見出し画像

油断のならない世界での「罪悪感」と、未来への「罪悪感」

パソコンが使えるようになりましたよ!

ああ、やっぱりパソコンは楽でいい。
ACアダプターのパソコンとの接続部がすり減っていたのが原因のようで、順調に充電してくれています。ああ、よかった、ありがたや。

ただ、前回「2500字ぐらいでいいのかな」と打ってからポストを見に行ったらACアダプターが届いていたので、やっぱり「あんまり根詰めて毎日毎日10000字も書くんじゃないわよ」という「サイン」なのかもしれませんね。

ところで、今、10000って打って変換を押したらↂが出て、?なんぞ?と思って調べたら、ローマ数字アラビア数字で10000の意味ですって。
それでↁだと5000ですって! なんやそれ。おもろ!!半分やん!
知らなかったわ。一つかしこくなった。
ↂって、徒競走のトラックの絵文字に使えそう。

油断ならない世界での「罪悪感」


以前の記事で、
職場で無理やりお菓子を食べることを強要されたりしてほとほと困って、「断り切れなかったお菓子を帰り道で捨てた」とか書いたかと思います。
「いただいたものを捨てるなんて!」と驚いた方もいらっしゃったかもしれません。
ですよねー
 私もそうは思うのですが、
ただ、強要してきた人たちの狙いがなんなのか、職場の同僚がいったいどういう経緯で「黒い三連星」になって、私に対して「ジェットストリームアタック」を繰り出してきたのかがわからない限りは、
上司が「なんで食べないの~」と詰め寄ってくる職場でもらったものは口に入れるわけにはいかない、そう思うのです。 

 「頂き物」「食べる物」を捨てることについて、私たちは非常に罪悪感を感じます。けれど「罪悪感」が非常に低い意識状態で「今すぐ窓からぶん投げる」レベルでやばいのは、前回の記事で書いたとおりです。

 強要されたものを食べるわけにはいかない。そして罪悪感はよろしくない。だから断り切れずいただいたお菓子は粛々と処分しておりました。
もちろんちゃんと「昨日はありがとう」とか、いただいた体でちゃんとお礼を言って。
 向こうも「うそでしょ、食べてないでしょ」とは言わないですから。
ただ、なぜか食べていないのはバレてはいますが・・・(だから毎日毎日無限に繰り出してくる・・・)

 でも、これって、お菓子を食べたら食べたで危ないし、断ったり捨てたりすれば(通常は)罪悪感を抱いて最低の意識状態になるし、
そして、あまりにも毎日続くと「いいかげんにせー」と怒りの感情も湧いてきて、それもまたよろしくないわけで・・・

