする。

 本から目を上げた永志は、キョロキョロと辺りを見回した。

 勿論普通の図書館ほど広くはないが、此処の図書室も立派なものである。

 そんな広い部屋に、永志は1人でいた筈だった。

「気のせいか…」

 永志は、再び本を読み始めた…すると。

「…ま」

 また、人の声がした。

 やはり、誰かいる。

 永志は、耳を澄ませた。

「永志様…」

「うおっ!」

 顔を上げた永志は、思わず後ろに踏ん反り返った。

 何と本棚の陰に、茅ヶ崎がヌッと立っていたのだ。

「ち、茅ヶ崎っ…心臓に悪いから、その登場の仕方はやめてくれっ!」

 茅ヶ崎は、無表情で言った。

「申し訳御座いません。実は、永志様のお友達だと仰る方がいらっしゃっておりまして…」

「お友達?」

 そう言ったものは極力作らないよう努めていたので、今更友達と言われても永志には思い当たる人間がいなかった。

「誰だ?」

「男の方です。お会いになりますか?」

「あ、ああ…」

 仕方なく、永志は茅ヶ崎と共に図書室を出た。

 階段を下り、玄関ロビーへ向かう。

 すると、ドアの前に男が1人立って待っていた。

「おーっす!」

「おっ、お前…ど、どうしたんだよ!」

 慌てて、男に駆け寄る永志。

 男は、恥ずかしそうに笑った。

「実家、追い出されちまってさ…ハハハ!」

「茅ヶ崎…悪いけど、応接室にお茶2つ」

「かしこまりました」

 永志は、男を連れて応接室へ入った。

「座れよ」

「おいおい、いい生活してんなぁ!俺さぁ、実家出てフラフラしながらお前の事思い出してさぁ、アパートまで会いに行ったんだよ。したらお前がいる筈の301号室、別の人入ってんじゃーん?えっらいびっくりして慌てて大家さんち行ったら、河内屋のお屋敷に引っ越したって言うだろ?いやぁ、耳を疑ったね!」

 男がソファーに座りながらそう言うと、永志は肩を竦めて苦笑いした。

「まあな…俺自身、未だにピンと来ねぇんだよ」

 其処でノックが聞こえ、入って来たのは明里だった。

「失礼致します」

 無言で、2人分のお茶とお菓子を用意する。

「ごゆっくりどうぞ」

 朱里が早々に立ち去ると、男は驚いて言った。

「おいおい、メイド付きかよ!可愛い子じゃん。あの女、お前の趣味?」

 途端に永志は、大声を張り上げた。

「違うわっ!ったく!」

「え、違うの?なーんだ…あ、河内屋チョコレートじゃん!これ、1回食べてみたかったんだよなぁ!」

 男は、チョコレートを1口齧った。

「おっ、美味い!あ、それにしてもさぁ…はぁ…」

 男は溜息をつきながら、永志に言った。

「お前も昔は、天涯孤独が売りだったのになぁ…」

「何だよ、いきなり。どう言う意味だ…」

 ボソッと呟きながら、煙草に火を点ける永志。

「いやぁね…」

 男は、ニヤニヤしながら言った。

「学生時代は、散々女連れ込んでたじゃねぇかよ。同級生、下級生、上級生、おまけに若い女助教授まで。お袋さん死んでから、まだたったの1年ちょいだったぞ?」

「もうやめたんだよ、そう言うチャラチャラした生活は…」

「なっ…何ぃーっ?まっ、まさかこの5年の間にお前を正してくれるような、真面目な女でも見つけたってか?」

 男の質問に、何故か永志は姫羽の顔を思い浮かべていた。

 永志は、慌てて首を横に振る。

「そ、そんなんじゃねぇよ…」

「ふーん…ま、いいけど。実は俺も、色々あってさぁ…」

「それだ、それ!俺の事はどーでもいいから、テメェの身の上を聞かせろっつーの!」

 永志に話を振られて男は笑うと、煙草を1本失敬した。

 永志に火を点けてもらいゆっくり煙を吐くと、男は自分の話をし始めた。

「そもそも俺達の出会いってのは、俺が取り敢えず実家の会社継ぐのに大学通にある白雲情報大学入って、あのアパートの…『ピースアメージュ』だっけ?その302号室で、生まれて初めての1人暮らしをする事になっただろ?そん時、隣に住んでたお前と出会ったってのが初めだよな?」

「ああ」

「今はどうだかしんないけどさ、当時のお前んちは油絵の具の匂いがそりゃもうプンプンしてやがった。キャンバスも何枚か置いてあって、いかにも美大生みたいな。そんで、必ずと言っていいほど女もいた…よな」

 永志は黙って煙草を吸いながら、男の話を聞いている。

「確か1週間ごとに変わってたよな、女。あれ、高校時代に引っ掛けた女ばっかだったのか?それとも、美大で新しく…」

「俺の話は、いいっつってんの!」

 永志に突っ込まれ、男はハハハと笑う。

「ま、まあ、それで俺は4年後、無事大学を卒業した。会社継ぐつもりだったから、就職先は何もしなくても決まってる。卒業と同時に実家に帰る事になった俺は、あのアパートに別れを告げた。勿論、お前ともな」

 其処で永志は、思い出し笑いをした。

「そう言えばお別れ会とか言って、2人でベロンベロンになるまで酒飲んだよな?」

 男も、手を叩いて言う。

「ああ、飲んだ飲んだ!」

「お前、散々親父さんの悪口言ってたから、こんなんで会社継げんのかと思って、何かスッゲェ心配になった記憶があんだけど」

「アハハハハ、そうだったっけかぁ?全然覚えてねーよ、あん時自分が何言ってたかなんて。けどさ、うちの親父頑固だから昔っから不満があったのは確かなんだよなぁ。だからお前の心配通り、早速親父とぶつかっちまった…」

 そう言って、男は紅茶を1口飲んだ。

「何で」

 永志が訊くと、男は溜息をついた。

「俺もまあ、一応親父の会社には入ったんだよ。入ったんだけど、なーんかお前の生き方が羨ましくてさぁ…真似、してたんだよなぁ。まあ真似なんつったらお前怒るかもしんないけど、毎晩酒飲んで、煙草吸って、女と遊びまくってさぁ」

「お前なぁ…」

 永志は、顔を引きつらせている。

「しかもそれ、仕事の後にだぜ?大体さ、ほんっとにこれもお前には悪いんだけど、親がいないってのがマジ羨ましかったんだよ。口うるせぇ親父がいないってのは、ほんっとにさ…悪いな、永志」

「別に」

 短く答えて、永志は煙草を灰皿に押し付けた。

「親父は厳格で、頑固で、根っからの仕事人間なんだ。だからそんないい加減な息子は、この会社を継ぐ資格はないって言われちゃって…それでも親父は5年我慢したらしいけど、とうとう勘当。そんで行く当てもなくなっちまった時、お前の顔が浮かんで来てさ」

 そう言って、男も煙草を灰皿に投げ捨てた。

 永志はソファーの背もたれに踏ん反り返っていたが、勢いよく起き上がって男に言った。

「で?」

「あ?」

 男は、キョトンとしている。

 永志は、冷めた口調で言った。

「俺に、どうして欲しい訳?」

「え?」

「大体さ、お前って奴はほんっと5年前から変わってねぇよなぁ。相変わらず、眩しい金髪しやがって…まだ長髪が短髪になったってだけでも、褒めてやるべきなんだろうけど。ただでさえ頑固だっつってる親父さんが、こんなお前見て会社を任せる訳がねぇよ」

 男は、黙ったままだった。

 その時ノックの音がして勢いよくドアが開き、姫羽が入って来た。

「先生、帰ったよーっ!こんな所で、何して…あっ、あれ、お、お客、さん?」

 男を見た姫羽は、酷く驚いた様子だった。

 永志は、溜息をついて言う。

「お前さぁ、此処にいるって事は客が来てるって事だろ?ちっとは、頭使えよ!」

「す、すみませんでしたっ!」

「へ?」

 珍しく姫羽が素直に謝ったので、永志は拍子抜けした。

「永志、こちらの方は?」

 男に訊かれて我に返った永志は、姫羽を紹介した。

「お前が出てった後、302に越して来た奴。それから、ずーっと俺にくっ付いて回ってんの」

 其処で、姫羽はムッとした。

「ちょっとっ!私が、先生に気があるストーカーみたいな言い方しないでよねっ!」

 しかし、永志は鼻で笑う。

「ケッ!俺の事、ずーっと前からカッコいいと思ってたとかって気色悪い事言ってたくせに!」

「なっ、何言ってんの!」

 姫羽は、気を取り直して言った。

「あ、えーっと…私の前に、あの部屋に住んでたんですか?」

 男は、頷く。

「そうなんですよ。こいつとは同い年で、大学に通う為に彼処のアパートで初めての1人暮らしを始めましてねぇ…」

「ホントですか?私も、そうだったんですよ!じゃあ、やっぱりその時に隣に住んでた先生と、お知り合いになったんですね?いやぁ私達、お互い不幸でしたねぇ?先生とさえ出会っていなければ、私もこんなに穢れずに済んだんすけど…」

「妙な言いがかり、つけてんじゃねぇーっ!」

 姫羽の台詞に、怒る永志。

 しかし、姫羽は平然として言った。

「別に、真実を語ってるだけですけど…あ、それでお名前は?私は真城姫羽、この近くでハンドメイドショップを経営しております」

「へえ、若いのにお店経営ですかぁ。俺は、岩下いわした郁未いくみって言います。イワシタシステムカンパニーっつー父のコンピュータ会社を継ぐ為に実家で暮らしてたんですけど、頑固親父と反りが合わずに大喧嘩の末、勘当されてしまいましてねぇ…」

「そうだったんすか…って事は、先生とは5年ぶりに再会ですか?私と先生が、出会って5年経ちますから…」

 姫羽にそう言われて、郁未も頷きながら答えた。

「まあ、そう言う事になりますかねぇ…」

「とにかく…お前、どうすんだよ」

 話を遮って、永志が訊く。

 郁未は言った。

「どーもこーも、それを訊きにこうして遠路遥々お前を訪ねて来たんじゃないか。俺は、いつだってお前を目標として生きて来たからな」

「何だよ、それ」

 再び、永志は煙草を吸い始めた。

 其処で、姫羽が訊く。

「もしかして、岩下さんもこちらにお住まいになる…とか?」

「今、何つった?」

 驚く永志を見て、姫羽が焦る。

「え、違うの?私は、てっきりその相談かと…」

「冗談言うなよ!此処は、宿無しに貸す安アパートじゃねーっつーの!」

「で、でも…」

 永志の勢いに、ひるむ姫羽。

 郁未は、立ち上がって言った。

「えっと、姫羽ちゃん…だっけ?」

「は、はい」

「気にしないでいいよ。ただ、こいつの顔が久しぶりに見たかっただけだからさ。何て言うのか、俺にとってコイツは憧れの対象だったんだ。何かある度にコイツの部屋に乗り込んでって、しょっちゅう悩み聞いてもらってた。だから家族に追い出された今、俺に残された唯一の場所は永志のトコしかなかったんだよ…」

 俯く郁未を見て、永志は溜息をついた。

「郁…親父さんと仲直りするってのを条件に、一時住まわせてやってもいいけど」

 途端に、郁未の表情が明るくなった。

「え、永志っ!」

 姫羽も、途端に笑顔になる。

「せ、先生っ!そう言うトコ、やーっぱカッコいいっ!」

「やっぱ、そう思ってんじゃねぇかよ」

「うーん、まあ…たまにね」

 姫羽は、ハハハと笑った。

「で、でも、永志…本当に、いいのか?」

 郁未が真剣な表情で訊くと、永志は肩を竦めた。

「仕方ねぇだろ…その代わり、働け。茅ヶ崎にでも訊いて、どっか職探してもらえよ」

 郁未は、永志に礼を言った。

「あの…あ、有り難う、永志…」

「気持ち悪いから、礼なんて言ってんじゃねぇよ!バーカ!」

 永志は、クスッと笑った。

 郁未と姫羽も、顔を見合わせて笑う。

 こうして郁未も、この屋敷の住人となったのだった。

 部屋は、史也の隣の部屋があてがわれた。



 その日の夜。

 午後から読んでいた美術書と画集の続きを見る為に、永志は1人で図書室に来た。

 勿論、夜中なので誰もいない。

 永志は、静かに本を読み始めた。

 すると、図書室のドアが開く音がした。

「誰だ?」

 永志が入口の方を振り返ると、其処には姫羽が立っていた。

「何だ、姫か…」

「何だはないでしょ?どうしたの、こんな夜中に画集なんて見ちゃって…」

「お前こそどうした、ガキはさっさと寝ろ」

 その台詞にムッとしながらも、姫羽は永志の隣に座った。

「何か、環境がガラッと変わっちゃったじゃない?だから此処に越して来てから、あんまりよく寝てないんだ…もしかして、先生も?」

「俺は今日の午後、これを読んでる途中に邪魔されたから続きを読んでるだけだ。丁度、郁が来た時だよ。そう言えばお前、今日はやけにしおらしくしてたな…何でだ?」

 姫羽は途端に、照れながら笑った。

「岩下さん、ちょっとカッコ良かったでしょう?イイ男の前だと、つい緊張しちゃって…」

 永志は驚いていたが、すぐに言った。

「アホか…お前はどうだかしんねぇけど、あいつはお前みたいなのタイプじゃねぇぞ」

「別に、そんなつもりで言ったんじゃないよ。でも…」

 姫羽は、永志をジッと見つめた。

「最初は興味ないって思ってても、気付いたら好きになっちゃってたりする事もあるよね…」

 上目遣いで囁くように言う姫羽を見て、永志は一瞬胸の高鳴りを覚えた。

 しかし、首を横に振る。

「と、とにかくだな、アイツは昔っから女癖の悪い奴だった…」

「女癖が悪いのは、先生もそうでしょ?大体岩下さんだって5年も会ってなかったんだから、そんな悪い癖も今はとっくに直ってるかもしれないじゃない…」

「女癖と酒癖が悪いせいで親父さんと喧嘩になったんだ、直ってなんかねぇよ。それに、俺は女癖なんて悪くねぇの!」

 姫羽は、永志を睨みながら言った。

「私、聞いてたんだから…岩下さんが言ってたじゃない、毎週違う女連れ込んでたって…最低だね」

 永志は、目を丸くした。

「お、お前…廊下で、盗み聞きしてやがったのか?」

「私は先生が1人で淋しがってると思って、早く帰って来たのに…それで先生が何処にいるのか茅ヶ崎さんに訊いたら、応接室だって言うからすぐに飛んでったの。そしたら、あんな会話が聞こえて来て…まあ、大体は知ってた内容だったからいいけど」

 永志は、溜息をついた。

「当時は色々あったかもしんねぇけど、今の俺は1人で真面目に生きてんの!だから、お前も一々人の事詮索したりすんなよな?」

「うん、分かってる…」

 姫羽が妙に素直に返事をしたので、永志も気が抜けたように言った。

「あ…そう…」

「うん…昔なんて、どうだっていい。私は私と出会ってからの、今の先生が好き…だから、昔の先生の事はどうだっていいよ…」

「お、お前、好きってどう言う…」

 永志が訊こうとした途端、姫羽はカクッと首を項垂れて眠りに落ちてしまった。

「訳分かんねーんだよ、お前は…ったく」

 と言いながらも、永志は不思議と嫌ではなかった。

「姫…」

 永志はいつの間にか優しく姫羽の髪を撫でている自分に気付き、思わず顔を赤らめた。


        †


 翌日。

 ハッと目が覚めた姫羽は、まだ図書室にいた。

「あ、あれ?」

 肩には、大きな毛布が掛けられている。

 隣の椅子には、同じ1枚の毛布を掛けながら永志が座って机にうつ伏せ、静かに眠っていた。

 腕時計を見ると、まだ午前6時を回ったばかりだった。

「昨日、此処であのまま寝ちゃったのか。道理で寒かった訳だ、1枚の毛布を2人で掛けて寝てたんだからなぁ…」

 姫羽は、そっと永志を揺り起こした。

「先生、先生…」

「うーん…何だよ、もうちょっと寝かせろ…」

 永志は、寝惚けている。

「先生、風邪ひくよ…こんな寒い所で寝てたら」

「うーん…ん、姫かぁ?どうして、此処に姫がぁ…って、あ…えっ?」

 ようやく意識がはっきりして来た永志は、体を起こして辺りを見回した。

「あれ…此処、図書室か?」

「そうだよ。私達、此処で寝ちゃったみたい…あ、よだれ…」

 姫羽は、自分の服の袖で永志の口を拭った。

「バッ…カ」

 顔を赤らめながら、慌てて自分の口を拭う永志。

 姫羽は、クスッと微笑んだ。

「私は仕事だからもう起きるけど、先生はまだ寝てたいんだったら部屋で寝れば?まだ、6時ちょっと過ぎだから」

「え、あ、うん…そ、そうだな」

 永志は、立ち上がって大きく伸びをした。

 姫羽は、毛布を畳みながら言う。

「これ、先生でしょ?ありがとね…」

「礼なんかいらねぇよ、気色悪い」

「なっ…」

 大声で怒鳴ろうとした姫羽の口を押さえ、永志は唇に人差し指を当てた。

「シーッ!バーカ、大声出すな…まだ、寝てる連中だっていんだぞ。ま、厨房の方はもう起きて飯でも作ってるだろうけど」

「は、はーい…」

 姫羽は大人しく返事をして、肩を竦めた。

 そして2人で図書室を出た時、階段の所で上から下りて来た郁未と鉢合わせした。

「い、郁っ!」

「あれ、永志?姫羽ちゃんも何やってんだよ、こんな朝っぱらから…あ、もしかして、2人ってそう言う関係?」

「ちっ、違うんです!夜遅くまで本読んでたら、そのまま寝ちゃったんですよ!先生も、そうなんです!本当なんです!本当に、そうなんです!信じて下さい!」

 必死な姫羽を見て、郁未は大笑いした。

「そ、そんなに真剣にならなくても信じるっつーの!」

「本当ですか?良かったぁ…」

 ホッと胸を撫で下ろす、姫羽。

 何故か永志は、面白くない。

 ムッとしながら、郁未に話しかける。

「お前こそ、何やってんだよ…」

「ああ、風呂借りようと思って。昨日茅ヶ崎さんに訊いたら、風呂は2階だって言われたからさ」

 郁未がそう言うと、永志は気のない返事をした。

「あっそ…行くぞ、姫!」

「え、あ…そ、それじゃあ、岩下さん、また後で」

「あ、ああ」

 郁未は首を傾げながら、階段を下りて行った。

 永志は無言のまま、スタスタと階段を上って行く。

 そんな永志を見て、姫羽は言った。

「先生、何か怒ってない?」

 永志は、階段を上る足を速める。

「実際何もなかったんだから、彼処まで必死に言い訳しなくたっていいだろーが!誰もお前と俺の仲なんか、疑ったりしねぇよ!」

「だって…岩下さんに、先生との事を誤解されたくなかったって言うか、変な目で見られたくなかったって言うか…」

 姫羽はそう言って、口を尖らせた。

 永志は立ち止まると、姫羽の方を振り返った。

「誤解も何もねぇだろうが…お前、本気なのか?」

「な、何、急に…」

 永志の真剣な顔に、姫羽は思わず後ずさった。

「た、ただ、岩下さんはカッコいいなって思ってるだけだってば…」

 永志は階段を上り切ると、溜息をついた。

「まあ、いい…別に、お前が誰を好きになろうと俺には関係ねぇしな。ただ男はよーく選んでから決めろ、いいな?」

「じゃあ、先生はやめとけって事?」

「なっ…」

 痛い所を突かれ、永志は言葉に詰まった。

 姫羽は得意気に手をひらひら振ると、部屋に入ってしまった。

 頭を抱えながら、永志も自分の部屋に入った。



 その日の夕方。

 仕事から帰って来た姫羽は、そのまま典鷹の部屋へ行った。

 約束通り、姫羽はこの屋敷に越して来てから律儀に毎日典鷹の部屋を訪れている。

「典鷹さん?」

 姫羽は、典鷹の部屋のドアをノックした。

「どうぞ」

 中から、典鷹の声がする。

「失礼しまーす!」

 姫羽は部屋の中へ入り、ドアを閉めてベッドの脇に立った。

「典鷹さん、今日は自分の部屋にも寄らずに直接来ちゃいました!」

 そう言って、姫羽は自分の鞄を見せた。

 典鷹はベッドから起き上がり、ゆっくりと立ち上がった。

「こっちに座りましょう」

 典鷹に勧められて、姫羽はソファーに腰掛けた。

 典鷹も、向かいに座る。

「姫羽さん」

 座った途端、典鷹は真剣な顔で言った。

「僕は生まれてこのかた、屋敷の外へ出た事はありません。学校へ通っていた時期もありましたが、ほんの何年かです。雑誌もテレビも見てはいますが、実際に世間の風に当たった事がある訳じゃないんです。貴方が部屋に来て下さるのはとても嬉しいのですが、気の利いた面白いお話をして差し上げる事も出来ませんし…」

「典鷹さん…」

 話を遮って、姫羽は言った。

「私は、典鷹さんがこうして元気でいる姿が見られるだけでいいんです。最初に会った時はベッドに寝たままで顔色も悪いし、元気もなかったですよね?けど最近はこうして起き上がって、ソファーで話が出来る…だから私、嬉しいんです…」

「姫羽さん…」

「典鷹さんが毎日部屋に来られてウザいって思ってるなら、私もう来ません。でも典鷹さん今、私が部屋に来てくれるのが嬉しいって言ってくれたじゃないですか。勿論、私だって典鷹さんに会いたくて来てる訳だし。だから…いいですよね?」

 典鷹は、顔を赤らめて頷いた。

「はい」

 姫羽はそれを見て、笑顔で言った。

「じゃあ、今日は典鷹さんの話を聞こうかな…」

 突然そう言われて、典鷹は驚いている。

 姫羽は、ニッと微笑んだ。

「だって、今までは私の話ばっかだったでしょう?私だって、典鷹さんの事色々知りたいし…ねえ、聞かせて下さいよ」

 暫く黙っていた典鷹だったが、やがて話し始めた。

「そ、それじゃあ…実は僕、歌が好きなんです」

「え、歌?」

「学校を辞めてからベッドの中にいる事が多くなったので、父が何か暇を潰せるようなものを1つ買ってやると言ってくれたんです。自宅学習で育ったと言うのは以前にお話ししましたが、確か僕が14の時だったかな…当時音楽を教えて下さっていた先生がギターが得意で、ご自分で作詞作曲もなさっていたんです」

 典鷹は立ち上がり、奥から1本の青いギターを持って来た。

「凄くカッコいい先生で、ギターを弾きながら歌う姿はテレビに出ている本物の歌手にも負けないくらいでした。そんな先生に憧れて、僕も父にこのギターを買ってもらったんです。それ以来、僕もベッドの中で必死に練習しました」

「へぇーっ、ホントですか!それで、作詞作曲もするようになったとか?」

 姫羽が訊くと、典鷹は恥ずかしそうに笑った。

「ま、まあ、一応…でも人に聴かせるようなものではないので、此処でねだられても絶対に歌いませんけどね」

「えーっ!それじゃあ、いつか絶対聴かせて下さいよ?」

「いつか、ね…」

 2人は、同時に笑った。


        †


 日曜日。

 まだまだ外は寒いのだが、休日のせいか街は人込みで溢れ返っている。

 姫羽と史也は朝から出掛け、ショッピングを楽しんでいた。

 お昼にはレストランへ入り、食事をしながら話に花を咲かせた。

「ねえねえ、史くん」

 パスタを食べながら、姫羽が話しかける。

「何?」

「その後、どう?」

「何が?」

 姫羽が何を訊きたいのか分からず、史也は首を傾げた。

 姫羽は、ニヤついて言う。

「何が、じゃないって!」

「何だよ、気持ち悪いな…」

 その発言に、姫羽はムッとした。

「き、気持ち悪い?失礼な事、言わないでよ…明里ちゃんとどうなったのか、って訊いてるの!」

「は…はぁ?」

 史也は、途端に顔を赤くした。

「私も何だかんだ言って、あの子の部屋にはまだ遊びに行ってないの。廊下で会えば立ち話とかはするけど、向こうだって何かと忙しい訳じゃない?だから疲れてる所、お邪魔するのも悪くて」

「そりゃあ、そうだよな」

 姫羽の言う事に、史也はうんうんと頷いている。

「けど、史くんはどうなのかなーっと思って。ちょっと、気に入ってるような感じだったし。史くん、昔からああ言う大人しい感じの子がタイプだったでしょ?そ・れ・にぃ!」

 ニヤける、姫羽。

「知ってるんだよぉ、私…昨日の昼休みにこの寒い中、中庭で明里ちゃんと仲良くお喋りしてたんだってねぇ?」

「なっ…」

「何で知ってるのかって?岩下さんから、聞いたんだよ。昨日お昼食べ終えて屋敷内フラついてたら、中庭に史くんと明里ちゃんがいるのを見たって。仕事はどうしたのよぉ、仕事はぁ?」

 姫羽がそう言ってからかうと、史也は口を尖らせた。

「う、受け持ちの授業が、午前で終わりだったんだよ…」

「ふーん…なーんか、随分と楽しそうだったらしいじゃない。うまく行きそうなの?」

 嬉しそうに訊いて来る姫羽に、史也は俯きながら答えた。

「わ、分からないよ。大体…ほら、典鷹さんが前に言ってただろ?亡くなったお祖父様は、人が良くなってから孤児院の子を引き取って屋敷で雇うようになったって」

「ああ、そうだったね…」

 頷く姫羽。

「それ、彼女も該当するらしいんだ」

「え?」

 史也の話を聞いて、姫羽は一瞬黙り込んだ。

 しかし、初めて明里と出会った時の事をふと思い出す。

「そう言えば明里ちゃん、自分は施設にいたみたいな事言ってたけど…それってやっぱり、そう言う事だったの…」

「しかも彼女、12歳の時からこの屋敷で働いているらしい」

 姫羽は、驚きを隠せなかった。

「じゅ、12歳って…が、学校は?」

「ちゃんと、通わせてもらってたってさ。中学校までは、義務教育だからね。中学卒業の時にお祖父様に今後の選択を訊かれた時、彼女は恩返しの意味も込めて屋敷で働く事を選んだ。本当に良くしてもらったらしくてね、服だっていいものを沢山買ってもらってたし、誕生日にはプレゼントももらってたそうなんだ」

 史也の話を聞いて、姫羽はホッと胸を撫で下ろした。

「なーんだ…じゃあ所謂親代わりだってって訳ね、お祖父様は。12歳から働いてるって言うから、てっきりシンデレラのようにこき使われてるのかと思った」

 其処で、史也が話を続ける。

「それが、孤児院にいた時はそう言う生活を強いられてたらしくて、相当厳しかったみたいなんだ。だから、お祖父様に引き取られて良かったんだよ。彼女自身も、凄く幸せだって言ってる」

 姫羽は、腕を組みながら頷く。

「まあ、あの子自身が屋敷に来てからの方が幸せだって言ってるなら、それで私も満足。でも…だったら、彼氏なんて作るどころじゃなかっただろうなぁ」

「其処が、問題でさ…」

 史也は、俯きながら溜息をついた。

「小さい頃から学校の男子に孤児だって苛められてたらしくて、男性に対して恐怖心があるみたいなんだよ」

「ならそれを克服してあげるのが、史くんの役目じゃない!」

 姫羽は、力強く言った。

「あのなぁ…」

 頭を抱える、史也。

「そう簡単に、言ってくれるなよ…大体さぁ、姫も姫だぞ?」

「へ?」

 気の抜けた返事をする姫羽に、史也は言う。

「妙に先生にばっか懐いちゃってたから、ひょっとしたら先生に気があるのかなぁなんて思ってたけど、全然進展ないまま5年も経っちゃっただろ?けど、姫はこうして屋敷にまで先生を追って来た訳だ」

「べ、別に追って来た訳じゃ…」

「だから『おっ!今度こそ、先生と?』って思ったんだよ。そしたらさぁ、はぁ…」

 話の途中で大きな溜息をつく史也に、姫羽は焦って言った。

「な、何が言いたいの?」

 史也は、ジトーッと姫羽を睨んだ。

「典鷹さんトコ、毎日行ってるだろ…最っ低でも、1時間は」

「あ、あれは、典鷹さんがいつも1人で可哀想だか…」

「でも、ちょっとは気になってんだろ?」

 史也が、間髪入れずに訊く。

「そ、それは、まあ、少し惹かれてる部分はある…かも」

 素直に答える、姫羽。

「やっぱり…」

 ガクッと肩を落とす、史也。

 そんな史也を見て、姫羽は言い訳した。

「だ、だって、何か守ってあげたくなるんだよね。こう何て言うのか、危なっかしくて放っておけない感じがするじゃない?それに、色白で儚げな笑顔にも惹かれちゃうし…」

 史也は、頭を抱えた。

「じゃあ、本気って訳じゃないんだな?」

「ほ、本気も何も…別に、私は誰とも付き合う気なんて…」

 憤慨する姫羽に、史也は訊いた。

「先生とも?」

 姫羽は、口ごもりながら言った。

「そ、そうだけど…悪いっ?」

「それは…本心か?」

 心配そうな表情の史也を見て、姫羽は静かに呟いた。

「5年もお隣さんやってみて、分かったんだ。先生は、私には興味ないって。それに、すぐ子供扱いするし…」

「そんなの、たった4歳下なだけだろ?気にする事ないって!」

「慰めてくれるのは、大変有り難いですが…実際、先生にそう思われてないのが現状なんだから、仕方ないでしょ…」

 俯く姫羽を見ながら、眉間に皺を寄せて考え込む史也。

 しかし姫羽はすぐに顔を上げ、明るく言った。

「言ってたでしょ?先生、学生時代は数え切れないくらい女連れ込んでたって。だから、向こうは困ってないんじゃない?まあ、史くんは頑張ってよね!私は…やっぱり、典鷹さんにでもアタックしてみようかなぁ?」

「はぁーっ?」

 史也は、目を丸くした。

「どうして、そうなるかなぁ…だったら、先生は…」

「だから、どうしてすぐ先生が出て来るのよ…」

「だ、だって…」

 史也が口ごもると、姫羽は強く言った。

「先生の事は、もうどうだっていいって!典鷹さんってさぁ、話せば話すほど純粋で真面目で、この人と一緒になる人幸せだろうなぁって思わせてくれるような人なんだよ?」

「先生だってそうだろ?」

 史也の意見に、黙り込む姫羽。

「確かに典鷹さんは色白で、儚げで、男の僕から見たってあのはにかむような笑顔見たら守ってあげたくなるような可愛いタイプだけど、先生だって日に焼けた逞しい体してるし、背高いし、男の僕から見たってあの切れ長の目で見つめられたらドキッとしちゃうような大人の男って感じで、僕はカッコいいと思うけど…」

「まあね…それで天涯孤独だなんて言って、あのアパートに女の子連れ込んでワイワイやってた訳でしょ?岩下さんだってお隣さんだったんだし、一緒になってやってたに決まってる。そう言うのに比べたら、絶対に典鷹さんの方が大切にしてくれそうじゃない?」

「う、うーん…」

 史也は、腕を組んで唸っている。

「とにかく!先生とは長い時間一緒に居過ぎたせいで、今は自分でも先生の事が好きかどうか分からなくなっちゃったの。だから、史くんは絶対に頑張ってよね!私、応援してるから!」

 そう言って、姫羽は冷めたミルクティーの残りを一気に飲み干した。

「そ、そりゃ、どーも…」

 史也は苦笑いしながら、礼を言った。



「たっだいまーっ!」

「た、ただいま…」

 帰って来た姫羽と史也は、スタスタと階段を上った。

「あ、お帰りなさいませ」

 階段の途中で、2人は明里とすれ違った。

「明里ちゃーん!お仕事、大変だねぇ!何か欲しいもの、言ってご覧?」

「姫…」

 明里にデレデレの姫羽を見て、呆れた顔をする史也。

 姫羽は、口を尖らせる。

「うるさいなぁ…そうだ明里ちゃん、近い内に2人で食事行かない?」

「えっ、お食事ですか?」

 明里は突然の誘いに少し驚いたが、笑顔で頷いた。

「あ…はい、是非!」

「じゃあさ、特に用事のない日選んで一緒に外で食べよう!」

「いいんですか?」

 嬉しそうな明里を見て、姫羽は頷いた。

「勿論!私の奢りでね!」

「チェッ、今日なんか全部僕に出させたクセに…」

 その史也の呟きを聞いた姫羽は、ニヤニヤしながら囁いた。

「もう、史くんってば優しいんだよぉ!絶対お金なんて出させないしぃ、いつも色々と気ぃ使ってくれるしぃ、私も自慢の従兄弟なんだよぉーっ!」

「姫!もう、部屋戻ろうって…」

 史也は、顔を真っ赤にしている。

「あっそ…じゃあね、明里ちゃん!お仕事、頑張るんだよ!」

 姫羽は明里の手を握ったり揉んだり摩ったりしながらそう言うと、スタスタと階段を上って行った。

「ご、ごめんね。全く昔から手に負えないんだよ、姫は…」

 史也が困った顔をすると、明里は楽しそうに笑った。

「いえ、史也さんが謝る事ないですよ。それに私、姫羽さんの事大好きですから。本当のお姉さんみたいな感じがして…あ、こんな事言ったら姫羽さんに失礼かな」

 史也は、首を横に振った。

「いや、きっと大喜びするよ。益々、明里ちゃんにベッタリしちゃうかもな」

 そして2人は、同時に笑った。



 部屋に戻った姫羽はする事もないので、永志の部屋へ行った。

 ノックをするが、返事はない。

「先生?」

 もう1度ノックするが、やはり返事はなし。

 姫羽は廊下を歩き、隣のアトリエ前で立ち止まった。

「此処って、私達が来てから未だかつて1度も使われた事ないよね。だから、こんな所に先生がいる訳ないとは思うけど…」

 姫羽はアトリエのドアを少しだけ開き、中をそっと覗いた…すると。

「えっ?」

 何と其処に、永志がいたのだ。

 部屋の中には何枚ものキャンバスが立て掛けてあり、油絵の具の匂いがプンプンしている。

 こちらからは後ろ姿しか見えないが、永志の手には筆が握られていた。

「先生…」

 その声に振り返った永志は、素っ気なく言った。

「何だ、帰ってたのか。で、従兄弟同士のキモーいデートはどうだった?」

「ムカつくなぁ、その言い方…」

 と口を尖らせた姫羽だったが、突然ニヤニヤし始めた。

「ははーん、なるほど」

「何だよ」

 そう言いながらも永志はキャンバスから目を離す事なく、ひたすら筆を動かしている。

「やきもちかぁ…?」

「なっ!」

 永志が、床に筆を落とす。

 姫羽がジーッと見つめると、永志は慌てて筆を拾った。

「バッ、バーカ!やきもちじゃねぇし!」

「ふーん、違うんだ…あ、そんな事より…どうしちゃったの、先生!」

 中に入ってドアを閉めた姫羽は、永志に近寄った。

「うわぁ…メチャメチャ、上手じゃない!」

 永志は、窓から見える風景を描いている最中だった。

「当ったり前だろ、一応美大卒なんだから。しかも、ト・ッ・プ・で!」

「あっそ…でも先生が絵を描いてる姿なんてこの5年間、1度だって見た事なかったからちょっとびっくりした…」

「どーして卒業してまで、絵ぇ描かなきゃなんねぇんだよ」

 永志はそう言って、姫羽の額を小突いた。

「痛っ!そ、そりゃそうだけど…」

「お前らいない間、暇じゃん?この部屋がアトリエだってのは、此処に来た時に茅ヶ崎から聞いてたから、早速入ってみた訳よ。けどこの部屋を見るに、どうやら死んだジジィや親父も独学で絵を描いてたらしいな」

