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日本の公鋳貨幣33「金の貨幣利用の開始」

前回はコチラ

まずは、長らく執筆をサボってしまい申し訳ありません!!

いや、まさか……。出版社さんからのお仕事をお断りし続けていた僕が、8月~11月にかけて、3冊も書店売りの書籍を編集することになるとは思っておりませんでした。なんか2022年後半はずっと原稿とにらめっこしていた気がします。内容は、もう一つの趣味であるPC関係の本ですので、こちらでは宣伝しません。

それ以外ですと、今年は動画のディレクター&脚本という仕事も始めました。こちらは、歴史系ですので紹介しようかな。クライアントさんも、多くの方の目に留まってほしいとおっしゃていましたし……。

鉱業大国へと至る道(前回書いたことの自分なりのおさらい)

前回は、16世紀に大航海時代で世界へと飛び出たヨーロッパ人たちが、東アジアまでたどり着いたことを紹介しました。ヨーロッパ人たちはそこで、中国のと貿易を開始します。中国との貿易用済貨幣として世界的に需要が伸びたのが、銀という鉱物でした。たまたま、中国大陸の沖合に浮かぶ島国・日本では現在の島根県石見で、石見銀山という巨大な銀山が発見されていました。ヨーロッパ人たちは、ヨーロッパ本土から銀を持ってくるのではなく、この島国から銀を調達しようとしました。

こうして、石見銀山が世界有数の銀山として歴史に名を遺すこととなります。銀の生む利益を巡って、西国の大名たちは石見銀山争奪戦を繰り広げました。また、世界的な銀需要の高まりを見た各地の大名たちは、自領内でも貴金属が産出しないかと山師たちを雇いました。日本全国で鉱山開発ブームが起こりました。

今回はその続きになります。この時代から、日本で公が発行する貨幣が復活してきます。ようやく、1枚ずつ貨幣について解説をしていく本来の形に戻すことができます……。もっともその前に、銀と並ぶくらい大切な貴金属について、概略を解説をしなければならないのですが。

日本という国は、世界でも稀にみる火山大国であり、4つのプレートの合流する地点に盛り上がった島国であります。そのため、様々な種類の希少金属が産出することが分かっています。戦国時代に起こった鉱山開発ブームは、当然、銀以外の貴金属の発見にもつながりました。

なかでも特筆すべきものが、「金」でした。

日本が金を産出することは、古代から知られています。むしろ知られすぎるくらい見つかっていました。わざわざ坑道を掘らずとも、ある程度は砂金で採れていたくらいですから。

そうなのです。日本は16世紀になるまで、金と言えば、"砂金"を表す言葉でした。砂金は美しさから、皇族や貴族への献上品として珍重されていましたが、それ以外の利用法が特になかったため庶民が使用した形跡はほとんどありません。なので珍しい宝物ではあるものの、一般人にとっては価値のない石でした。

しかし、鎌倉時代から室町時代、そして戦国時代と時代が進むにつれ、貴族の荘園が武士に削られていきます。貴族の蔵にため込まれていた砂金が、市場へ流出してきました。

さらに、室町幕府は京へ本拠を構えたため、全国的に武士の再貴族化が進行しました。本来貴族世界でしか通用していなかった「金」の価値評価は、武士にも理解されるようになりました。

畢竟、軍事物資などを庶民から購入する武士と近しい商人も、金の価値を理解するようになりますし、商人が普段やり取りをする庶民へもこの評価は広がっていきました。金は、万人が認める価値のあるものへと姿を変えていました。

人々が欲しがるようになるということは、金も売買の対象となるということです。ですが、この時はまだ"砂金"でしたので、金の売買は袋に詰めてやり取りするしかありませんでした。これでは、袋が破れたら中身がこぼれて目減りしてしまいますし、万が一中身が地面にでも落ちようものなら拾い集めるのが大変です。そこで、金を溶解して再鋳造した地金(インゴット)が誕生しました。

こうなってしまうと、金が貨幣化してしまう流れは早いです。鋳造した金塊を銭や米で買うという流れから、金を用いて米や銭を買うのは同じことですからね。

とはいえ金属は、混ぜ物をして純度を下げるという詐欺が簡単に行えます。なので信用のできない業者に砂金を渡して鋳造してもらうことには、中抜きのリスクが伴いました。そこら辺の半端な業者に貴重な砂金を渡すことはできません。京の貴族や武士らは、信用のおける商人にのみ、金の再鋳造を任せていました。「金屋」です。「金屋」に選ばれたのは、将軍家の武具の加工や、朝廷の装飾金具を手掛けていた彫金師の一族でした。有名なのは、室町将軍家の刀剣の装飾を代々担っていた、後藤家です。