 本当に「振り子」は巧妙にネガティブな感情を抱かせようとしてきます。


 昨日の記事で、「振り子の法則」第1巻から「罪悪感」に関する部分を一部引用しましたが、「人形遣いの挑発に乗ってはならない」の続きの部分が興味深いので引用します。

 情け容赦のない環境、すなわち牢獄、強盗団、軍隊、裏町などで生き抜くためには、罪悪感と縁を切ることが最も効果的な方法である。犯罪社会において、「信じるな、恐れるな、助けを求めるな」という不文律が生きているのも、それなりの理由があってのことなのだ。この掟は、過剰ポテンシャルを生み出さないようにと教えている。好戦的な環境の中、人に悪事を働かせる際に役に立つポテンシャルの基本にあるのが罪悪感である。自分の安全確保を可能にするのは、自分の力を誇示すればよい。一番強いものしか生き残ることのできない世界では、このやり方が効力を発揮する。しかし、実はこれは非常に効率が悪い。はるかに効率のよいやり方は、潜在意識に潜んでいる罰を受けるあらゆる可能性を排除することである。(中略)個人的な尊厳を勝ち得るためのカギは、罪悪感を持っていないということにある。本当の個人の力は、喉をわしづかみにすることにあるのではなく、その人格が罪悪感からどれほど自由でいられるかにある。
 有名なロシアの作家アントン・パブロヴィッチ・チェーホフは言った。「私は自分の内にある奴隷の血を一滴一滴絞り出している」。罪悪感から逃れようとする意志がこの一言によって協調されている。逃れるということは、つまり闘うということである。しかしながら、トランサーフィンは闘うとか自分に強制するとかいうこととは関係が無い。別のことが行われるのである。それは、関係を断つ、すなわち、選ぶ、ということである。自分の中から罪悪感を絞り出す必要もない。自分の信念に従って生きることをただ容認するだけで十分なのだ。あなたを裁く権利は誰も持っていない。あなたはあなたでいる権利を持っている。もし自分自身でいることを自分に容認できるならば、弁明する必要性は消えてなくなり、罰せられる恐怖は吹き飛んでしまうだろう。すると驚くべきことが本当に起こる。誰もあなたを侮辱しようとはしなくなる。たとえ、あなたがどこに居ようともである。牢獄、軍隊、強盗団、職場、裏町、酒場など、どこにいても・・・。誰かが暴力で脅すような状況に遭遇することもまったくなくなるだろう。他の人たちは時として何らかの暴力に遭うだろうが、あなたは違う。なぜなら、潜在意識から罪悪感を追い払ったためである。
これは、つまり今いる人生ライン上では罰を受けるシナリオは単に存在していないというただそれだけのことなのだ。

ヴァジム・ゼランド著「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン
第4章バランス「罪悪感」P203-205


いいですねぇ、「信じるな、恐れるな、助けを求めるな」

ちゃんと名前の通った会社なのに、
常識はずれな頻度とやり方でお菓子を食べることを強要してきて、
何を意図しているのか、食べたら一体どうなるのかもはっきりわからない(ただ、『絶対よくない』のだけはこれまでの経験でわかっている)、
誰が「人形遣い」かもわからず、相談することもできない。
恐れたり助けを求めたり、弱みを見せれば付け入られる。
 助けを求めて伸ばした手を取ってくれたのが、もっと凶悪な振り子ってことだってありうるのです。
 
 上記の引用は「裏町」とか「暴力」とか、治安のあまりよろしくないロシアらしいワードがでてきますが、
油断のならなさにおいては、暴力にこそ合いませんが、
目に見えない形でガッツリやられてダメージをくらうという意味では、
今の日本でも苛烈さはそうはかわらないかもしれませんよ。


  ところで、引用文中には、「潜在意識から罪悪感を追い払うことができれば、暴力で脅されるような状況に陥ることはなくなる」と書かれています。
 ということは、粛々と対処しているつもりでも私のどこかにまだ罪悪感が残っているのでしょうか。
 それが払しょくできれば、もうこの「振り子が物を食べさせることで紐付けしようとしてくる次元(人生ライン)」とは違うところへ移動して、行く先々でうるさく攻撃を繰り出されるような目にはあわなくなるのかもしれません。


未来への罪悪感


前回のブログの最後に、
「過去に自分が犯したことに対する罪悪感は、償う、謝る、懺悔するなどで「解消する」、「持ち続けない」ことで手放すことが可能ですが、
自分の行動の結果起こりうるであろう、未来の出来事への罪悪感によって縛られている場合もあるのではないでしょうか」と書きました。

 以前、振り子は巧みに「自分本来の目的」ではない「他人の目的」に向かわせるようにするということを書きました。そしてどんなに理想を追い苦労してもそれが「他人の目的」であった場合は、その先には成功も幸せも待っていることはないと。

 人は様々な「罪悪感」により自分の行動をしばられて、「自分の目的」に向かうことを制限されていることが多々あります。
「自分がいなければ」とか「自分がやらなければ」とか「今更見捨てるわけにもいかないから」とかそういうやつですね。

 今いる世界は幸せとは感じられず、孤独であったり疎外感を感じたり、自分自身が軽んじられたり、日々があまりにも過酷であったり、
明らかに自分がいるべき「自分の人生の目的」に向かう人生ライン上ではないことがわかっている。
けれど罪悪感などから、絶対に自分がいるべき場所ではないところから動けずにいる。