 壁に飾られている古い絵を見回しながら、姫羽も言った。

「じゃあ、此処に飾られてる絵は…」

「多分な」

 頷く永志。

「へぇーっ、先生の絵の原点は此処にあったって訳か。血は争えないねぇ」

 姫羽にそう言われて、永志は黙って肩を竦めた。

「でもちょっと見直した、先生の事」

「あぁ?」

「才能あるのに、何か勿体無いね…画家になれば、儲かったかもよ?」

 姫羽の言葉に、永志はサラリと答えた。

「学生時代、コンクールで入賞した時に既にスカウト済みだよ」

「えっ?」

 驚く姫羽。

「でも、断った」

「どうして!」

 姫羽が訊くと、永志はあっさりと言った。

「画家になれなんて、お袋の遺言になかったから」

 姫羽は、頭を抱えた。

「あ、あのねぇ!先生ってば、どうしてそうなの?ったく、何もかもやる気ゼロなんだから…」

「いいだろ、別に。俺の人生は、俺が決めんだよ」

 永志は、伸びをして筆を置いた。

「よーし、今日は終わり。俺の部屋、来るか?」

 永志に誘われて、姫羽は素直に頷いた。

 アトリエを出た2人は、永志の部屋に入った。

 姫羽は、広いソファーに腰を下ろした。

「でも先生、ホントにびっくりしたって。トップで卒業ってあれ、嘘じゃないね!」

「お前…嘘だと思ってたのか」

「当ったり前でしょ!ああ、何か感動した!あんな、先生らしくない絵…」

 ウットリする姫羽に、永志はムッとする。

「それ、どう言う…」

 其処で、ノックの音がした。

「どーぞ」

 永志が答える。

 ドアが開き、入って来たのは茅ヶ崎だった。

「永志様、お客様です」

「何ぃ?」

 永志は、面倒臭そうな顔をした。

「ったく、今度は何処の無職野郎が俺に縋りに来やがったんだか…」

「先生っ!それ、どう言う意味っ?もし岩下さんの事だったら、怒るからねっ!」

 ムッとした顔で姫羽が言うので、永志は曖昧に首を傾げながら立ち上がった。

「さーてねぇ…俺、下行くぞ」

「あ、私も行くっ!」

 永志と姫羽は、茅ヶ崎と共に1階へ向かった。

「客って、何処?」

 階段を下りながら永志が訊くと、茅ヶ崎は玄関を指した。

「あちらの女性です」

 ドアの前には、明らかに日本人ではない若い女が立っていた。

 手鏡を見ながら、口紅を塗り直している…そして。

「あっ!」

 永志を見た途端、女は駆け寄って来た。

「永志ぃーっ!ひ・さ・し・ぶ・りぃーっ!」

 そう叫ぶと同時に永志に抱きついた女は、何と頬にキスをしたのである。

 茅ヶ崎と姫羽は、その光景を唖然として見ていた。

「お、お前…クロエ?」

 女を、ジッと見つめる姫羽。

 クロエと呼ばれた女は、嬉しそうに微笑んだ。

「永志、覚えててくれたんだぁーっ!」

 永志は頬に口紅の後を残したまま、嫌そうな顔で頭を抱えている。

 茅ヶ崎が、申し訳なさそうに言った。

「え、永志様、実はその…」

 口ごもる茅ヶ崎に、永志は苛付きながら怒鳴った。

「何だよ、茅ヶ崎っ!テメェが、関与してやがったのかっ?はっきり言えっ、どーしてコイツが此処にいんだよっ!」

 永志に指を差されたクロエは、呑気に言う。

「いいじゃーん!いちゃいけない?」

「いけないに決まってんだろうがっ!」

 強い口調の永志に、クロエが思わずひるむ。

「フィリップス様、取り敢えず応接室の方へどうぞ」

 茅ヶ崎は逃げるように、クロエと応接室へ入って行った。

 首を傾げる、姫羽。

 玄関ロビーに取り残された永志と姫羽は暫く黙っていたが、姫羽が最初に口を開いた。

「私、部屋戻る…」

 姫羽は、静かに正面階段を上って行く。

「え?ちょ、ちょっと待てよ!」

 後を追って、永志も階段を上る。

 姫羽は振り返り、無表情で言った。

「何やってるの…お客さん待ってるんだから、さっさと行けば?」

 それを聞いて、永志は腕を組んだ。

「ははーん、なるほど」

「な、何よ?」

 ニヤニヤする永志を見て、姫羽は口を尖らせている。

「お前、やきもちやいてんだろ?」

「なっ!」

 姫羽が顔を赤らめると、永志は笑って言った。

「ハハハ!さっきのお返しだ!」

「ム、ムッカつくぅーっ!」

 姫羽は頬を膨らませ、完璧お怒りモードだ。

「だって、普段のお前だったら『先生!あれ、誰っ!どーせ、昔連れ込んだ女の人なんでしょっ!ヤラしーっ!』とか何とかって、厭味の1つも言って来る筈だもんなぁ?」

 姫羽は、ムッとしながら言い返した。

「ひっどーいっ!私を、どう言う人間だと思ってんのよ!」

「そー言う人間」

 しかし永志の挑発に乗る事もなく、姫羽はすぐ冷静になった。

「ま、どうでもいいけど…ただ1つ言える事は、先生は日本人だけじゃ物足りずに、外国の人にまで手を出してたって事」

「あのなぁ…」

 永志は、溜息をついた。

「あいつは外人じゃない、ハーフだって!」

 その言葉に、姫羽は益々逆上する。

「あっそぉ!じゃあ、ハーフならいいって事?それに、アイツ呼ばわりするような関係だったんだぁ?へぇーっ!」

「だからぁ、ったく…何、怒ってんだよ!」

 永志は、困った顔で姫羽を見つめる。

「ホント…私、何でこんなにイラついてんだろ…」

 姫羽はそっぽを向き、階段をドカドカと上った。

 そして途中で手摺りから身を乗り出し、下にいる永志を見下ろして叫んだ。

「それにね!ほっぺたに口紅つけてるような男の言い訳なんか、聞きたくありませんーっ!」

「えっ?」

 永志が慌てて頬を拭っている間に、姫羽は階段を上って行ってしまった。

「くそっ…参ったな」

 髪をクシャクシャかきながら永志が階段を下りていると、玄関のドアが開いて郁未が帰って来た。

「ただいま、帰りまし…あれ、どっか行くの?」

 郁未に訊かれて、永志は首を横に振った。

「いや…お前は?」

「俺?職安。もう、混んでる混んでる。マジ不況だね、この世の中。やーっぱ河内屋の警備員の件、引き受けよっかなーっ…」

 郁未はそう言って、考え込み始めた。

「え…茅ヶ崎にその件、紹介してもらったんじゃなかったのか?」

 永志にそう訊かれて、郁未は唸りながら答えた。

「うーん…いやぁさ、住むトコと食うモン提供してもらってんのに、職場までってのはあまりにも何つーか、厚かまし過ぎんじゃん?だからねぇ…」

 永志は、郁未の頭を突然殴った。

「痛っ!お前、何すんだよ!」

「そう言うなぁ、テメェらしくねぇ気ぃ回してんじゃねーっつーの!気色悪いんだよ、ドアホ!」

「あ、やっぱり?ってお前なぁ、俺だってそれくらいの気遣いは出来んのよ?」

 郁未はそう言ったが、永志は黙ったまま応接室へ歩いて行った。

「ま、待てよ」

 郁未は、永志を引き止めた。

「その口紅を見るに…誰か来たのか?」

「えっ?」

 再び頬を拭う、永志。

「お前、擦ったろ?尚更、広がってんだけど…ほれ」

 郁未はそう言って、永志に手鏡を差し出した。

「マジかよ…」

 永志は、大きな溜息をついた。

「訳ありの客だな、こりゃ」

 郁未がそう呟くと、永志はハッとして言った。

「あ、そうだ。誰が来たと思う?お前も知ってる奴なんだけど」

「俺も知ってる奴?俺とお前が共通して知ってる奴っつったら、あのアパートのお前の部屋に入り浸ってた数々の女の内の、誰かって事だよな?」

 その郁未の解釈に頭を悩ませつつ、永志は苦笑いした。

「な、中々、鋭い推理で御座いますなぁ…」

「マ…マジでぇ?」

 冗談半分だった郁未は、驚いた顔をした。

「えーっと、待ってくれよ。うーん…何かいっぱい居過ぎて、誰から名前を挙げたらいいのやら」

「クロエだよ」

 一言そう言うと、永志は茅ヶ崎とクロエのいる応接室へと消えた。

「クロエ、クロエねぇ。クロエ…って、えぇーっっっ!も、もしかして、あのクロエっ?い、いや、あのクロエっつっても、クロエなんて女はあいつしかいねぇし!うわっ、ど、どーしよっ!」

「いーわぁーしぃーたぁーさぁーん…」

 1人で頭を抱えながら叫んでいた郁未のすぐ側で、不気味な声がする。

 ハッと振り向くと、其処には怖ぁーい顔をした姫羽が立っていた。

「や、やあ、姫羽ちゃん、どっから湧いて出て…いや、ど、どーしたのかなぁ?つーか前から言おうと思ってたんだけど、俺の事は郁未って気軽に呼んでくれていいから」

「なら、郁未さん…知ってるんですよねぇ、あのクロエさんって人の事…」

「えっ?あ、それはまあ、その、何と申しましょうか…」

 郁未が口ごもっていると、姫羽は有無を言わせず郁未の手を引っ張って階段を上って行った。

「ひっ、姫羽ちゃんっ?ちょっ…いやっ、いやぁーっっっ!」



 姫羽の部屋。

「あの…クロエさんって人と、先生はどう言う関係なんですか…」

 無理矢理引きずり込まれた郁未は、ソファーに座らされている。

 怖い顔で向かいに座っている姫羽を上目使いで見ながら、郁未は言った。

「ひ、姫羽、ちゃん…」

「はぁ?」

 ドスのきいた声を出す、姫羽。

「前から、気になってたん、だけど、さ…」

 郁未は、思い切って訊いてみた。

「アイツの…永志の事、好きなの?」

「あぁ?何で私が、先生なんか好きになんなきゃいけないんですかっ!」

 即答する姫羽。

「えっ?あ、ああ、そ、そう、なんだ…そう、だよね。ごめん…なさい」

 ビクビクする、郁未。

 姫羽は、強い口調で言った。

「この際ですからハッキリ言いますけど、私が好きなのは典鷹さんですからっ!」

 郁未は、これでもかと言うほど驚いた。

「えぇーっっっ!そ、そうだったのぉーっっっ!そっち系の男がタイプだったんだ、姫羽ちゃん…」

「ええ、そうですよっ!悪いですかっ!」

 開き直る姫羽を見て、郁未は苦笑いした。

「い、いや、別に、ハハハ…そうか、だから毎日…なるほど。いやぁね、永志に気がありそうな感じだった割には、弟くんの部屋に欠かさず行ってるじゃん?だから姫羽ちゃん、実際どうなんだろうなって正直疑問だったんだよねぇ…」

「これで分かって、良かったじゃないですか!で、話を戻しますけど!」

「ああ、クロエの事?アイツ、永志と付き合ってたんだよ」

 それを聞いた姫羽は、一気にトーンダウンした。

「そ、そうですか…やっぱり、ね…さっき、玄関のトコで郁未さんと先生が話してんの全部聞いたんですけど、アパートに入り浸ってた女だとか何とかって…」

 郁未は、静かに頷いた。

「ま、付き合ってたなんて言うと永志に怒られるかもしんないけど、正確に言えばクロエが勝手に永志んトコに毎日押しかけてたって感じかな。クロエの奴、永志と同じ美大に通ってたんだ」

「其処で2人は、初めて知り合ったと?」

「ああ。それでクロエが永志の事、気に入っちゃったらしいんだ。永志も、別に嫌な素振り見せなかったし。ほら、当時の永志は女に対してよっぽどじゃない限り、来る者拒まずってトコがあったからさぁ。見ての通り、クロエはハーフで美人だし、スタイルもいいし、コイツならまあいっかって感じだったんじゃない?」

 姫羽は、黙り込んでいた。

「え、えーと、あの…ひ、姫羽、ちゃん?」

 郁未が再びビクビクしながら、姫羽に話しかける。

「あ…すみません。えっと、クロエさんは先生にちゃんと告白したんですか?」

 姫羽の質問に、郁未は思い出しながら答えた。

「うーん…告白ってより、毎日遊びに来ては好きだ好きだって言ってたな。やっぱ外人の血も混ざってるから、そう言うトコストレートって言うか素直に言えるんだよな、自分の気持ちが。勿論、永志は軽くかわしてたよ。お前の事は嫌いじゃないけど、好きでもないみたいな感じの言い方してた」

「そう言う中途半端な発言って、女性にとってはちょっと煮え切らない感じですよね?」

「まあそうだろうけど、クロエにしてみたら嫌われてないだけでもいいやって思ったんじゃない?もうウザいくらいの、超ポジティブ思考女だったから」

 暫く沈黙が流れ、姫羽が立ち上がった。

「有り難う御座いました、お疲れの所引き止めてしまいまして…お部屋でゆっくり休んで下さい」

「え?あ、は、はい…」

 郁未も立ち上がり、部屋のドアを開けながらふと考え込んだ。

「でも、今頃クロエが何の用だろ…アイツ、美大卒業してすぐ渡米したんだよ」

「渡米?」

 姫羽が訊き返すと、郁未は頷いて言った。

「親父さんの実家がアメリカで画商をやってて、其処で海外の美術も学びつつ、画商兼画家として色々勉強したいって事で。勿論その時、永志との縁もキッパリ切った。大体、永志自身が過去の女とは一切関わりたくないタイプだったから、仕方なくクロエも去って行ったんだよ」

 姫羽は、黙って頷いた。

「けど俺も気になるな、今頃現れた理由…もしだったら俺、訊いてみるけど?」

 郁未はそう言ったが、姫羽は首を横に振った。

「あ、いえ…私も気になったら、自分で先生に訊きますから」

「そう?分かった…じゃあね」

 郁未は軽く手を上げ、部屋を出て行った。

「有り難う御座いました」

 頭を下げた姫羽は、その場に立ったまま暫く考え込んでいた。



 その日の夜。

 夕食の時間に姫羽と史也が食堂に行くと、何故かクロエがいた。

 彼女は永志と2人で、いつもとは違うテーブルに座っていた。

 姫羽と史也は、いつものテーブルに着く。

「姫…姫!」

 隣で史也が、小声で姫羽の腕を小突く。

「何よ…」

 ちょっと不機嫌な、姫羽。

「其処の美人な外人さん、誰?妙に、先生と親しく喋ってるけど…」

「外人じゃない…ハーフ!」

 強い口調で、姫羽が答える。

 史也は、チラッとクロエの方を見た。

「ハ、ハーフ?へぇーっ、ハーフにしては外人顔の方が強いね。でも、何で知ってんの?」

「知らない!」

 自分に対して冷たい態度の姫羽に、史也はムッとした。

「ふーん…やっぱりね」

「何よ…」

 無表情で姫羽が訊き返すと、史也は少し得意気になって言った。

「やっぱり姫、先生狙いなんじゃん。僕の前では、はっきりと典鷹さん狙いだって宣言したクセに」

「だから、そう言ったでしょ」

「じゃあ、何で怒ってんだよ!」

 姫羽は、答えなかった。

「ま、いいけど。どーせ、先生の昔の彼女か何かなんだろ?今までだって散々先生の女性遍歴は聞かされて来たけど、あくまでも話だけだった。いつだって先生の隣には姫がいた訳だし、実際僕達と出会ってからの先生は女遊びなんて決してするような事はなかった。だから、姫も心の何処かで安心してたんだよな」

 それを聞いて、姫羽は史也をキッと睨んだ。

「史くん…何が言いたいの…」

「物語の中の登場人物が飛び出して目の前に現れるなんて、普通ならまずありえないだろ?でも、こうして実際に起こっちゃったもんだから、ビビってんじゃないかって事。そう言う動揺を表に出すのは、姫らしくないよ」

「うるさいなぁ…そう言う曲がった解釈、やめてよ…」

「どっちが曲がってんだか…」

 2人がコソコソ言い争っていると、ワゴンを押した明里がやって来た。

「どうしたんですか、2人とも喧嘩なんかして…らしくないですよ」

 姫羽は、即座に明里に泣きついた。

「明里ちゃん!食事、楽しみにしてるからね!史くんの全て、語って聞かせてあげるから!」

「姫っ!それ、仕返しのつもりか?ほんっとどうかしてるね、今日の姫は!絶対、あの人が原因としか考えられないよ!」

 史也がそう言うと、明里もクロエの方を見ながら小声で囁いた。

「ああ…あの方、永志様の家庭教師に来て下さる事になったんです」

『家庭教師?』

 驚く姫羽と史也を見て、明里も驚いた。

「え…ご存知なかったんですか?永志様、英会話が苦手らしいんです。他のお勉強は、かなりお出来になるそうなんですが…それでもし本格的に会社を任される事になると、海外との取引も重要になって来ます。その時に英語が話せないとお仕事上不利になりますので、茅ヶ崎さんが永志様には内緒で英会話の家庭教師を募集したんです」

「先生に内緒で?」

「どうして?」

 2人が同時に訊くと、明里はクスッと笑った。

「だって…永志様にご相談しても、そんな家庭教師なんかいらねぇよ!って、お怒りになりそうじゃないですか」

「た、確かに…」

 プッと吹き出す、史也。

「なので、内密にしておいたんですよ。何人か応募があったらしいんですが、あまり堅苦しい方を採用するとそれこそ永志様が馴染んで下さらずに、授業も進まないんじゃないかと、茅ヶ崎さんは考えたんです」

「流石は茅ヶ崎さん、先生の性格をきちんと把握してる…」

 感心する、姫羽。

「其処で、あちらにいらっしゃるクロエ=フィリップスさんを、採用する事にしたんです。クロエさんでしたら、何と言っても生の英語を聞いて育ってらっしゃいますし、永志様と偶然にも同じ大学のお知り合いだって言うじゃないですか。でしたら、永志様とも仲良くやって行って下さるんじゃないかとの、茅ヶ崎さんのご判断なんです」

「仲良くなり過ぎて、何処までも行っちゃうんじゃないの?」

「ひ、姫…」

 姫羽の厭味混じりの言葉に、頭を抱える史也。

 明里はただ、2人の顔を見比べながら呆然としていた。



 夕食後。

 姫羽は、典鷹の部屋を訪れた。

「はい」

 中から、典鷹の声がする。

「典鷹さん…」

「あ、姫羽さんですか?」

 典鷹は自分で歩き、部屋のドアを開けた。

「やっぱり姫羽さん、どうぞ入って下さい」

「お邪魔します…」

 2人は、ソファーに向かい合って腰掛けた。

「姫羽さん」

「はい…」

 ずっと俯いていた姫羽が、顔を上げる。

「元気ないですけど…何かありましたか?」

 典鷹にそう言われて、姫羽は力なく微笑んだ。

「ハハ…典鷹さんは、何でもお見通しなんだなぁ」

「そんな…でも、どうぞ遠慮なく仰って下さい。僕で良ければ、相談に乗りますから」

 心配そうな表情の典鷹を見ながら、姫羽は口を開いた。

「実は…悩んでるんです」

 典鷹は、黙って姫羽を見つめている。

 姫羽は、真面目な顔で言った。

「典鷹さん…そっち、行ってもいいですか?」

「えっ?」

 典鷹は途端に頬を赤く染めたが、すぐに微笑んだ。

「い、いいです、よ…」

 姫羽は立ち上がり、向かいの典鷹の隣に座った。

 典鷹に寄りかかり、肩にそっと頭を乗せる。

「私、最近変なんです…」

「えっ?」

 驚く典鷹。

「私、典鷹さんに出会って思ったんですけど…典鷹さんといるとすごく安らぐと言うか、日常の嫌な事とか、仕事のストレスとか、そう言う醜い気持ちがぜーんぶなくなって、幸せな気分になれるんです…って、な、何かすみません…突然、こんな事…」

 姫羽が慌てて離れようとした時、典鷹が言った。

「ぼ、僕もそう、です…」

「え…?」

 姫羽は、目を丸くして典鷹を見た。

 典鷹は、ドキドキしながら優しく姫羽の肩を抱き寄せた。

「僕は、ずっとつまらない毎日を送っていた。でも、姫羽さんと出会ってからの毎日は夢のようでした。僕自身、自分の体の調子がこんな短期間で此処まで良くなるなんて思ってもいなかったし、姫羽さんと過ごすこの時間だけが僕にとって唯一の安らぎであり、楽しみなんです」

「そんな事言ってくれる人、今までいなかったな…」

 姫羽がそう呟くと、典鷹は不安な表情を浮かべた。

「に、兄さん…は?」

 ハッとした姫羽は、強く否定した。

「せ、先生なんか関係ないですよ。あの人は、ただの隣人ですから!」

「で、でも、姫羽さんは兄さんの事…」

 それを聞いて、姫羽は悲しげな顔をした。

「典鷹さんまでそんな事、言うんだ…」

 典鷹は、慌てて謝った。

「ごっ、ごめんなさいっ!でも、僕は…てっきり、兄さんの事が好きだから、一緒について来たんだとばかり思って…」

「嫌いではないんです…」

 姫羽は、静かに言った。

「むしろ、好きと言うか…一緒にいて楽しかったからこそ、このお屋敷にもついて来た訳だし…でもそれは、史くんも入れて3人だったからかもしれない…史くんを抜いて2人でいたって、私の知らない先生はまだまだ沢山あって、私が入って行けない領域も沢山あるから、2人でいてもちっとも安らげないんです…」

 姫羽の話を、黙って聞く典鷹。

「でも、典鷹さんは違うんです…典鷹さんの領域は、正直このお部屋しかなかった訳…ですよね?けど、だからこそ私もこの部屋に来る事によって、典鷹さんの全てを知る事が出来る。典鷹さんも私を受け入れてくれるし、私も典鷹さんに包み隠さず何でも話せる。そう言う関係が、本当の幸せだなって思うんです…」

「姫羽さん…」

 姫羽は、ハッとした。

「す、すみません、何か失礼な事ばっか言っちゃって!それに、こんな話したって面白くないですよね?つまり何を言いたいかと言うと、私が今一番好きな人は典鷹さんだって…ん…っ!」

 姫羽はその瞬間、典鷹にキスされていた。

「っ…の、典鷹、さんっ?」

 典鷹は、慌てて唇を離した。

「あ、あの…わ、悪かっただなんて思ってません。姫羽さんを愛しく思った、それだけです…」

 典鷹は、姫羽の髪に触れた。

 柄にもなくドキドキしながら、姫羽は典鷹に言った。

「あ、あのっ、の、典鷹さんって、その、か、彼女とか…いっ、いなっ、いないんですかっ?」

 しどろもどろで姫羽が訊くと、典鷹は赤くなって答えた。

「実は恥ずかしながらこの25年間、1度もお付き合いと言うものをした事がないんです…」

「そ、そうなん、ですか?」

 姫羽が念を押して訊くと、典鷹は小さく頷いた。

「尤も、この部屋から出た事もありませんでしたし。ですから、僕としては姫羽さんに記念すべき初めての、その、僕の恋人になってもらえたらなぁなんて…」

「えっと…わ、私なんかでいいんですか?」

「僕は、姫羽さんじゃなきゃ、駄目なんです」

 其処で、2人は笑った。

「あ、あの…じゃ、じゃあ、私、部屋に戻りますね。あ、明日も早いし…」

 姫羽が立ち上がると、典鷹もゆっくりと立ち上がった。

「そ、そう…ですね。じゃあ、また…」

 典鷹がドアを開けてくれたので、姫羽は廊下に出た。

「お、お休みなさい」

「お休みなさ…あ、そうだ」

 典鷹は、思い出したように手を叩いた。

「そう言えばさっき、何か悩んでるって言ってましたよね?」

 姫羽は、あ…と思ったが、笑顔で肩を竦めた。

「典鷹さんのお陰で、悩みもすっかり解消しちゃいました」

「本当、ですか?」

 典鷹が、心配そうに訊く。

「本当ですよ」

 そう答える姫羽の笑顔を見た途端、典鷹は姫羽を静かに抱き寄せてもう一度キスをした。

「ん…っ、あ、典鷹、さん…っ!」

 典鷹の温かい唇が、姫羽の唇に優しく触れる。

「お休み、姫羽さん…」

 典鷹の笑顔を見て、姫羽もドキドキしながら言った。

「お、お休み、なさい…」

 典鷹と別れ、階段を上っている最中も姫羽の頭の中は、典鷹の事でいっぱいだった。

「典鷹さんって色白で、大人しくて、あんな可愛い顔してるクセに意外と大胆だなぁ…」

 姫羽はもう、ルンルン気分だった。

 しかし…典鷹と姫羽のキスシーンを、遠くから見てしまった人物がいた。

 永志である。

 姫羽が典鷹の部屋を出ようとした時、永志は丁度クロエを送り出した所だった。

 しつこく絡んで来るクロエを引き剥がして、ようやく屋敷を追い出す事に成功したので、姫羽でもからかいに行こうかと思っていた矢先の事だった。

「何なんだよ、あれ…」

 永志の足は、自然と典鷹の部屋に向かっていた。

「展開、早過ぎんだろ…」

 永志は典鷹の部屋のドアを荒々しくノックし、勝手にドアを開けた。

「に、兄さん?」

 ソファーに座っていた典鷹が、慌てて立ち上がる。

 永志はズカズカと部屋に入り、典鷹の向かいにドカッと腰を下ろした。

「一体、どうしたんですか?珍しいですね、兄さんがこの部屋に1人で来てくれるなんて…まあ、僕としては嬉しい限りですが」

 笑顔の典鷹とは対照的に、永志は無表情で言った。

「俺が来なくたって、姫が毎日来てんだろ?」

 典鷹は、素直に微笑む。

「え、ええ、まあ…こんな部屋に来たって何も面白くないでしょうけど、飽きもせずに毎日来て下さいますよ」

 それを聞いて、永志は部屋を見回しながら厭味を込めて言った。

「ほんっと、こんなむさ苦しい部屋に来て何が面白いんだか…」

「に、兄さん…?」

 典鷹が、悲しげな顔になる。

「で、でも、僕は、本当は兄さんに毎日来て欲しいと…」

「邪魔だろ…」

「え?」

 典鷹が、訊き返す。

「俺が来たら、邪魔だろっつってんだよ!」

 永志の怒鳴り声に、典鷹は唖然とした。

「俺、見ちまったんだよ…こっんな薄暗い部屋で、毎日何やってんのかと思ったら…あんな事してた訳だ。なるほどねぇ、お前も結構やるじゃねぇか」

「そ、そんな…っ!」

 ショックを隠し切れない顔で、典鷹が永志を見る。

 永志は、バカにするように言った。

「ま、良かったんじゃないの?こんなトコで閉じ籠もってるより、イチャつく相手見つけてパーッと遊んだ方がさ…」

 典鷹は、俯きながら体を震わせた。

「に、兄さんは…兄さんは、やっぱり姫羽さんの事…っ」

「っざけんな!」

 目の前のテーブルを蹴る、永志。

 典鷹は目を見開いたまま、永志を見つめている。

「俺にそう言う事、訊くかよっ!俺とアイツは、何の関係もねぇ!一緒にすんじゃねぇよ、クソッタレ!」

「に、兄さん…」

「アイツ…お前の事が好きだって、ハッキリ言ったのか?」

 永志が訊くと、典鷹は静かに頷いた。

「ぼ、僕といると、安らぐって言ってくれました。一緒にいて安らげる事が、本当の幸せだって。だから、今1番好きな人は僕だって。そう、言ってくれました…」

「ふーん、そうかよ…」

「に、兄さん、あの…」

 典鷹が何か言おうとするのを無視して、永志は立ち上がった。

「じゃあな…ま、精々仲良くやれば?」

「あ、あの…っ」

 永志は典鷹の部屋を出ると、思い切りドアを閉めた。

「兄さん…」

 典鷹は、永志が去って行ったドアの方を黙って見つめていた。


        †


 翌日。

 いつも通り、姫羽は朝食の時間に史也を迎えに行った。

「コンコーン!史くーん!おっはよーっ!」

「あ、あのさぁ、ノックを声に出して言わなくてもいいと思うけど…」

 ドアを開けた史也は、頭を抱えている。

「そっかぁ!ごめんごめん!」

 姫羽は、ニヤニヤ笑っている。

 史也は、苦笑いした。

「姫…キモい」

「そっかぁ!ごめんごめん!」

 姫羽はそれしか言わず、スキップしながら階段を下りて行ってしまった。

「な、何なんだ、一体…怖っ!」

 いつもと違い、何を言っても動じない姫羽の後ろ姿を見ながら、史也は恐怖を感じていた。

 その時、永志の部屋のドアがゆっくりと開いた。

「おう、史」

「あ、先生。おはよう御座います」

 挨拶する史也に、永志は言った。

「どうやら、うちのお坊ちゃまとめでたくゴールインしちまったらしいよ、アイツ」

「え…でぇーえぇーっっっ!」

 史也は、それはたまげた。

 永志は黙ったまま、スタスタと階段を下りて行く。

 史也は、慌てて後を追いかけた。

「ちょ、ちょっと待って下さいよ、先生!一体、どう言う事ですか?」

 永志は、無表情で答える。

「どーもこーもねぇだろ。姫の奴、典鷹と付き合う事にしたらしいよっての」

「ひ、姫と典鷹さんがっ?」

 何度聞いても、史也はあまりピンと来なかった。

「先生、い、いいんですか?」

「何が?」

 史也の質問にも、永志は冷静に対処する。

「何がって…」

 史也は、それ以上何とも言いようがなかった。

 煮え切らない史也に対し、永志はムッとする。

「お前、何が言いてぇんだよ!いいも悪いもねぇだろーが!俺には、関係ねぇ話だ!」

 そう怒鳴って、永志はさっさと階段を駆け下りて行ってしまった。

「ったく、先生も姫もおかしいよなぁ…」

 史也は納得出来ないまま1階まで下り、食堂に入った。

 中では、何故か姫羽と典鷹がいつもと違うテーブルに一緒に座っていた。

「の、典鷹さんっ?」

 驚いた史也は、慌てて典鷹の元へ駆け寄った。

「あ、史也くん。おはよう御座います」

「おっはよーっ、史くんっ!」

 姫羽も、ニコニコしながら挨拶する。

「アンタには、さっき会ったでしょーが…」

 顔を引きつらせつつ、史也は典鷹に訊いた。

「と、ところで、典鷹さん、具合いいんですか?典鷹さんが此処で一緒にお食事するなんて光景、初めて見たものですから心配になりまして…」

 恐縮しながら史也が訊くと、典鷹は微笑んで答えた。

「有り難う史也くん、最近は調子がいいんだ。今日からは、食堂で食べるように心掛けようかと思って…姫羽さんもいるし」

「そうそう!やっぱり食事は、皆で食べた方が美味しいでしょ?」

 姫羽は、典鷹とラブラブモードだ。

「ハハ、ハハハ。そ、そうですよねぇ…」

 史也は朝から疲れた様子で、離れたテーブルにいる永志の隣に座った。

「先生…あれ、どーなってんですか?」

「どうして、俺に訊くんだよ…別に、関係ねぇだろ」

 永志は冷めた口調でそう言い、黙々と食べ続けている。

「いや、でもですね…やはり1つ屋根の下に住んでいる者同士、カップルがいるってのはお互いやりにくいものがあると思うんですよ。先生はこの屋敷の主人なんですから、そう言う事をビシッと言ってやったらどうですか、ビシッと!」

 史也にそう言われたが、永志はパンを齧りながら肩を竦めた。

「んなの、俺は全然気になんねぇもん」

「せ、先生…」

 呆れた史也は、小さく溜息をついた。


        †


 姫羽と典鷹が付き合い始めて暫く経った、ある日の午後。

「さあ、始めましょうか」

 早速、今日から英会話の授業を始める事になった永志。

 クロエと2人、自分の部屋で発音の練習をする。

「えーっと、まず最初は…」

「あのさぁ…」

 永志が、それを途中で遮った。

「これ、いつまで続ける気?」

 クロエは、自分の手帳を捲る。

「えーっと、一応茅ヶ崎さんに言われてるのは今日から始めて週3回、月、水、金。時間は、午後2時から4時まで。永志が完璧になるまで、続けてくれって事らしいよ」

「マジかよ…」

 永志は、ダラーッとソファーの背もたれに踏ん反り返った。

「ちょっと、真面目にやってよ!」

 永志の態度に、ムッとするクロエ。

「大体さぁ…」

 永志は、ガバッと体を起こした。

「お前、アメリカ行ったんじゃなかったのかよ。何で、日本にいるんだ?」

「ああ、それは…早い話が、永志に会いに来たの」

「はぁ?」

 永志は、嫌そうな顔で訊き返した。

「あれから、5年も経っただろ?何で今頃、会いに来んだよ…」

 永志の台詞に、クロエは怒鳴った。

「んっもうっ!どうして永志ってば、そうやって私に対して冷たい訳っ?昔は、それが私に対する愛情表現なんだろうなって信じて疑ってなかった!好きとは言ってもらった事なかったけど、嫌いって言われた訳でもなかったし…」

 クロエは溜息をつくと、奥の出窓まで歩いて行った。

 窓の外を見ながら、再びクロエが口を開く。

「実はさ…誘いに来たんだ」

「何を」

 気のない態度で、返事をする永志。

「永志、画家になる気ない?」

 永志は、目を丸くした。

「私、アメリカに行ってすぐにお父さんに永志の絵見せたんだ。そしたらお父さん、すっごく気に入っちゃって。永志には悪いと思ったけど、向こうのアマチュア展覧会に作品出しちゃったの」

「はぁ?」

「そしたらさぁ、何気に反響凄くって!今、永志の絵を安く買っとけば将来凄い値がつくかもしれないって、大騒ぎなんだよっ!」

 永志はテーブルに置いてあった煙草を1本取り出し、火を点けた。

「で、俺にどうしろっての?」

 その言葉に拍子抜けしたクロエは、こちらを振り返った。

「あれ…勝手に絵を持ってった事、怒んないの?」

 永志は煙を吐きながら、静かに言う。

「んなもん、今更怒ったってしょーがねぇだろ?もう、出しちまったんだから…それに評判良かったって聞かされて、嫌な気しねぇしな」

「そう、良かった…」

 クロエは、ホッと胸を撫で下ろした。

「それだけが、心配で…だったら、問題ないじゃない!私と一緒に、アメリカ行こうよ!お父さんに口利いてもらえばもしかしたら永志、アメリカで成功して億万長者になれるかもよ?こんなチャンス、もう来ないかもしれないんだから!」

 クロエにそう言われて、正直永志は迷った。

「つーか…そう言う大事な話、今日聞かされて即決出来る訳ねぇだろ!」

「あ…そ、それもそうだよねぇ、ハハハ」

 クロエは笑いながらこちらへ歩いて来て、永志の向かいに腰掛けた。

「じゃあ、来月いっぱい待つよ…それで、どう?」

「ら、来月って、ちょっと短くねぇか?今月だって、今日入れてあと3日しかねぇんだぞ!」

 永志がそう言うと、クロエは肩を竦めた。

「悪いけど、こっちもスケジュール詰まってんの。実は私も、画家の方面で軌道に乗ってて何枚か絵を頼まれてるから、それを仕上げないといけないんだ」

「マジで?良かったじゃん」

 永志は、素直に喜んでいた。

 クロエは頷き、話を続ける。

「それで茅ヶ崎さんには言ってあるんだけど、3月の頭に一旦アメリカに戻ろうと思ってるからその時、もしだったら一緒に行こうよ」

「ま、行く気になったらな」

 永志が素っ気なく言うので、クロエはムッとした。

「また、そんな事言って!後悔しても、知らないよ!」

「考えとく」

 永志が煙を吐くと、クロエはキッと睨んで来た。

「あの時だって、永志は折角のチャンスを逃したんだからね…」

 あの時…と聞いて、永志は途端に黙り込んだ。

 煙草の灰を、灰皿に落とす。

「永志が本当は優しい人だって、私が1番よく知ってるんだから…」

「バーカ、自惚れんな…」

 永志が、再び煙を吐く。

 クロエは、強い口調で言った。

「ほんとだよ!だって私達、ほとんど毎日一緒にいたじゃない!」

「お前が、勝手に押しかけて来ただけだろ?」

「すぐ、そう言う風に言う…」

 クロエは立ち上がり、永志の隣に座った。

「ねえ永志、今頃永志は日本どころか世界中で有名な画家になってたかもしれないんだよ?それなのに、永志優しいからあんな…」

「昔の話だろ…」

 永志が、短く答える。

 クロエは、必死になって訴えた。

「でも私、悔しいよ!大学では、いっつも文句言われっぱなしだったじゃない!カッコつけてるとか、生意気だとか、みなしごのクセにとかって散々言われて!なのに永志、言い返さないもんだから連中も段々調子に乗って、益々つけ上がって…」

