肉体は思考そのものであって、それ以外の何者でもない。

『みなみちゃんは、この先どうなりたいと思っていますか?』と、聞いていただく機会があったので『コルベ神父のようになれるかどうか、考えています。』とお答えした。皆さんは、コルベ神父をご存知だろうか。ホロコーストの時代に、生きていた実在の聖職者である。彼は、ガス室に送られる若い夫婦の身代わりになり、最期は同じくガス室に送られる人たちと聖歌を歌いながら力尽きたという。カトリック系の学校に通っていたので、この話は耳にタコができるくらい聞いてきたのだが実際に思い返してみればみるほど『すごい話だな』と思う。私はホロコースト系のものが非常に苦手だ。得意な人はまずいないと思うが、それでも見ているとやはり気分が悪くなるか、一日、もしくは数日や数ヶ月はダメにしてしまう。前にゾンダーコマンドのドキュメンタリーを見たときにはひどい目にあった。それでも、これが実際に起きていた話であって、日本もかつては同じことを中国をはじめとしたアジア諸国にしていたのだと思うと吐き気がする。やはり戦争はどんな理由があったとしても人間のすることではない。人間として、知識を持ち知性を持っているならば尚更、恥ずかしいことだと思わないのかと言いたい。人類の進化を謳いながら、人類の退化を証明しているに過ぎない。まさに愚の骨頂であると思う。今は亡き瀬戸内寂聴さんが、『例え嬲り殺されてでも私は戦争反対を叫びますよ。私は本気です。』とおっしゃっていた。私も同じ気持ちだ。考えることをやめたとき、人類はいよいよ破滅へ向かっていくのだろう。どんな形でもいい、考えること、感じることをやめてはいけない。そして今も、日々、思っている。さて、話を戻すと。コルベ神父のことを話した後、彼女は私にこう告げた。『それは想定外の答えでした。てっきり写真家としてどうなりたいとか、ダンサーとしてどうやっていくかとか、外国に行くとか、そう言った答えが返ってくると思っていました。みなみちゃんは徳が高い人なんですね。』果たして本当にそうなのだろうか。小さい時から、やはり環境のおかげもあって『自己犠牲』について考える機会が特段に多かった。自己犠牲といえば、三浦綾子の塩狩峠だが、彼のように自分の身を犠牲にしてまで誰かのことを守ることができるだろうか。むしろ、守るというよりも、身を投げ出すと言ったほうが正しいのかもしれない。そんなことが、そんな恐ろしいことが自分には可能なのだろうかといつもそれなりに考えて生きてきた。しかしながら最近では、それは『自分は何かをしないと価値がない』という一種の自己否定の現れであるのかもしれないとも思うようにもなった。自分には何もない、と思っているからこその『何か表立って誰かの役に立つようなことをしなくては』という思いに駆られているのではないかと、そんなことを漠然と思う自分もいる。どちらが正しいのかは分からないし、どちらも正しくないのだというのもまた事実だろう。しかしながら今思うのは、やはり時が来たら、コルベ神父のような行動ができる人間でありたい、という願いだ。藁にもすがるような願いに近いのかもしれない。この願いが祈りに変わった時、私の人生には何かが起こるような気がするのも確かだ。こんなことを書くと、『恐ろしい』と思う人もいるかもしれない。それでも、私は人間だ。人間である以上、死を免れることはできない。我々は、衣服よりも身近に死を纏っている生き物なのだ。だからこそ、感覚を研ぎ澄まし、その先に見える何かは、不確かな確かだったりもするのだ。私は人生に対する流れのようなものはだいたいわかってしまう時がある。そんな時は一旦、考えを放棄し全てを天に委ねる。そして朝には想像もしなかった夜を迎える1日を過ごせたらそれはそれはしめたもんである。私はいつでも身軽でいたい。何か重い荷物を背負っていたら、それこそ誰かに何かに、不特定多数の何かに身を投げ出すなんてことは到底できない。何も持たず、風のように身軽でいるときにこそ、何の執着もなく、天や神からのメッセージを聞くことができるのだと思う。人生はいかにメッセージを聞くかだ。耳を澄まし、沈黙に身を任せ、そしてひたすらに聞く。研ぎ澄ました感覚で、聞く。心が波紋を拡げて音を奏で始めたとき、本当に自分が求められているものが何かわかる。そこに余計なものは何も必要ない。今の世の中は、余計なものだらけだ。利便性や効率性と引き換えに、やはり、大切な何かをひたすらにすり減らしていっているような気がする。だからこそ、自分を満たすものを常に探し、腹を膨らませることに命を懸ける。最近、進撃の巨人を見ているのだが、あの物語に出てくる巨人たちを見ると、現代人を見ているような気がしてならない。腹が異常に膨れ上がり、何の気もない顔をして歩き回っている。食べた人間を消化することができず、そのまま塊として吐き出してしまう。これといって殺戮自体を楽しむわけでもなく、ただ無目的に歩き回る。あの光景は、決して他人事ではないような気がする。カモメのジョナサンでも言っている。『肉体は思考そのものであって、それ以外の何者でもない。』肉体は所詮、借り物だ。借り物は大切に扱わなければなるまい。その意識を見失わないように、今一度、自分に問いかけたい今日この頃である。




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