 そんな人をたくさん見てきました。
というより、限られた一握りの人以外は皆程度の違いはあっても「他人の目的」のために生きている人がほとんどではないでしょうか。

 ゼランド氏によると、「自分の目的」に向かっているときは、達成までの苦労が苦労とも思えず楽しさに満ちていて、そもそもとんとん拍子に進んでいくし、達成したときの幸福感はたとえようもないようですから、現状そうでない人は皆「自分の目的」を忘れて生きているということになります。
 
 別に「自分の目的」と言っても、皆が大谷選手やイーロン・マスクみたいに有名人になって表舞台で活躍せよというのではなく、
ゼラント氏は「庭でガーデニングを楽しむ」「南の島でのんびりと暮らす」等と挙げています。
 そう、不自由なく自分の魂が満たされた状態であれば、人から見て偉大だとかそんなことは関係ないのですね。
ただただ楽しくてお気楽なだけでも、魂が心から満足していればそれでいい。
 けれど、そんなことさえも、「人々が『他人の目的』に向けて不毛に苦労するそのエネルギー」が大好物の振り子は、ことごとく邪魔をし、「自分の目的」に向かうのを許そうとはしません。



 私の母は、家族の幸せのために、と、他人からは「修行」とも思えるような日々を長年送ってきて、でも結局、得たかったであろうあたたかな愛情や思いやりが得られないまま、病室で私一人が見守る中亡くなりました。
 それなりに華やかなこと楽しかったこともあったようではありますが、それを覆いつぶしてしまうほどさみしいこと、辛いことが多かったのではないでしょうか。
 娘から見ても、もっと自分を大切にしてありのままに生きられれば、また違う人生だったのではないかと思います。

 私の友人のお母さまが亡くなったのはもうずいぶん昔ですが、まじめで教養もあって働き者なのに、いつも笑顔が無く辛そうで暗い顔をしていて、友人の花嫁姿を見ることなく早くに病気で亡くなられました。

 二人とも家族や周りのために捧げるばかりで、自身が満たされることは二の次三の次だったように思います。

 私自身、ずっと身体が辛かったとはいえ、母が亡くなってから生活状況がかわって数年働いたぐらい、ネットサーフィンと歌うのが好きで、傍から見たら十分自分のしたいようにしているように思われるかもしれません。
でも、こんな私でも少し前までは
「ああ、私はこの先、このまま死ぬのか、こんなままならないまま、さみしい人生で死ぬのか」と寝るときに凍えるような思いをすることがありました。

 明らかに今いるのが「自分の人生」ではないことがわかっていながら、そこから動けないし、動こうにもどちらへ向いて歩きだせばいいのかもわからないのです。


罪悪感を直接どうにかしないで罪悪感から逃れる方法

 
 少し前に、ケルマデックさんの印象的なエピソードを引用して紹介しました。


 こちらの後半の「人生を劇的に変える方法」という一人の女性のエピソードの引用があります。
 病気のお母さんとうつの弟の面倒を見るため、お付き合いをしている人がいながら結婚を諦めていた女性が、そのお母さんと弟さんに直接働きかけることは一切なく、すんなりと問題解決し、結婚することができるようになった話です。 
 

エビドリアからスタートしたミッションでしたが、その後、彼女は彼と結婚したのですよ。

 タネを明かせばですね。

「私が、弟とお母さんの面倒を見続けなければならない」

という世界を作っていたのは、彼女なのですよ。

 世界はたくさん存在し、選べるのです。

 人生が、同じことの繰り返しの状態になっている時はですな。なんでもいいのですよ。

 やれることをやるしかないのだと、『ロッキー』の主人公が言ってましたな。

 ああっ!あの叫びが、今も私の心に残っていますよ。

「新しい世界」へと誘う語り部 ケルマデック著 超常戦士ケルマデック あらゆる人生に奇跡を起こす不思議な物語 Chapte4 多次元宇宙 P78


 この女性は、ケルマさんに言われるままに、結婚したらするであろうお買い物や模様替えをお付き合いしている方のところへ行くたびに繰り返していただけなのですが、いつの間にかお母さんと弟の病気は良くなってしまいました。
 この女性がしたことは、きっと彼女の魂が「yes!」というであろうことだったのでしょう。それを続けていくと、すんなりと状況が変わってしまった。