 永志は、黙って煙草を吸っている。

「永志の提出課題がメチャメチャにされたのだって、アイツらの仕業だったんだよ?皆見てたクセに、後が怖いからって黙っちゃって…」

 俯くクロエを見て、永志はあの時の事を思い出していた。

「お前だけが俺の味方してくれたっけな、確か…」

「当たり前でしょ!ああ言う連中見て、黙ってなんかいられなかったんだもん!でも私1人が喚いたって、懲りるような連中じゃなかった…コンクールでが何回か入賞して、折角画家としてやってみないかって誘われたのに、永志は連中のリーダー格だったヤツにその権利を譲ったよね?私、信じらんなかったよ!」

 永志は、煙草を灰皿に押し付けた。

「じゃあ、信じなきゃいいんじゃん?」

「そう言う問題じゃないでしょっ!」

 クロエは、思わず立ち上がった。

「どうして、あんな事したの?あのリーダー格だったヤツが中心になって、永志に散々酷い事してたんだよ?確かにそいつも何度か入賞はしたけど、永志の才能に比べたら全然だったじゃない!それだけが、未だに悔しくて…」

「金だよ…」

「え…」

 それを聞いたクロエは、目を丸くした。

「ど、どう言う…事?」

「ヤツの親父、金出して自分の息子を画家にしたんだ。あの後、スカウトしに来たおっさんがウチに電話して来て、金のない奴は画家になる資格がないだとか何とかって抜かしやがった…」

「ひ、酷い…」

 クロエは、ガックリとソファーに座り込んだ。

 永志は、肩を竦める。

「いいんだよ、別に。負け惜しみに聞こえるだろうけど、正直俺は画家なんか目指しちゃいなかったんだし。なりたい奴が精々金でも積んで、ない才能ひけらかして頑張りゃいいじゃん。そう割り切って、考える事にしたんだ。まあ俺自身、自分に人より才能があるなんて思っちゃいねぇけどさ」

「永志は絵の才能、あるよ!」

 クロエは、永志の膝の上に手を置いた。

「自慢じゃないけど、お父さんの目は確かなの。それに、現にアメリカで評判が良かったんだよ?永志はもっと、自信を持っていいと思う」

 永志は、微笑みながらクロエの手をそっと払った。

「よせって…ま、その件に関しては取り敢えず考えとくからさ」

「うん…」

 クロエは、静かに頷いた。


        †


 暇な郁未は早速屋敷を出ると、歩いて『ピースアメージュ』へ向かった。

 そう、あの思い出のアパートと同じ名前を付けた、姫羽のハンドメイドショップである。

「さて、どうしよ…」

 郁未は中を覗いてみたが、姫羽の姿は見当たらない。

 自分とは縁のない、手編みのマフラーや、パッチワークのバッグ、ビーズのアクセサリーなど、可愛らしい商品が所狭しと並べられている。

 突然入って、勧められても困ってしまう。

 本当は此処から、中にいる姫羽とアイコンタクトが取れれば一番いいと思っていたのだが。

 ボーッと眺めていると、中から人が出て来た。

「あ、あ、あのっ!其処の貴方っ!」

 全身をいかにも手作りの洋服で固めた、中年の女性だ。

「は?」

 郁未が、訊き返す。

 女性は、興奮しながら言った。

「ど、ど、何処の何方か存じませんけど、こ、此処は、ハンドメイドショップなんですっ!ふ、不審者は、け、警察に通報しますよっ!頭も、そ、そんな、金色なんかに染めてっ!」

 郁未は、慌てて弁解した。

「べ、別に怪しいもんじゃないっすよ!あの…姫羽ちゃん、います?」

 その名を聞いて、女性は驚いた顔をした。

「も、もしかして貴方、姫羽さんのお知り合いなの?」

「え、ええ、まあ…」

 女性は郁未を睨みながら、溜息をついた。

「ま、そう言う事なら仕方ありませんわね。こちらへいらして下さい、中へお通ししますから…あ、いいですかっ!くれぐれも、暴れたりなさらないで頂戴ねっ!」

「俺、化けモンか何かかよ…」

 女性の態度にムッとしながら、郁未は渋々ついて行った。

 中へ入り、応接室に通された郁未はソファーに腰を下ろした。

「こちらで、お待ち下さい。くれぐれも大声を出したり、廊下を歩き回ったりなさらないように頼みますよ!いいですね!」

 そう言って、女性はドアの硝子越しにこちらを睨みながら出て行った。

「ケッ!俺は、動物かっつーの!」

 郁未は、ドアに向かって唾を吐きかける真似をした。

 暫く待っているとノックの音が聞こえ、お盆にお茶を乗せた姫羽が入って来た。

「よお、姫ちゃん!」

 郁未が、手を上げる。

 姫羽は、お茶を並べながら言った。

「びっくりしましたよ!郁未さんが訪ねて来るなんて、初めてじゃないですか!一体、どうしたんです?」

 郁未は、嫌そうな顔をする。

「それより、さっきのおばちゃん誰よ?」

「ああ、あの方は此処のビルオーナーの台嶋だいじま和歌代わかよさんです…ハンドメイドが好きだって仰って、私の経営にすごく興味を持って下さって…此処の家賃も破格のお値段にして頂いて、ああしてちょっと用事がある時に、お店まで見てくれているんです」

 姫羽の答えに、郁未は肩を竦めた。

「へぇーっ…にしても、性格悪いねぇーっ!人を、見た目でしか判断しないっつーの?」

 姫羽は、首を傾げる。

「さあ。まあ、どうでしょうかね…」

 其処で郁未は、ハッとした。

「あ、ご、ごめん。お世話になってるオーナーさんの事を悪く言われたら、いい気しなかった…よな?」

 姫羽は首を横に振り、笑顔で言った。

「いえいえ、気にしないで下さいって!ところで、何かあったんですか?」

 姫羽が本題に入ろうとすると、郁未は背もたれから起き上がって小声で言った。

「ねえ、姫ちゃん。今日、何時に終わる?」

 姫羽は、壁の時計を見た。

「えーと…もう1時間くらい、ですかねぇ」

「じゃあさ、隣の喫茶店で待ってるから、来てくんないかな?」

 郁未の突然の誘いに、姫羽は驚いた。

「ちょ、ちょっと待って下さいよ。何か話があるんだったら、お屋敷に帰ってからでも…」

「屋敷じゃ、ちょっと…ね」

 言葉を濁す、郁未。

「え、何か気になるなぁーっ!」

 姫羽が笑っていると、再び郁未は小声で言った。

「実はさ、永志の事なんだけど…」

「せ、先生の?」

 途端に、真顔になる姫羽。

 郁未は、黙って頷いた。

 姫羽は、困った顔をする。

「で、でも、何で先生の話なんか…」

「とにかく、待ってるから!じゃ!」

 郁未は立ち上がると、応接室を出て行ってしまった。

「ちょっ、い、郁未さん?」

 追いかけようと立ち上がった姫羽だったが、途中でやめて考え込んだ。

「先生の…話?」



「お帰りなさいませ」

 明里が、笑顔で出迎える。

 史也も、笑顔で言った。

「ただいま。姫、帰ってる?」

「姫羽さんですか?いえ、まだですけど」

「え、おかしいな、もう帰って来る頃なんだけど。折角頼まれてたハンドメイド雑誌、買って来てやったのになぁ…」

 史也は、仕方なく手に持っていた雑誌を鞄にしまった。

「史也さん」

 明里に呼ばれて、史也は顔を上げた。

「どうしたの?」

「あの、姫羽さんの事なんですけど…」

 明里は史也に近付き、小声で言った。

「最近、お食事の時間…姫羽さんと典鷹様、一緒にいらっしゃいますよね?」

 史也も、自然と小声になる。

「ああ、その事か…明里ちゃんも、知ってたの?」

「知ってたのって…ま、まさか!」

 何となく感づいた様子で、明里は言った。

「私、いつだったか姫羽さんに訊いたんです。どうして最近、典鷹様とお食事なさってるんですかって…だって、今まででしたら永志様と姫羽さんと史也さん、3人ご一緒のテーブルで召し上がっていたでしょう?」

「そう…だね」

「そうしたら凄く嬉しそうなお顔で、典鷹様とラブラブだからって仰ったんですよ?私、正直信じられなくて…」

 明里は、困った顔で俯いた。

「はぁ、姫の奴…」

 史也が溜息をつくのを見て、明里は目を丸くした。

「ほ、本当なんですか?」

 史也は、黙って頷いた。

「し、信じられないです!だって、私はてっきり永志様と…」

「シーッ!」

 史也は唇に人差し指を当てると、場所を階段下に移動した。

「ま、あんな玄関ロビーの真ん中でするような話でもないからさ」

「そ、そうですね…」

 明里も、肩を竦めて再び話し始めた。

「私、その…姫羽さんが典鷹様とラブラブだと聞いて、最初は信じられなかったんです。でも永志様と姫羽さんのご関係を見ていたら、じゃあお2人はそうではなかったのかなって…私はてっきり、姫羽さんは永志様を追ってこのお屋敷にいらしたんじゃないかって思っていたものですから」

「僕も、そう思ってた」

 同意する史也に、明里は話を続ける。

「こちらにいらしてから、確かに姫羽さんは毎日欠かさず典鷹様のお部屋にいらしてました。でもまさか、典鷹様の事がお好きだからいらしてたとは…」

 史也は暫く考え込んでいたが、開き直って言った。

「まあ、いいんじゃないの?何か、先生もどうでもいいみたいな感じだったし。大体、此処で僕達がどうのこうの言った所で…」

「あ、永志様…」

 明里が呟くのを聞いて上を見上げると、正面階段から永志とクロエが下りて来る所だった。

「クロエさんも、一緒ですね」

 明里が、上を見上げる。

「取り敢えず、隠れよう」

「えっ…は、はい」

 2人は見つからないよう、階段下の隅に隠れた。

 史也は様子を窺いながら、小声で訊いた。

「明里ちゃん、先生の英会話の授業っていつやる事になってんの?」

「確か月、水、金の週3回。時間は、午後2時から4時の2時間です」

 明里の答えに、黙って頷く史也。

 永志とクロエは階段下にいる史也と明里には気付かず、玄関へと向かった。

「今日も、超楽しかったねーっ!」

 クロエは、ベタベタと永志の腕にしがみ付いている。

「そうかぁ…?」

 面倒臭そうに、答える永志。

「そうだよっ!じゃあまた、来週の月曜日にね!」

 クロエは永志に抱きつき、何と唇にキスをしたのだった。

 明里はそれを見て、目を丸くしている。

 史也も顔を赤らめ、頭を抱えて溜息をつきながら俯いた。

「お、お前、いきなり何すんだよ!お前とはとっくに終わってんだから、こう言う事すんなっ!」

 焦る永志に、クロエは口を尖らせながら呟く。

「何、怒ってんのぉ?いいじゃなーい、誰もいないんだからぁ!」

「いるかもしんねぇだろ!見られたらどーすんだよ!」

 辺りをキョロキョロ見回す永志を見て、クロエはムッとした。

「見られちゃヤバイ人でも、いる訳?」

「え…」

 永志が、ビクッとする。

「ふーん…いるんだ」

 クロエが、冷たい視線を向ける。

 しかし、永志は答えなかった。

 クロエは、溜息をついた。

「ま、いいけど。でも、避けない永志もどうかと思うよ」

 それを聞いて、永志は怒鳴った。

「と、とにかく!こう言う事は、これから絶対にすんなっ!俺はお前と昔みたいな関係に戻る気なんて、更々ねぇんだかんな!」

「はいはい、分かりましたよっ!」

 相変わらずムッとしながら、クロエは玄関のドアを開けた。

「じゃあアメリカの件、早く考えてよね!」

「ああ」

 クロエは勢いよくドアを閉め、屋敷を出て行った。

 永志は大きな溜息をつき、ゆっくりと階段を上って行ってしまった。

「やっぱクロエさん、先生の昔の彼女だったか…姫、今の現場見たら怒るだろうなぁ」

 永志を見上げながら史也がそう呟くと、明里は驚いた顔をした。

「え、典鷹様とお付き合いしてるのに…ですか?」

 史也は、首を傾げながら答えた。

「何かよく分かんないんだよね、先生と姫の関係。つかず離れずって感じで、好きでもないけど嫌いでもないみたいな…多分2人とも、もう今更って感じで先へも進めず相当悩んでるんだろうけど」

「お辛いでしょうね…」

 明里は、黙って俯いた。

 其処で、史也が思い出したように言う。

「あ、そう言えばさ…さっき、最後にクロエさんが何か言ってたよな…確か、アメリカの件ってヤツ。あれ、何の事だろう」

「さあ…」

 2人は首を傾げながら、階段を上って行く永志の姿を黙って見上げていた。



「えーっ?ア、アメリカーっ?」

 姫羽は、喫茶店で大きな声を張り上げていた。

 周りの客は幸い1人もいなかったが、その代わりにマスターがカウンター越しにチラチラとこちらを見ている。

「月曜日の事なんだけどさ、この4日間ずーっと姫ちゃんに話そうかどうしようか迷ってて…でまあ、ついに話そうと決めた訳」

 そう言って、郁未は煙草とライターをポケットから取り出した。

「俺もプライベートな永志は嫌ってほど知ってんだけど、大学は別だったから学校生活までは知らなかったんだよ。んで月曜日にさ、別に盗み聞きしようってんじゃなかったんだけど、たまたま永志の部屋の前通り掛かったら、クロエと喋ってんのが聞こえて来ちゃって…」

「通り掛かったら…って言ったって、郁未さんと先生の部屋反対方向だし、通る必要がない…ですよねぇ?」

 姫羽のツッコミに、郁未は笑ってごまかした。

「ハハ、ハハハ!ま、まあ、そう言う細かい事はこの際置いといて…とにかく大学で相当嫌がらせされてたらしいんだよ、アイツ。普段から感情を表に出さねぇ奴だから、アパートじゃ普通にしてたんだよな。俺、全然気付かなくてさ」

 郁未は煙草を1本取り出し、火を点けながら話を続けた。

「クロエも気性の激しい性格してるからさ、ソイツらに一生懸命反抗してたらしいんだけど、てんで駄目だったみたい。で、コンクール入賞の時にスカウトが来たってのは知ってる?」

「ま、まあ…」

「そのスカウトって、永志の他に嫌がらせグループの1人も候補に挙がってたらしいんだよ。で、どっち選ぼうかって話になった時に嫌がらせしてた奴の父親が金積んで、自分の息子を推薦したそうなんだ。お陰で永志は画家への道は閉ざされるわ、バカにされるわで散々。でも、永志は文句1つ言わなかった…」

 郁未は、煙を吐いた。

 姫羽は、黙っている。

「結局就職活動もせずに大学を卒業して、クロエとも縁を切った。その後の生活ぶりは、姫ちゃんの方がよく知ってるよね。クロエはってぇと、アメリカに渡ってこっそり持って来た永志の絵を親父さんに見せた。そしたら親父さんが豪く気に入っちゃって、向こうのアマチュア展覧会に勝手に出展しちまったって言う訳よ」

「せ、先生の絵を、勝手に?」

「これがまた、向こうで絶賛だったらしいんだ。ま、素人の俺が見たっていい絵描くなって思うくらいだから、玄人が見たら相当なんだろうな…きっと」

 その意見には、姫羽も賛成だった。

「それは、まあ…私もそう思います」

「クロエの親父さん、アメリカに来ないかって誘ってるみたいなんだ。クロエも、大学時代に捨てた画家へのチャンスがまた来たってくらいの勢いでさぁ…ま、実際アイツはただ単に永志に側にいて欲しいってだけだと思うけどね。出来れば永志に永住してもらって、そのまま結婚しようって魂胆なんじゃないの?」

 其処まで話して、郁未は灰皿に煙草の灰を落とした。

 結婚…それを聞いて、姫羽は少しムッとしている自分に気付いた。

「あの、郁未さん…」

 姫羽は、郁未を見た。

「わざわざそんな話伝える為に、私の店まで来たんですか?」

 郁未は煙を吐きながら、呑気に言う。

「そうだけど」

「何でですか?」

 姫羽に訊かれて、郁未は酷く驚いた。

「何でって…俺に訊くかなぁ、そう言う事…」

「だって私、典鷹さんと付き合ってるんですよ?」

 姫羽がそう言うと、郁未はゲホゲホ咳き込んだ。

「の、典ちゃんと、続いてたんだ…」

 姫羽は、黙って頷いた。

「姫ちゃんさぁ…」

 郁未は、眉間に皺を寄せて訊いた。

「本気?」

「何がですか?」

 姫羽は、あっけらかんとして答える。

 郁未は、再び驚いた。

「何がって…俺に訊くかなぁ、そう言う事…」

「誤解してるみたいですけど、私と先生は何の関係も…」

「でもね…」

 郁未は姫羽の言葉を遮り、灰皿に煙草の灰を落とした。

「永志が彼処まで変わったのは、姫ちゃんの影響が大きかったからだよ?」

 その言葉に姫羽が目を丸くしていると、郁未は静かに言った。

「クロエがしつこく付きまとっても変わらなかったアイツの頑固さを、姫ちゃんはあっと言う間に崩しちまった。俺、正直びっくりしたよ。この5年の間に、すっかり永志も丸くなっちまってさ。史ちゃんからも聞いたけど、女のおの字も作んなかったって言うじゃん?それってやっぱ、姫ちゃんがいたからなんじゃないの?」

「そ、そんな事、ありませんって!」

「そうかなぁ…」

 郁未は、煙を吐いた。

「ま、俺が口出しするような事じゃないけどさ…でも、永志が変わったのは絶対に姫ちゃんがいたからだって。しかも、いい方向に変わってる。クロエも含めてあの部屋に連れ込んだ女は山程いたけど、こうは行かなかったよ。これだけは事実として、姫ちゃんにも自覚してもらわないと」

 しかし、姫羽は頑として言った。

「けど私は、先生の恋人でも何でもありませんし、それに…私のお陰で先生がいい人になっただなんて、驕りたくはありません」

「何も、そんな態度を取れとは言ってないよ」

 郁未は、煙草を灰皿に押し付けた。

「ただアイツが自覚してないだけで、姫ちゃんの存在は気付かない内にアイツの中で、相当大きくなってんのよ…5年も、一緒にいたんだろ?屋敷にまでついて来た所を見ると、少なからず姫ちゃんだってアイツの事は悪く思ってないんだろうから、もうちょっとアイツの気持ちを考えて行動してやって欲しいんだよ」

 郁未のその言い分に、姫羽はムッとした。

「だったら、私の気持ちはどうなるんですか…」

 郁未は、ギクッとした。

「い、いや、だからね…うーん、困ったなぁ。俺も何て言ったらいいのか分かんないんだけど、もう少し冷静になってさ。クロエが来た事で姫ちゃん、ちょっとおかしかったから」

「そ、そう…ですか?」

「そうだよ。あんなムキになって、俺から色々訊きだそうとしてたじゃん。普段は心の広い、姫ちゃんがさ。だから、ちょっと心配になったんだよ。ごめんな、訳分かんない事言っちゃって」

 困った顔をする郁未に、姫羽は微笑んで見せた。

「そ、そんな、謝らないで下さいよ。郁未さんの心遣いには、ちゃーんと感謝してますから。でも、今の私は典鷹さんといる時が1番幸せだし…典鷹さんも、そう言ってくれてるし。それに、先生は先生でクロエさんの事考えてるんだろうし…」

「いや、それはないと思うよ」

「え…ど、どうしてですか?」

 驚く姫羽に、郁未は言った。

「アイツ、ちゃんとした付き合いした事ないんだ」

「え?」

「女が勝手に押しかけて来て、永志もそれを拒まなかった…ただ、それだけの事。昔から、そうだった。向こうが好きだ好きだって言って来ても、永志は決して好きだなんて言わないんだ。だから女の方が根負けして、すぐに出て行く。要するに、長続きしたためしがないって訳」

 姫羽は、黙って聞いている。

「クロエはその点、どの女よりもしつこかった。どんなに永志に冷たくされても、めげなかった。だから今度は、永志の方が根負けしたんだな。もう、勝手にしてくれって感じで…こうして5年ぶりに再会したのも、クロエの永志に対する根強い未練のせいなんじゃないかな」

「そう、ですか…」

 頷く姫羽。

 郁未は、ライターと煙草をポケットにしまった。

「アイツのそう言う気持ちは、今も変わってないと思う。どっちかって言うと疎ましく思ってた方が強いから、クロエと一緒になるってのはまずないだろうな」

「で、でも、私は…」

「まあ姫ちゃんは典ちゃんの事、大事にしてやれよ。お互いが一緒にいて幸せなんだったら、それが1番いい事だって俺も思うし」

 姫羽は困った顔をしながら、曖昧に頷いた。



「たっだいまーっ!」

「ただいま、帰りましたーっ!」

 姫羽と郁未は、一緒に帰って来た。

「お帰りなさいませ」

 明里が、出迎える。

「明里ちゃん、たっだいまーっ!あ、郁未さん。私、典鷹さんトコ寄って行きますから!」

「あ、ああ…分かった」

 郁未は頷き、黙って階段を上って行った。

 姫羽は典鷹の部屋へと向かい、ノックをした。

 典鷹の声がしたので、姫羽はドアを開けた。

「ああ、姫羽さん。どうぞ、こちらへ」

 2人は、ソファーに腰掛けた。

 しかし話が弾まず、沈黙が続く。

『あの』

 2人は、同時に口を開いた。

「あ、ごめん。姫羽さんから、どうぞ」

 典鷹がそう言うと、姫羽はクスッと笑った。

「いえ、典鷹さんから…」

「そ、そう?じゃあ、お言葉に甘えて…姫羽さん、何だか元気ないなって思って…」

 姫羽は、焦った顔をした。

「え?や、やっぱり分かります?いやぁ、いつも典鷹さんには心配ばかりかけちゃって…」

「姫羽さん…僕はもう、大丈夫です。姫羽さんが、僕を想ってくれてるって分かりましたから。だから姫羽さんも無理しないで、お疲れの日はお部屋で休んで下さい。毎日姫羽さんに会いたいのはやまやまですが、姫羽さんの体の事を考えるとそんな我儘も言っていられませんので、僕も我慢します。ですから…」

 典鷹にそう言われて、姫羽は静かに微笑んだ。

「有り難う、典鷹さん。私も典鷹さんの前では無理しないで、疲れた時は疲れたって素直に言おうと思ってるんで…典鷹さんこそ、具合の方は大丈夫なんですか?」

 其処で典鷹は、顔を曇らせる。

「え、ええ、僕はまあ。ただ…」

「ただ…何?」

 姫羽が訊き返すと、典鷹は沈んだ様子で言った。

「ただ、兄さんが…」

「先生が、どうかしたんですか?」

「この前、僕の部屋に来てくれて…」

 姫羽は、目を丸くした。

「ホントですかっ?へぇーっ、珍しい事もあるもんだなぁ!やっぱ弟である典鷹さんの事、何だかんだ言っても可愛いんだぁ!」

「え、ええ、そう、ですね…」

 典鷹は、力なく笑った。

「でも、それが何か?」

 姫羽に訊かれて、典鷹は慌てて首を横に振った。

「あ、いえ、別に…」

「そう、ですか。じゃあ、典鷹さんには申し訳ないんですけど…私、今日は部屋に戻りますね」

 姫羽が立ち上がると、典鷹も立ち上がって言った。

「是非、そうして下さい。ゆっくり休んで、また元気が出たらお話しましょう」

「はいっ!」

 姫羽は典鷹の頬にキスをして、部屋を出て行った。

 典鷹は姫羽を見送りながら、あの日の永志の態度を思い返していた。

「兄さん…」


        †


 姫羽はいつかの約束通り、明里を食事に誘った。

 何軒か店を見て回り、昼頃オープンカフェへ入る。

 姫羽は、サラダを食べながら言った。

「明里ちゃん!似合う服、見つかって良かったね。あれ、絶対明里ちゃんにピッタリだって!」

 朱里は、嬉しそうに微笑んだ。

「有り難う御座います!」

 折角だからと、河内屋デパートに軒を連ねる数々の有名ブランド店を見て回ったものの、最終的に明里が選んだのは姫羽の店『ピースアメージュ』のマネキンが来ていた、1点モノのハンドメイドワンピースだった。

「ところでさぁ…」

 姫羽は、ニヤけながら囁く。

「明里ちゃんって、どんな人がタイプ?」

「えっ?」

 明里は驚いて、少し咳き込みながら答えた。

「ど、どんな人がって…やっぱり、優しい人かなぁ」

 それを聞いて、姫羽は嬉しそうに微笑んだ。

「ホントに?あのさぁ、史くんって男はほんっと昔から優しくてさぁ…ドラムやってるから、高校時代とかは見た目に騙されて結構女の子が寄って来てたみたいなんだけど、基本真面目だから絶対チャラチャラした態度取らないの!本気で好きになった子としか、付き合わないし!史くんのそう言う所、私も大好きなんだよねーっ!」

 明里も、真剣に頷く。

「確かに、史也さんはとてもいい方です。私にも、いつも親切にして下さいますし」

「でしょっ?いやぁ、良かった!それでね、明里ちゃん!」

「はい?」

 キョトンとした顔で明里が訊くと、姫羽は顔を寄せて小声で言った。

「史くんなんて、どうかな?」

「え?」

 明里は、姫羽が言った意味がよく分からなかった。

「史くんみたいなタイプ、嫌い?」

「えっ!」

 明里は、途端に顔を赤くした。

 姫羽は、くーっとなってはしゃぐ。

「ほんっと可愛いんだから、明里ちゃんは!はぁ、アイツは何をグズグズしてるんだろうなぁ…全く!」

 姫羽の独り言を聞きながら、明里は固まっている。

「明里ちゃんさぁ、街はもうバレンタイン1色じゃない?何処の店入ったって、そうだったでしょ?そりゃあそうだよね、バレンタインは来週に迫ってるんだから。でさぁ、明里ちゃんは誰にあげるのかなぁなーんて、メチャメチャ気になってるんだけど…」

 姫羽にそう訊かれて、明里は顔を赤らめながら俯いた。

「そ、そんな…私、バレンタインの日にチョコレートをあげる機会なんて、生まれてこのかた1度もありませんでしたから…」

「えーっ!じゃあ今年もしあげるとしたら、その貰った人って明里ちゃんの生まれて初めてのチョコレートを、受け取る事になるって訳?それって、メチャメチャ光栄な事じゃない!うわぁ、私が貰いたいくらい!」

「そ、そんな、大袈裟なものじゃ…」

 明里は、すっかり困っている。

「しかも明里ちゃん、確か10代最後だよねぇ?」

 姫羽は、興奮しながら訊いた。

「そんな記念すべき今年のバレンタインに、誰かあげようって思ってる人いる?」

「そ、それは…」

 明里は、恥ずかしがって中々言わない。

 姫羽は、ニヤニヤし始めた。

「いるんだ?それってもしかして、史くんだったりとかする?」

「えっ!そ、そんなっ…」

 明里が、焦っている。

「そうなの?史くんにあげようって、思ってくれてるの?」

 姫羽に問われ、明里はとうとう黙ってコクンと頷いた。

 やったよ、史くんっ!おめでとーっ!私も、頑張った甲斐がありましたっ!皆さん、有り難う!有り難う!と、目を閉じて感慨に耽っている姫羽を見て、明里は苦笑いした。

「あの、姫羽さんこそ、どなたに差し上げるんですか?お付き合いなさっている典鷹様とか、永志様や史也さんにも…」

「明里ちゃんっ!」

 途端に、姫羽は眉毛を吊り上げた。

「どうして私が、先生なんかにあげなきゃならないのっ?」

「ですが、5年もお隣同士でいらしたんですから、永志様に差し上げた事もあるんでしょう?」

「そっ、それはまあ、一応毎年…」

 姫羽は、素直に認めた。

「でしたら今年だけ差し上げないのは、不自然なんじゃないですか?」

 明里はそう言ったが、姫羽は首を横に振った。

「そ・れ・はっ!あくまでも、私がフリーだったからよっ!今年は典鷹さんと言う素敵な彼氏がいる訳だし、先生だってクロエさんから貰うだろうから、私がわざわざあげる必要なんてないんじゃないの?」

「姫羽さん、いいんですか?このまま、永志様とすれ違ってしまっても…」

 姫羽は、黙り込んだ。

「姫羽さんの仰りたい事は、十分分かっています。でも多分、姫羽さんの周りの皆さんは全員同じ考えの筈なんです。ですから姫羽さんも色々な方々から同じ事を何度も言われて、鬱陶しく思っていらっしゃるかもしれませんけど…」

「明里ちゃん…」

 姫羽は、真面目な顔で言った。

「明里ちゃんを信用して、本当の事言うけど…確かに、私は先生の事が好きだったよ。勿論、恋愛の対象としてね…」

 改めてその気持ちを姫羽の口から聞かされ、明里は気恥ずかしくなって思わず顔を赤らめた。

「嫌いだったら、何とか仲良くなりたくて5年もの間お隣さんでいたり、必死にお屋敷にまでくっついて行ったりしないよ…」

「じゃあ、やっぱり私も含めた皆さんの予想は当たっていたんですね?きっと姫羽さんは、永志様の事を好いていらっしゃるに違いないって…」

「だから、認めたくなかったんだってば…」

 姫羽は、ブスッと頬を膨らませた。

「皆がそう言うから、何か認めるのが悔しくなっちゃって。それで、意地でも言わなかったんだ…」

「何か、姫羽さんらしい」

 明里は、クスッと笑った。

「私だって、それなりに努力はしたんだよ?アパートにいた頃だって、何度もそう言う雰囲気に持って行こうとした。でもあと一歩の所で、いつもはぐらかされちゃうの。お前はタイプじゃねぇとか、抱きつかれても嬉しくねぇとかって、いつも先生は冗談っぽくかわして来る。こっちは真剣だったから、ちょっと傷付いた時もあったけどね…」

 悲しげな表情を浮かべる姫羽を、黙って見つめる明里。

「けど、先生は冗談で私の攻撃をかわしてたんじゃない。これは、先生自体がこう言う性格なんだって事が分かったの」

「こう言う性格、って?」

 明里が訊くと、姫羽はフッと微笑んだ。

「郁未さんから聞いたんだけど、先生って絶対自分から好きって言わないらしいんだ。向こうにばっか言わせて、自分は無視し続けて、諦めて離れてくのを待ってるんだって。けど、向こうが勝手に寄って来る分には構わないらしくて、仕方なしに相手する…よっぽどじゃない限り、来るもの拒まずだったらしいよ?アハハ!」

 姫羽はそう言って笑ったが、明里は笑わなかった。

「でもね…私があのアパートに引っ越して来てからは、そんな先生が女なんか1人も作らなかった。まあ、外出だって滅多にしなかったんだから、女を作る機会もなかっただろうけどね。多分この5年間は、私か史くんとしか出掛けてなかったと思う」

 明里は、黙って聞いている。

「ホントいい加減な性格ではあったけど、働いてないのと煙草吸い過ぎるのと酒飲み過ぎるの以外は、真面目な生活してた。実際頭もいいし、顔も中々だし、体も逞しいんだよ?だから、私も惹かれちゃったんだよねぇ…先生も私の事、嫌いじゃないだろうなぁとは思ってたしさ」

「それは、私もそう思います。永志様もきっと、姫羽さんと同じ事を思っている筈です。姫羽さん、明るくて面白くて思いやりもあって、自分に懐いてくれてる素直ないい子だから、こう言う子なら一緒にいてもいいなって、きっと永志様も…」

「明里ちゃん…」

「あ、何か失礼な事言ってたらすみません。何か、うまく言えなくて」

「ありがとね、明里ちゃん。私も、いい子だなーってくらいは思われてる自信あったから、もしかしたら先生と付き合えるかも!なーんて、勝手に考えたりして…でも、現実は厳しかったなぁ…嫌われてないのは分かるんだけど、完璧子供扱いだもん…」

 其処で、明里が訊いた。

「永志様と姫羽さんって、何歳離れてるんですか?」

「4歳」

 姫羽が答えると、明里は強気で言った。

「それって…こんな事言うのは生意気かもしれませんが、単なる永志様なりの無理矢理自分に課してる、言い訳な気が…」

「そうかなぁ…」

 姫羽は、ミルクティーを1口飲んだ。

「でも、そうは言っても簡単には行かないんだよなぁ。こっちがちょっと真剣になると、すーぐはぐらかすようにバーカとか、キモいとか、ガキは寝てろ、とかで終わっちゃうんだもん。話にも、ならないよ…」

 明里は、溜息をついている。

「それに分かってた事だけど、クロエさんみたいな学生時代に先生があの部屋に連れ込んでた女の人が実際に目の前に現れちゃうと、やっぱりあの話は本当だったんだ…って言うのが、改めてズシンとのしかかって来ちゃって。私にとってちょっと刺激が強過ぎるんだよなぁ、この事実は。そう言う所を、史くんにも鋭く指摘されちゃうし…」

 そう言って肩を竦める、姫羽。

「そ、そうなん、ですか…」

 明里は、考え込んでいる。

「何て言うのか、私の知ってる先生じゃないような、先生が遠くに行っちゃうような…そんな感じがしたんだ。その点、典鷹さんは自分の部屋が全てだった訳だから、これから一緒に色々楽しい思い出が作れる!ってワクワクした気持ちになれるの。そうすると、典鷹さんが知ってる事は私も知ってる事になる。全てを、共有出来る訳。分かる?」

 頷く明里。

「それにさ、典鷹さんって私のいいトコも悪いトコもみーんな包み込んで癒してくれるの。典鷹さんといると、幸せな気持ちになれる。何か、初めて会った時からそれは感じてたんだけどね。ああ、この人は心の優しい素敵な人だって。まあ明里ちゃんを見た時も、絶対この子は素敵な子だなって思ったけどね!」

「姫羽さん…」

 顔を赤らめる明里を見て、姫羽は笑った。

「そんな気持ちが、典鷹さんの部屋に毎日通う事によって、段々強くなって行ったんだ。逆に、郁未さんの話やクロエさんの存在を知る事によって、先生を好きになるのが怖くなっちゃって…その結果が、今の状況って訳」

 静かに頷く、明里。

「実際、典鷹さんと付き合う事になった時だって、先生は何にも言ってくれなかった。それで、完璧諦めが付いたの。やっぱり先生は、私の事は何とも思ってくれてなかったんだって。ホント、今は典鷹さんに出会えて良かったと思ってる」

 姫羽はミルクティーを飲み干し、ニッコリと笑った。

「姫羽さんが、幸せなら…私も、幸せです」

 笑顔の明里を見て、姫羽もだらしなく笑う。

「明里ちゃん…フフフフフ、可愛い!何でも、食べていいからねぇーっ?」

「え、あ、有り難う御座い、ます…」

 明里は思わず、苦笑いした。


        †


 波乱のバレンタインは、もう目の前まで迫っていた。

 史也は、永志の部屋のソファーにもたれかかって言う。

「先生…明日ですね」

「何が?」

 永志は煙草の煙を吐きながら、ソファーに踏ん反り返って呑気に訊き返して来る。

「何がって…ちょっと、先生っ!」

 史也は、ガバッと跳ね起きた。

「本気で、言ってんですか?バレンタインですよ!バ・レ・ン・タ・イ・ン!」

「ははーん、なるほど…」

 永志は、煙草の灰を灰皿に落とした。

「さては、気になる相手がいるな?」

「へ?」

 史也が気の抜けた返事をすると、永志はニヤニヤし始めた。

「そうかそうか、ついに史もねぇ…」

「ちょっ…先生?」

「まあ、最近のお前の態度を見るに…どーせ身近な所で、明里か何かなんだろ?確かにいい子である事は、俺も認めるぞ?」

 史也は顔を赤らめながら、慌てて言った。

「せ、先生っ!明里か何かとは何ですか、な・ん・かとは!それに、な、何で、そ、そんな具体的に名指しまでして、わ、分かっちゃうんで、すか…」

「お前、必要以上にうろたえるのやめろ…」

 永志は顔を引きつらせ、煙を吐いた。

「大体なぁ、毎年姫からの義理チョコで満足してたお前が、今更バレンタインを気にしてる事自体、おかしいだろ?誰か、チョコを貰いたいって思ってる奴が、いるって事じゃねーか」