彫金師の一族は、預かった金を一定の重量に揃えて加工し、その金に混ぜ物がない証明として、自らの名前を墨書きしました。このような金貨は「蛭藻金」や「譲葉金」、「竹流し金」などと呼ばれています。形状も、重さも製造した金屋によって異なります、この時代にまだ、幕府や朝廷による度量衡の基準が作られていなかったからです。

とはいえ、「金」が価値を持つと多くの人に認知され、取引されるようになったということは画期的なことでした。

金の重量単位を揃え始める

こうして16世紀になり、ようやく日本でも「金」が市場で売買されるようになりました。が、違う金屋が製造した金塊が複数種類混ざっていると、同じ価値基準でやりとりはできません。

商人たちは金の重さを都度計測し、場合によっては切断することで揃えて取引を行いました。銀と同じ扱いです。この時代の東アジアでの貨幣化された貴金属というのは、「そういうもの」と考えられていたため、基本的には誰一人この行為に不満をもつものはいなかったでしょう。

が、この行為を改める地域が誕生したため、日本の金取引事情が特殊化します。

それが甲斐(現在の山梨県)です。

甲斐の領主である武田氏は、平安時代に清和天皇の子息の臣籍降下で始まった清和源氏の一流・河内源氏の一門で、源義光を始祖としています。

応仁の乱後、甲斐は国人領主や守護代による派閥争いが頻発し武田氏の権威は失墜していましたが、18代武田信虎の時代には再興。甲斐統一へ向けて動き始めます。領内での鉱山開発にも着手。運よく、甲斐では金山が発見されたため、武田氏は大量の金を手にしました。この頃から武田氏は、産出した金を鋳造し、金塊を作成。この金塊に打刻を行い「甲州金」という領国内限定貨幣制度を作ったとされております。「甲州金」は現在確認されているなかでは、日本で初めて体系的に整備された計数貨幣制度とされています。

甲州金についてはよく、武田信玄(晴信)が制度化したと書いた本がありますが、史料上は信玄の時代よりも昔の16世紀初期から使われていたことが記録されてており、信虎の時代もしくは、それより前に甲斐一帯で、つくられたものでしょう。

甲州金の画期的だったところは、金の持つ価値を、金自体の重量でなく、表面に打刻した「額面」に依拠させたことでした。

武田氏は「甲州金」の製造を指定したいくつかの家にのみ許可しました。製造責任者は、指定された重量で「甲州金」を切り分けた上で、それぞれのインゴットの表面に、「重量」を文字で記載しました。この重量がそのまま甲州金の価値となりました。

初期の甲州金は、実際の重量と比例していましたが、やがて額面の重量と実際の重量は必ずしも一致しなくなってきました。甲斐の武田家に認められた家のみが作れる金貨ということで、信用を得た甲州金は、重量と額面がそろっていなくても、その重量と等しい価値として通用したからです。

その相場は、記された文字が
「1両」=「4分」=「16朱」=「64糸目」

と四進法で規定されていました。特に、戦国大名として勢力を伸ばした武田信玄の時代になると甲州金は大活躍したようで、家臣への論功行賞の手段として甲州金が支払われる場面が『甲陽軍鑑』には度々登場します。従来であれば、土地や官位で支払う必要があった褒賞を、領内で発掘できた金で、しかも実際の重量よりも少ない量の金で済ませることができたわけです。本来、山間の国であり、それほど豊かではなかった甲斐の武田氏が、戦国時代を代表するほどの強国になった裏にはこのような経済事情もあったとみてよいでしょう。

計数貨幣の強みは、貨幣の鑑定を行わないで売買に用いれることです。発行差益を得やすいというのもありますが、それ以上に重要なのが取引速度が上がるという事です。

コンビニでの支払いに、一回一回重量を計る秤量貨幣を用いるのと、今のような計数貨幣でお金を支払うのでしたら、どちらが早く多くのお客をさばけるでしょうか?考えるまでもなく計数貨幣であり、計数貨幣を用いるのは、経済活動を発展させる上で重要な要素なのです。

秤量にこだわった秀吉と武田氏の貨幣制度を採用した家康と

戦国大名たちは競うように自領内で金を使った貨幣の発行計画を考え実行しています。ですが、武田氏程革新的な制度を整えた大名は他に例を見ません。それは、天下人と比較しても、です。

戦国時代を平定し最終的な勝者となった豊臣秀吉は、金山奉行、銀山奉行を各地の鉱山に配置し、その利益を独占しようとしました。そのため、秀吉の手元には大量の金銀が集まり、その金銀を用いてたくさんの金貨銀貨が製造されました。有名なところですと、世界最大の金貨とされてきた(2007年にカナダで直径53センチの100万カナダドル金貨が発行された)『天正大判』があります。天正16(1588)年初鋳とされており、製造は、後藤家の後藤祐徳とされています。