 
 自分が犠牲になるよりどうしようもない、解決方法が見つからない、そんな状態も、実は「自分が作っていて」「世界はたくさんあるし選べる」「やれることをやるしかない」と言います。

 そしてゼランド氏も「自分で選んで」「行って取ってくればいいのだ」と言っていて、
ゼランド氏のシリーズ第2巻「願望実現の法則 リアリティ・トランサーフィン2 魂の快/不快の選択」では、その「やれることをやる」についてもう少し詳しく書かれています。

 今第2巻を読み直している途中ですが、自分自身に叩き込むためにもぜひ近々シェアをしたいと思います。





 前回今回と、「罪悪感」について書きましたが、
今でも母の病気と看病について、もっとあれこれできたのではないかと罪悪感を感じることがありますし、
そして私の父は職人なのですが、
母の看病のために帰郷している際に、「ひとつ仕上げていくら」の仕事を高齢になっても夏の暑い最中汗だくになってしている父の後ろ姿を見て、非常に罪悪感を感じたのを覚えています。
 
 そしてその後母が亡くなってからすぐに、私は働き始めることになるのですが・・・
 働き始めの頃はほとんどパニック状態で、毎日が苛立ちと不満と不安でいっぱいの、まさに前回の動画でいう「フォース」の意識レベルを代わる代わる味わうような状態でした。

 いい年になってからやむにやまれず働き始めたわけですが、
それによって得られた経験もありますし、このブログに書いたような危ない目に合って学んだことや、社会に出なければ得られなかった出会いもありました。
こうして真剣に「振り子の法則」を読んで実践しようと思ったのも、「とにかく辛い、なんとかしたい」という思いからです。
だから、この数年は辛くても必要な経験だった、といえるでしょう。
 

 けれど、私が父の汗だくになって働く姿を見たあのとき、もっともネガティブな意識である「罪悪感」を感じてしまった、それが振り子の「誘導転移」という渦に引き込まれる大きなきっかけになったのではないかと今では思っています。
 あの父の背中を見たときに私に沸き上がった感情が、「尊敬」であったり「感謝」であったりもっとポジティブなものであったとしたならば、その後の私の生活はもっとソフトランディングなものだった可能性さえあります。

 第一、私が父に対して感じた罪悪感は、
「自分が父の人生のためにして何かあげられたはずだ、私がするべきことをしなかったために父があのようになった姿は哀れだ」ということで、傲慢さの一面が垣間見えます。

 母に対しての「もっと何かできたかも」という思いも、
「母の命や幸せを私がどうにかできた、私にはその力があったという」傲慢さに他ならないとも言えます。

 そして黙々と出来高制の仕事をする父の後ろ姿を見て、罪悪感以外に確かに私が感じた、「労働とは、お金を稼ぐとは、たいへんな思いをして自分の目いっぱいの労力と生活の大半の時間を投じて初めて得られるものなのだ」という確信にも似た思い。
 それがその後の私の働き方、派遣社員として自分の労働力を時間単位で切り売りする仕事に反映されたようにも感じます。

 
 あのとき、しみじみと父の背中を見なければ、どうなっていたであろうか。見ても、もし違う思いを抱いていたらどうなっていただろうか。
あの瞬間は確かに私の分岐点でした。

 
 

 みんなそれぞれが、それぞれの責任において生きている。
「自分の目的」に向かえている人も、「他人の目的」のために自分をすり減らしている人もいるけれど、それについて私が罪悪感を感じる必要はない。

 
 最近はだいぶ減りましたが、私の口癖は「ごめんね」でした。
私が周囲に対して当たり前のように「ごめんね」「ごめんね」というのを聞いて、私の魂はどんな思いでいたでしょう。

 今いるところからどちらに向いて歩きだしていいかわからない私は、どちらに行けばよいか魂に聞くしかないのです。
今まで理性優先で、ガン無視してきた魂に、根気強く尋ね、魂が心地良いほうへと向かっていく、
そうすることで、私はあの父の背中を見たこと、見て感じたことを「なかったこと」にして「自分の目的」を選び取り、進んでいくことができるかもしれません。






















 

 


 

 
 



 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?