 まさに図星だった史也は、感心しながら言った。

「流石、経験豊富な人は違うなぁ…」

「其処で、感心すんな…」

「ねえ、先生…」

 史也は、向かいに座る永志に顔を寄せた。

「先生、僕や姫に隠してる事ないですか?」

「は?」

 煙草を灰皿に押し付けた永志は、再び新しい煙草に火を点けようとしている。

とぼけないで下さいよ。僕、聞いちゃったんですから。ア・メ・リ・カ…」

「げ!」

 永志は咳き込み、史也の肩を掴んだ。

「お前それ、ど、何処で聞いたんだよ!」

 うろたえる永志を見ながら、史也は思い出すように言った。

「何処でって、玄関のロビーでですよ。先週か先々週だかに先生がクロエさんを見送ろうとした時、クロエさんが『アメリカの件、早く考えてよね』とか何とかって…あぁーっっっ!」

「な、何だよ!」

 急に大きな声を上げる史也にビビりながら永志が訊き返すと、史也はにやけ始めた。

「先生ぇ、あんな所であんな破廉恥な事されちゃあ困りますよぉ!」

「は、破廉恥ってアンタ、古い言い回しすんねぇ…」

 永志はそう言って、煙を吐き出した。

「先生、昔クロエさんと付き合ってたんでしょう?」

「あのなぁ、人のキスシーン盗み見んなっつーの!」

 永志は、話をはぐらかした。

 史也は納得出来ず、尚も突っ掛かる。

「そんな事より、説明して下さいよ。アメリカの件がどうとかって、先生まさかクロエさんと一緒に、アメリカに行っちゃったりしないですよね?」

 永志は、黙ったままだった。

「先生!」

 史也が詰め寄った時、ノックの音がした。

「どーぞ」

 永志が、返事をする。

 ドアが開いて、郁未が入って来た。

「よお、皆さんお揃いで…バレンタインの計画でも、練ってんの?」

 永志は、溜息混じりに煙を吐いた。

「バーカ、何で男の俺らがバレンタインの計画なんぞ練らにゃならんのだ」

「だーかーらぁ!」

 郁未はドアを閉めて中へ入って来ると、永志の隣に座った。

「俺達男が考えるのはチョコをもらった後、その子とどうするかって事!」

「アホ、勝手にやってろ」

 永志は呆れて、煙草を灰皿へ投げ捨てた。

「あ、勿体ねーっ!まだ、吸えんだろ!」

 郁未はその煙草を拾って口に銜えようとした。

 そんな郁未の後頭部を、永志が叩く。

「ケッ、貧乏性め!そう言う所も昔と全く変わってねぇなぁ、テメェは…」

「痛ぇっつーの!そう言う暴力的な所は、オメェも変わってねぇだろうがっ!」

 永志と郁未は、文句を言い合っている。

「それより…丁度良かった、郁未さん」

 史也は、永志が投げ捨てた煙草を吸っている郁未に訊いた。

「クロエさんが先生の大学時代の同級生だったって事は、クロエさんが先生の家に遊びに行ったりしてたのを、目撃した事もあったんでしょう?お隣さんだったんですから…」

「何だ、そっちの話?勿論、あるよ。永志んちで、3人で遊んだ事もあるし。まあね、とにかくうるさい女なんだよ。もう、永志があからさまに嫌がってるのも無視してベッタリ。ま、俺から見ればあんな美人に好かれるなんて、羨ましい限りではあったけど」

「じゃあ、お前が相手してやれよ」

 永志がボソッと呟くと、郁未は激しく首を横に振った。

「い、いやぁ、それだけは勘弁してくれって!お前に対するクロエの態度を見て以来、女は顔も大事だけどやっぱ中身だなーってのを、改めて実感したくらいなんだから。いくら美人でも、あんなうるさくてしつこい女は、俺もお断り!」

 そう言って吸っていた煙草を灰皿に押し付けた郁未は、永志の新しい煙草を1本もらった。

 郁未が銜えた煙草に永志が火を点けてやるのを見ながら、史也は言った。

「って事は、やっぱりクロエさんは先生と付き合っていたと…」

「それが、違うんだよなぁ」

 郁未は、煙を吐いた。

「そう言う発言、考えなしにしない方がいいよぉ。永志くん、怒っちゃうから…」

 郁未の意見に、うんうんと頷く永志。

「どう言う意味ですか?」

 史也が訊くと、郁未は答えた。

「つまりね、付き合ってたんじゃなくてクロエが勝手に、永志の部屋に押しかけてたって事。永志も別にクロエを嫌ってる訳じゃなかったから、特に追い出しもしなかったし。でも、クロエは散々永志に好きだ好きだって言ってんのに、永志は絶対にクロエに好きだとは言わなかった」

 史也は、考え込む。

「どうしてです?嫌いじゃなかったんでしょう?」

「別に、好きでもねーし…」

 あっさり答える永志に、史也は頭を悩ませている。

「永志は、どの女に対してもそーなの。女共が勝手に部屋入って来るから相手してやると、女共は好かれてると勘違いするだろ?でも、永志は一言も好きだなんて言ってない訳。其処を永志に指摘されて、その気になってた女共は怒って出て行く。それの繰り返しで、まともに女と付き合おうだなんて思った事ないの」

 郁未はそう言って、煙を吐いた。

「女に不自由しない人ですねぇ、先生も罪な人だ…やっぱ先生、カッコいいっす!」

 1人で感動している史也を見て、永志は溜息をついた。

「カッコいいって言うか?こう言うの…」

「なのに、姫ちゃんが俺の後にあの部屋来てからの5年間は女連れ込んだ事、1度もないって言うだろ?だからほんっと俺もびっくりして、あの女好きだった永志もとうとう本物の愛に目覚めちゃっ…イテテテテ!」

 永志は、郁未の口をつねった。

 史也も、笑いながら言う。

「ほんと。女好きだなんて信じられないくらい、先生は真面目でしたよ」

「だろ?」

 郁未は、永志につねられた口を摩った。

「だから俺、姫ちゃんにお礼言っといた」

「はぁ?」

 永志の驚きは、徐々に怒りへと変わって行った。

「テメェ…ぬわぁーに言ったんだぁ、お礼って!えぇ!言ってみな!」

 怒りを露にしている永志を見ながら、郁未はビビって体を震わせた。

「いやっ、だからその、え、永志が此処までいい方に変わってくれたのは、姫ちゃんのお陰だって。クロエや他の女達が出来なかった事を、姫ちゃんはやってくれた。だから、永志にとって姫ちゃんは特別な存在なん…イ、イテテテテ!痛い痛い、痛いっつーの!」

 郁未の耳を引っ張りながら、永志は怒鳴った。

「ぬわぁーんで、そー言う余計な事ばっか言うんだよ、お前はっ!」

「な、何でって…」

 郁未は、耳を摩りながら顔を顰める。

「お前の為だろ?それに、俺は姫ちゃんが好きなのはお前だと思ってたから、永志とクロエは関係ないんだって教えてやったんだよ」

「そ、それで姫、何て言ってました?」

 史也が、興味津々で訊く。

「別に…姫ちゃん、本当に典ちゃんの事が好きみたいでさ。今、凄く幸せなんだって。だから俺も、それ以上は何も言えなかったよ」

 そう言って、郁未は煙草を灰皿に押し付けた。

「ふーん。ま、姫がそう言うんだったら、僕だって言う事はないですよ…先生は?」

 史也に訊かれると永志はそっぽを向き、窓の方を見た。

「俺が、とやかく言う事じゃないだろ。俺には、関係ねぇ話だし…」

 その台詞に、史也と郁未は顔を見合わせるばかりだった。



 夕食の時間。

 相変わらず姫羽は、典鷹と一緒のテーブルで食事をしていた。

 最近では永志も史也も、姫羽と話す機会を失っている。

 廊下で会うと挨拶くらいはするのだが、やはり典鷹と付き合い始めた事もあって、永志も史也も姫羽の部屋に遊びに行くのを遠慮していたのだ。

 逆に姫羽も、永志や史也の部屋には行っていない。

「先生」

 史也は、向かいで食事している永志に言った。

「姫、今年は僕達にチョコレートくれるんですかねぇ」

「さあな」

「さあなって…」

 史也が困った顔をしていると、明里がワゴンを押しながらやって来た。

「シチューのお代わり、如何ですか?」

「なあ、明里」

 永志は、口を拭きながら言った。

「明日、何の日だか知ってるよな?」

 明里は目を丸くしながらも、静かに頷いた。

「お前は明日、誰かにチョコあげようって思っ…」

「せ、先生!」

 史也は、慌てて永志の腕を掴んだ。

「な、何訊こうとしてんですか!明里ちゃん、困ってますよ!ご、ごめんね、明里ちゃん…」

 俯く明里を見て、永志はニヤニヤし始めた。

「ほら明里、史也って優しい奴だと思わねぇ?俺、史也の事尊敬してんだよ。でもさ、この優しさってひょーっとしたら、明里の為だけに向けられてるんじゃないかなーって俺、最近思うん…」

「どぅわぁーっ!せ、先生ぇーっ!」

 史也は声を裏返しながら、顔を真っ赤にした。

「もっ、もういいじゃないですかっ、この話題はっ!あ、あのっ、明里ちゃんもホント、き、気にしなくていいから、ね?」

「えっ、あ、は、はい…」

 明里も顔を赤らめながら、ワゴンを押して行ってしまった。

「くーっ!若いって、いいねぇ!」

 しみじみそう言う永志を見て、史也は憤慨した。

「ったく、嫌がらせもほどほどにして下さいよ!いくら姫との事で、色々言われたからって…」

「っんだと?」

 永志の表情は、一気に強張った。

「どいつもこいつも…ゴチャゴチャ、うるせーんだよ!」

 永志はそう怒鳴って、黙々とシチューを食べ始めた。

 そんな永志を見ながら、史也は大きな溜息をついたのだった。



 皆が寝静まった頃、永志の携帯電話が鳴った。

「んぁ…誰だよ」

 時計の針は、午後11時25分を指している。

 溜息をつきつつ、寝たまま枕元に置いた携帯電話を取る永志。

「もしもしぃ…」

『あ、永志?私!』

「クロエか…」

 声の主は、クロエだった。

「何だよ、こんな時間に…」

 迷惑そうな声で永志が言うと、クロエは驚いた声を上げた。

『えーっ!永志、もう寝てんのぉーっ?やっだぁーっ、お子ちゃまぁーっ!』

 クロエは、キャハハキャハハと甲高い声で笑っている。

「うるせーなぁ…俺は、疲れてんだよ。厭味言う為の電話なら、切るぞ」

『あ、ちょっと待ってよ!』

 クロエは、慌てて引き止めた。

『ちゃんと、用事があってかけたの。ねえ、明日何の日だか知ってるでしょ?』

「知らね。じゃあな…」

『ちょっ、ちょっと!ふざけないでよ!』

 即答する永志に対し、クロエは苛付いた声を出す。

『バレンタインに、決まってんでしょっ!だからさぁ…明日英会話の授業終わったら、一緒にご飯食べに行かない?』

「行かない」

 再び即答する、永志。

『な、何でよぉーっ!』

 クロエが駄々をこねると、永志は面倒臭そうに言った。

「ま、この多忙な俺に暇が出来たら、行ってやらなくもないけど」

 その台詞に、クロエはプッと吹き出した。

『何それ、偉そうに…どうせ、年中暇なんでしょ?』

「行かねーぞ!」

『あーん、ごめんなぁーいっ!』

 怒る永志に、クロエが謝る。

『じゃあ明日、期待してるからね。永志が、暇でありますよーに!』

「ああ…じゃあな」

 其処で永志は、携帯電話を切った。

「はぁ…」

 屋敷内は、しんと静まり返っている。

「くっそーっ、目ぇ覚めちまったじゃねーかよ!」

 永志は苛付きながら大きく伸びをすると、自分の部屋を出た。

 階段を下り、図書室へ向かう。

 廊下は真っ暗で、明かりは廊下に転々と付いている足元の小さなライトだけだ。

 図書室まで手探りで何とか辿り着いた永志は、そっとドアを開けた。

 本独特の紙の匂いが、鼻を刺す。

 永志は美術書のコーナーへ行き、読みたい本を探した。

 テーブルの椅子に座り、電気スタンドをつける。

「えっ!」

 其処で永志は、慌てて立ち上がった。

 その勢いで、ガタンと音を立てながら椅子が後ろに倒れる。

「う、嘘、だろ…」

 テーブルの上には、綺麗にラッピングされた小さな箱が置いてあった。

 一緒に付いている、メッセージカードを読む。

「『先生へ、姫羽より』…って、これだけかよ!」

 永志は1人でツッコミを入れながら、その場で箱を開けた。

 中には明らかに手作りと思われる、不揃いな形のトリュフチョコレートが何個か入っていた。

 永志は1粒手に取り、口の中に放り込んだ。

「うめぇ」

 永志は一言、そう呟いた。

 自然と、笑みが零れる。

 そんな永志を見て本棚の陰にずっと隠れていた姫羽は、そっと図書室を抜け出した。

 時計の針は、丁度午前0時を指している。

 何処かの部屋の振り子時計の音がボーンボーンと12回、静かな屋敷内に小さく響いていた。


        †


 翌日。

 ついに、待ちに待ったバレンタインがやって来た。

 街は、ラブラブカップルで溢れ返っている。

 夕方。

 姫羽は仕事が終わると、まっすぐ屋敷に帰って来た。

 門をくぐった所で姫羽は、玄関に入ろうとしている史也の姿を見つけた。

「おーい、史くーん!」

 手を振りながら走って来る姫羽を見て、史也も手を振り返した。

「おう!姫、今帰り?」

「そ。史くんも?」

「ああ」

 姫羽は、鞄から小箱を取り出した。

「はい。朝、史くん先に仕事行っちゃって渡せなかったから…」

 史也は、それを見て驚いた。

「も、もしかしてこれ、チョコレート?」

「それ以外、何だっての?」

 姫羽が、さらりと言い返す。

 受け取った史也は、嬉しそうに言った。

「正直言って、今年は期待してなかったんだよ。ほら姫、典鷹さんと付き合い始めちゃっただろ?だからもう、義理チョコはなしかなーなんて思ってさ。最近じゃ、あんまり話す機会もなかったし…」

 すると姫羽は、史也の背中を思い切り叩いた。

「何よ!そんな水臭い事、する訳ないでしょ!私と史くんの仲は、永遠に不滅なんだから!」

 史也は、嬉しそうに微笑んだ。

「さ、入ろ!」

 姫羽に促されて、2人は一緒に屋敷に入った。

「お帰りなさいませ」

 茅ヶ崎が出迎える。

 姫羽は鞄から小箱を取り出し、茅ヶ崎に差し出した。

「ただいまーっ!はい、茅ヶ崎さんも!」

「え…」

 箱を手にしたまま、茅ヶ崎は呆然としている。

「あの…こちらは?」

 姫羽は、アハハと笑った。

「チョコレートですよ、これ。本当は朝渡そうと思ってたんだけど、何か忙しそうだったから。茅ヶ崎さんにも日頃お世話になってるから、そのお礼みたいなものかな。あれ…ご迷惑でした?」

 茅ヶ崎はコホンと咳払いをしながら、無表情の顔を少し赤らめた。

「い、いえ、とんでも御座いません。有り難く、頂戴致します」

「どう致しまして。じゃあ、史くん…次、行ってみようか?」

 そう言って姫羽は史也の腕を引っ張り、自分達の部屋とは反対方向へ歩き出した。

「ど、何処行こうってんだよ。おい、姫ってば!」

 姫羽は廊下を歩き続け、中庭の入口まで史也を引っ張って来ると耳打ちした。

「明里ちゃん捜さないと、駄目でしょ?私も一緒に捜してあげるから見つかり次第、何気なーく明里ちゃんの前を通り過ぎるんだよ?でもその前に、典鷹さんにもチョコあげて来るから、ちょっと待ってて」

「何だよ、それ…」

 史也は有り難いのか迷惑なのか分からず、溜息をついた。

 典鷹の部屋は、もう目の前だ。

 姫羽は典鷹の部屋のドアをノックしようとして、ふと手を止めた。

「え?」

「ど、どうした?」

 離れた場所から史也が囁くように訊くと、姫羽は黙ったままドアを指差して見せた。

 史也もドアの前まで来て耳を近付けると、中から女性の声が聞こえて来た。

「これ…クロエさんの声、じゃないかな」

 と、史也。

「クロエさん?何で、クロエさんがこの部屋に…」

 姫羽が驚いて訊くと、史也は首を傾げながら答えた。

「そんな事、僕だって知らないよ。まあ今日は先生の英会話の日だし、バレンタインって事もあって典鷹さんにも義理チョコ用意して来たんじゃないの?本命チョコは、当然先生んトコ行ってるだろうから…」

 それを訊いた姫羽は、何故かあまりいい気がしなかった。

「おい、出て来るぞ!」

 史也は慌てて姫羽を引っ張り、曲がり角に隠れた。

 部屋から、クロエと典鷹が出て来る。

 姫羽は史也にグッと腕を掴まれ、動けないようにされている。

「ど、どうして、隠れる必要がっ…」

「ほら、やっぱり手にチョコレート持ってる…」

 姫羽を無視して、史也は小声で呟きながら典鷹が持っている小箱の方を指差した。

「じゃあね、典鷹くん」

 クロエがそう言うと、典鷹は頭を下げた。

「あの、チョコレート有り難う御座いました」

 礼を言われて、クロエは微笑んだ。

「気にしないで。今度は、もっと美味しいお菓子作って持って来てあげるから」

「そんな、気を使わないで下さい」

「典鷹くんって、いい子だね。顔立ちも体つきも、永志に似てる…」

 クロエは、典鷹の頬に触れた。

「私、典鷹くんでもいいなぁ…」

「え、あの…」

 典鷹の表情が、徐々に強張って来る。

「だーって永志、全然私の事相手にしてくんないんだもーん。今日だってデートに誘ったのに、何か考え事ばっかしてて話にもなんないしーっ…」

 クロエが拗ねた口調でそう言うと、典鷹は苦笑いした。

「こ、こんな素敵な人を困らせるなんて、兄さんも隅に置けないな…」

 それを聞いたクロエは、典鷹の頬に自分の指を這わせながら唇に触れた。

「典鷹くんだったら、相手してくれるでしょう?私が色んな事、教えてあげるから…」

 その瞬間、クロエは典鷹にキスをしていた。

「ちょっ…」

 飛び出して行こうとする姫羽を、慌てて押さえ付ける史也。

「んっ…やっ、やめて下さいっ!」

 クロエを突き飛ばした典鷹は、パジャマの袖で口を拭った。

「なっ、何するんですかっ!」

 クロエは、クスッと笑った。

「また、来るから…」

 ヒラヒラと手を振ったクロエは、玄関の方へ歩いて行ってしまった。

 典鷹もすぐに部屋に入り、バタンとドアを閉めた。

「ひ、姫…」

 史也は腕を掴んでいた手を緩め、心配そうに声を掛けた。

「あ、あのさ、あれは典鷹さんは悪くないん、じゃない、かなぁなんて…」

 史也は何とかフォローしようとしたのだが、姫羽は手に持っていた典鷹用のチョコレートの箱を鞄にしまって言った。

「行こう、史くん…」

「え、あ、あの…」

 トボトボと歩き出す姫羽の後を、史也は黙ってついて行くしかなかった。

 玄関では何も知らない永志が、丁度クロエを送り出した所だった。

 向こうから歩いて来た姫羽と史也を見て、永志は声を掛けた。

「よお、お前ら帰ってたのか?」

「え、ええ、まあ…」

 曖昧に返事をする、史也。

 永志は昨日の夜中、図書室に置いてあったチョコレートの事を思い出して、暫く姫羽の様子を窺っていた。

 あんな演出までしやがって、姫のヤツ…何て、礼言ってやればいいのやら…と、柄にも無く照れを隠せない永志だったが。

 肝心の姫羽は、心此処にあらずと言った様子でボーッとしている。

「ひ、姫…あ、あのさ…」

 永志は思い切って話しかけようとしたのだが、姫羽はまるで聞こえていないかのように、黙って階段を上って行ってしまった。

「え…ど、どうしたんだ、姫は」

 階段を見上げながら永志が訊くと、史也は慌てて言った。

「え、えーと…いえ、別に。その、ただ僕の為に、明里ちゃんを捜してくれていただけです」

 それを聞いて、永志は途端にニヤけ始めた。

「明里なら上にいたけどまだ忙しそうだったから、チョコはお預けだな。ほら、やっぱこう言う事は夜のお楽しみとして取っとい…」

「先生っ!」

 顔を赤くした史也は、即座に怒鳴った。

「何ですぐ、そう言う方向に行くんですか!ったく…」

「まあまあ、落ち着いて…って、あれ?」

 永志は、史也が持っていたチョコレートの箱を見た。

「そのチョコ、どうしたんだ?いかにも店で間に合わせに買って来た、義理チョコみたいなヤツ…」

「ああ、これ?姫から、貰ったんですよ」

「ひっ、姫から?」

 永志は、声を裏返らせて驚いた。

 史也は、頷いて言う。

「それにしたって…毎年義理とは言え、必ず手作りのくれてたのに今年は既製品ですよ?先生も、そうだったでしょう?あ、姫はさっき帰って来たばっかだから、先生まだ貰ってないのか」

 そう訊かれて、永志は慌てて答えた。

「いや、もう…け、今朝、もうもらったんだ!そうそう、今朝!これと、同じヤツだった!確かに、うん!」

「やっぱり、そうでしたか。僕も、今朝の内に貰いたかったなぁ。そうすれば、教室の生徒に自慢出来たのに。いくら義理とは言え、貰えるとやっぱ嬉しいでしょう?今日は僕、楽器の点検で朝早くに出ちゃったじゃないですか。だから誰からも貰えずに、午前授業の生徒達からバカにされて酷い目に遭いましたよ」

「へ、へぇーっ…」

 適当に相槌を打つ、永志。

「ま、午後になってから若い先生や事務の女の子達から貰えたんで、良かったですけど。でも折角楽しみにしてた姫のチョコも、既製品にまで落ちちゃうとはねぇ。やっぱり、本命が出来ると僕達義理の手作りはお預けになっちゃ…ん?いや、そう言えばさっき典鷹さん用に用意してたチョコも、既製品だったなぁ」

 それを聞いた永志は、ガシッと史也の両肩を掴んだ。

「そっ、それ、マジかっ?」

「えっ?え、ええ、マ、マジ、ですけど…」

 深呼吸をしながら冷静になった永志は、溜息をついた。

「お、俺、部屋戻るわ…」

「えっ?せ、先生、一体どうしちゃったんですか?」

 史也が止めるのも聞かず、永志は気が抜けたように階段をゆっくり上って行った。



 夕食の時間。

 姫羽が、食堂に姿を現す事はなかった。

「おい、史…」

 小声で、永志が言う。

「姫、どうした?」

「えっ?えーと…」

 史也は夕方、典鷹とクロエのキスシーンを見た時の姫羽の落胆ぶりを思い出し、ドキッとしながら首を傾げて言った。

「さ、さあ、どうしたんでしょうねぇ…」

 其処へ、典鷹が1人で食堂へ入って来た。

 辺りをキョロキョロ見回すと、まっすぐ永志と史也のテーブルに向かって歩いて来た。

「あ、あの…」

 永志は、まるっきり無視している。

 史也は溜息をつき、典鷹に微笑んで見せた。

「な、何でしょうか…」

 典鷹は、遠慮がちに訊く。

「あの、姫羽さんはどうしたんでしょうか?」

 すると、永志は典鷹に背を向けたまま言った。

「何で、俺らに訊く訳?恋人のお前が、1番よーく知ってんじゃねーの?」

 典鷹は一瞬悲しげな表情になったが、無理に微笑んだ。

「そ、そう、ですよね。す、すみませんでした…」

 典鷹は、静かに自分のテーブルへ歩いて行った。

 史也は、咄嗟に耳打ちした。

「先生、ああ言う言い方はまずいですよ。いかにも、嫉妬してるみたいじゃないですか。まさか女好きだった先生も、とうとう…」

 永志は、速攻否定した。

「だから、違うっつってんだろーがっ!アイツの顔見てると、ムカッ腹立って来んだよっ!ただ、それだけだっ!」

「ア、アイツって…の、典鷹さんの事ですかっ?この世でたった1人の肉親である弟さんに、何て事言うんですかっ!大体、先生だって最初の内は典鷹さんに兄さんなんて呼ばれて、満更でもなかった筈じゃ…」

「うっせーんだよ!」

 史也の台詞にムッとしながら、永志は怒鳴った。

「いいから、さっさと食え!」

 あまりの気迫にそれ以上何も言えず、史也は黙って食べ始めた。

 永志の頭の中には思い出したくもない場面が、走馬灯のようにグルグル駆け巡っていた。



 夕食後。

 史也の部屋で、ノックの音がした。

「どうぞ」

 史也が、返事をする。

 入って来たのは、明里だった。

「し、失礼します…」

「あっ!あ、え、えっと、あの、そのっ!」

 いつも以上に緊張する、史也。

 ついに、期待していた時間がやって来たのだ。

 明里は、手に持っていた箱を差し出した。

「あ、あの、これ、生まれて初めて作ったんです。わ、私、チョコレートなんて作ったの初めてですし、人にあげるのも初めてで…見た目も変ですし、不味かったら捨てていいですから!」

「す、捨てられる訳ないよ!」

 史也は明里の前に立ち、箱を受け取った。

「もし、仮に…あくまでも、仮の話だよ?もし仮に不味かったとしたって、僕は絶対に全部食べます!誓います!本当です!」

 唖然とした明里は、やがて笑った。

「お願いですから、無理はやめて下さい…」

「無理じゃないよ。でも…本当に、僕がもらっていいのかな」

 恐縮する史也に、明里は言った。

「も、勿論です。わ、私、史也さんの事だけを想って作っ…あ、いえ、そ、そのっ!」

 赤くなる明里を見た史也は、狼に変身しそうになる自分を何とか抑えた。

「有り難う…凄く、嬉しいよ」

「よ、良かった…」

 朱里は、ニコッと微笑んだ。

 かっ、可愛いーっ!と叫びたくなるのを我慢して、史也はドキドキしながら言った。

「え、えーとさ、ちょ、ちょっと、話でもして行かない?」

「は、はい」

 2人で向かい合って、ソファーに座る。

「あ、あのさ、明里ちゃん」

「何ですか?」

「突然で悪いけど、ちょっと聞いてくれるかな。姫の事で、相談があるんだ…」

 丁度いい機会だと思い、史也は明里に夕方の出来事を話し始めた。

「実は夕方僕と姫と2人で、姫のチョコを渡す為に典鷹さんの部屋に行ったんだよ」

 頷く明里。

「そしたら、部屋の中からクロエさんの声が聞こえて来てさ…」

「クロエさんの?どうして…」

「問題はこっからで、部屋から出て来たクロエさんが典鷹さんに…キス、したんだ」

 明里は声も出ず、目を丸くするばかりだった。

「典鷹さんは勿論、クロエさんを突き飛ばして凄い怒ってたんだけど、クロエさんの方はすっかりその気みたいでさ…先生に相手にされないもんだから、触手を典鷹さんに伸ばし始めたみたいなんだよ…正直、クロエさんがあんな最低な人だとは思わなかった」

「だから姫羽さん、お食事にもいらっしゃらなかったんですね…」

「姫の奴、チョコも渡さないまま今も部屋に籠もったっきりで…典鷹さんも今頃、不思議がってるだろうね。バレンタインだから姫の事待ってるだろうに、姿も現さないんだからさ」

 其処で明里は、ハッと顔を上げた。

「姫羽さん、チョコレート渡さなかったんですか?あんなに張り切って、頑張ってたのに…」

「え、何を頑張ったの?」

 史也が訊き返すと、明里は言った。

「チョコレートですよ。昨日姫羽さんが帰って来てから、厨房借りて私も一緒に作ったんです」

「え?」

 史也は、目を丸くした。

「だ、だって…僕が貰ったの、既製品だったよ?」

 明里は、笑って言った。

「姫羽さんが作ったのは、1人分だけです。誰の分かは教えてくれませんでしたけど、普通に考えたら典鷹様の分としか…」

「いや、姫が典鷹さんにあげようとしてたのは、僕と同じ既製品のチョコだったよ」

 史也がそう言うと、今度は明里が目を丸くした。

「え?でもまさか、郁未さんに手作りチョコが行くって事は、失礼ですけど考えにくいですよね?」

 その意見に、史也も頷く。

「郁未さんは毎日、河内屋の警備員の仕事が忙しいだろう?昨日の火曜定休日以外は、朝から夜中まで仕事なんだから。たとえ郁未さんに渡すつもりだったとしたって、そんな暇はなかった筈だ」

「じゃあ…」

 明里は、史也を見つめた。

 史也も、頷いて立ち上がる。

 考えられるのは、1人しかいなかった。

「僕、ちょっと行ってみる」

「そ、そうですね」

 明里も立ち上がり、ドアを開けた。

「それじゃあ、明日にでも結果聞かせて下さい」

「そうだね」

 2人は史也の部屋を出ると、階段で別れた。

 史也はそのまま永志の部屋へ行き、ノックをした。

「どうぞ」

 永志の声がしたので、史也はドアを開けた。

「失礼します」

 永志は窓際に立ち、煙草を吸っていた。

「もう、先生!灰が落ちたら、どうするんですか!」

 史也はテーブルの上においてある、例の姫羽がプレゼントした灰皿を持って、窓際へ向かった。

「ああ、悪い」

 永志は、史也が持っている灰皿に煙草の灰を落とした。

「ったく、世話が焼けるんだから…」

 史也は、深い溜息をついた。

「で、どうした?」

 再び煙草を口にしながら、永志が訊く。

 史也は言った。

「先生、今度こそ白状してもらいますよ!」

「ああ、アメリカの事?」

 それを聞いて、史也はハッとした。

「あ、あぁーっっっ!すっ、すっかり忘れてた…昨日、うまくはぐらかされたんだったよぉ。そう、そうでしたねっ!」

「え?」

 永志は、顔を引きつらせている。

「アメリカの事も、全て聞かせてもらいます。いいですね!」

 史也はソファーまで戻り、ドカッと腰を下ろした。

 永志は溜息をつき、史也の向かいに座った。

「じゃあ、何訊きに来たんだよ」

 史也は、静かに言った。

「チョコレート…」

 一瞬、永志がビクッとなった。

「と言えば、何か心当たりがある筈じゃないですか、先生?」

 永志の鼓動は、徐々に早まって行く。

「そ、それが、どーかし…」

「まーた、惚けてますねぇ?」

 史也は真剣な表情で、永志の顔を見つめている。

「だっ、だから、何だっつーの!」

 永志が苛付いて言うと、史也は人差し指を突き出した。

「単刀直入に申しまして、ズバリ!姫から貰った先生のチョコは、手作りだったでしょう!」

 永志は、煙草を灰皿に押し付けた。

「もう、チョコなんかとっくに食っちまったから、分かんねーよ…」

「な、何ですか、その言い草は!」

「腹ん中に入っちまえば、一緒だろ」

 そう言って、永志がテーブルの上の新しい煙草に手を伸ばそうとした時、史也は咄嗟にそれを取り上げた。

「史…それ、返せよ」

「返せません。質問に、答えるまでは」

「はぁ?」

 永志は、ピクリと眉を吊り上げた。

「お前、ふざけてんのか?」

「ふざけてんのは、先生でしょうっ!」

 史也はいつになく興奮しており、取った煙草を床にバシッと叩き付けた。

「お、おい、史っ?一体、どーしちまったんだよ。お前らしくねぇじゃんか…」

 焦る永志を見て、史也も冷静になった。

「あ、す、すみません。ただ、あまりにも姫が…」

「姫が…何だよ」

「姫が、その、か、可哀想で…」

 俯いた史也は、少し泣きそうだった。

「な、何か…あったのか?」

 ただならぬ雰囲気を察した永志が、心配そうに訊く。

 史也は、顔を上げた。

「姫、本当に典鷹さんの事好きなのかなぁ…」

「は?」

 永志は、声を裏返らせた。

「ど、どう言う意味だよ。あんな厭味ったらしいくらいに、毎日ベタベタしてんじゃん!気持ち悪いったら、ねえよ…」

 それこそ厭味ったらしい永志の台詞を聞いて、史也は呆れた顔をした。

「だからねぇ、そう言う先生の言い方がやきもちやいてるようにしか聞こえないんですって…」

「何でだよ!」

 永志は、怒って言う。

「お前が、そう言う目で俺を見てるからだろ!」

「先生だって…本当は嬉しかったんでしょう、手作りチョコ」

 それを言われて、永志は途端に黙り込んだ。

「やっぱり…」

 史也は、溜息をついた。

「先生は今日の夕方、玄関でした僕との会話によって、自分のチョコだけが手作りだった事を知ったんです。恋人である典鷹さんですら、既製品だったって言うのに…そう考えれば考えるほど、先生はやきもちをやいてしまってるんですよ」

「だから、違うって!」

「だったら!先生が自分で気付いてないだけで、本当はやきもちをやいてるんですっ!」

 史也は、またもや興奮していた。

 流石の永志も、呆気に取られている。

 史也は、気を落ち着けて言った。

「正直、僕もよく分かりません。どうして先生が手作りで、典鷹さんが既製品なのか。まあ、姫が典鷹さんを好きな気持ちは嘘ではないと思う。でも、そのチョコレートのランク付けが姫の本当の心を表しているようで、僕はどうしても引っ掛かるんです…」

「何、何?それってさぁ、姫が本当は俺を好きだって事ぉ?」

 永志がニヤけながら言うと、史也は頭を抱えた。

「先生さぁ、絶対姫の事好きですよねぇ…」

 突然の発言に、永志は思わず顔を赤らめた。

「なっ、何言ってん…」

「先生って、自分ではひねくれてるように見せてるつもりなんだろうけど、はっきり言ってメチャメチャ素直なんですよ。見てるこっちは、先生の気持ちが手に取るように分かるんです」

「え…」

 顔を引きつらせる、永志。

「それは姫にも言える事で、先生の気持ちが分かってないのは姫だけだし、姫の気持ちが分かってないのは先生だけなんです。それって、どう言う事か分かります?」

 史也に訊かれた永志は、何も答えられなかった。

「ま、いいですけどね…」

 史也は、背もたれに寄り掛かって伸びをした。

 永志は、納得出来ない様子だ。

「なっ、何だよ!その、中途半端な終わり方は!」

「そんな事より…先生こそ、早くアメリカの話を聞かせて下さいよ」

 史也は脚を組み、偉そうに踏ん反り返って座っている。

 永志は、口を尖らせた。

「畜生…しょうがねぇな。誰にも、言うなよ」

 史也は、大きく頷いた。

「分かってますって。で、何なんです?やっぱり、クロエさんとアメリカ行っちゃうんですか?」

「ま、そんなようなもんだな」

 史也は半分冗談で言っていたので、当たっていた事が少しショックだった。

「ちょっ、ま、待って下さいよ。それ、本気…ですか?」

 永志は史也が叩き付けた煙草を拾い、火を点けた。

「アイツの親父さんがアメリカで画商やってて、アイツが大学卒業してアメリカ戻った時に、内緒で俺の絵を持ってったらしいんだ。それ見せたら親父さんが気に入って、向こうのアマチュア店に勝手に出展したんだと。そしたら結構評判良かったみたいで、是非こっちで画家としてやってみないかって話になって…」

