8月10日
これは決して後悔とか懺悔とかそういうんじゃなくて
振り返ってみたらそうでした、という結果の話なんで、そういう前提で書いていることだけはいいわけとして残しておきます
大愚和尚のweb説法をよく聞きます
年齢を追うごとに、自分の行為の照らし合わせを行うのが通例になっている
誰かと一緒にいることってそんなに大事ですか
私自身はあまりそれがいいとも悪いとも思わないけど 結局依存に至ってしまうことがわかっているので 気にしないことにしている
ただ、周りをみてしまうとまあそれが違う人もいるので一概に他者を否定することもないのだけど
「○○したいな~誰か一緒にしてくれないかな」
が、もう苦手で仕方ない現実があって
それを自分がやるのも他者がやってるのをみるのも心底嫌い
私は基本的にそれはやらない 面白くもないし かまってちゃんするくらいなら先に相手を見つけるために「個人」に声をかけにいくから
相手がそれをするといやなのは簡単で「声をかけたとき、求めている人間が私じゃなかったときの困惑」が苦手だから
「誰か」と不特定多数に声をかけているくせに、本人は1人ないし数人のことにしか目がいっていないの癖、「誰か」と保険をかけるからたちが悪いみてて気分も悪い 誰かじゃなくて「○○さん」だろうがよ
で、間違えて声をかけてしまったときの「あ~…」がこれまた鬱陶しいお前じゃないんだよなという顔 求めてないんだという言葉遣い
本物コミュ障ってこういうやつのことだろうよ、と思う
必要な人は常にカテゴライズされていたりする私にとってはこういう「誰か」という言語は心底相性が悪い
誰でもいいわけないだろうがよ
求めている人間に声もかけられないみみっちい性格のくせに、自分はワンチャン狙ってかまってちゃんかますその器の小ささというか、逃げの理由というか 反吐が出るし、辟易とする
数年そういうコミュニティに頭を突っ込んだけど、やっぱダメだった
私から積極的に踏み込めば踏み込むほど、そういった「誰か」言語を放つ人間に捕まるし、そういうやつほど理由をつけて自分の正当化に必死だったところしか見られなかった
私がそもそも悪いところをみる天才だというのは高校時代くらいから変わってないんだけど、まあそれを鑑みても今見れは「きちぃ~」の連続
前にTwitterで見た「人見知りはいいわけにすぎない」っていう言葉が自分にも刺さったし、確かにそうなんだよなとも思った
仕事とかもそうだけど「人見知りなんで」で避けて通ろうとする時点でいいわけがましさというか、人に対して失礼オブ失礼なんだよなと考える
だって普通「人見知りなんで」って言われたらそこで交流終了だもん 「あっそうなんですか」でおしまいだし
「ほんとは話したいんですけど」は大体嘘だと思って生きてる だって別に仕事じゃないなら相手が話しかけてきた時点で敵意なんてないんだもん
「人見知りなので口数少ないですが」とかならまた100歩譲ってOKとしても「人見知りなので」ってだけ言われたら私意地悪だから「で?」って返す自信しかない
「あなたに用があって話しかけてるのになにその態度?」になります 鬱になるまえのわたしはそういう人です デリカシーはあまりない
そういう人に限って大概その後もフォローなかったりとか特に予後なしみたいな感じになるので、別にそんなつもりないのに「マッチングアプリかよ」って思ったりしてる お前とマッチングするつもりないのにね
友人っていつの間にかなってるものって和尚はいってたけど、相手が何しても緊張してたらまあ私も「気合わねえかな」ってやめることがよくあるので、ああなるほどねそれか、と溜飲の下がる思い
ああいう人にもきっと自然と話せる人はいるのだろう 今となってはもうどうでもいい
ぐだぐだ
人というものは難しい
それでも私は「誰か」とはいわない
求める人は常に自分の選択に委ねたいし
だからといって相手が拒否して怒ることもない
もちろん私が断っても怒らない人と関係性を紡ぎたいし
私が必死になっても意味ないし
友人としてよろしくと挨拶しても相手が他人だと思えばそれで終いだし
だるいことはしたくない
ただ友人関係というところにおいては、ゆらゆらと根無し草のように旅に出られるような
そういう浮浪に付き合ってくれるような共犯者を
私を強く求めない伴走者を
カテゴライズされた中にいる人を大切にしたいだけなのかもしれない