人生を競技化すること

 齢15歳にして日本人の王道ルートである高校生活を投げ出した(思わず投げ出してしまった)僕は、人生のあらゆる場面における競技性に思うところがある。競技とは本来技術の優劣を争うことを意味するが、僕にとってそれは人生を豊かにしてくれる不可欠なものだと錯覚していた、というより自分が競技に打ち込んでいるうちはいつだってそうだった。
 錯覚といったが、競技というものはその立場に立つものだけが分かる価値がある。
 僕たちは普段何の気なしに食事を取っているが、ことフードファイターの視点に立っては食事というものは一変して競技性を持つ。その大変さは想像に難くなく、天性の胃の持ち主で無い限りは自分もやりたいとは思わないだろう。
 僕が今「競技」している受験でも同じことが言える。いざ冷静になって考えてみたら、無理して勉強する意味なんてものはまるでない。大学受験という、社会が容易した競技に取り組む必要はなく、本来各々が興味に身を任せて学べばいいものである。そんなことないという人で、「将来ためになるから」「論理的思考が身につくから」という反論が考えられるが、その意見もまた「人生で優位性を持つ」競技に捕らわれている。
 ただ、僕も人生の競技者の一人として、競技の魅力は日頃から体感している。ある領域で高いレベルの競技者になれば親戚や友人からの目も変わる(彼らも等しく競技者)し、競技者同士での交流だってできる。
 人生を競技化せずに楽しむというのは、簡単に見えてとても難しい。人と比べなければ落ち込むこともないものを、一度人と競争してしまったがために人生のどの場面でも競技性を確認して無意識に競技してしまう。
 意地でも競技から逃れられない人生で満足するには、少しでも自分が楽しめる競技をして、競技を楽しむ努力をしないといけない。
 
 書き終わったので、僕はまた楽しい楽しい人生の競技を再開する。
 

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