「それで、来いって?」

 史也の質問に永志は黙って頷き、煙を吐いた。

「先生は、どうしたいんですか?まさか、行くつもりなんじゃないでしょうね?」

「一応、今月中には返事する事になってっけど…」

「先生っ!」

 史也は、テーブルを叩いた。

「僕達、この5年間ずっと一緒でしたよね?でも、流石に日本での生活がありますから、アメリカまでついて行く事は出来ません。先生は僕達と共に、この日本で今まで通りの生活を送る事を選ぶんですか?それともクロエさんと共に、アメリカで画家としての生活を送る事を選ぶんですか?」

 史也は、真剣だった。

 こいつは、心の底から自分と離れたくないと思ってくれている。

 永志には、それが伝わって来た。

「姫は…」

 史也は、呟くように言った。

「姫はこの事、知らないんですよね…」

 永志が、黙って頷く。

「やっぱり、姫が可哀想だ…」

 史也は、ガクッと俯いた。

「そう言えば、姫が可哀想だってさっきも言ったよな。何の事だ?」

 永志に訊かれて、史也は答えた。

「典鷹さんが…典鷹さんがクロエさんとキス、してたんです」

 永志の煙草から、灰が落ちる。

「その現場を、僕と姫で目撃しちゃって…」

 永志は目を丸くしたまま、暫く黙っていた。

「せ、先生?」

 史也が顔の前で手をチラつかせると、我に返った永志は突然立ち上がった。

「先生!どうする気ですか!」

 史也も、立ち上がる。

「あの病弱男、ぶっ殺してやる!」

「ちょっ、ちょっと待って下さい!」

 史也は、慌てて永志を止めた。

「ど、どっちかって言うと、典鷹さんは悪くないと僕は思うんですよ。だって、キスを仕掛けたのはクロエさんの方なんですから」

「だったら、クロエを殴るまでだ!」

 永志は、拳を握りしめている。

「せ、先生…」

「何だよ!」

 興奮する永志に、史也は落ち着いた口調で言った。

「僕は、クロエさんも悪くないと思うんです…」

 永志は、史也を見つめた。

「じゃ、じゃあ、誰が…」

「分かりませんか…先生ですよ」

 永志は、呆然とした。

「史…お前、喧嘩売ってんのか?」

 史也は、溜息をつく。

「先生がはっきりしないせいで、皆が迷惑してるんです。クロエさんの事も、嫌いじゃないけど好きでもないとかって曖昧な事ばっか言ってないで、付き合えないなら付き合えない、嫌なら嫌だとはっきり言って、家庭教師もクビにするべきだと思います」

 永志は、黙り込んでいる。

「先生が半端な態度ばっか取ってるから、傷付いたクロエさんが先生に相手にされない淋しさを埋める為に、典鷹さんにキスしたりしたんです。クロエさんが典鷹さんにキスなんかしなければ、恋人である姫が傷付く事もなかった…全ては、先生が原因でしょう?」

「ちょっ、ちょっと待てよ…」

 永志が、柄にもなく慌てる。

「だったら、俺の気持ちはどうなるんだ?」

「だから、はっきりさせろと言ってるんです」

 史也は、永志を見つめた。

「先生…貴方、もういい大人なんですよ?いつまでも子供みたいな事してないで、少しはしっかりして下さいよ」

「なっ、何でお前に、そんな事言われなきゃなんねぇんだよ!」

 永志が顔を赤らめると、立ち上がった史也はドアの所まで歩き、こちらを振り返った。

「そろそろ本命見つけて、落ち着いたらどうですかって事」

「なっ!」

 絶句する、永志。

「いずれは河内屋を背負って立つ人なんですからね、先生は。それとも花が咲くかどうかも分からない画家と言う夢を追って、異国の地で大して好きでもなかった昔の女と、ダラダラ暮らしますか?ま、先生の人生ですから僕が口出しするような事じゃないですけどね。じゃあ、お休みなさい」

 それだけ言って、史也は部屋を出て行ってしまった。

「くそっ!」

 永志はソファーにドッカリと腰を下ろし、煙草を灰皿に押し付けた。

「アイツ、1人で大人になったみたいな生意気言いやがって!仮にも、先生なんつって呼んでるこのお方に対して、あの態度はねぇだろ!あーっ、ムカッ腹立つ!」

 永志は苛付きながら、ソファーに寝転がった。

 しかし、史也の心配してくれている気持ちを理解するにつれ、嬉しくなって来た永志は、思わず笑みを零した。


        †


 翌日。

 姫羽は、朝食にも顔を出す事はなかった。

 昨日の夕方以来、誰も姫羽の姿を見ていない。

「今朝、ちゃんと出勤なさってたんで、大丈夫だとは思うんですけど…」

 ミルクのお代わりを注ぎながら、唯一の目撃者である明里がそう証言した。

「だそうですよ、先生。取り敢えずは、一安心ですね。まあ人間、1食や2食食べなくたって死にはしないでしょうから、その点は心配してないんですけど、問題は心の方で…」

 史也が俯くと、明里が思い出したように言った。

「史也さん、昨日の件はどうなりました?」

「ああ、やっぱり先生の所に行ってたらしい。ねえ、先生?」

 史也に話を振られた永志は、顔を上げた。

「は?」

「ほら、昨日のチョコの件ですよ。姫の手作りチョコは、先生の所に行ってたんですよね?」

 永志は、黙って頷いた。

「あの…」

 其処で明里は何か言いかけたのだが、すぐに首を横に振った。

「あ、いえ、やっぱりいいです…」

「何だよ」

 永志が、即座に訊き返す。

「え、あ、別に…失礼致しました」

 明里は、その場から立ち去った。

「何だろう…」

 史也は首を傾げたが、永志は苛付き出した。

「あぁーっ、ムカつく!」

「な、何がですか?」

「あれだよ、あれ!」

 永志は前を向いたまま、自分の後ろを親指で差す。

 永志の遥か後ろの方のテーブルには、典鷹が1人で座って朝食をとっていた。

「せ、先生!『あれ』なんて言い方しなくても…」

 史也は、苦笑いする。

「でも、ま…先生の気持ち、僕もよく分かりますよ」

「は?」

 永志は、気の抜けた顔をしている。

 史也は、クスッと笑った。

「昨日は、あんな偉そうな事言っちゃって…本当に、申し訳なかったと思ってます。あれから色々考えて、もし僕が先生の立場だったら…やっぱり誰よりも、典鷹さんを殴りたくなるんだろうなぁって事で納得しました」

「だろ?」

 得意気に微笑む、永志。

「但し!それを納得する、と言う事はですね…どうしても、先生の心が手に取るように分かってしまうと言う事なんですよ」

「え?」

 永志には、史也の言う意味が分からない。

「だから僕は、先生の本当の気持ちを確信しました!」

 史也は食べ終えた皿を重ね、立ち上がった。

 永志が、すかさず訊く。

「何を?」

「きっといつか、全てはいい方向へ向かう筈です!」

 史也の表情は、妙に晴れ晴れとしていた。

「じゃあ僕、仕事行って来ますね!」

「お、おい、史!」

 永志が止めるのも聞かず、史也は行ってしまった。

「何だよ、アイツ…」

 永志はそう呟き、ミルクを一気に飲み干した。


        †


 永志がアメリカ行きを決めるかどうかは、今日にかかっていた。

 バレンタイン以来、姫羽は明里以外の人間と顔を合わせる事はなかった。

 食事も、部屋でとっているようだ。

 典鷹も再び体調を悪くし、部屋に籠もる事が多くなった。

 クロエも、相変わらず典鷹の部屋を訪れているらしい。

 但し、典鷹の部屋で何が行われているのかは、本人達にしか分からなかった。

「こんにちは!」

 クロエは、時間通りやって来た。

 茅ヶ崎が出迎える。

「いらっしゃいませ。永志様は、お部屋にいらっしゃいます」

「ありがと!」

 クロエは階段を駆け上り、永志の部屋のドアをノックした。

「どうぞ」

 中から、永志の声が聞こえる。

 ドアを開けたクロエは、すぐさま永志に飛びついた。

「永志ぃーっ!」

 ソファーから立ち上がろうとした永志は、クロエに抱きつかれてよろけた。

「お、おい、抱きついてんじゃねーっ!」

 無理矢理、クロエを引き剥がす。

 クロエは、ムッとした。

「ケチ!減るもんじゃなし、いいじゃない!」

「減る!つーか、吸い取られる!」

 永志は、そう言い切った。

 クロエは、溜息をついた。

「どうでもいいけど…とにかく、今日こそ永志の返事を聞かせてもらうからね!」

「行かない」

 永志は、即答した。

 クロエが、唖然とする。

「ほ、本気?こんなチャンス、滅多にないんだよ?永志、才能あるのに勿体な…」

「俺はこの大河内家の長男として、色々やる事があんだよ」

 永志がそう言うと、クロエは目を丸くした。

「え、永志の口から、そんな言葉が出るなんて…い、いいじゃない、そんなの典鷹くんに任せておけば!」

「お前さぁ、典鷹に言い寄ってんだって?」

 その永志の台詞を聞いて、クロエはハッとした。

 永志は、バカにした口調で言う。

「トイレにかこつけて通ってたらしいじゃねぇかよ、ヤツの部屋。お前、一体何しに此処来てんの?ひょっとして、男漁り?仮にも、こっちは金払って雇ってやってん…」

 バシッ。

 鈍い音がした。

 永志が、とっさに自分の頬を押さえる。

 クロエの目からは、涙が流れ落ちていた。

「何もかも、アンタのせいじゃないっ!」

 クロエは、怒鳴った。

「永志のせいで、私は傷付いて駄目な人間になっちゃったんだよ!いっその事、思いっきりこっ酷く突き放された方が良かった!でも、いつか永志は私のモノになってくれるんじゃないかって、信じてたから…」

「俺は…俺は、誰のモノにもなんねぇよ」

 永志は、静かにそう言った。

 口の中が切れたのか、手で血を拭っている。

「絶対、後悔するから!それでも、いいのっ?」

 クロエがそう言うと、永志はフッと笑った。

「既に後悔だらけの人生送ってんだよ、俺は」

 クロエは、グッと拳を握りしめた。

「私、帰る!アメリカに!」

「そっか…気を付けて帰れよ…向こうで、頑張れよな…」

「そう言う優しい事、言わないでっ!」

 クロエは鞄を持ち、永志に向かって怒鳴った。

「私がどうしようが、もう永志には関係ないでしょっ!」

「そうは、行くかよ」

 永志は、部屋のドアを開けて言った。

「これでお前の乗った飛行機でも落ちたら俺、寝覚め悪いじゃん」

 優しく微笑む永志を見て、クロエはムッとしながら怒鳴った。

「永志の、意地悪っ!」

 そして、クロエは部屋を出て行った。

 その目からは、涙がとめどなく溢れ出していた。

「絶対、許さない…」



「せ、先生っ?」

 姫羽は、驚いて立ち止まった。

「よ、よお…」

 仕事が終わった姫羽を、帰り道で待っていたのは永志だった。

「め、珍しいじゃない。先生が、1人で外出するなん…って、ちょっ…ど、どうしたの、その顔っ!」

 永志の腫れた頬を見て、姫羽は目を丸くした。

「ああ、ちょっとな…」

 永志は、頬を押さえて微笑んだ。

 姫羽は、咄嗟に永志の腕を掴んだ。

「先生、公園行こう!」

「え?」

 姫羽は永志を引っ張って、近くの公園にやって来た。

「ちょっと、待ってて!」

 永志をベンチに座らせ、姫羽は慌てて自分のハンカチを近くにあった水道の水で濡らした。

「ほら、先生。これで、冷やしてよ…痛い?」

 姫羽がハンカチを当てると、永志は顔を顰めた。

「いっ、痛ぇーなぁ!もうちょっと、優しくやれよ」

 姫羽は、ムッとする。

「ったく、減らず口ばっか叩いて…オラオラっ!」

 姫羽はお返しに、永志の頬をつついた。

「うおっ…いってぇーっっっ!」

「ケッ、ざまーみろ!」

 姫羽が、得意気に微笑む。

 永志は文句をつけようとしたが、それを我慢して静かに言った。

「あのさ…何か、久しぶりじゃねぇか?」

「え?」

 姫羽がキョトンとすると、永志は俯いた。

「いや…バレンタイン以来、唯一皆が顔合わせる食堂にも来なくなったしさ、仕事から帰って来てもすぐ部屋に籠もってたじゃん。史とかも、心配してんだぞ」

 姫羽は、辛そうに微笑んだ。

「あ…ご、ごめんね。史くんは事情知ってるだけに、余計心配掛けてるかも知れないな…」

「俺も、聞いた…」

「えっ?」

 姫羽が驚くと、永志は言った。

「何か典鷹のヤツ、クロエとキス…したらしいな」

 姫羽は、黙って頷いた。

 永志は顔を上げ、真剣な顔で姫羽を見た。

「俺さ、何度典鷹を殴ろうと思ったか分かんねぇよ…」

「それってさ…もしかして、クロエさんの為?それとも…私の…為?」

「は?」

 姫羽の質問に、永志は目を丸くした。

「な、何で、そんな事…」

「だってクロエさんの事、好きじゃないけど嫌いでもないんでしょう?」

「あ、ああ…」

「そんな立場の女の人が他の男の人とキスしてたら、頭に来るんじゃないの?」

 永志は、痛そうに頬を押さえた。

「これさ、アイツに殴られたんだ…」

 姫羽は、ハッとして永志を見た。

「ア、アイツって…クロエさんに?」

 永志が頷く。

「典鷹んトコに顔出してた事を、指摘したんだよ。仮にもこっちは金払ってんのに、お前は男漁りに来てんのかってな…」

「酷っ…そんな事、言ったの?」

「そしたらアイツ、この通り俺を殴って来た。こんな、口ん中切れるくらい強く…そんで、全部俺のせいだって言いやがったんだ。だからこっちも負けずにはっきりと、俺は誰のモノにもなんねぇよって言ってやった」

 それを聞いた姫羽は、淋しそうに俯いた。

「そ、そっか…そう、だよね…」

 暫く、沈黙が続く。

 永志は、意を決したように言った。

「あ、あのさ、俺…実はその、クロエからアメリカに…」

「知ってる」

 姫羽は、永志の台詞を遮るように言った。

「え?」

 永志は、驚いている。

「それで、どうしたの?まあ、OKしてたらこんな事にはなってないか…」

 姫羽が笑うと、永志も微笑んで言った。

「ま、まあそー言う事、だな。何つーの?俺がいなくなったら、お前が淋しがるんじゃないかと思ってさ。大体屋敷にまでついて来るくらいだから、お前は俺がいないと生きて行けないん…イーッテテテテッ!なっ、何すんだよ!」

 姫羽は、永志の腫れた頬をつねった。

「まぁーた訳分かんない事、言ってるからでしょっ!ったく、すぐ調子に乗るんだから!」

 姫羽が怒ると、永志はクスクスと笑い出した。

「な、何?何、笑ってんのよっ!」

 顔を赤らめる姫羽を見て、永志は笑いを堪えながら言った。

「い、いや、いつもの姫で良かったなぁーっと思ってさ」

「え、あ…」

 姫羽は、照れながら俯いた。

「ホ、ホント、ごめん。心配掛けちゃって…」

「このまま元気なくなってっちゃったら、どうしようかと思ったよ。まだ、チョコレートのお礼も言ってないしな…」

 永志がそう言うと、姫羽はバレンタインの日の事を思い出した。

「実は私、あの時ずっと先生の後つけてたんだ。図書室にもいたんだよ?」

「げっ、嘘!」

 永志が驚くと、姫羽はフッと微笑んだ。

「0時の鐘が鳴ってバレンタインになったと同時に、すぐ渡したかったんだ。だから廊下で待機してて、0時になったら先生の部屋をノックする筈だったの。でも先生、急に部屋から出て来て図書室入ってっちゃったでしょ?あれは、想定外だったよ!」

「いや、ちょっと寝そびれちまって…」

 確か、クロエが電話をかけて来たせいだ。

「とにかく慌てて私も図書室に忍び込んで、先生が本選んでる隙にいつもの席にチョコレート置いといたって訳」

「そ、そうだったのか…」

 納得する、永志。

「それでも何となく不安だったから、先生がチョコを見つけてくれるの確認してから、出て来たんだ」

「マジかよ。俺、全然気付かなかったんだけど…」

 少し焦る永志を見て、姫羽はニヤニヤし始めた。

「先生の嬉しそうな顔、ちゃーんと見せてもらいましから!先生こそホントは私のチョコレート、期待してたんじゃないのぉ?貰えなかったらどうしようって、夜も眠れなかったんじゃ…痛っ!」

「お前こそ、調子に乗んな!」

 そう言って、永志は姫羽の額を小突いた。

「はーい…」

 素直に返事をする、姫羽。

 其処で永志は、少し緊張しながら訊いた。

「で、でもさ、その…ど、どうして俺だけ手作りだったんだ?お前、典鷹と付き合ってんだからやっぱ手作りチョコは、本命にあげた方が…」

「そう言うのってさ、誰が決めたのかな…」

「え?」

 永志が、訊き返す。

「私は、先生に手作りのをあげたかった。だって毎年手作りのをあげてるし、あのお屋敷にだって先生のお陰で住んでいられるんだし。だからお礼の意味も込めて、先生のだけ手作りにしたかったの」

 永志は、ガクッとしながら呟いた。

「そ、それ…だけ?」

「それ以外、何があるっての?」

 姫羽は、あっさりそう言った。

「はぁ…」

 永志は、溜息をついた。

「ま、いいけど…それよりさ、典鷹との事はどうすんだ?こうして、いつまでも顔を合わせないままって訳にも、行かないだろ?」

 姫羽は俯いたまま、呟いた。

「正直、私は典鷹さんを許せない。いくら突然だったからとか、向こうが勝手にして来たからとか言ったって、目にも止まらぬ早さでする訳じゃないでしょ、キスって」

「ま、まあ…な」

「だから、絶対避ける事は出来た筈。それを避けなかったって事は、キスくらいならいいかって気持ちが、どっかにあったって事じゃない?」

「え…」

 永志は、思わずギクッとした。

 まるで、自分が責められているかのような感覚に陥ったのだ。

「だから私、典鷹さんとはもう付き合えない…でも、典鷹さんは私がその現場にいた事知らないし、かと言って何か…あの人の事、傷付けたくないとも思っちゃってる自分もいて…」

「姫…」

「私ももう、何だか頭の中がゴチャゴチャで…だからもう暫く敢えてこのままでいて、気持ちの整理がついたらその時にちゃんと話そうと思ってるんだ…」

「そっか…」

 永志は、静かに頷いた。

「姫がそう言うなら、そうすればいい。お互い、後悔のないように生きて行かないとな」

「え?」

 姫羽は、驚いた顔をした。

「せ、先生らしくない発言じゃない?確かお祖父様の言葉だったよね、それ…だったら、先生は後悔のないように何かした訳?」

 姫羽に訊かれて、永志は答えた。

「まず、今度こそクロエときっぱり縁を切った」

「それから?」

「姫に、会いに来た。わざわざ、こんなトコまでな…このクソ寒い中、外出嫌いの俺がだぞ?有り難いと思えよ」

 姫羽は、黙って永志を見つめている。

 永志は、笑って言った。

「大体さ、お前とバカ言い合ってないと、こっちまで生活のリズムが狂って来んだよ。それって、スッゲェ迷惑じゃん?」

 姫羽は、ガクッとした。

「そ、それ…だけ?」

「それ以外、何があるってんだよ」

 永志は、あっさりそう言った。

「はぁ…」

 姫羽は、溜息をついた。

「ま、いいけど…じゃ、帰るとしますか?」

「ああ」

 永志も頷き、2人は屋敷へと帰って行った。


        †


 波乱含みな1日が、また始まろうとしていた。

 ホワイトデーである。

 姫羽は3月に入ったあたりから、いつものペースを取り戻しつつあった。

 先月末、永志が帰り道にまで来て励ましてくれたせいか、大分元気も出て来たようだ。

 食堂にも皆と同じ時間に顔を出すようになり、永志や史也とも前のように話したり部屋に遊びに行ったりしている。

 しかし典鷹とは、一切口も利かなければ顔も見てはいなかった。

「私、何でもいいよ?そうだなぁ…財布も買い換えたいし、それから折り畳み傘も欲しいかも!この前の強風で、骨が折れちゃってさぁ!アハハハハ!」

 朝食の時間。

 姫羽はそう言って、1人で笑っていた。

「ちょーっと待った!」

 ベラベラ喋り続ける姫羽に、史也が待ったをかける。

「さっきから何の話してんのか、さっぱり分からないんだけど…」

 姫羽は、笑いながら史也の背中を叩いた。

「やだなぁ、史くんってば!ははーん、なるほど…さては、惚けた風を装って驚かそうって魂胆だな?分かった分かった、此処は大人しく引っ掛かってあ・げ・る!」

 姫羽は、1人で盛り上がっていた。

「せ、先生!何とか、言ってやって下さいよ!」

 困った顔で史也が言うと、永志はスッと立ち上がった。

「ま、言うだけタダだ、勝手に言わせとけ。じゃ、ごちそーさん」

「何よ、あの言い草はっ!」

 言うだけ言ってさっさと食堂を出て行った永志を見ながら、姫羽はムッとしている。

「でも先生の言う通りですから、姫はどうぞ勝手にお話し下さい。ごちそうさまでした」

 史也も立ち上がり、手を振りながら食堂を出て行ってしまった。

「ったく、皆して冷たいんだからっ!」

 姫羽は怒りながら、1人でパンを齧った。



 もうすぐ、お昼になろうとしている。

 永志は、迷っていた。

 この5年間、1度だってバレンタインのお返しを姫羽にあげた事がない。

 何故なら、永志は誰のモノにもなる気がなかったからだ。

 学生の頃から、様々な女に好きだ好きだと言われ続けて来たが、自分から好きだなんて言った事は1度もなかった。

 考え込んでいたその時、誰かが永志の部屋のドアをノックした。

「どうぞ」

 窓際に立って煙草を吸っていた永志は、ドアの方を振り返った。

 入って来たのは、史也だった。

 永志は、驚いた顔をする。

「あれ…お前、仕事は?」

「これから3時くらいまで、空きがあるんですよ。今、11時半でしょ?時間あるから、一旦帰って来ちゃいました」

 史也は、勝手にソファーに座った。

「え、11時半?もう、そんな時間か…」

 慌てて、壁の時計を見る永志。

 朝食をとってから今までずっと悩み続けていた永志は、時が過ぎるのも忘れていたのだった。

「先生…」

 史也が、真剣な顔で言う。

「ちょっと、座って下さい」

「はぁ?」

 仕方なく、永志も面倒臭そうにソファーに座る。

「先生…」

「何だよ」

「朝食の時にも話題になりましたけど、改めて聞かせて下さい。今日が何の日だか、知らないとは言わせませんよ。バレンタインの時みたいに…」

 永志は、ギクッとした。

「しらばっくれても、無駄です」

「わ、分かってるよ…ホワイトデーだろ」

 永志が素直に答えると、史也は満足気に頷いた。

「その通りです。もう、半日過ぎました。どうするんですか、お返しは」

「お、お返しったって…」

 永志は吸っていた煙草を灰皿に押し付け、ソファーにもたれかかった。

「そう言えばクロエにもチョコもらったんだけどさ、返そうにもアイツアメリカ行っちまったし、もうアイツと会う事なんて2度とないだろうし。だから…」

「先生」

 史也は、冷静に言った。

「僕、クロエさんの事を言ってる訳じゃないんですけど…」

 永志は、新しい煙草に火を点けた。

「お前さぁ…最近、俺に冷たくねぇか?」

 史也は、溜息をつく。

「あのですねぇ、僕は早く先生に素直になって欲しいだけなんですよ。意地を張るだけ、損です。典鷹さんと姫の仲が修復する前に、先生が割り込んで行かないと…」

「あのなぁ…」

 永志は、顔を引きつらせた。

「其処まで、お前にお膳立てしてもらわなくたって…つーか、何で俺と姫がくっつくの前提で勝手に話を進めてんだよ!俺はなぁ!」

「まあ正直、先生の意見はどうでもいいんです」

「は?」

 永志は、キョトンとしている。

 史也は、淡々と語り出した。

「今のこのチャンスを逃す訳には、絶対に行かないのです。と言う訳で此処は1つ、丁度ホワイトデーと言う事もありますから、物で姫の心を釣ってですね…」

「待て待て…」

 永志は、煙草の灰を灰皿に落とした。

「よく考えてみろ、史…俺が今まで、姫にお返しをあげた事があったか?それだっつーのに、今年だけやったらおかしいだろ?」

「おかしいですね」

 史也が、即答する。

 永志は、ガクッとなった。

「だ、だろ?」

「でもですね…」

 ソファーに寄り掛かっていた史也は、起き上がった。

「僕と明里ちゃんは、色々考えたんですよ」

 それを聞いた永志は、溜息混じりに煙を吐いた。

「ははーん、そう言う事か…」

「な、何がです?」

 ちょっとビクつく、史也。

 永志は、ニヤニヤしながら言った。

「先月のバレンタインで、ホワイトデーを待つ事なく早々にうまく行ったお2人さんが、今度は仲良く人の心配をしてやろうって訳か?」

「ちっ、違いますよっ!」

 史也は、顔を赤らめた。

「全く、僕達が羨ましいのは分かりますけど…」

「っんだと?」

 ムッとする、永志。

「い、いえ…」

 史也は、慌てて気を取り直した。

「とにかくですね、お返しとして仰々しくプレゼントを用意したりしようとするから、おかしいと思われるんです。だから、物は物でも食べ物だったどうでしょうか?」

「え?」

 眉間に皺を寄せる、永志。

 史也は言う。

「食べ物とは言っても、食べ物を買って来てプレゼントする訳ではありません。今日の昼…あ、昼は店の人達と食べるって言ってたな。うーん、だったら夜でもいいんです。何気に、食事に誘ってみたらどうですか?」

「食事?」

 永志が、訊き返す。

 史也は頷いた。

「それだったら、別に怪しまれないと思いますよ。わざわざお返しだなんて言う必要もないし、食事くらいだったら今までだって何度も行った事があるじゃないですか。ただ、まあ…僕を含めて3人で、でしたけど…」

「ふっ、2人っきりで行けって言うのかっ?」

 驚く永志に、史也も怒鳴り声で返す。

「当たり前じゃないですかっ!何で、僕まで行かなきゃなんないんです?あくまでも、先生から姫へのバレンタインのお返しとして行くって言うのに…」

 永志は、黙り込んでいる。

「じゃあ僕、下の食堂行きます。もうすぐ、お昼だし」

 立ち上がった史也はドアまで歩いて行き、こちらを振り返った。

「先生、ちゃんとうまくやって下さいよ。僕はあくまでも典鷹さん×姫派ではなく、先生×姫派なんですからね!」

「なっ!」

 永志がカッとなって立ち上がる前に、史也はスッと部屋を出て行った。

「っんだよ…」

 永志は、暫く考え込んでいた。

 しかし、煙草を灰皿に押し付けて上着を羽織ると、颯爽と屋敷を出て行った。

 そんな永志の姿を陰で見送りながら、史也は静かに微笑んだ。

「頑張って、先生!」



 姫羽が店の奥で食事の後片付けをしていた時、ノックの音がしてドアが開いた。

 いつもの通り、店番をしてくれていたビルオーナーの和歌代が入って来る。

 今日も全身、渾身の手作り衣装に身を包んでいる。

「姫羽さん?」

「は、はい!」

 振り返った姫羽を、和歌代はジーッと見つめた。

「男性の方、お見えになってますけど」

「えっ?」

 姫羽は、驚いて言った。

「も、もしかして、この前の?」

 和歌代は、肩を竦める。

「いいえ。少なくとも、髪の毛は黒かったですよ」

 まさか…姫羽は、瞬時に永志の顔を思い出していた。

「姫羽さん?」

 和歌代の眼鏡の奥の瞳が、鈍く光っている。

「あ、えーと、し、失礼しまーす…」

 姫羽は苦笑いしながら、店の入り口へと走って行った。

 表に立っていたのは、やはり永志だった。

「ちょっ、せ、先生!どうしたの、こんな時間に…ご飯、食べたの?」

「いや…」

 永志は首を横に振り、静かに言った。

「あのさ、帰り迎えに来っから」

「は?」

 突然の永志の発言に、姫羽は訳が分からず訊き返した。

「ど、どう言う事?」

 永志は、思い切って言った。

「め…飯っ、食いに行かねぇかっ?」

 黙り込む、姫羽。

 その反応を見て、永志は慌てて付け足した。

「えっと、ふ、史と明里も、い、一緒なんだ、けど…」

 それを聞いて安心した姫羽は、途端に乗り気になった。

「いいね!行く行く!じゃあ、6時頃迎えに来て!」

「あ、ああ、分かった…じゃあな」

 それだけ言って、永志は出て行った。

「あ…せ、先生?」

 姫羽は引き止めようとしたが、永志には聞こえていない。

「ま、いっか!」

 姫羽は、何となくいい気分で店に戻った。



「で…これが、飯?」

 不機嫌な顔をする、姫羽。

 隣には、美味しそうにラーメンをすする永志。

 2人は、ラーメン屋の屋台に座っていた。

「早く食わねぇと、のびるぞ」

「先生っ!」

 姫羽は、憤慨した。

「私はねぇ、何処かいいレストランにでも連れて行ってくれるのかと思って、期待してたんだよ?ま、まあ、別に屋台を否定する気はないし、ラーメンも好きだからいいんだけど…でも、何で急に史くんや明里ちゃんが来れなくなったりする訳?明里ちゃんはともかく、史くんなんか暇じゃない!」

 しかし、永志は静かに言った。

「暇じゃねぇだろ。2人でイチャつくのに、忙しいんじゃねぇの?」

 それを聞いて、姫羽は目を丸くした。

「ど、どう言う事?」

 永志は、箸を止めた。

「明里が史也にチョコあげたの、お前も知ってんだろ?」

「う、うん…」

 頷く姫羽。

「史也の雰囲気から察するに、好きだとか付き合ってくれとか具体的な事はまだ口にしてねぇみたいだけど、お互いの感じで何となく通じ合うモンは既にあるみたいなんだ」

 そう言って、永志は再び麺をすすり始めた。

 姫羽もラーメンを食べながら、笑顔を見せる。

「それ、ホント?だったら、あの2人がまとまるのも時間の問題だね!」

 其処で永志は、口ごもるように言った。

「それでさ…お前の問題は、その…ど、どーなったんだよ」

 姫羽が、一瞬真顔になる。

「の、典鷹の事…」

「やっぱりね…そう来ると、思った」

 姫羽は、溜息をついた。

「気持ちの整理、ついたのか?」

 永志が訊くと、姫羽は首を横に振った。

「ぜーんぜん!って言うか、気持ちを整理するどころか考えないようにしてた…だって、考えれば考えるほど自分が嫌になって、典鷹さんにも悪いなって思って来ちゃって…」

「何でだよっ!悪いのは、向こうだろ?」

 永志が声を荒げると、姫羽は考え込んだ。

「うーん…何て言ったらいいのか…あのね、私…典鷹さんの事、本気で好きだったのかな?って、思い始めて来たの…」

 永志は、ビクッとなった。

「よく分からないけど、私が本気で典鷹さんを好きだったら、例えばクロエさんと争ってでも今回の件を解決しようとしたり、典鷹さんとよく話し合って別れるか続けるか結論を出したりして、一生懸命努力すると思うんだ。でも今の私は、2度と典鷹さんと関わりたくないと思ってる。つまり…逃げてる、って事になるのかな」

 永志はラーメンを食べながら、姫羽の話に耳を傾けている。

「前も言ったけど私、付き合ってる相手がいるのに、他の人とキスするなんて考えられないの…」

「お前ってさぁ…」

 永志は、顔を上げた。

「案外、硬派なんだな…ロマンチストっつーか、何つーか…」

「あぁんっ?」

 姫羽は、思い切りガンを飛ばした。

「これって、普通の考えでしょうがっ!ひょっとして、先生…恋人いんのに、他の人とキスすんの平気なタイプなのっ?」

「えっ?いっ、いや、そっ、そんなんじゃねぇよ!」

 永志が慌てて否定すると、姫羽はホッと胸を撫で下ろした。

「だよねぇ?良かった良かった、先生がそんな男じゃなくて!そりゃあ過去に部屋に連れ込んだ女性は山程いただろうけど、先生自身は別に彼女がいた訳でも何でもなかったんだし?だからって許せる事ではないけど、女性の方が勝手に押しかけて来てたんだから、優しい先生は入れてあげるしかなかったんだよ…そうだよねぇ、センセ?」

「えっ?あ、ああ、まあ…な…」

 冷や汗を流す、永志。

「でもさ、典鷹さんは違うじゃない?私と言う恋人がいるのに、クロエさんとキスしたんだよ?これは、絶対許せない事だと思う!勿論、このままでいい訳ないのは分かってるんだけど…何か、私…」

 そう言って曖昧に濁しながら、姫羽はラーメンを食べ始めた。

 永志は、黙って姫羽を見つめていた。


        †


 翌日。

 姫羽は、朝早くから仕事に出掛けてしまった。

 朝食の時間。

 史也は、早速昨日の事を永志に訊いてみた。

「セ・ン・セ!」

「あ?」

 永志は、無表情でパンを齧っている。

 史也は、少しニヤけながら永志を見つめた。

「昨日、どうなりましたぁ?もしかして、姫とうまくまとまっちゃったとか!」

 しかし、永志は無言だった。

 拍子抜けしながら、史也が言う。

「せ、先生?あの…」

「アイツさぁ…」

 永志は、突然口を開いた。

「案外、心の傷が深いかも…」

「え?」

 史也は、意味が分からなかった。

 永志は、ミルクを一気に飲み干してから言った。

「俺さ…正直、典鷹が許せねぇわ…明里、これお代わり!」

 永志が、高々とコップを持ち上げる。

「あ、はい!」

 明里は返事をして、ミルクの瓶を持って来た。

「せ、先生…どう言う事ですか?」

 神妙な顔つきで、史也が訊く。

 永志は、注いでもらったミルクを飲みながら溜息をついた。

「アイツ、きっと心底典鷹を信じてたんだ。好きとか嫌いとか、そんなんは別にして…でも、典鷹はアイツを裏切った。史の言う通り、本来なら俺がはっきりしないのが悪いのかもしれない。でも典鷹の真意がどうであれ、アイツを裏切った事に変わりはないだろ?だから俺は、典鷹を許せねぇんだ。姫自身も、昨日そう言ってた」

