ヴァンス副大統領の思想はジラール、アウグスティヌスに由来し自我抑制的でブッダの教えに似ている(時計回りにアウグスティヌス、ジラール、ティール、ヴァンス)
2024年のアメリカ副大統領に選ばれたJ.D.ヴァンスは、著書『ヒルビリー・エレジー』を通じて社会の周縁化された地域、特にアパラチア地方に住む白人労働者階級の現状を描き出した人物である。ヴァンスの背景や思想は、現代アメリカの社会的・政治的課題と深く結びついており、その哲学的基盤にはルネ・ジラールの「欲望の模倣」の理論が影響を与えている。本稿では、ヴァンスの思想的特徴をジラールの理論との関連で探りながら、アメリカ社会の内在的矛盾とそれに対する解決策を考察する。
ヒルビリー文化とアメリカ社会の偏見
筆者はケンタッキー州に住んだ経験を通じて、アパラチア地方の文化とそれに対する偏見に直面した。ヒルビリーやレッドネックといった言葉は、外部の人々がその地域の住民を嘲笑的に語る際に使われる。このステレオタイプには、「裸足でいる」「縄をベルト代わりにする」というような侮蔑的なイメージが含まれる。しかし、筆者の経験では、アパラチア地方の住民は寡黙で誠実、かつ謙虚な性格を持つ人が多く、日本人の価値観に近い共感を得られる人々であった。この観点から、ヴァンス自身がアメリカ社会の一部から「マッチョ」と見なされながらも、哲学的深みを持つ人物として評価される背景を考察できる。
ヴァンスとジラールの「欲望の模倣」
ヴァンスの思想は、スタンフォード大学の哲学者ルネ・ジラールの「欲望の模倣」に強く影響を受けている。ジラールによれば、人間の欲望は他者の欲望を模倣することで生まれる。本来、個々人の欲望は純粋で害のないものであるが、社会化の過程で他者の欲望を模倣し、競争が激化する。最終的には、欲望の対象そのものよりも「他者との差異」を求めることに執着し、この果てしない競争が社会的闘争や不安定を招くとされる。ヴァンスは投資ファンド時代のオーナー上司であるティールを通じてジラールを知ったと言われる。今や世界第7位の富豪であるティールはスタンフォード哲学科で当時教授だったジラールから学んだ。
この理論は、現代アメリカ社会における極端な格差や消費主義の問題を的確に説明するものといえる。アメリカのリベラリズムは、近代市民革命を経て自由と個人の権利を信奉する思想を礎としてきたが、その結果として、上位数パーセントの富裕層が中間層以下の富を独占する状況が生まれている。このような社会において、個々人が追い求める欲望はしばしば他者との差異を求める虚構の欲望であり、それ自体が持続可能な社会を蝕む要因となっている。
ジラールの思想と宗教哲学的視点
ジラールの思想は、キリスト教や仏教をはじめとする宗教哲学とも共鳴する。彼の理論における「犠牲を通じた社会の安定」は、キリスト教におけるイエスの犠牲や仏教における「煩悩からの解放」と深くつながる。ジラールは、アウグスティヌスの思想をルーツに持ち、人間の自由意志には限界があり、神の恩寵なしでは健全な欲望の統制は不可能だと説く。この考え方は、仏教における「無我」や「欲望を捨てる」教えに通じるものであり、人間の内省と謙虚さを強調している。
ヴァンスがジラールの思想を支持する背景には、個人の自由意志を過信する現代社会への批判が含まれている。自由意志は必ずしも正しい方向に導くわけではなく、欲望の模倣に引きずられる限り、社会的混乱を招く可能性がある。ここで求められるのは、内省を通じて虚構の欲望から脱却し、他者や社会との協調を目指す謙虚さである。
現代アメリカ社会への示唆
ヴァンスが現代アメリカ社会を救うために必要と考えるのは、以下の二点である:
1. 虚構の欲望からの脱却
人々が内省を通じて、自らが模倣的欲望に囚われていることを認識し、本当に必要な欲望を追求すること。
2. 自由意志への謙虚な認識
自由意志を絶対的なものと信頼せず、自己中心的な行動を控え、共同体や倫理的な枠組みの中で行動すること。
これらの視点は、ブッダが「生老病死」の苦しみを輪廻として認識し、それから解放されるために煩悩を捨てるべきだと説いた教えと重なる。現代のアメリカ社会もまた、消費主義や自由意志の過信による「欲望の輪廻」に囚われている。そこからの解放を目指すには、個々人の内省と謙虚さが不可欠である。
結論
J.D.ヴァンスは、アメリカ社会の病理を深く理解し、ジラールの思想を背景に、内省と謙虚さを基盤とする新たな社会モデルを提案している。彼の思想は、現代のアメリカにおける格差問題や欲望の過剰を克服する可能性を秘めており、宗教哲学や倫理学的観点からも示唆に富む。これらの考え方は、単なる政治的理念を超え、人間の生き方そのものを問い直す契機を与えてくれるものである。