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釈迦十大弟子の最後は凄惨だった2(マハーカッサバとアーナンダ)


大報恩寺の大迦葉

次にマハーカッサバ、大迦葉、頭陀第一である。頭陀はずた袋のズタだと思う。托鉢に徹し、ボロと鉢以外何も持たなかったという。釈迦亡き後、第一結集の主催をしたという。この時、アーナンダは常に生前の釈迦に随伴していたのだから、釈迦の言葉を最も聞いており、釈迦の教えを整理再確認しようという第一結集に最も必要な人材であったにも関わらず、彼が未だ悟りに至らず阿羅漢でなかったことや、釈迦に女性の出家を許すよう促したことなどを理由に当初結集への参加を許されなかった。がっかりしたアーナンダは寝所に身を委ねてまだ足が布団に下りるその時、突如として悟りを開き、大迦葉もそれを認めて結集に参加、そして「如是我聞」、すなわちこのようにわたしアーナンダは聞きました、で始まるお経が残されていくのである。
この結集以降、釈迦亡き後の仏教教団のリーダーは大迦葉が務め、100歳を超えた頃、次のリーダーをアーナンダに託し、いよいよ臨終に臨んで釈迦の形見の糞掃衣(ふんぞうえ)を身につけてひとり山に入ったところ、三方の山が彼を取り囲むように崩れ押し寄せ、飲み込んでしまったそうだ。筆者は2003年に四川省成都から九寨溝に車で向かったことがあるが、その時、かつての大地震で三方の山が押し寄せ、村々や川を飲み込んだ後をつぶさに見たことがある。この同じ地に、2008年5月12日、記憶に新しい四川大地震が襲った時、筆者は北京だったが、多くの人命が再び押し潰されて失われた。大迦葉の最後は、もしやそのような突然の地震と山崩れだったのでは、と壮絶な最後を想像させるのである。
さて大迦葉の後を継いで仏教教団のリーダーとなった阿南だが、釈迦存命中から人気者で、釈迦説法の傍に控える彼に対し、若い女性信者がキャーキャーと黄色い声をかけ、釈迦や一般信者が法話に集中できない。そこで釈迦は阿南に、若い女性信者に声をかけられても、返事するどころか、目線も返すな!と指示したそうで、そんなにイケメンだったのかと驚くと共に、漫才みたいな釈迦アナンコンビを微笑ましくも思った。
そんな人気の阿南だけに、リーダーとなってから各地の王侯豪族富者のひくてあまたの仏教教団で、あちこちで豪華な布施の饗応を受けたようだ。ところがこれが災いして、自分の死後遺骨の争奪戦になることを恐れた阿南は、120歳となった時、ガンジスに小舟を漕ぎ出し、火光三昧というから、自ら花火のように小舟から飛び上がり爆死、肉体はバラバラに飛び散った。おかげで遺骨を争っていたマガタ国と、対岸の離車族など各地の王は、それぞれ自分の陣地に落ちた遺体から遺骨を取り出し塔を建立したという劇画のような最後だったそうだ。

大報恩寺の阿南

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