「先生…」

 史也は、無表情で永志を見た。

「折角のホワイトデーに、そんな話題しか出なかったんですか?」

「え?」

 一瞬固まった永志は、慌てて言った。

「だ、だってさ、どうしたって典鷹の件は避けて通れない道だろ?これが解決しない限り、先へは進めねぇんだからよ!」

「………ん?…え?ちょ…っ、えっ?!」

 史也は、ハッとした。

「せ、先生、もしかして…先へ進みたいって、思ってるんですか?」

「は?」

 食べ終わって立ち上がった永志が、史也を見る。

「だ、だって今、そう言ったでしょう?って事は…姫との事、ようやく決心したんですね?」

 史也が妙に嬉しそうな顔で訊いて来るので、永志は一瞬戸惑った。

「そうなんでしょう、先生?」

 もう1度訊かれて、永志は顔を赤らめながら言った。

「さ、さあな!」

 そっぽを向いて食堂を出て行く永志の後ろ姿を、史也は微笑ましく見つめていた。


        †


 河内屋デパート、定休日。

 郁未はゆっくり寝ていたかったのだが、仕事のせいで普段から朝の3時起きが定着しているせいか、遅くまで寝ていたくとも5時が限度だった。

 まずトイレに入り、顔を洗って歯を磨く。

 服を着替えて自慢の金髪をツンツンに立てた郁未は、部屋を出て階段を下りた。

 1階まで下りた所で、突然屋敷内に呼び鈴が鳴り響いた。

 ジリリリリ。

 奥の部屋から歩いて来た茅ヶ崎は、いつどのような時でもビシッと黒いスーツを着こなし、オールバックの髪もカチッと決まっている。

 茅ヶ崎は、黙ったまま玄関前のモニターを見つめた。

 階段の途中で立ち止まってその光景を見ていた郁未は、自分の腕時計に目をやった。

 まだ、朝の5時半である。

 こんな朝早くからこの屋敷を訪ねて来るなんて、どんな非常識な人間だろう。

 郁未は興味津々で階段を駆け下り、茅ヶ崎の脇からモニターを覗き込んだ。

「郁未様、おはよう御座います」

 茅ヶ崎が、丁寧に頭を下げる。

 郁未も、軽く手を上げた。

「おはよっす。それよりこいつ、誰?こんな朝早くから、傍迷惑な男だよなぁ?」

 そう、客人は男だった。

 しかも若くて、20歳前後と言った所だろうか。

 服装はシンプル、色もモノトーンでまとめられていた。

 すっきりとしたデザインの眼鏡をかけ、中々利口そうな青年である。

「出てみます」

 茅ヶ崎はベルトから鍵の束を外し、その中から玄関の鍵を取り出した。

 それを、鍵穴に差し込む。

 ドアを開けると、目の前にはモニターで見た若い男が立っていた。

「あ、おはよう御座います。朝早くから、大変申し訳ないのですが…こちら、河内屋さんのお屋敷ですよね?」

 その男は、朝から妙に愛想が良かった。

 それとは逆に、茅ヶ崎は無表情で答える。

「はい」

「ああ、良かった!僕、こう言う者です」

 男は胸ポケットから自分の名刺を取り出し、茅ヶ崎に差し出した。

 茅ヶ崎がそれを受け取ろうとすると、それより先に郁未が手を出しその名刺を奪った。

 そして、名刺の名を読み上げる。

「フナセ…ダイゴ?」

「はい!」

 男は、ニコニコ笑っている。

「ふーん…」

 郁未は、適当に頷きながら男を見た。

「で、そのフナセダイゴさんとやらが、此処に何の用?」

「失礼ですが、こちらのご主人様でいらっしゃいますか?」

 郁未は、訝しげな表情を浮かべた。

「何でそんな事、お宅に訊かれなきゃなんない訳?」

「あ、そうですよね。申し訳ありませんでした」

 素直に謝り頭を下げる男に対し、郁未は完璧に不審者を見るような眼差しを向けていた。

 茅ヶ崎は、黙ったままである…と、その時。

「おはよう御座います」

 身支度を整えた明里が、階段を下りて来た。

 後ろを振り返った茅ヶ崎が、挨拶する。

「おはよう」

「おはよ、明里ちゃん」

 郁未も、手を上げる…すると。

「あっ、あーちゃんっ!」

 突然、男が叫んだ。

 思わず顔を見合わせる、郁未と茅ヶ崎。

 明里はキョトンとして、こちらを見つめている。

「あーちゃん…あーちゃんだよね?」

 男は、明らかに明里に向かって言っている。

 明里は暫く唖然としていたが、やがて目を見開き呟いた。

「だ…大ちゃん?」

 途端に、男の表情がパーッと明るくなった。

「よ、良かった、覚えててくれたんだね?あれからもう8年も経つから、忘れられちゃってると思って物凄く心配してたんだ!ホント、良かった!」

 そう言って、男は胸を撫で下ろしている。

「あのぉ…明里、ちゃん?」

 郁未は、明里に訊いた。

「こいつ、明里ちゃんの知り合い?」

 其処で、明里は我に返って頭を下げた。

「あっ、も、申し訳ありませんでした!あの…船瀬ふなせ大護だいごさんと言って、私と同じ孤児院で育った方なんです」

「えぇーっっっ!」

 郁未は、それは驚いた。

 茅ヶ崎も無言のまま目を丸くし、男と明里の顔を交互に見比べていた。



 ノックの音がする。

 昨日夜更かしをしてしまった史也は、中々起きられずにいた。

 しつこく、ノックの音がする。

「くそ…」

 史也は無理矢理起き上がり、ドアを開けた。

「何ですか!」

 寝起きで、機嫌の悪い史也。

「どーも」

 永志だった。

 史也は、溜息混じりに言う。

「あの…まだ、6時半なんですけど…朝食は、7時からですよねぇ?毎日の事なのに、忘れちゃいました?」

 史也の厭味にもめげず、永志は呑気に肩を竦めて見せる。

 益々機嫌を悪くした史也は、苛付いた声を出した。

「用がないなら、さっさと帰って下さ…」

「お前、人の世話焼いてる場合じゃなくなったぞ」

 永志は突然真顔になり、低い声で静かにそう言った。

 眉間に皺を寄せる、史也。

「もしかしたら、人生最大の修羅場を迎える事になるかも…」

 永志がそう呟くと、史也は呆れた顔をした。

「ったく、朝っぱらから何訳分かんない事言ってんですか?何の話だか知りませんけど、僕は今寝起きで機嫌が悪いんです。先生の冗談に、付き合ってる暇は…」

「明里が、絡んでる…って言ったら?」

 瞬時に、史也の顔つきが変わる。

「言っただろ、人の世話焼いてる場合じゃなくなったって。これ、どう言う意味か分かるよな?」

 永志の真剣な眼差しを見て、一気に眠気が覚めた史也は溜息をついた。

「一体、何があったって言うんですか…」

 永志は、史也の耳元で囁いた。

「今、皆で食堂に集まってっから、お前も身支度整えて来い」

「わ、分かりました」

 史也がそう返事をすると、永志も頷いて食堂へと下りて行った。



「え、20歳?若いって、いいねーっ!」

 食堂に、姫羽の威勢のいい声が響く。

 大護も、笑って言う。

「その名刺にも書いてありますように医大に通っておりまして、来月から3年生になります」

「へぇーっ、お医者さん目指してるのかぁ!まだ学生なのに、名刺までお持ちとは…しっかりされてますなぁ!」

「はい。養父母の家が、病院だったものですから。お子さんがいらっしゃらないご夫婦で、跡を継いでくれる男の子をずっと探していたそうなんです」

「それで、大ちゃんが引き取られたと…」

 姫羽は馴れ馴れしく、もう大ちゃんなどと呼んでいる。

 話によると大護は朝食もとらずに出て来て、明里の住むこの屋敷をずっと捜していたらしい。

 それを聞いた明里が茅ヶ崎に頼み、大護を食堂へ通してやったのだ。

 其処に、丁度姫羽や永志も起きて来た。

 史也以外は全員揃ったので、事情を聞きながら皆で仲良く朝食を食べ始めたと言う訳である。

「引き取られたのは、僕が小学校卒業を目前に控えた頃でした。慌ただしかったのですが養父母の勧めで私立中学を受け、無事に受かった僕は養父母の家から通うようになったんです。確か、あーちゃんもこちらに引き取られるのかどうか、と言う話が出ていたよね?」

 大護に訊かれて、明里は当時を思い出しながら頷いた。

「大ちゃんとは、本当の兄妹のように仲が良かったんです。私が苛められている時も、必ず大ちゃんが助けてくれて…何だかヒーローみたいな存在で、凄く頼りにしていたのを覚えています」

「いいねぇ、そう言う人がいるって…青春だねぇ!」

 姫羽は、1人感慨に耽っている。

「ねえ、あーちゃん」

 大護は言った。

「覚えてるかな、あの約束…」

「約束?」

「ほら、僕が孤児院を出る時に約束しただろう?」

 考え込んでいた明里は、ハッと思い出した。

「お、覚えてる!覚えてるけど…えっ?もしかして、その為にわざわざ此処へ?」

 大護は、黙って頷いた。

「何、何?約束って!教えて教えて?」

 姫羽が興味津々で訊くと、大護は頷いて言った。

「僕が孤児院を出る時、あーちゃんは僕の為にボロボロ涙を流してくれたんです。僕は、そんなあーちゃんを1人置いて行くのが心苦しくて…」

「ああ、それ分かる!私だって明里ちゃんに泣かれたら、もう胸が引き裂かれる思いに駆られるもの!」

 そう言って、姫羽が明里を見つめる。

「だから、僕はあーちゃんに約束したんです。大人になったら、必ずあーちゃんに会いに行く。もしまだあーちゃんが孤児院にいたら、必ず迎えに行くからって…」

「ホントに?」

 姫羽は、喜んで手を叩いた。

「迎えに行くだなんて、まるでプロポーズみたい!」

 大護は、顔を赤らめる。

「た、ただ、あの孤児院にずっとあーちゃんを置いておくのは可哀想だと、僕は子供ながらに思っていたんです。だから、僕が大人になってもまだあーちゃんの引き取り手がないようだったら、僕があーちゃんを引き取ろうって…そう漠然と思って、言った言葉だったと思います。あの頃は、とにかく僕のこの手であーちゃんを救ってあげたいと、ずっと思っていた。養父母の元で幸せに暮らしている間も、僕の頭の中からあーちゃんが消える事はなかったんです」

 明里は、嬉しそうに大護の話を聞いている。

「当時小学6年生だった僕の中での大人は成人、つまり20歳の事でした。だから、20歳になったら必ずあーちゃんに会いに行くと、決めていたんです。そして8年の時が過ぎ、僕は20歳になりました。養父母から外出許可を得た僕はこの春休みを利用し、8年ぶりに孤児院を訪れました。それが、昨日の話です」

「でも、いなかったと…」

 郁未の台詞に、大護は頷く。

「院長先生に訊いたら、あーちゃんは河内屋デパート本店の社長宅に引き取られたとの事でした。なので取り敢えず孤児院に泊めてもらい、住所を訊いて今朝早く出て来たんです」

「そうだったんだ…で、8年ぶりに再会してみてどう?」

 姫羽が訊くと、大護は微笑んで言った。

「すっかり、見違えました。あの頃は、まだ可愛らしく僕の後について走り回ってるような子供だったのに、すっかり大人になって…」

 明里は、顔を赤らめる。

「そ、そんな。大ちゃんも、すっかり頼もしくなって…」

「有り難う、あーちゃん」

 大護は、再び優しく微笑んだ。

 姫羽は、そんな2人を交互に見た。

「大ちゃんはこの旅行、何日くらい予定してるの?」

「一応2週間くらいは戻らないと、養父母には言ってありますが」

「だったら、今日此処の住人全員休みでお屋敷にいるし、特に急ぎのお仕事もないだろうから、今日くらい明里ちゃんも仕事休んで、2人で何処か行って来れば?大ちゃんも、2週間くらいなら此処に泊まればいいんじゃない?ねえ茅ヶ崎さん、どうですか?」

 姫羽の提案を聞いて、大護と明里は途端に慌てた。

「そ、それは、ご迷惑が掛かります!僕の事なら、どうか心配なさらないで下さい。駅前のビジネスホテルにでも、泊まりますから!」

「わ、私も、お仕事はきちんと致します!ですから…」

 しかし、姫羽は手を合わせて茅ヶ崎に頼み込んでいた。

「茅ヶ崎さん、お願い!ね?何なら今日は明里ちゃんの代わりに、私がお仕事手伝うから!」

「姫羽さん、そんな…」

 明里は、困った顔をしている。

 茅ヶ崎は、静かに頷いた。

「分かりました…姫羽様が其処まで仰るのでしたら、明里には休みを取らせます。大護様も2週間、こちらにお泊りになって下さい」

「えっ?」

 驚く明里。

「い、いいんでしょうか…」

 申し訳なさそうに大護が言うと、姫羽は快く頷いた。

「気にしなくていいって!茅ヶ崎さんも、こう言ってくれてるんだしさ。先生にも、後で私が頼み込んでおくから!ね?」

『あ、有り難う御座います!』

 明里と大護は、揃って頭を下げた。

「ホント、2人ともいい子だなぁ!」

 姫羽は1人、ニコニコと微笑んだ。

 そんな一連の会話を、永志と史也は廊下で聞いていたのである。

 史也は突然クルリと踵を返し、元来た廊下を戻って行った。

「お、おい、史!」

 永志は、史也を追いかけた。

「何だよ、中入んないのか?」

 史也は、立ち止まって言う。

「入りたくないんです…」

「何でだよ」

 永志は訊き返したのだが、史也は黙ったまま階段を上って行ってしまった。

「史…」

 史也の後ろ姿を、永志はただ見つめる事しか出来なかった。



 午前10時。

 大抵の店が開店するのと同時に、大護と明里は出掛けて行った。

 久しぶりに再会出来たのを祝して、2人水入らずで食事をする事にしたのだ。

 2人が出て行った後、姫羽は階段を上って従業員専用の更衣室へ向かった。

 其処で着替えを済ませると、姫羽は早速洗濯に取り掛かった。

 まず永志の部屋へ行き、ノックをする。

「どうぞ」

 中から、永志の声がした。

「失礼致します。永志様、新しいシーツをお持ち致しました」

 そう言ってお辞儀をして顔を上げた姫羽の姿を見て、永志は思わず火の点いた煙草を絨毯の上に落としそうになった。

「ひっ、姫?お、お前、どーして…」

「似合うでしょ?」

 姫羽は普段明里が着ているような、メイド服を着ていたのだった。

 真っ白なエプロンをヒラヒラさせながら、1回転する。

 そしてスタスタと部屋の中に入ると、おもむろにベッドのシーツを引き剥がした。

 代わりに、新しいシーツを敷く。

「お前、な、何やってんの?」

 永志に訊かれて、姫羽は答えた。

「何って、明里ちゃんの代わりに働いてるの。あ、そうだ。ちょっと、先生も手伝ってよ」

「へっ?お、おい、ちょっと!」

 姫羽は永志の手を引いて無理矢理部屋から連れ出し、階段を下りて洗濯室へ連れて来た。

 そして、業務用の大きな洗濯機を指差した。

「これ、見張ってて。私、お屋敷中の洗濯物集めて来るから」

「え?」

「頼んだよ!」

 姫羽は手を振り、洗濯室を出て行った。

 永志は洗濯物がグルグル回るのを見つめながら、ボーッと考え事をしていた。

「姫のメイド姿か…結構、可愛…」

 其処で永志は、慌てて首を横に振りながら叫んだ。

「う、うおーっ!お、俺は一体、何を考えているんだぁーっ!」

「うるさいなぁ…何、叫んでるのよ」

 気が付くと、いつの間にか姫羽が戻って来ていた。

「う、うおっ!」

 驚く永志を睨みながら、姫羽は冷静に言った。

「全く、黙って出来ない訳?ほら、こっちの洗濯機もう終わってるじゃない…さっさと、乾燥機に移して頂戴な」

 テキパキと仕事をこなす姫羽を見て、永志は感心してしまった。

「へぇーっ…お前、大人になったなぁ」

 姫羽は、パッと顔を赤らめる。

「はぁーっ?な、何言ってんの?私だって、だてに5年も1人暮らししてませんーっ!」

 それを聞いた永志は、ケッと笑った。

「バーカ、言ってんじゃねーっつーの!ぬわぁーにが、5年も1人暮らしだ。5年前は、1人じゃなーんも出来なかったクセに!お前なんかなぁ、ぶっちゃけ俺と一緒に暮らしてたようなモノ…」

 其処まで言って永志は途端に口ごもり、少し赤くなった。

「あ、え、えーと…」

「なっ、何、自分で言って、あ、赤くなってんのよ…」

 姫羽が慌ててそう言うと、永志も負けずに言った。

「おっ、お前こそ!」

「何よっ!」

 そして、2人は黙り込んだ。

 洗濯機の回る音だけが、辺りを包み込む。

『あの…』

 沈黙の中、2人は同時に口を開いた。

「お、お前、先言えよ」

「先生が、先言ってよ」

「お前が、言えばいいだろ」

「何でよ。先生が、言えばいいじゃない」

「俺は、いいんだよ。お前が言え」

「じゃあ、言うけど…」

「何で、お前が先に言うんだよ」

「あのねえ!」

 永志の発言に、姫羽は苛々している。

 永志は、フッと笑った。

「冗談冗談。言えよ」

 姫羽は俯き、静かに言った。

「その…典鷹さんの事、だけどさ…」

 永志は、思わず身構えた。

「近い内に、決着つけようと思う…」

「ち、近い内、って?」

 永志が訊くと、姫羽は考え込んだ。

「うーん…今月中?」

「こ、今月中っ?」

 声が裏返る、永志。

「あと、2週間しかねぇじゃん!」

「だって、来月から4月でしょ?4月って言ったら、新年度だし…だから私も早く決着つけて、新しい気持ちで4月をスタートさせたくて…」

「け、決着ってさぁ…」

 永志は、思い切って訊いてみた。

「よ、要するに…別れる、って事なのか?それとも…ヨ、ヨリを戻す、って事なのか?」

「それは…」

 姫羽は言いかけたが、暫く黙っていた。

 永志も、黙って姫羽を見つめている。

 やがて、姫羽が言った。

「私は…別れ、たい」

 驚く永志。

「でも…典鷹さんを傷付けるのが、怖い」

 姫羽の発言に、永志は強い口調で言った。

「ど、どうしてだよっ!お前を、裏切った男だろっ?お前だってアイツの事、許せないって思ってたんじゃないのかっ?」

 姫羽は、グッと拳を握り締めた。

「それは、許せないよ!絶対に、許せない。でももし、今も恋人じゃなかったらって事を考えると…典鷹さんを1人の人間として見たら、あんないい人はいないと思う。きっと、先生よりいい人なんじゃないかって…ね」

 永志はムッとしたが、黙っていた。

「だって生まれた時から病弱で、外の世界なんか全然知らない人なんだよ?それでも、明るく一生懸命生きてる。先生って言うお兄さんが出来た時だって、凄く素直に喜んでた。あの年齢になってもあんな純粋でいい人、今まで見た事ないよ。だから、傷付けたくない…」

 永志は、黙っている。

「でも、やっぱり…裏切られた時のショックの方が大きい、かな。典鷹さんには悪いけど、もう恋人ではいられないって事はハッキリ言いたい。だってこの件に関しては1ヶ月も目を伏せてたんだし、そう言う曖昧な私の態度がかえって典鷹さんを傷付けてたかもって思うと、申し訳なくて…だから、1日でも早く私の正直な気持ちを言いたい…」

 そう言って、姫羽は俯いた。

 別れたい…その姫羽の言葉を聞いて、永志は自分が嬉しく思っている事に気付いた。

 しかし心の中で首を横に振り、姫羽に言った。

「1人で…言えるのか?」

「え…」

 姫羽は顔を上げ、力なく笑う。

「な、何、それ…先生、ついて来てくれるの?」

「お、俺が必要なら、その…そ、側にいてやっても、いいけど」

 そう呟いて、永志はそっぽを向いた。

 全ての洗濯機が止まり、部屋がしんと静まり返る。

 永志は、黙って乾燥機の中のシーツを籠に移した。

 姫羽は、そんな永志を見つめて言った。

「先生ってさぁ…」

「な、何だよ…」

「案外、お節介…なんだね」

 そう言いながらも、姫羽は嬉しそうだった。

「う、うるせぇ!」

 永志は照れながら、姫羽の頭をコツンと叩いた。

「痛っ!」

 頭を摩る、姫羽。

「ほら、行くぞ!」

 永志は、シーツの入った籠を持って洗濯室を出た。

「はーい!」

 姫羽ももう1つの籠を持ち、永志の頼り甲斐のある広い背中に抱きつきたい衝動を、必死で抑えていた。

「ありがと、先生…」


        †


 大護と明里は、相変わらず仲が良かった。

 常に明里の側にいたいのか、泊めてもらっているお礼だと言って洗濯物を干すのを手伝ったり、食事の配膳を率先してやったりと、何かにつけて大護は明里と一緒にいた。

 明日の日曜日には、明里も休みを取って再び大護と出掛ける事にしているらしい。

 今日の朝食の時間も、その話題で持ちきりだった。

「ほら、この前行けなかったアクセサリーの店あっただろう?明日、行こうよ」

 大護はそう言って、明里からスープのお代わりをもらっていた。

「あ、知ってる知ってる。彼処、いっつも混んでるんだよ。ビーズで出来たのとか、天然石使ってんのとか、シルバー製のとか、結構色んなデザインの売ってて、うちのライバル店!男女問わず人気だし、きっと明里ちゃんなら何でも似合うかもねーっ!」

 姫羽はニコニコしながら、明里を見つめている。

「え、そ、そんな…」

 明里は、恥ずかしそうに俯いた。

 一応言っておくが、永志はこの屋敷の主人である。

 にもかかわらず、客の大護を愛想良くもてなすなんて事は、一切しなかった。

 ただ単に面倒臭いのと、他人と関わるのが嫌いだからである。

 そして史也に関しては、大護をまるで空気扱いしていた。

 何度声を掛けられても返事もせず、史也は大護を無視し続けた。

 同時に大護が来て以来、史也は明里とも口を利いていない。

 とにかく2人がこんな調子だったので、姫羽が1人で気を使って毎食大護と同じテーブルに座り、話し相手をしたりして場を盛り上げていた。

「ねえ、あーちゃん。あーちゃんに明日、何か買ってあげるよ。指輪でもネックレスでも何でもいいから、欲しい物言って」

 その大護の発言に、史也の眉がピクリと動いた。

 永志はそんな史也を横目で見つつ、黙ってスープを飲む。

「へぇーっ、いいなぁーっ!私も誰かさんに買って欲しいなぁーっ、ゆ・び・わ!」

 姫羽が、誰かは分からないが特定の人物に向かって大声で訴えた。

 何故か反応したのは永志で、眉をピクリと動かしている。

 史也はそんな永志を横目で見つつ、黙ってスープを飲んだ。

「で、でも、悪いから…」

 明里がそう言うと、大護は優しく笑った。

「そんな、気を使わなくてもいいんだよ。僕は昔みたいに貧乏じゃないんだから、あーちゃんにアクセサリーを買ってあげるくらいのお金は、持って来てるんだ」

 黙り込む、明里…と、その時。

「ごちそうさま」

 ガタンと音を立てて史也が立ち上がり、食堂を足早に出て行った。

 茅ヶ崎が、黙って皿を片付ける。

 皆が沈黙する中、姫羽は明るく言った。

「と、とにかく…明日は、2人で楽しんで来なよ!」



 午後。

 永志は、アトリエで絵を描いていた。

 天気が良く、空も晴れている。

 徐々に草花も芽生え始め、春が近付いて来ていた。

 永志が絵に集中していると、ノックの音がした。

「はい」

 永志が、返事をする。

 入って来たのは、茅ヶ崎だった。

「コーヒーが、入りましたので…」

「おお、サンキュ」

 永志はお盆の上のカップを受け取り、ふぅふぅと息を吹きかけた。

 茅ヶ崎は、そんな永志を黙って見つめている。

「な、何?」

 その視線が気になり、永志は引きつった顔で茅ヶ崎を見上げた。

「あの…」

 茅ヶ崎は、ボソッと呟くように言った。

「少々、気になる事が御座いまして…」

「気になる事?」

 茅ヶ崎は頷く。

「実は、史也様の事で…」

「史の?」

 永志は、カップを机の上に置いて訊き返した。

「此処何日か、ご機嫌が宜しくないようなんです。ゴミの始末をさせて頂く時も、お仕事でお使いになられているであろうドラムのスティックが、何本か折って捨ててあったりして…」

「あぁっ?」

「その事に関して、僭越ながら私が口を挟ませて頂きましたら、強い口調でお怒りになられたんです。普段穏やかなご性格の史也様が、あのように取り乱された様子を見たのは初めてだったものですから、正直私も驚いておりまして…」

 永志は黙ったまま、腕を組んで考え込んだ。

「永志様…何か心当たりが御座いましたら、史也様と話し合っては下さいませんでしょうか」

 茅ヶ崎にそう頼まれ、永志は頷いた。

「分かった、俺からも話してみる」

「では、宜しくお願い致します」

 茅ヶ崎は頭を下げ、アトリエを出て行った。

 永志は暫く窓の外を眺め、1人で考え込んでいた。



 ノックの音がする。

「はい…」

 史也は、ベッドにうつ伏せたまま返事をした。

「よぉ…」

 ドアが開いて、永志が入って来る。

 史也は、ベッドから起き上がろうとしない。

「帰って来んの、待ってたんだよ」

 永志はドアを閉めると、ソファーに座った。

「何か、用ですか…」

 こちらも見ずに史也が訊くと、永志は言った。

「お前さ、商売道具バキバキにしちまったんだって?」

 史也はガバッと顔を上げ、目を丸くした。

「だ、誰から聞いたんですか…」

「誰だっていいだろ、そんなの…」

 永志がポケットから煙草とライターを取り出すと、史也はようやくベッドから起き上がり、強い口調で言った。

「この部屋で、煙草は吸わないで下さいっ!」

「わ、悪い…」

 史也の物凄い剣幕に流石の永志もビビり、大人しく煙草とライターをしまった。

「まあ、聞かなくても分かっています。どうせ、茅ヶ崎さんなんでしょう?ったく、あの人も執事として失格ですね。住人のプライベートを根掘り葉掘り探った挙句、他人に漏らすなん…」

「つーかさぁ…」

 永志は、ムッとしながら言った。

「お前が住人として、失格なんじゃねーの?」

「は?」

 永志の発言に、史也は耳を疑った。

「な、何言ってるんですか?」

「茅ヶ崎は、お前を心配してんだよ。誰もいない自分の部屋で、大事にしている商売道具に当たらなきゃなんねぇほど、お前は誰にも言えない悩みを抱えてるって事だろ?」

 史也は、ハッとしながら俯いた。

「そんな茅ヶ崎の気持ちを踏みにじって、お前は怒鳴りつけたって言うじゃねぇか。そんなん聞けば、俺だってお前の事が心配になる…共同生活ってのは、住人が協力して仲良く暮らして行くもんだろ?それだってのに、こうして一緒に住んでる俺達に迷惑掛けやがって…そう言うお前の方が、よっぽど住人失格なんじゃねぇのかっつってんだよ!」

 永志の言葉が、胸に突き刺さる。

 史也は俯いたまま、黙り込んだ。

「なあ、史…一体、何があったんだ?俺、5年もお前と付き合ってるけど、こんな風に荒れた事なんか1度もなかったぞ」

 永志が静かにそう言うと、史也はベッドから立ち上がってすぐ側の窓際に立った。

 そして窓の外を見ながら、呟くように言った。

「気にしないで下さい。ただちょっと、ストレスが溜まっただけですから…」

「気にしないで下さいだぁ?」

 永志は、思わず怒鳴った。

「おい…テメェ、ふざけてんのかっ?そのストレスをぶつけられたんじゃ、こっちだって堪ったモンじゃねぇよっ!」

「だから…すみませんでしたって、言ってるじゃないですか…」

 そう言ったきり、史也は再び黙り込んでしまった。

 永志は溜息をつき、ソファーにもたれかかった。

「理由は、分かってる…」

 史也が振り返り、こっちを見る。

 永志は、わざと大きな声で言った。

「大ちゃんとぉー、あーちゃんのぉー、聞くも涙、語るも涙の孤児院物語を聞いてぇー、史也くんはやきもちをやいてぇー…」

「そう言う彼らをバカにしたような言い方は、やめて下さい!」

 史也は、怒鳴った。

「は?バカになんかしてねぇよ…これっぽっちもな」

 永志は、冷静に言った。

「お前じゃねぇのか、アイツらをバカにしてんのは…」

「え?」

 史也は、訊き返した。

「だ、誰がですか?僕は、バカになんかしてませんよ…」

「してんじゃねぇかよ!」

 永志は、史也を睨みつけた。

「『なーに言ってんだ、こいつら。ガキの頃の戯言を、いい年こいていつまでもネチネチネチネチ話題にしやがって…バッカじゃねぇの?』ってさ」

 史也は顔を赤らめ、怒鳴った。

「せっ、先生には、関係ないじゃないですか!」

「ああ、関係ないねぇ!」

 永志は、大袈裟に肩を竦める。

「但しそう言う生意気な事はなぁ、こうしてテメェの溜め込んだストレスを人にぶつけず、テメェ自身で発散出来るようになってから言えってんだよ!」

 史也は、言い返せなかった。

「自分の悩みも満足に解決出来ねぇクセして、俺の事ばっか世話焼いてたのかよ…ケッ、笑っちゃうねぇ!」

 史也が、顔を赤らめる。

 永志は、真剣な顔で言った。

「別にさ…あの男と明里が、お前が言いたいであろう所の関係があった訳じゃねぇじゃん。ただ、同じ孤児院で育ったってだけだろ?」

 すると史也は、ようやく冷静に自分の気持ちを語り始めた。

「彼の方が明里ちゃんの事をよく知っていますし、僕なんかよりずっと昔から明里ちゃんの事を好きだったんですよ。そうじゃなきゃ、今頃会いになんか来る筈がない。明里ちゃんだって自分だけのヒーローだと思ってたくらいですから、決して彼の事を嫌いな訳では…」

「やっぱバカだな、お前」

 永志は、冷たく言い放った。

 史也が、ハッと顔を上げる。

「散々俺には偉そうな事言ってたクセに、自分の事になるとそれかよ。女の腐ったのみたいな台詞、ダラダラダラダラ吐きやがって…気色悪いんだよ!バカとしか、言いようがねぇな!」

 史也は、ムッとした。

「そ、そんな事、先生に言われたくありませんっ!」

「こっちこそ、今のお前なんかに言われたかねぇよ!」

 永志は立ち上がり、ドアまで歩いて行った。

 史也は黙ったまま、永志の後ろ姿を見つめている。

 ドアの取っ手に手を掛けた永志は振り返り、静かに言った。

「あのさ…頑固で、意地っ張りで、我儘で、自分勝手で、どうしようもない俺のこの気持ちを、アイツと一緒に先へ進みたいだなんて、面倒くせぇ考えに無理矢理変えさせたお節介野郎は、何処のどいつだったっけ?」

 史也が、ハッとして永志を見る。

「ガキの頃苛められて、男ってモンを信用出来なくなっちまったトラウマを振り切り、生まれて初めて作ったチョコレートを勇気を振り絞って渡したってのに、そんな一途な明里を信じる事すら出来ずにいる最っ低なクソ野郎は、何処のどいつだ?」

 苦い顔をする、史也。

「言ったろ?俺は面倒くせぇから、誰かとつるんだりすんの大っ嫌いなんだよ。それだってのに腐れ縁だか何だか知んねぇけど、お前みたいなのとこうして5年も一緒にいる訳だろ?これって、俺がお前をどう思ってるって事だか分かるか?」

「えっ…」

「ヒント…そうだなぁ、俺は血が繋がってるのに顔も見た事なかった典鷹なんかより、お前の方がずーっとそう言う存在に思ってたぞ…」

 史也は、泣きそうな顔で永志を見つめている。

「なあ、史。頼むからお前の事、嫌いにならせんなよ。俺、落胆したくないからさ…」

 永志は、ドアを開けた。

「じゃあな…」

 部屋を出る永志の後ろ姿を見つめながら、史也はグッと拳を握りしめた。



 その日の夜。

 史也は、屋上に出た。

 風は、まだ冷たい。

 だが、それがかえって頭を冷やすのに丁度良かった。

 星が、無数に瞬いている。

 そんな星空を、史也は1人で見上げていた。

「ふーみーくん!」

 後ろで、声がする。

 振り返ると、姫羽が立っていた。

「史くんが、部屋出て上行くの見えたからさ…へぇーっ、結構広いじゃん。初めて来たわ、屋上。最も今までは寒くて、外に出るどころの騒ぎじゃなかったけどね。暖かくなったら、皆でバーべキューとかよくない?」

 そう言って、姫羽は思い切り伸びをした。

 地面には綺麗な芝生が敷き詰められており、煉瓦造りの釜戸も設置してある。

 姫羽の言う通り、バーベキューをするにはうってつけの環境だった。

「そう、だね…暖かくなったら、皆でやろっか」

 史也も、静かに微笑んだ。

「あ、あのさぁ…」

 姫羽は、遠慮がちに口を開いた。

「茅ヶ崎さんから、聞いたんだけど…」

「はぁ…」

 史也は、途端に溜息をついた。

「姫もなのか?ったく、茅ヶ崎さんって人も我関せず見たいな顔してるクセに、案外お節介な人なんだなぁ」

「あのねぇ…って言うかさぁ、原因はアレなんでしょ?つまり、その…大ちゃんの事…」

 姫羽の質問に、史也は再び溜息をついて答える。

「皆、勘良過ぎ…」

「いやいや…勘って言うか、どう考えてもそれしかないでしょ…最近史くん、元気ないなって私も思ってたし…明里ちゃんとも、あんまり話してないんでしょ?」

史也は、素直に頷いた。

「あんまり、どころか…アイツが来て以来、一言も口利いてないよ。あの日、朝早くから皆で食堂に集まってただろう?先生がわざわざ部屋まで呼びに来て、人生最大の修羅場だとか何とかって言って来てさ…」

 姫羽は、頭を抱えた。

「ったく先生も好きだよねぇ、そう言うの…」

「それで下りて行ってみたら、あーちゃんを救い出す為に来ただの、大ちゃんは自分だけのヒーローだっただのって、バカみたいな話ばっかして…」

「はーい、ストーップ!その発言、撤回した方がいいんじゃない?」

 姫羽が、キッと睨んで来る。

 史也は、素直に従った。

「はいはい、仰る通り撤回させて頂きますよ…あーあ、やぁーっぱバカにしてたんだよなぁ、僕。自覚してなかったけどさ。これじゃあ、先生のご指摘通りじゃんかよ。ああ、悔し過ぎっ!」

「先生の?」

 姫羽が驚くと、史也は情けなさそうに笑った。

「茅ヶ崎さん、先生にも僕の事言ったみたいなんだ。それで心配になったらしくて、有り難ぁーいお説教をしにわざわざ部屋までいらっしゃって頂いてね…まるで、今の姫みたいにさ」

「ふーん。先生も、やっぱいいトコあるんじゃない…」

 姫羽は、永志の事を考えていた。

「2人、似てるよね」

「へっ?」

「先生と、姫。そう言う所がさ…」

 史也にそう言われて姫羽は一瞬目を丸くしたが、内心ちょっと嬉しかった。

「そ、そんな事よりさ、史くん聞いてたの?あの、食堂での会話」

 姫羽が訊くと、史也は頷いた。

「まあね。そしたら何か、あの2人に無性に腹立って来ちゃって…」

「大ちゃんと、明里ちゃんに?」

「そう。それにさ、姫も姫だよ?僕を応援してるとか言いながら、あの男に有利になるような事ばっか言っちゃってさ…泊まって行けばいいとか、明里ちゃんも休み取ればいいとかさ。正直、それにもムカついた」

 姫羽は、即座に抗議した。

「はぁ?何言ってるの、史くん!私は、いつだって史くんの味方だっつーの!子供の時から、ずっとそうだったじゃない!それに私が、何の考えもなしに言ってたと思う?」

「え?」

 史也は、驚いた顔をしている。

 姫羽は、呆れて頭を抱えた。

「はぁ…それはある意味、明里ちゃんを信用してないって事にも取れるんだよ?」

「ど、どう言う意味だよ」

 史也が訊く。

 姫羽は答えた。

「明里ちゃんの孤児院生活の辛い思い出の中には、大ちゃんと過ごした楽しい思い出があった。大人になったらまた会おうねって、約束までした。それほど大ちゃんは、明里ちゃんにとって大事な人だった訳だ…それなのに明里ちゃんは史くんと出会って、この人なら生まれて初めてのチョコレートをあげてもいいって思った…大ちゃんと言うヒーローが、心の中にいたにもかかわらずだよ?」

 史也が少し、頬を赤らめる。

「それって、明里ちゃんが史くんをどう言う風に思ってるって事か…分かるよね?」

「そ、それは…」

 史也は、答えられなかった。

「史くんも明里ちゃんに対して、同じくらいの大きな感情を持ってると思ってたよ、私は。だからさ…お互いにそう思ってるんだったら、ライバルの1人や2人現れたってどうって事ないんじゃないの?それとも、何?史くんの明里ちゃんへの思いは、大ちゃんみたいな男が現れたくらいで、消えちゃう程度の思いだったの?」

「そ、そんな事は…」

 史也は、口ごもった。

「私はさぁ、史くん…2人の仲は、誰にも壊せないって言う確信があったんだよ。だからこそ、敢えて大ちゃんをこの屋敷に泊める事にしたんだ。それにね…」

 姫羽は俯き、静かに言った。

「それに私、孤児院の生活ってどんなだか知らない。でも支えてくれる両親がいない1人ぼっちの生活って、私達には計り知れない辛さがあると思うんだ。そんな中で、赤の他人なのにもかかわらずお互い頼りにして共に生きて来た仲間同士が、8年ぶりに元気で再会出来たんだよ?」