天正大判は鋳造時期により、「天正菱大判」「天正長大判」「大仏大判」に分けられます。このうち「天正長大判」と「大仏大判」は後藤家五代目の後藤徳乗の書となっています。

本貨幣は、その大きさから実際の取引時に貨幣として使用するとあまりにも高額となり過ぎてしまい、かえって不便です。そのため、秀吉がこの大判を作らせたのは、あくまでも褒賞用としてであったと考えられています。もっともそれは、豊臣家が元気だった時代だけのことであり、江戸時代に1枚10両換算の慶長大判が登場すると、それにと同額の計数貨幣として使用されていたようです。

秀吉にとって、全国から産出されてくる金銀は、軍事物質調達や諸外国との貿易、土木工事に投下するためのものでした。これらを用いて貨幣制度を定着させようという意識はなかったようです。見栄っ張りで派手好きな性格であった秀吉は、金銀を配り歩いた伝説や記録が多数残っています。この配った金銀はいずれも、大判小判、あるいは銭や礫の形に加工されていたものだったようです。

秀吉の金貨の使用法で有名な例をいくつか挙げてみましょう。

天正10(1582)年6月、本能寺の変を聞いた秀吉は、備中高松城攻略の最中であったにもかかわらずさっと和睦。約230 km離れた京へわずか10日で全軍を移動させ、信長の跡目争いに参戦しました。いわゆる『中国大返し』です。この時、強行軍を行わなければならない兵たちの士気を保つため、秀吉は姫路城に備蓄してあった金銀を全て将兵へ分与したとされています。

天正13(1585)年、四国の大大名・長曾我部元親が秀吉の軍門に降ります。降伏後、大坂へ出仕してきた長曾我部元親父子に対し、秀吉は黄金百枚を下賜したそうです。この時、の黄金は大判であったようで、巨大な大判を見た長曾我部父子は、大層驚いたと記録されています。

天正15(1587)年3月、九州征伐のため秀吉自らが博多へと出陣します。この時秀吉は、金銭(金で作った銭)を紅の緒でまとめ、1貫ずつ5人の従者の肩にかけて持たせました。遠目からも、さらにそのほかの金銀を16頭の馬に積ませて見えるように誇示することで、人々に天下人秀吉の姿と圧倒的な財力を見せつけました。さらに、その金銀を戦地にまで持ち込むと、軍功のあったものに、手づから配り歩いたと伝わっています。

天正17(1589)年5月。九州平定を終えた秀吉は、聚楽第に金銀を積むと、豊臣政権を支えた諸将にこれらを配り歩いた。いわゆる派手好きで金遣いの荒い秀吉というイメージが付いた『金賦り』事件です。

これらからうかがい知れるのは、
①豊臣秀吉は金が貨幣として使用できる価値があることは当然理解していた。
②金屋を雇って貨幣の形に鋳造することも行っていた
③しかし、あくまでも権威付けや下賜品としての利用記録ばかり残っており、為政者として市中に金貨を普及させようと試みた形跡はない。

秀吉は太閤検地の例を見ればわかる通り経済面ではかなり優れた才覚を発揮しております。さらに、弟の豊臣秀長という、超絶経済官僚が側近にいたわけですから当時としては、かなり先進的な経済感覚を持っていたと考えられます。

そんな彼でも、金を貨幣として流通させるという発想までは至らなかったところに、日本国内で為政者による貨幣の発行は500年以上行われなかったという事実と、金が貴族階級に独占されてきたという歴史の重さがうかがえます。

同時に、金塊を貨幣として整備した武田氏の異端さが際立ちます。

秀吉がこのような形で金を配り歩いているころ、江戸へ移封された豊臣政権五大老筆頭の家康は、新たな城下町・江戸を建設していました。彼は、江戸で使用するための貨幣として甲斐の甲州金制度をまねたものを江戸で採用しようと試みました。

家康は、武田家を尊敬していた節があり、武田家の遺臣も数多く保護し、後には幕府の重役に次々と抜擢しています。

京から彫金師・後藤庄三郎光次を呼び寄せた家康は、「駿河墨書小判」「武蔵墨書小判」という江戸時代の小判のプロトタイプを鋳造させます。また、合わせて額面も甲州金と似せた、1両=4分=16朱という価格設定にしました。

甲州金における「1両」=「4分」=「16朱」=「64糸目」の糸目という単位は、排除されました。戦国時代末期、いわゆる安土桃山時代になってから家康が整備した金貨の制度が、以後、200年以上に渡り日本全国で使用されることとなります。

さて、では次回からは、秀吉・家康が発行した金銀貨を、詳細に紹介していこうと思います。


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