 姫羽が何を言いたいのか、この時既に史也には分かっていた。

「それをさぁ、そんなくだらない…あ、ごめん、撤回する。史くんの気持ちだって私、よく分かるから。でも、やっぱり言ってみれば、くだらないやきもちとか嫉妬とかって言う史くんの中の醜い感情が、大ちゃんを追い出す理由にはならないと思う」

「そ、それは…」

 史也は何か言いかけたが、黙り込んだ。

「大ちゃんだって、辛い幼少時代を送って来たんだよ?それが大きくなって、幸せになって、自分にも自信がついた今、大好きだった子に会いに来て何が悪いの?」

 史也は俯いた。

 それは、言われなくとも全て分かっていた事だった。

「まあ、きっと孤児院の子供達からしてみたら、幸せな生活を送って来た私達に、こんな同情して欲しくないって思ってるかもしれないけどさ…」

 そう言って、姫羽は笑った。

 史也も、力なく笑う。

「とにかく今、史くんが取ってる行動は我儘以外の何物でもない、と私は思うけどね。こんなの、史くんらしくないって。史くんはいつも心が広くて、優しくて、私や先生がバカやってんのを温かく見守ってくれるような、余裕のある男じゃん。毎日頑張って仕事してる明里ちゃんを、笑顔で励ましてあげてる男じゃんか!」

 史也の頭の中は、後悔の念でいっぱいだった。

「明日、また大ちゃんと明里ちゃん出掛けるんだって。いつもの史くんで、見送ってあげられるよ…ね?」

 姫羽は、優しく史也の背中をさすった。

 少し肌寒い風の中で、姫羽の暖かさが妙に心地良かった。

「姫…」

 史也は姫羽の体を引き寄せ、抱きしめた。

「有り難う…」

 姫羽は史也の腕の中で、黙ったまま頷いた。

 自分がいないと永志や姫羽は何も出来ないんだと自惚れていたが、永志や姫羽がいないと何も出来ないのは自分の方だった。

 その事に気が付いた史也は、支えてくれる人がいる幸せをこの夜空の下で噛みしめていた。


        †


 翌日。

 大護は、朝からご機嫌だった。

 明里と一緒にいられる事が、余程嬉しいらしい。

 しかし、明里の気分は優れなかった。

 出掛ける前、明里は姫羽の部屋へ行った。

「はい」

 ノックの音に、姫羽が返事をする。

 明里は、ゆっくりドアを開けた。

「姫羽さん、あの…」

 明里を見て、姫羽は驚いた顔をした。

「あれ…明里ちゃん、まだ出掛けてなかったの?」

「は、はい…」

 頷く明里。

「あ、入って」

 姫羽は明里を中に入れ、ソファーに座らせた。

 その向かいに、姫羽が座る。

「で、どうしたの?明里ちゃん…」

 姫羽に訊かれて、明里は俯きながら言った。

「あ、あの…今日、まだ史也さんの姿を拝見してないんです」

「ああ…何か今日仕事ないらしいから、まだ寝てるんじゃない?」

 姫羽は、さらりと答えた。

 しかし、明里は納得出来ない様子だ。

「ですが、まだ朝食もおとりになってないようですし…」

「大丈夫大丈夫。私、用意しとくから」

「でも…」

 煮え切らない、明里。

 姫羽はそんな明里を、黙って見つめている。

 そして、明里は意を決して言った。

「あ、あの…史也さん、最近口を利いて下さらないんです!」

 明里は、必死だった。

「ねえ、明里ちゃん…」

 姫羽は言った。

「気になるなら、部屋に行ってみなよ」

 明里は、驚いて姫羽を見た。

 姫羽は、優しく笑う。

「悩んでたって、何の解決にもならないの…今の私には、それがよーく分かるんだ…」

「姫羽さん、それって…」

 明里が、姫羽を見つめる。

「なーんてね!私もまだ悩んだままで行動に移してないから、大きな事は言えないんだけどさ…」

 姫羽も、明里を見つめた。

「明里ちゃん、何の心配事もなく大ちゃんと出掛けたいんでしょ?」

 明里は、大きく頷いた。

「よーっし!んじゃあ、史くんのお部屋へ行ってらっしゃい!」

 立ち上がった姫羽は、明里の背中を優しく押した。

 明里も立ち上がり、姫羽に言った。

「姫羽さん、有り難う御座います」

 姫羽はニッコリと笑い、明里も微笑みながら部屋を出て行った。

 ドアを閉め、腕を組みながら姫羽は考え込んだ。

「あの時一緒に買いに行った服、中々着てくれないなぁ…普段明里ちゃんが着てるのよりちょっと露出度高いから、抵抗があるとか?まああれ着た明里ちゃん見たら、誰でもイチコロだよねぇ!今日みたいなお出掛けの日が、うってつけ…あ」

 其処で姫羽は史也の顔を思い出し、ハッとした。

「そっか。本番デートは、まだだったな…フフフフフ!」

 姫羽は2人の事を考えながら、1人でニヤついていた。



 明里がノックをすると、中から史也の声がした。

「どうぞ」

 ドアを開けると、史也はソファーに座ってテレビを見ていた。

「史也さん…」

 その声を聞いて、史也は慌てて立ち上がった。

「あ、あれ、明里、ちゃんっ?ま、まだ、出掛けてなかったんだ」

「はい…」

 頷く明里。

 史也は、焦りながら言った。

「あ、すっ、座る?」

「はい…」

 明里は、ソファーに座った。

 史也も、向かいに座る。

 2人は、暫く黙っていた。

「あの、さ…」

 最初に口を開いたのは、史也だった。

「な、何か、その、ひっ、久しぶり、だよね。こうして、話すの…」

「ひっ…く、ひっ、く」

 突然、明里が泣き出した。

「えっ…えぇーっっっ!何でぇーっっっ?」

 史也は、とにかく慌てていた。

「あ、あのっ、え、えーっと、明里、ちゃんっ?」

 アタフタしながら史也は急いでタンスを開け、ハンカチを取り出した。

「こっ、これっ!」

 明里は史也からハンカチを受け取ると、涙を拭った。

「ごっ、ごめんなさいっ!何か、涙が出て来ちゃって…」

 明里は、ハンカチで顔を覆っている。

 史也は、困った顔で言った。

「そ、そんなっ!明里ちゃんが、謝る事ないよっ!あ、謝るのは、その、僕の方で…」

 それを聞いて、明里はゆっくりと顔を上げた。

「あ、いや、その、つまり…ぼ、僕が悪いんだ、うん。明里ちゃんを悲しませるような事ばっかして、大人げなかったなぁなんて…ハハ、ハハハ…」

「違うんですっ!」

 明里は叫んだ。

「私が、悪いんですっ!私が、きっと史也さんを怒らせるような事をしたんですっ!それで私、ずっと悩んでいました。何をしたんだろうってずっとずっと考えて、ひょっとしたらやっぱりバレンタインのチョコレートが不味かったんじゃないかって…」

「え、あの…え…えっ、何っ?」

 予想だにしない展開に、史也は拍子抜けした。

「ホワイトデーの時だって、私も史也さんも永志様や姫羽さんの事を相談するのに夢中でしたよね?だからよく考えてみたら私、お返し貰えなかったなって。ひょっとしたらお返しあげたくなくて、その事をごまかす為に永志様や姫羽さんの話題をわざと出されたんじゃないかって…あ、その、ベ、別にお返しが欲しくて、チョコレートを差し上げた訳ではないんですがっ…」

「明里ちゃん…」

 史也は、真剣な表情を見せた。

「明里ちゃん、僕の事をそんな卑怯な男だと思ってたんだ…」

「い、いえっ、そんな事はっ!」

 明里は、慌てて弁解した。

「ち、違うんですっ!私、そんなつもりで言ったんじゃ…」

「確かに僕は、卑怯な男だった…」

 史也は俯き、静かに言った。

「そのせいで、明里ちゃんにも色々と迷惑を掛けた。ホント、ごめん…」

「そんな…謝らないで下さい」

 明里はそう言ったが、史也は首を横に振った。

「いや、謝らせてくれ。だけどね…僕は、チョコレートが不味かったなんて一言も言ってないよ。明里ちゃんの一生懸命な気持ちがこもってて、凄く美味しかったと思ってる」

「史也、さん…」

 明里は、顔を赤らめた。

「それに、わざと先生や姫の話題を出した訳じゃない。本気で、あの2人の事を心配してただけだよ。自分の事や明里ちゃんの事も、そっちのけでね…」

「そ、そんな風に、自分を犠牲にしてまで親身に、相手の相談に乗ってあげる事の出来る史也さんが、私は…」

 其処まで言って、明里は俯いた。

 史也は、クスッと微笑んだ。

「そしてね、お返しをあげたくなかった訳じゃない。僕は、明里ちゃんが作ってくれたチョコレートと同じくらい、価値のあるお返しをしたかったんだ。それが何かずっと考えていたら、あっと言う間にホワイトデーが来ちゃったんだ。ただそれだけなんだよ、本当に…」

 明里は、ハッと顔を上げた。

「そ、そうだったんですかっ?私の為に、其処まで考えて下さっていたなんて知らなくて…なのに私、勝手に考えが先走っちゃって…まるで、お返しをせびるみたいに…は、恥ずかしいですっ、ごめんなさいっ!」

 頭を下げた明里は、慌てて立ち上がった。

「ほ、本当に、申し訳ありませんでしたっ!でも、史也さんが怒ってない事が分かって良かった…それじゃあ私、取りあえず行って来ますね!」

「明里ちゃん…」

「何ですか?」

 ドアの取っ手に手を掛けた明里が、振り返る。

 立ち上がった史也は明里の手を握って引っ張り、自分の胸に抱き寄せた。

「えっ?」

 その勢いで、明里が史也の体にもたれかかる。

「明里ちゃん…」

 史也は優しく抱きしめながら、明里の耳元で囁いた。

「ホワイトデーにあげられなかったお返し、今あげたいんだけど…」

「え、あ、あのっ…」

 明里の胸はとにかく高鳴り、頭の中はパニック状態だった。

「いい、よね…」

 史也は、返事も聞かずに明里にキスをした。

 突然の事に訳が分からず、明里は目を見開いたまま固まっている。

「っ…ん」

 しかし徐々に目を閉じ、明里は唇を史也に預けた。

「明里、ちゃ…ん」

 唇を離した史也は再び明里を抱きしめ、静かに囁いた。

「ごめん、これくらいしか思いつかなくて…」

 明里は史也の胸の中で、必死に首を横に振った。

「そっか、良かった…」

 史也は明里の頭を優しく撫で、ドアを開けた。

「それじゃあ、行ってらっしゃい」

 頬に、軽く口付ける。

「い、行って、来ます…」

 明里はその頬を赤く染めながら、恥ずかしそうにはにかんで部屋を出て行った。

 ドアを閉めた途端、史也はこれでもかと言うほど顔を真っ赤にして、ベッドへ猛ダッシュで走って行って飛び込んだ。

「うおぉーっっっ!」

 毛布を抱きしめ、身悶える。

「かっ、可愛かったぁーっっっっっ!!!!!」



 明里と大護は、河内屋デパートに来ていた。

「ねえ、あーちゃん。何でも欲しい物言ってよ、買ってあげるから」

「え…」

 明里は、正直困っていた。

 先程、例のアクセサリーの店でシルバーブレスレットを買ってもらったばかりだ。

 昼食も、勿論大護の奢り。

 しかもファストフードやファミリーレストランではなく、ちょっと高めの中華料理店。

 屋敷の食事は洋食が多いから、中華にしようと大護が言ったのだ。

 テーブルが回る店に入ったのは、明里にとって生まれて初めての経験だった。

「あーちゃん?」

「……」

「あーちゃん、聞いてる?」

「えっ?」

 大護に呼ばれて、我に返る明里。

「ねえ、何がいい?河内屋は海外の輸入ブランド品が主流だから、鞄とか?靴でも服でも何でもいいから、言ってみてよ」

「あの、大ちゃん…」

 明里は言った。

「そんなの、いいよ。さっき、ブレスレット買ってもらったばっかだし…」

「何を言ってるんだ」

 大護は、眉を顰める。

「あんなの、玩具だろう?」

「でも…」

 俯く明里。

「ねえ、あーちゃん…」

 大護は、真剣な顔で言った。

「僕達は、あの頃の惨めな僕達じゃない。もう、我慢しなくていいんだ。欲しい物だって、僕が何でも買ってあげる。姫羽さん達には冗談っぽく話してたけど、僕が大学を卒業して医者になり、養父母の病院を継いで仕事が軌道に乗ったら、本気であーちゃんを引き取ろうと思ってる」

「だ、大ちゃん?」

 明里は、驚いて大護を見つめた。

「医者になれば、お金だって沢山入る。そうしたら、あーちゃんには何不自由ない生活を送らせてあげるよ。僕達は生まれた時から両親がなく、孤児院でも学校でも散々辛い目に遭って来た。その分、他の人間なんかより幸せになる権利があるんだ」

「け、けど…」

「だからあーちゃん、それまで待っててくれるよね?」

 真剣な大護を見て、明里は何も言えずにいた。


        †


 姫羽は、朝から落ち着かなかった。

 朝食をとった事は覚えているのだが、味までは覚えていない。

 あっと言う間に昼になり、昼食の時間になったが食事をとる気にはなれなかった。

「はぁ…どうしよう」

 姫羽はひたすら悩み、焦っていた。

 もうすぐ、3月も終わる。

 明後日からは、4月だ。

 いつまでも、逃げている訳には行かない。

 そろそろ、決着をつけなければならない時が来ていた。

「よしっ!」

 姫羽は、気合を入れて立ち上がった。

 部屋を出て、階段を下りる。

 姫羽の心臓は、徐々に速まって行った。

 1階に着き、廊下を奥へと歩く。

 例の一件以来、住人は典鷹の姿を見ていない。

 事情を知っているだけに、姫羽に気を使って誰もが典鷹の部屋を訪れるのを避けていた。

 茅ヶ崎や明里は毎日典鷹の世話をしていたが、2人もまた典鷹の様子を口にはしなかった。

 姫羽は、ついに典鷹の部屋の前まで来た。

 大きく、深呼吸する。

 中庭で花壇に水をやっていた明里は、そんな姫羽の姿を硝子越しに黙って見つめていた。

 ドアを、ノックする。

「どうぞ…」

 久しぶりに聞く、典鷹の声。

 心なしか、元気がない。

 姫羽は、ゆっくりとドアを開けた。

 中に入り、ドアを閉める。

 部屋は、薄暗かった。

 典鷹は、ベッドで寝ている。

「薬の時間、ですか?」

 そう言って起き上がった典鷹は、目を見開いた。

「あ、あ…ぁっ…」

「典鷹、さん…っ?」

 同様に、姫羽も自分の目を疑った。

 以前はあんなに元気そうだったのに、今の典鷹はやつれた青白い顔をしていた。

 初めて出会った時の典鷹よりも、具合が悪そうに見える。

「う…っ…」

 突然、典鷹は胸を押さえて苦しみ始めた。

「えっ、あ…のっ、典鷹さんっ?」

 慌てて駆け寄る、姫羽。

「ど、どうしたんですかっ?何処か、苦しいんですかっ?」

 必死に背中を摩る姫羽に、典鷹は言った。

「く、薬、を…」

「ど、何処っ?」

「戸棚、の、上の、瓶…」

 姫羽は慌てて瓶を探し、中から薬を取り出した。

「み、水は…」

 辺りを見回し、テーブルの上の水差しからコップに水を汲む。

「早く…早く、飲んでっ!」

 姫羽は、典鷹に薬と水を飲ませた。

 典鷹は暫く息を切らしていたが、徐々に落ち着いて来た。

「ほ、本当に、大丈夫ですかっ?」

 ベッドの脇の椅子に座り、典鷹の顔を覗き込む姫羽。

 典鷹は、小さく頷いた。

「はい…有り難う御座いました」

「良かった…」

 姫羽は、大きな溜息をついた。

「あんなに苦しそうな典鷹さん見たの初めてだったから、びっくりした…」

 典鷹は、フッと俯いた。

「貴女達が来る前は、ずっとこんな調子でした…」

「え…」

 真顔になる、姫羽。

「でも姫羽さんに出会ってからの僕は、自分でも驚くくらい元気になって行きました。心臓も良くなったんじゃないかなんて、錯覚するくらい。だけど姫羽さんの姿を見なくなってから、またこんな状態が続くようになってしまったんです。バカですよね、良くなんてなる訳ないのに…」

 典鷹は、微笑んだ。

「そ、そんな…っ」

 黙り込む、姫羽。

「知ってたんでしょう…」

 突然、典鷹は言った。

「え?」

 姫羽が訊き返すと、典鷹は沈んだ表情を浮かべた。

「どうしてなのか、ずっと考えていました。どうして姫羽さんが僕を選んでくれたのか、どうしてあのクロエさんと言う人は、毎日僕の部屋を訪れるのか…」

 姫羽は、ハッとして典鷹を見つめた。

 典鷹は、真っ直ぐ天井を見つめた。

「隠すつもりはありません。僕は確かに、クロエさんにキスされました」

 姫羽は目を見開き、典鷹をジッと見つめている。

「それ以来、ショックで此処最近落ち着いていた心臓の痛みが、また酷くなり始めました。それでも彼女は毎日やって来て、兄さんに対する愚痴を零した後、寝ている僕にキスして行ったんです…」

 思わず目を背ける、姫羽。

「彼女は、僕を通して兄さんの影を見ているだけなんです。兄さんに相手にされず可哀想だとは思いましたが、僕には同情の目で見てあげる事しか出来ませんでした。彼女はそれ以上の事を僕に要求して来たけれど、僕はそれには応えられなかった…何故なら姫羽さん、僕には貴女と言う人がいたからです」

 そう言って、典鷹は姫羽を見つめた。

 しかし、姫羽は顔を上げて典鷹の目を見る事が出来なかった。

 姫羽の目から、自然と涙が零れ落ちる。

 それに気付かず、再び典鷹は天井を見つめた。

「バレンタイン以来、クロエさんは兄さんの英会話の授業がある度、僕の部屋に来るようになりました。でも、1番来て欲しかった姫羽さんはバレンタイン以来、全く来てくれなくなった。きっと、姫羽さんは知ってるんだなって思ったんです。当然ですよね、僕は姫羽さんを裏切ったんですから…」

 俯いたまま、グッと拳を握りしめる姫羽。

 典鷹は胸を押さえ、顔を歪めた。

「1日おきにやって来るクロエさんを追い返したくても、心臓が痛くてそれどころじゃなかったんです。キスで満足出来なくなったのか、僕が身動きが取れないのをいい事に、クロエさんは僕に色々な事をして来て…凄く、怖かった」

 典鷹は、その時の事を思い出して震えていた。

「で、でも、そんな事、姫羽さんには言い訳にしか聞こえませんよね。僕が姫羽さんを裏切った事に、変わりはないん…」

「もう、いい…っ!」

 姫羽は、泣きながら叫んだ。

「もういいって、典鷹さんっ…それ以上、話さなくて…いい…っ!」

 しかし典鷹は、1点を見つめたまま尚も話し続けた。

「僕は、ずっと後悔していました。きっと僕が健康な人間なら、姫羽さんを悲しませるような事はなかったって。僕は、姫羽さんのお相手としては相応しくなかったんです…」

「そ、そんな…そんな事、ない、っ!」

 姫羽は、目を真っ赤にしながら典鷹を見た。

 典鷹は、儚げに微笑んだ。

「僕は体だけ成長して、中身はまだ子供のままだったのかもしれないな。世間の事を何も知らないクセに、恋愛しようだなんて以ての外ですよね。とにかく、僕は我儘でした。姫羽さんの気持ちも考えず、自分の事ばかりで…」

 姫羽は手で涙を拭い、思い切り怒鳴った。

「ちょっと、待ってっ!典鷹さん、何を、言ってるんですかっ?わ、私、そんな風に思ってなんか…」

「姫羽さん…」

 典鷹は言った。

「僕は、兄さんみたいにカッコ良く姫羽さんを愛する事が出来なかった…」

「え…っ?」

 姫羽は、典鷹の言っている意味が分からなかった。

「クロエさんの知っている兄さんは、朝から晩まで女の人と遊んでばかりだったと言います。でも姫羽さんや史也くんの知っている兄さんは、5年間1度だって女の人と遊んだ事はなかった。それがどう言う事なのか、流石の僕にも分かってしまったんです…」

 姫羽は、黙って典鷹を見つめている。

「僕と姫羽さんが初めてキスをしたあの日、兄さんは僕の部屋に乗り込んで来ました」

 姫羽はその事実を知って、酷く驚いた。

「どうやら、見ていたらしいんです。機嫌が悪くて、一方的に僕を非難して来ました。だから僕は、わざと兄さんと姫羽さんとの関係に口を挟んだんです。そうしたら、物凄い剣幕で怒鳴って…」

 姫羽は正直、複雑な気持ちだった。

 典鷹は、切ない表情を浮かべた。

「でも、その時全部分かったんです。5年間、兄さんが1度も女の人と遊ばなかった理由が。そうする事が、姫羽さんに対する兄さんの精一杯の誠意だったんだって…」

 姫羽は咄嗟に俯き、頬を赤く染めた。

 典鷹は、静かに目を閉じた。

「それなのに僕は、生まれて初めて出来た恋人にも、誠意を見せる事が出来ませんでした。散々遊んで来た兄さんに5年間も出来た事が、僕には出来なかったんです。姫羽さん、貴方には僕を恨む権利がある…」

「そ、そんな…っ」

 姫羽が顔を上げると、典鷹の閉じた目からは涙が流れ落ちていた。

「の、典鷹、さん…っ」

 姫羽が呟くと、典鷹は両手で自分の顔を覆った。

「姫羽さん…やはり、僕に兄さんの代わりは無理でした。いくら見てくれが似てたって、僕は兄さんにはなれない。それにもう、僕の我儘に付き合う必要はないんです。姫羽さんも子供の相手はやめてもっと素直に、本来の姫羽さんがいるべき大人の世界へ戻って行って下さい」

「典鷹、さん…何、言って…っ」

 姫羽も、溢れる涙を止める事が出来なかった。

 典鷹は、声を詰まらせながら言った。

「怖がらなくても、大丈夫。僕には、分かる。姫羽さん、貴女はきっと、幸せになれる。僕は、いつまでもこの部屋で、祈っています。僕は、ずっと僕は、姫羽さんの、事、を…」

 典鷹は、嗚咽を漏らしている。

「ごめん、ね、典鷹、さん…ホントに…ホントに、ごめん…なさ、っ」

 姫羽も声を押し殺しながら、泣き崩れた。

 典鷹は寝返りを打ち、姫羽に背を向けた。

「少し、疲れました。帰って、頂けませんか…」

 これで、終わったのだ…終わってしまったのだ。

 典鷹に背を向けられた瞬間、姫羽はそう思った。

 姫羽は涙を流したまま、典鷹の部屋を出た。

 フラフラと、廊下を歩く。

 姫羽の事が心配で玄関ロビーをウロウロしていた明里は、奥から歩いて来た姫羽の姿を見て全てを悟った。

 姫羽は明里に気付かず、泣きながら階段を上って行った。

「姫羽、さん…」

 明里は、姫羽の後ろ姿をいつまでも見つめていた。



 夕食の時間。

 朝食以来、姫羽が食堂に姿を現す事はなかった。

「史…」

 永志は、向かいに座る史也に訊いた。

「お前、姫の姿見たか?」

 史也は、顔を上げた。

「そう言えば、朝食を一緒に食べたっきりですねぇ」

「あーちゃん」

 大護が、明里を呼ぶ。

「何?」

 明里は、大護の元へ歩いて行った。

「お代わり、くれる?」

「あ、うん」

 この2人がどんなに仲良く喋っていようと、史也の心が揺れ動く事はもうなかった。

 つい最近まで、悶々としていたクセに…永志は、再び史也に問う。

「史…」

「何ですか?」

「お前、最近機嫌がいいな…どうしたんだよ。大ちゃんに、ムカついてたんじゃないのか?」

 永志に訊かれて、史也は笑顔で答えた。

「微笑ましいじゃないですか、幼馴染みが仲良くしている光景は…」

「はぁ?」

 永志は、理解出来なかった。

 史也は、口を拭きながら言う。

「ま、先生と姫に感謝です」

「え、姫にもか?」

「はい。2人とも、ホントお節介ですよね。でも、そのお陰で僕の悩みは全て解消されました」

 その晴れ晴れとした史也の表情を見て、永志は事情を即座に理解した。

「まっ、まさか、お前達っ…」

 史也の笑顔が、崩れる事はなかった。

 永志は、頭を抱えた。

「マジかよ!ついに屋敷の住人と使用人の恋、新たな物語が出来上がってしまったか…」

 史也は、途端にムッとした。

「その使用人っての、やめて下さい!僕は明里ちゃんを、使用人だなんて思った事は1度も…」

「ああ、分かった分かった。今お前が何を言っても、ノロケにしか聞こえないから、やめてくれ…」

 永志は、嫌そうな顔で食事の残りを食べ始めた。

 史也は、ニヤけながら言う。

「あれぇ?先生ぇ、もしかして先越されたとか思ってません?」

「はぁーっ?」

 永志は、口の中の物を飛ばしながら叫んだ。

「きっ、汚いなぁ!」

 史也は、顔を拭きながら尚も言う。

「羨ましいんじゃないですかぁ?今だって、姫がどうしてるか心配なんでしょう?」

「なっ!」

 怒鳴ろうとする永志を、史也はジッと見つめた。

「先生、言いましたよねぇ?僕の前ではもう、嘘つかないって…まさか、その台詞も嘘だったなんて、言うんじゃないでしょうねぇ?」

 永志は、口ごもった。

「そっ、そんなんじゃ、ねぇよ…」

「だったら、正直に言って下さい。僕だって、こうして明里ちゃんとの事を正直に話してるんですから。まだ、姫にだって報告してないって言うのに…」

 史也は水を飲み干し、明里にお代わりを頼もうとした…その時。

「そう言えば、姫羽さんはどうしたの?」

 大護が、明里に訊いた。

 永志と史也が、その会話に耳を澄ませる。

「あーちゃん、知らない?」

「え、えーと…」

 明里の様子が、少しおかしい。

「どうしたの?」

 大護が更に訊くと、明里は慌てて答えた。

「あ、あの、な、何か気分が優れない、見たいで…」

「そう…大丈夫かな。姫羽さんがいないと、食事も楽しくないね」

 そう言って、大護は残りを食べ始めた。

「そ、そう、だね…」

 明里は、溜息をついている。

 そんな明里の態度を見て、永志と史也が感づかない筈はなかった。

「史…」

「分かってます…明里ちゃんの仕事が終わり次第、2人で先生の部屋に行きますから」

 永志と史也は、黙って頷き合った。



 午後10時半。

 ノックの音が聞こえ、立ち上がった永志は部屋のドアを開けた。

「入れよ」

 ドアの前には、史也と明里が立っている。

「失礼します」

「失礼致します…」

 2人は中に入ると、ソファーに並んで腰掛けた。

 その向かいに、永志が座る。

「あの、史也さんに話があると言われたのですが…」

 明里がそう言うと、史也は明里を見た。

「実は、姫の事なんだけど…」

「えっ、あ…」

 明里は、明らかにうろたえている。

 永志は、煙草に火を点けながら訊いた。

「やっぱ、何か知ってんのか?」

 明里は暫く俯いていたが、やがて顔を上げた。

「いずれは、皆さんの耳にも入る事かもしれませんね…」

 明里は、静かに話し始めた。

「私も、詳しい事は知らないんです。ただ、あんな姫羽さんを見たのは初めてで…」

「姫に、何があったの?」

 史也が、話の先を促す。

「今日の午後2時頃、中庭で花壇に水をやっていたら、暗い表情で姫羽さんが廊下を歩いて来るのが見えたんです。中庭の前の廊下は典鷹様のお部屋にしか通じていませんから、姫羽さんが何をしようとしているのかは私にもすぐに分かりました。姫羽さんは深呼吸をした後、典鷹様のお部屋へ入って行かれました」

 永志と史也は、黙って顔を見合わせた。

「中で何が起こっているのか、正直私も気になりました。とにかく、姫羽さんの事が心配で…でも盗み聞きする訳にも行かないので、仕事も手につかないまま玄関ロビーでウロウロしていたんです」

 永志が、大きく煙を吐く。

「暫く待って、姫羽さんが戻って来ました。姫羽さんは、おぼつかない足取りで酷く泣いていて…私にも気付かないまま、階段を上って行ってしまったんです」

 其処まで話した明里は、辛そうな顔で俯いてしまった。

 永志と史也も、黙り込む。

「姫羽さん、いつも、明るくて、私、何度も励まされました。なのに、あの時の姫羽さん、声も掛けられないような雰囲気で。それなのに、ひっく、私、な、何にも、してあげられない、なんて、ひっ…く」

 そう言って、明里は泣いてしまった。

「明里ちゃん…」

 史也が、優しく明里の肩を抱く。

 永志は、煙草の灰を灰皿に落とした。

「アイツさ、前から典鷹と決着つけるって言ってたんだ…」

「え?」

 驚く史也。

 涙を拭いながら、明里も顔を上げる。

 永志は、話を続けた。

「しかも、今月中に…4月からは、新たな気持ちでスタートしたいって。典鷹には、確かにムカついてたみたいなんだ。顔も見たくないとか、話もしたくないとか言ってたし。そう言う素直な気持ちを言いたいけど、典鷹を傷付けるのは怖い。それでどうしたらいいのかって、色々悩んでた」

 それを聞いて、明里は思い出した。

「そう言えば姫羽さん、私にも言ってました。史也さんが口を利いて下さらなかった時、姫羽さんに相談に乗ってもらったんです。そうしたら『悩んでても、何の解決にもならない。今の私には、それが分かる』って。だから私にも、本人と直接話すべきだって仰ってました」

 史也が、申し訳なさそうに顔を赤らめる。

 永志は、煙を吐きながら言った。

「それで、自分も典鷹の所へ言ったって訳か。結果は、どうなったのやら…」

「多分…典鷹様とは、別れられたんだと思います」

 明里は、あの時の姫羽の様子を思い出していた。

「その理由として最初に挙げられるのは、姫羽さんが泣いていた事です。あれは、嬉しくて泣いている風には見えませんでした。次に挙げられるのは、姫羽さんの本当の気持ち…」

「どう言う事?」

 史也が訊くと、明里は黙って永志を見た。

「な、何だよ…」

 永志がそれに気付くと、明里は静かに言った。

「お願いです。お2人で、姫羽さんを励ましてあげて下さい。姫羽さんの心の支えは、お2人の存在なのですから…」

 史也は、慌てて付け加える。

「何、言ってるんだよ。明里ちゃんの存在だって、姫にとっては大事だ」

「そう言って下さると、私としても嬉しいのですが…お2人の代わりには、誰もなれないんですよ。5年も培って来た3人の絆だけが、今の姫羽さんを立ち直らせる薬になるんですから。明日、お2人で姫羽さんのお部屋に行って差し上げて下さい」

 そう言って、明里は淋しげに微笑んだ。

 永志と史也は、黙って顔を見合わせる事しか出来なかった。


        †


 翌日。

 朝、永志と史也は偶然にも同時に部屋を出た。

 階段で、鉢合わせする。

「あ、先生…」

「お、おう…」

 そう言ったきり、2人は黙り込んだ。

 姫羽の事が、脳裏をよぎる。

『あの』

 2人は、同時に口を開いた。

「何だよ」

 永志が呟くと、史也は静かに言った。

「先生、こんな所に突っ立ってないで行ったらどうですか?」

 何処に…?永志はそう言ってはぐらかそうとしたが、やめた。

「分かった…」

 素直に返事をした永志は、姫羽の部屋へと歩いて行った。

「先生…」

 史也が、呼び止める。

「ん?」

 永志は、振り返った。

「あの…此処で待ってても、いいですか?」

 史也がそう言うと、永志は微笑んで頷いた。

「ああ」

 史也も、微笑む。

 永志は再び歩き出し、姫羽の部屋のドアをノックした。

 返事がない。

「姫?」

 永志は、呼び掛けた。

 それでも、返事はなかった。

 永志は、大きく深呼吸した。

「入るぞ」

 永志は、ドアを開けた。

 中に入り、ドアを閉める。

 姫羽は既に起きており、服もきちんと着替えていた。

「姫…」

 永志が、もう1度呼び掛ける。

 姫羽はこちらに背を向け、窓際に立って外を眺めていた。

 永志は其処まで歩いて行き、姫羽の後ろに立った。

「飯の時間だぞ」

 永志がそう言うと、姫羽は静かに答えた。

「いらない…」

「お前なぁ…」

 永志は、頭を抱えた。

「昨日の昼から、何も食ってねぇだろ?皆、心配してんだぞ」

「食べたくない…」

 姫羽は、即答した。

 永志は、姫羽の肩を掴んだ。

「おい、姫。こっち、向…」

「見ないでっ!」

 姫羽は、永志の手を振り払った。

「1晩中泣いて酷い顔してるから、見ないで…」

「ケッ、酷い顔だとぉ?お前、自分で普段どれだけイイ女だと思ってん…」

 永志は、冗談でそう言いかけたのだが。

「あの、ひ、姫?」

 姫羽は、全く反応しなかった。

「わ、悪い…」

 永志は、しおらしく謝ってしまった。

 失礼な事、言わないでよねっ!自分だって、大した顔してないクセにっ!…それくらいの返事を期待していた永志は、失敗したと思った。

「先生…」

 姫羽が、ようやく口を開く。

「何だ?」

「私、典鷹さんと別れて来た…」

 永志は、黙って姫羽の後ろ姿を見つめている。

「典鷹さんって、魔法使いみたいだよね…」

「え?」

 訊き返す、永志。

「そりゃあ、世間の事は何も知らないかもしれない。本人も、そう言ってる。でも、人の心の中の事は何でも知ってるの。不思議だよね…」

 永志は、黙っている。

「私の心の中は勿論、クロエさんの心の中も、先生の心の中も、みーんな知ってた…」

 姫羽がそう言うと、永志は鼻で笑った。

「バカ、言うなよ…」

「嘘じゃないよ!」

 姫羽が怒鳴る。

 永志は、再び黙り込んだ。

「典鷹さんの前で、絶対に嘘はつけない。人の気持ち全部知ってて、自分が1番傷付くって事が分かってて、それでも典鷹さんは私の幸せを1番に考えてくれてたんだ…どうしてあんないい人、傷付けちゃったんだろ…」

 姫羽は、ガクッと俯いた。

 肩が、小刻みに震えている。

 姫羽は…泣いていた。

 永志は、姫羽の泣く姿を初めて見た。

 この5年間、永志は姫羽の笑ったり怒ったり困ったり悩んだりした顔は見た事があっても、泣いた顔は1度だって見た事がなかった。

 初めて姫羽の本当の姿を垣間見た気がして、永志は動揺していた。

 姫羽は、涙声で言う。

「私も、典鷹さんに甘えてたんだ。典鷹さんが1つも嫌な顔しないから、それに付け込んで調子に乗ってたのかもしれない…それでも典鷹さんは、黙って嫌な気持ち全部抱え込んでくれてた…」

 永志は、自分が典鷹の部屋に乗り込んで行った時の事を思い出していた。

 今から考えてみたら、自分に典鷹を責める資格があっただろうか。

 典鷹は、悪くない。

 それが分かっていながら、自分のやり場のない気持ちを典鷹にぶつけていた。

 『自分でストレスも発散出来ない奴が、生意気言うな』なんて…それこそ生意気な事を、史也に言ってしまった。

 永志は、今更ながら恥ずかしくなった。

「でもね、そのお陰で私もようやく自分に素直になろうって思う事が出来たんだよ。この気持ちは、典鷹さんを犠牲にして手に入れたものなの。だから、これからはもう絶対に誰も傷付けたくない…そう、決めた」

 姫羽は、涙を拭った。

「先生…悪いけど、出て行って…」

「はぁ?」

 永志が、訊き返す。

「そもそも俺は、飯だぞって事を…」

 姫羽は背を向けたまま顔を上げ、笑って言った。

「ご飯は、明里ちゃんに運んで来てもらうし。こんな顔じゃ、皆に会えないでしょ…まあ、どうせ私は普段から大した顔はしてませんけどねっ!」

 口調はいつもの姫羽に戻っていたが、窓硝子に映った顔は涙に濡れていた。

「姫…」

 呟く永志。

 姫羽は、再び涙声で言った。

「ご、ごめん、先生…っ…私、何か、自分が凄く、凄く、嫌な人間に思えて来ちゃっ…」

 その瞬間、永志は後ろから姫羽を抱きしめていた。

「え…っ」

 姫羽は驚いて、目を丸くしている。

 冗談で腕を組んだりした事はあったが、2人が此処まで密着したのはこの5年間で初めての事だった。

「もう、俺の負け…」

 永志は姫羽を抱きしめたまま、耳元でそう囁いた。

 何が何だかさっぱり分からず、姫羽の頭の中は混乱している。

「頼むから、もう泣くな…」

 永志は、姫羽の頭を優しく撫でた。

「せ、先生、な、何で…」

 姫羽が驚いていると、永志は大きな溜息をついた。

「お前のその泣き顔、其処の窓硝子に映って全部見えてんだけど…」

 それを聞いた途端、姫羽は顔を真っ赤にして両手で覆った。

「ちょっ、なっ、何、それっ!早く言ってよ、もう…ムッカつくっ!」

 姫羽はそう叫ぶと、永志から離れようとして腕の中で思い切り暴れた。

 しかし、永志はそれより強い力で姫羽を押さえつけた。

「お、落ち着けってんだよっ!」

「これが、落ち着ける訳ないでしょっ!ただでさえ、先生の前で本気で泣いちゃったりして、メチャメチャ自己嫌悪に陥ってんのに!」

 もがく姫羽を、永志が笑いながら押さえる。

「ま、まあ、聞けって…お前も知ってる事だけど、確かに俺は女好きで色んな女をあの部屋に連れ込んでた。だけど、正直お前の事は全く興味なかったし、知りたくもなかったし、自分でも絶対にお前みたいなタイプは一生好きになる事なんてないと思ってた」

 途端に、姫羽が黙り込む。

「だけど段々調子狂って来て、いつの間にかこっちの方がお前のペースに乗せられてて。挙句の果てに、何か気付いたら頭ん中お前の事でいっぱいになってるし…」

「え…っ…じょ、冗談…だよ、ね?」

 姫羽が、唖然としながら呟く。

 永志は、焦って口ごもった。

「お、俺だって、その…み、認めたかねぇよ。だから自分に絶対違う、絶対違うって言い聞かせながら今までやって来た。でも、それも限界があってさ…最初の限界は、お前と典鷹がキスしてんのを見ちまった時…」

 姫羽は、ハッと目を丸くした。

「でもさ…そん時は、典鷹に八つ当たりして何とか押さえられた。ま、今から考えりゃ自分勝手だったけど…」

 黙ったままの、姫羽。

「で、2回目の限界が今。マジ泣きしてるお前見て、何つーか…ちょっと、可愛いとか思っちまってる…ったく、どうかしちまってるな、俺…」

 そう言って、永志は姫羽の後ろ頭にコツンと額をぶつけた。

「だから、この勝負は俺の負け…」

「ど、どう言う意味、それ…」

 姫羽が、慌てて訊く。

「だ、だからぁーっ!」

 永志は、顔を赤らめた。

「つまりその、お、お前の事…」

 窓硝子に映った照れる永志を、ドキドキしながら見つめる姫羽。

 永志は、ぶっきらぼうに言った。

「まあつまり、そー言う事だよ!」

「其処まで言っといて、それはないでしょ!」

 姫羽は怒鳴った。

「折角、大事なトコなのにっ!」

「バッ、バーカ!っざけんなっ!」

 永志が憎まれ口を叩くと、姫羽はニヤニヤし始めた。

「ま、いいけど…先生が私を思って照れてる顔、ぜーんぶ硝子越しに見えてるから!」

「お、お前…っ!」

 永志は顔を真っ赤にしながら怒鳴ろうとしたが、姫羽を抱きしめた腕に力を入れた。

「ま、いいや…」

「えっ?」

 姫羽は拍子抜けしつつも、このまま時が止まればいいと願っていた。

「それより、お前さぁ…」

「何?」

 永志は、姫羽の肩を掴んだ。

「いい加減、こっち向…」

「嫌っ!」

 姫羽は、途端に抵抗した。

「もう…先生にだけは、泣き顔見られたくなかったのに…っ」

「何でだよ。別に、いいって言ってんだろ!」

 永志はそう言ったが、姫羽は頑なにそれを拒んだ。

「ったく、しょうがねぇなぁ…」

 永志は溜息をつきながら、部屋中のカーテンを閉めた。

「これで、どうだ」

 薄暗い中、永志は姫羽の肩を掴んでようやくこちらを向かせた。

 しかし、姫羽は俯いている。

「顔、上げろって…」

 永志は顔を覗き込みながら、姫羽の顎を持ち上げた。

 ジッと、姫羽を見つめる。

 その視線に耐えられず、姫羽はフッと顔を背けた。

「お前なぁ…何、避けてんだよ」

 永志が呆れながら訊くと、姫羽は焦って言った。

「だ、だって…この5年間、こんな近くで先生の顔…み、見た事ない、から…っ」

 永志は、ガクッとなった。

「何の為に、カーテン閉めたと思ってんだよ…」

「そ、それは…っ」

 口ごもる、姫羽。

 永志は、再び姫羽の顔をこちらへ向かせた。

「今度は、避けんなよ…」

 永志は、自分の顔を姫羽の顔に近付けようとした。

「ちょっ…な、何、する、の…っ?」

「何って…キス?」

「えっ?キ、キス…って…な、何、そのいきなりな、展開…っ」

「お、お前さぁ…」

 永志は、溜息をついた。

「ガキじゃねぇんだから…」

「そっ、そうかもしれないけど、でもっ!」

「はぁ…でも、何だよ?」

「だって、その…は…恥ずかしい…よ…っ…」

 らしくもなく、顔を真っ赤にしながら上目遣いで見て来る姫羽。

 永志は、深い溜息をついた。

「はぁ…そう言う誘うような顔、すんなよ…」

「だっ、誰が、誘って…っ!」

 姫羽は、逆ギレしている。

「ああ、分かった分かった…分かったから、お前は少し黙ってろ」

 頭を撫でられ、姫羽はむくれながらも大人しく黙り込んだ。

 永志が、ゆっくりと顔を近付ける。

 静かに目を閉じる、姫羽。

 しかし永志が近付いて来るのを感じて、姫羽は目を閉じたまま顔を赤らめた。

「ね、ねえ…やっぱ、その…っ」

「シーッ…いいから…大人しく…してろ…っ」

 永志は、ゆっくりと姫羽に口付けた。

「ん…っ」

 静かな時が、流れる。

 永志は唇を離すと、姫羽の頬や首筋に音を立てながら何度もキスをした。

「あっ…ちょっ…セ、センセ…っ」

「姫…っ」

 やがて姫羽は、永志の首筋に顔を埋めた。

「な、何か、夢、みたい…」

 永志は、意地悪そうにニヤける。

「あ、やっぱ?俺のキスって、夢みたいに…」

「違ぁーうっ!」

 姫羽は、即座に否定した。

「って、言うか…い、いつもの先生と…違く、ない?」

 永志は、姫羽を抱きしめたまま頭を抱えた。

「はぁ…この俺が此処まで夢中にさせられちまうなんて、今までのキャラ丸潰れじゃんかよ…」

「でも、そう言う先生も、結構…」

 其処まで言って、姫羽は黙り込んだ。

「な、何だよ…」

 永志が、訊き返す。

「別に。ただ、ちょっといいかなって…」

 姫羽の答えを聞いて、永志は真剣な眼差しで姫羽の顔を覗き込んだ。

「姫…」

「な、何…」

 姫羽がビビっていると、永志は静かに言った。

「もう、俺以外の奴、好きになったりすんなよ…」

「そ、それ、先生でしょうがっ!」

 姫羽は、捲し立てた。

「大体ねぇ!先生の場合、過去の経歴があるん…」

「俺が好きなのは、姫だけだ…」

「え…っ」

 突然の永志の発言に、姫羽は驚いて目を丸くした。

「い、今、何て…っ」

 永志は、顔を赤らめる。

「バーカ、何度も言わせんな!俺が好きなのは、お前だけだっつってんだよ!」

 姫羽は、呆然としている。

「せ、先生さぁ…ひょっとして、初めて自分から好き、とか…言ったんじゃない?」

「え?」

 永志はキョトンとしていたが、やがて肩を竦めて微笑んだ。

「かも、な…」

「な、何か、信じらんない…」

 姫羽がボーッとしていると、永志は焦りながら言った。

「しょ、しょーがねぇだろっ?俺を此処まで本気にさせたのは、お前だけなんだから!その代わり、とことん付き合ってもらうから覚悟しとけよ!」

「げーっ…」

「なっ!い、嫌なのかよっ!」

 姫羽のブーイングに、思わずムッとする永志。

 アハハと笑って、姫羽は言った。

「嘘に、決まってんでしょ?まあ私だって、今更離れてなんかやらないんだから、そっちこそ覚悟してよね!」

 そんな姫羽の頭を、永志は黙って優しく撫でる。

 姫羽は、途端に顔を赤くして俯いた。

 永志は、姫羽の頬にキスをした。

「…っ」

 姫羽が恥ずかしそうに顔を上げると、永志は再び姫羽の唇にキスをした。

「せ、先生…ん…っ…」

「姫…っ」

 こうして2人は薄暗い部屋の中で、何度も何度もキスを繰り返した。

 まるでこの5年間、ずっと抑え続けて来た自分達の想いを解放するかのように。



 永志は、1人で姫羽の部屋を出た。

 階段の所に、史也が座り込んでいる。

「ま、まずい…」

 史也が待っている事を、すっかり忘れていた。

 永志が歩いて行くと、史也はゆっくり立ち上がった。

「先生、遅いですよ!あれから、30分も経ちました」

「わ、悪い…」

 永志は、決まり悪そうに謝った。

「それで、大丈夫だったんですか?」

 史也の質問に、永志は黙って頷いた。

「そうですか。良かった…」

 史也は、安心して言った。

「じゃあ、食堂行きましょうか」

「あ、ああ…」

 永志は、静かに階段を下りた。

 史也は、何となくぎこちない感じの永志を見て首を傾げた。

「先生…?」

 階段を下りながら、史也は訊いた。

「何か、あったんですか?」

「えっ?」

 永志の足が、止まる。

 後ろを歩いていた史也は、永志の前に回った。

「何か…あったんですね?」

 史也は、真剣な顔をしている。

 永志は、口を尖らせた。

「お、お前には嘘つかないって約束、したからなぁ…」

「な、何があったんです?あ…ま、まさか、先生!」

 史也が何か感づくと、永志は顔を赤らめた。

「ま、まあ、そう言う事だ…」

 そして、足早に階段を下りて行く。

「せっ、先生っ!」

 史也は、慌てて後を追った。

「や、やったじゃないですか!そっかぁ、5年の時を経て2人はついに結ば…」

「わ、分かったから、早くしろ!」

 史也の言葉を慌てて遮り、永志はさっさと食堂へ入って行く。

「はいっ!」

 史也も、嬉しそうに返事をした。


        †


 翌日。

 大護は、明日帰る事になっている。

「あーちゃん」

 朝食後、皆がいなくなるのを待って大護は明里に言った。

「今日の夜、僕の部屋に来ない?」

「え?」

 皿を片付けていた明里は、手を止めた。

「だって、あーちゃんと一緒にいられるのも、今日が最後だろう?だから、悔いのないようにいっぱい喋っておこうと思って…駄目かな?」

 優しく微笑みながら、大護はそう言った。

 特に断る理由もないので、明里は頷いた。

「分かった。なるべく早く仕事終わらせるから、部屋で待ってて」

「約束だよ」

 大護は、嬉しそうに食堂を出て行った。



「やっ………………と、帰ってくれますよぉ!ま、こんないい方しちゃいけないんだろうけど」

 そう言って、史也はソファーに座ったまま伸びをした。

「目の上のコブだったもんねぇ、史くん?」

 ホッとしている史也を見て、姫羽が厭味っぽく言う。

 史也は、途端に焦り出した。

「そっ、其処までは、言ってないだろう?」

「でも、その手前くらいまでは言ってたな」

 煙を吐きながら、永志がそう呟く。

 史也は、ガクッと項垂れた。

「ま、今更否定はしませんけどね…」

 午後9時半。

 夕食を終え、風呂に入り、寝巻きに着替えて後は寝るだけの姫羽と史也は、永志の部屋に来ていた。

 史也は大護が明日帰る事を、正直嬉しく思っていたのだった。

 其処を、永志と姫羽が鋭く指摘する。

「でも明里ちゃんは、大ちゃんよりも史くんを取った訳だ。って事は、史くんはもう歴とした明里ちゃんの恋人な訳だから、もっと堂々としてればいいんじゃないの?」

 姫羽がそう言うと、史也は永志と姫羽を交互に見た。

「いいよなぁ、心配の種がない人達は余裕でさぁ…」

 永志と姫羽は、顔を見合わせた。

 史也は、溜息をつく。

「僕だって人間ですからね、いくら彼に非がなくたってやっぱり良くは思えませんよ。少なくとも、彼は明里ちゃんに好意を寄せてるんですから…」

「まあその気持ち、分からなくはないけど…」

 姫羽はそう呟き、クロエの事を思い出していた。

 永志は、黙って煙草の灰を灰皿に落としている。

「とにかく彼が帰らない限り、僕の気持ちが休まる事はありませんね」

 そう言って、史也は背もたれに寄りかかった。

「史くんは、そう言うけど…個人的には私、大ちゃん好きだな。優しいし、いい子だし、明里ちゃんの事を本当に大事に思ってるのがよく分かるじゃない?」

 その姫羽の意見に対抗するかのように、史也は言った。

「わ、悪いけど、そう言う点では僕だって彼に負けてないと思う!」

「そんな事、分かってるって…」

 苦笑いする、姫羽。

「でもさ…史くんには酷だけど、実際子供の頃から明里ちゃんを守って来たのは、大ちゃんだよね?」

 史也は、ガバッと起き上がった。

「お、おいおい、姫…今更、そんな話題かよ!」

「違う違う」

 姫羽は、首を横に振った。

「自分にとってヒーローみたいな存在で、なおかつ8年ぶりにわざわざ会いに来てくれたにもかかわらず、明里ちゃんは大ちゃんよりも史くんを選んでくれた訳でしょ?だから、それを幸せに思いなさいよって事を言いたいの!」

 それを聞いて、史也は顔を赤くしながら俯いた。

 其処で、今まで黙って煙草を吸っていた永志が口を開いた。

「それにしてもさ、明里の奴も史の何処が良かったんだろうなぁ…」

「ちょっ…せ、先生まで、そう言う話題ですか?」

 史也が焦ると、永志は煙草を灰皿に押し付けた。

「だって、考えてもみろよ。大金が服着て、8年ぶりに自ら自分トコに歩いて来てくれたんだぞ?何てったって、将来は病院の院長だろ?俺が女だったら、即結婚だな」

「はぁーっ?」

 驚く姫羽。

 永志は、新しい煙草に火を点ける。

「バッカ、普通そう考えるって!」

 そんな永志を睨みながら、姫羽は言った。

「ま、どうせ先生はそうでしょうよ…何たって、遺産に目が眩んでこのお屋敷に来たくらいなんだから…」

 永志は、苦笑いした。

「あ、あのなぁ…人間、金がなきゃ生きて行けねぇんだぞ?愛情だけで、世の中渡っていけるかっつーの!」

「へぇーっ…流石先生、現実が分かってますねぇ!」

 感心する、史也。

 姫羽は、呆れて肩を竦めた。

「史くん、感心してる場合じゃないでしょ?って事は、明里ちゃんがお金目的で大ちゃんと一緒になっても、いいって事?」

 史也は、即座に否定した。

「だっ、駄目駄目っ!そんな事、僕が許しませんよっ!でもま、明里ちゃんは先生みたいな人ではありませんから…」

「分かんねぇぞぉ?」

 永志は、ニヤニヤし始める。

「今頃、大ちゃんに口説かれてクラッと来てるかも。『明日、僕と一緒に帰ってくれないか?両親に、紹介したいんだ』なーんつってさ…」

「せ、先生…其処まで意地悪言うの、やめて…」

 姫羽が、永志に注意する。

 史也も、頷いて言った。

「そ、そうですよ!それに、明里ちゃんは金に目が眩むような人ではないんです!先生と一緒にしてもらっちゃ、困りますよ!」

「そう言う事!ね、史くん?」

「や、やっぱり、分かってくれるのは姫だけだ…えーんっ!」

 泣きながら、史也が姫羽に抱きつく。

「当ったり前でしょっ?おお、よしよし…」

 姫羽は慰めながら、史也の頭を優しく撫でている。

「お…おい!」

 そんな2人を見て、永志はムッとしながら言った。

「お、お前ら…離れろ」

「何で?」

 史也が顔を上げると、姫羽も言った。

「くっついてちゃ、悪い?私達同い年だから、従兄弟の中でも1番仲良かったの。昔から手繋いだり、一緒にお風呂入ったり、抱きついたり、同じ布団に寝てたりしたよね?」

「そうそう!」

 2人は、仲良く顔を見合わせている。

 永志は、頭を抱えた。

「こ、これからは、冗談でも俺の前でそう言う事すんな…」

 それを聞いて、史也はニヤニヤし始めた。

「ははーん、なるほど…」

「妬いてんのかぁ?」

 姫羽も、意地悪な笑みを浮かべる。

 永志は、焦って言った。

「バッ、バーカ、ちげぇよ!」

 すると、姫羽は史也の手を握って立ち上がった。

「違うんだってよ…じゃあ史くん、先生のいないトコ行こう!」

「うん!」

 素直に頷く、史也。

 永志は、溜息をついた。

「わ、分かった分かった。降参…」

「妬いてくれてたんだよ…ね?」

 姫羽に訊かれて、永志は黙って頷いた。

 史也は、肩を竦める。

「全く、最初っから素直にそう言えばいいのに…」

「お前なぁ…」

 永志は、顔を引きつらせている。

「でも私達3人って、この5年間いつも一緒にいたじゃない?なのに、まさか先生が私と史くんとの事で、やきもちやくようになるなんて…何か、信じられない…」

 姫羽は、しみじみとそう言った。

 永志は、ウザそうな顔をする。

「一々、うっせぇなぁ!いいだろ、別にっ!史だからまだ許せるようなものの、他の奴だったらぶん殴ってる所だ!」

「へぇーっ!それって、どう言う意味ぃーっ?」

 姫羽がニヤけながらわざとそう訊くと、永志はそっぽを向いた。

「べっ、別にっ!意味なんて、ねぇよ!まあ、強いて言えば…ちょーっとカッコいいと思った男とだったら、誰とでも仲良くなろうとするその惚れやすい性格を、何とかしたらどうですかって意味なんじゃねぇのぉ?」

「ちょっ…な、何よ、それっ!」

 姫羽は一瞬ムカついたがすぐに気を落ち着け、ムッとした演技をした。

「人の事、言える立場?自分だって、色んな女性に手出してたクセに…まーた、そんな風になったりしないといいですけどねぇ!」

 永志は、ブチ切れた。

「つーかしつけぇんだよ、テメェはっ!確かに昔はそうだったけどなぁ、この5年間俺はお前の事しか考えた事ね…」

 其処まで言って、永志はハッとした。

「きっ、聞いた?今のっ!」

 姫羽は、嬉しそうに史也を見た。

 史也も、大きく頷く。

「聞いた聞いた!ついに先生の本音、出ちゃいましたねぇ?」

 2人は、ニヤけながら永志を見た。

「ハ、ハメやがったな…」

 永志は、顔を真っ赤にしている。

「やーん、先生ってば照れてるぅーっ!かーわーいーいーっ!」

 姫羽にからかわれて益々顔を赤くした永志は、珍しく煙草の煙で咳き込んだ。

 そんな2人を見ながら、史也は立ち上がった。

「あーあ、完璧見せつけられちゃいましたよ。まだ3月だってのに、暑い暑い…じゃあ僕、部屋に戻って寝ます」

「え、もう寝るの?」

 姫羽が訊くと、史也は頷いて肩を竦めた。

「これ以上2人の仲を見せつけられたって、こっちはちっとも面白くないし…」

「じゃ、じゃあ、私も…」

 そう言って立ち上がった姫羽を、史也は止めた。

「何で?姫は、いいんだよ。最悪、先生と一緒に寝たっていいんだし…」

『なっ!』

 永志と姫羽は、顔を赤らめた。

「じゃ、2人ともお休み」

 史也は手を振ると、ドアを開けてさっさと部屋を出て行ってしまった。

「あ、私も、部屋戻るから…じゃあ先生、お休み…」

 そう言って、姫羽はドアまで歩いて行った。

「おい…」

 永志は煙草を灰皿に押し付けると、黙って姫羽の後を追った。

「待てよ…」

 ドアの取っ手に掛けられた姫羽の手を、優しく握る。

「ちょっ、先生…」

 姫羽が驚いて振り返ると、永志は静かに口付けた。

「ん…っ」

 姫羽の、取っ手を掴む手が緩む。

「姫…っ」

「んっ…セ、センセ…っ」

 永志の舌が、姫羽の中に入ろうとしたその時。

 突然、ドアが開いた。

『痛っ!』

 永志と姫羽は同時に叫び、口を押さえた。

 ドアに押されて、お互いに前歯をぶつけたのだ。

 入って来たのは、史也だった。

「ど、どうしたの?2人とも…」

 史也が驚いて言うと、姫羽も焦って訊き返した。

「ふ、史くんこそ、どうしたの?」

 史也は、黙ったまま俯いた。

 これからって時に邪魔が入ったので、永志はご機嫌斜めだ。

「そんなトコにつっ立ってねぇで、用があんならさっさと座れ!」

「な、何怒ってるんですか、先生…」

 史也は、苛付く永志を不思議そうに見ている。

 姫羽は、慌てて言った。

「ま、まあ、先生もそう言ってるんだから、座れば?」

「あ、う、うん…」

 史也は頷き、再びソファーに腰掛けた。

「で、どーしたんだよ!」

 相変わらず苛付きながら、永志が訊く。

 史也は、恐縮しながら話し始めた。

「じ、実はその…凄く不愉快な光景、見ちゃいまして…」

 姫羽が、心配そうな顔で見つめる。

「さっきこの部屋を出た時、丁度明里ちゃんが階段を上って来るのが見えたんです。多分、仕事が終わったんでしょうね。こんな時間ですから、僕はてっきり姫の部屋にでも用事があるのかと思って、黙って見ていました。そうしたら…」

「そうしたら?」

 姫羽が、話の先を促す。

 史也は、沈んだ声で言った。

「アイツの部屋に、入って行きました…」

 目を丸くする、姫羽。

 しかし、永志は冷静に言う。

「だから、何だよ。別にいいだろ、今日でお別れなんだから。最後に顔合わせるくらい…どーって事ねぇじゃんかよ」

「どーって事ないって…先生っ!先生だって姫が典鷹さんの部屋に通ってる時、良く思ってなかったじゃないですかっ!」

 史也は、突然怒鳴った。

 永志は、返す言葉がない。

 姫羽は、顔を赤らめながら俯いた。

 史也は、気を落ち着けながら言う。

「す、すみません…も、勿論、部屋で別れを惜しむくらいなら、僕だって文句は言いませんよ。本当に、それだけならね」

 姫羽は、顔を上げた。

「で、でも、史くん…明里ちゃんは、史くんを裏切るような子じゃないよ?」

「分かってるけど、相手は明里ちゃんを好きなんだよ?自分もそうだとは思いたくないけど、男がこんな時間に好きな子を部屋に連れ込んでやる事って言ったら…」

 其処まで言って、史也は俯いた。

「俺がこんな事言うのも、らしくねぇんだけど…」

 そう前置きして、永志は静かに口を開いた。

「明里はお前が思ってるほど、意志の弱い女じゃねぇと思うけど…」

 史也はハッとして、顔を上げた。

 姫羽も、微笑みながら永志を見つめている。

「お前さぁ、恋愛ってのはガキのお人形さん遊びじゃないんだぞ?」

「どっ、どう言う意味ですかっ!」

 史也がムッとすると、永志は真剣な顔で言った。

「今のお前はさ…何つーか、自分が大事にしていた人形を他のガキに取られて、もう2度と戻って来る事のないその人形を思いながら、未練たらしく毎晩ピーピー泣いてるガキにしか見えねぇんだよ…」

 史也は、呆然としている。

「人形は取られたら、2度と戻って来ないかもしれない。でも、人間は自分の思う場所にちゃんと戻って来る。明里は1人の人間で、自分の意思も感情もちゃんと持ってんだ。お前への気持ちが本物なら、お前の所に必ず戻って来るって…な?」

「せ、先生…」

 史也は、永志を見つめながら呟く。

 永志は、優しく微笑んだ。

「心配すんな…男だったら、堂々と構えてろ!」

「先生っ!」

 史也は、感動しながら言った。

「何だか今日の先生、僕達より大人に見えます!」

「は?」

 永志、気の抜けた声を出す。

「い、いくつだと思ってんだよ…」

「少なくとも、精神年齢は僕達と同じくらいかと…」

 そう言って、史也はニコニコしている。

 永志は、黙って頭を抱えた。

「冗談ですよ、いつだって先生は僕達の頼れる兄貴ですって!ホント、有り難う御座いました。先生に励ましてもらったら、何だか気が楽になりました。普段は先生に感謝するなんて事、滅多にないんですけど…」

「史っ!」

 爆発しそうな永志を見て、姫羽は慌てながら言った。

「ま、まあ、とにかく史くんは明里ちゃんを信じて、広い心で待っててあげなよ。きっと今悩んでた事が、バカみたいだったって思う筈だからさ」

 史也も頷いた。

「そうだね…姫も、有り難う。じゃあ、今度こそ本当にお休みなさい」

 史也は、笑顔で部屋を出て行った。

「セーンセっ!」

 姫羽は、ニヤニヤしながら永志を見つめている。

「な、何だよ…」

 警戒する、永志。

「ちょっと…カッコ良かった…」

 そう言って恥ずかしげに微笑む姫羽を見て、永志はドキッとした。

「やっと先生も、まともなアドバイスが出来るようになったんだ?」

 姫羽の言葉に、永志は呆れた顔をした。

「ったく…お前も史も、今まで俺を見下してたって事だな?」

「そう言う意味じゃないって…でもああ見えて史くん、結構悩んじゃうタイプなんだよなぁ。昔っからそうでさ、落ち込んで泣きじゃくる史くんに一晩中添い寝してあげた事もあったっけ…」

「添い寝?」

 永志がそう呟いて、眉をピクリと上げる。

 姫羽は、溜息をついた。

「い、いや、先生、反応し過ぎだって…こんなにやきもちやきとは、思わなかったなぁ…」

 永志も、焦って言う。

「お、俺だって、今までやきもちやいた事なんか1度もねぇもん!」

「え?」

 姫羽は、耳を疑った。

「ホントにっ?」

「嘘ついてどうすんだよ。やきもちなんかやかなくたって、女に不自由してなかったし…」

 途端に、姫羽はムッとした。

「うわぁ…出た、最低発言…じゃあ私、帰るから」

 立ち上がった姫羽の腕を掴んで、永志は言った。

「もう、寝んのか?明日店休みなんだから、ちょっとくらい夜更かししたっていいだろ?」

「え…っと…そ、それは、そう、だけど…」

 姫羽は、考え込んでいる。

「此処、座れって」

 永志は、自分の隣を指差した。

 姫羽は溜息をつき、仕方なく隣に座った。

 永志が、姫羽の肩に手を回して来る。

「何かさ…」

 姫羽は、苦笑いした。

「急に、ベタベタして来るようになった…ね」

「そうか?」

 永志は、あっけらかんとして言う。

「そうだよ!今までだったらガキは早く寝ろとか、もういいからお前向こう行けとか、キモイとかって散々言ってたクセに…」

 姫羽にそう言われて、永志は頭を抱えた。

「だ、だって、お前とはそう言う間柄じゃなかっただろっ?それに俺自身、お前が気になってるだなんて認めたくなかったしよ…1度認めちまったら歯止め効かなくなりそうだったから、わざと突き放してたんだよ…」

「えっ…?」

「お前って普段から、俺に弱み見せた事ねぇじゃん?泣き顔にしたってそうだし…」

「言ったでしょ?先生にだけは、見られたくないって…」

「だ、だからさ…その…お前がしおらしくなったら、どんな感じになっちまうのかなーっとか、想像してたらさ…その…」

「な、何?」

 口ごもる永志に、姫羽は訊き返す。

「いや、だから…出会ったばっかの頃は、まさかそんな事考えるとは思ってもみなかったんだが、まあ…その内、俺と会ってる時以外のお前の事を考えてたら、何つーか…」

 言いにくそうな永志を見て、姫羽は眉を顰めた。

「ん?ま、待って…先生、もしかして…わ、私の事、そう言う目で見てくれてた事、あったのっ?」

 手で顔を覆いながら、永志は呟く。

「しょうがねぇだろ…俺は、死んでも認めたくなかったんだよ!お前に対する、ムラムラとした気持ちを!お前が俺の部屋に来る度、そう言う気持ちと葛藤して…だからこれは違う、お前だけは違う!って言い聞かせながら、俺は戦って来たんだよ!」

「た、戦うって、大袈裟な…」

 と、言いつつも…姫羽は、正直…嬉しかった。

 何故ならあの頃はガキ、ウザイ、キモイばかりで、完全に自分は永志の眼中にはない存在なんだと、諦めながらの毎日を送っていたからだ。

「それに、はっきり言って今までの女達は体の関係だけの存在だった。向こうはどうだかしらねぇが、俺は1度だって好きだと思った事はねぇ。全ての女を、モノとしか見てなかったからな」

「何気に、最低発言…」

「かもしんねぇけど…でも、お前は違う。俺が生まれて初めて好きで、大事にしたいと思った奴なんだよ。だから、別に…まあ、お前の事抱いてみたいって気持ちがないとは言わねぇけど、焦って先に進もうとは考えてない。こうして、今までよりもお前を近くに感じる事が出来るだけで、今は満足してるからさ」

「先生…」

 微笑む、姫羽。

 永志は、そんな姫羽にそっとキスをした。



「ねえ、あーちゃん」

 大護の部屋。

 大護と明里は、向かい合ってソファーに座っていた。

「な、何?」

 恐る恐る返事をする、明里。

「明日、僕と一緒に帰ってくれないか?両親に、紹介したいんだ」

 先程何処かで聞いたような台詞を、大護は口にした。

 明里は、目を丸くして大護を見つめている。

「この前も言ったけど、僕は本気であーちゃんを引き取りたいと思ってる。養父母に話はしてあるから、後はあーちゃんが会ってさえくれれば…」

「ちょっと、待って…」

 明里は、悲しげな表情を浮かべた。

「私の…私の気持ちは、どうなるの?」

「あ…あー、ちゃん?」

 大護は、唖然とした。

「気持ちって…僕の事、嫌いなの?」

「好き、だよ…」

 明里は、静かに言った。

「そ、そうだよね?良かった!」

 大護は笑顔になり、明里の隣に座って手を握って来た。

 しかし、明里はその手を振り払った。

「そう言う意味の、好き…じゃ、ない…」

「え…」

 眉間に皺を寄せる、大護。

「大ちゃんが私の事、そう言う風に見てた事は…な、何となく分かってた。でも…ごめん、大ちゃん…私も、小さい頃から大ちゃんの事、好きだった。でも、それは大事なお兄ちゃんとして…」

「そんな事を聞く為に、わざわざ会いに来たんじゃないよ」

 大護は、真顔になった。

「僕はね、あーちゃんと大人の付き合いがしたいんだよ。もう大事なお兄ちゃんとか、そんなくだらない感情は捨てて…」

「くだらない?」

 明里は、大声で怒鳴った。

「どうして、そんな事言うのっ?」

「あ、あーちゃん…?」

「大ちゃん、変わっちゃったよ!もう、私の知ってる大ちゃんじゃない!」

「だったら…あーちゃんの知ってる僕って…何?」

 大護が、静かに尋ねる。

 明里は答えた。

「あの頃は、何もなかった…両親の存在は勿論、愛情もお金も自由も何もかもなかった…でもそれを全て埋めてくれたのは、他でもない大ちゃんの優しさだった…普通の家庭の子供達に苛められた事もあったけど、私は大ちゃんがいてくれたから、頑張ってやって来れたんだよ…」

 俯く大護。

「大ちゃんが引き取られたあの日、私は独りぼっちになった…淋しくて、やりきれない気持ちでいっぱいだった…でも、今まで私を守ってくれた大ちゃんを思い出しながら、今度は私が返す番…そう思って、私より小さな子供達の面倒を一生懸命見た…そして中学に入ると同時に、私はこのお屋敷に引き取られたの…」

 明里は、当時の事を思い出していた。

「普通の家庭に入る事は、怖かったよ…でも大ちゃんも頑張ってるんだから、私も頑張ろうって心に決めた…実際は、怖がる事なんて何もなかったんだけどね…私を引き取って下さった大旦那様は、昔は厳しかったなんて信じられないくらいお優しい方だったし、そのお孫さんである典鷹様の存在も私にとっては励みになったし…」

 明里は、大護を見つめた。

「当時の典鷹様は今の大ちゃんと同じ、20歳くらいだった…大ちゃんにも話したけど、典鷹様は心臓を悪くされてこのお屋敷に寝たきりのまま、お育ちになったの…そう言う意味では私達と同じで、外の世界なんか全くご存じない方だった…お友達だって、1人も…それでも、典鷹様は精一杯生きてらっしゃったの」

 大護は、黙って明里の話を聞いている。

「そんな周りの方々の生き方に影響されて、私も精一杯生きる事にした。8年ぶりに大ちゃんがこのお屋敷を訪ねてくれた時だって、昔と変わらず優しい大ちゃんだった事が物凄く嬉しかった…」

「だったら!」

 大護は強く言い返そうとしたが、明里は首を横に振った。

「でも、話している内にやっぱり昔の大ちゃんとは違う事に気が付き始めちゃったの。昔の大ちゃんは、何もなくてもその中から幸せを見つけ、小さな存在の自分達でもきっと何処かで誰かが必要としてくれている…そう言う風に、前向きに物事を考える事が出来る人だった」

「今の僕は…そうじゃないって言いたい訳?」

 大護が、冷めた口調で言う。

 明里は頷いた。

「私、美味しい中華料理なんて食べたくなかった!あんな綺麗なブレスレットもいらないし、何も買ってもらわなくたって良かった…ただ昔と変わらない大ちゃんのまま、私に笑っていて欲しかっただけなのに…っ!」

 やがて、明里は泣き出してしまった。

「分かった…」

 大護は立ち上がると、明里の腕を掴んで無理矢理引っ張った。

「え…っ、な…っ、何っ?」

 引きずられるようにして、明里はベッドの上に突き飛ばされた。

「だっ、大、ちゃ…んっ!」

 大護は明里に覆い被さり、無理矢理キスをした。

「ん…っ…んーっ!」

 明里は、涙を流して抵抗する。

 大護は明里の腕を押さえ、自分が結んでいたネクタイを外すと、それで縛り付けた。

「人間ってのはな、嫌でも大人になんだよ…言っただろ?もう、あの頃の俺達じゃないって。いつまでも、ガキみたいな事言ってんじゃねぇよ!」

「だっ、大、ちゃ…ん…っ?」

 明里の表情は、恐怖に満ちていた。

 大護は、明里の襟元に手をかけた。

「どれだけ大人になったか、確かめてみようか?」

 大護は、明里の洋服を思い切り破った。

 明里の白い柔肌と、胸のふくらみが露になる。

「や、やめて…っ」

 明里は、再び泣き出した。

「黙れ!」

 あの頃の大護は、もう何処にもいなかった。

「嫌…っ……嫌ぁぁーっっっ!!!!!」



第1部 完

2007.7.6

by.M・H


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