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大河ドラマから見る日本貨幣史5 『道三は何故、尾張の港をそんなに欲しがってるの!?』

 海洋国家である日本において、大きな港をもつことが有利であることは想像に固くないでしょう。だから、ドラマの中で斎藤道三が、港を欲して織田家と同盟を結ぼうとしたという展開は、美しい展開だと思います。

 ですが、美濃という国は絶望するほど交易に不利だったかというと、そんなことはありません。そもそも美濃には、後に中山道となる街道が通っており琵琶湖水運を用いるために東日本から陸路で運ばれてくる物資は必ずこの地を通っていました。おまけに京との結びつきも強く地理的にもそう遠くないため、他の戦国大名の領地と比較するとそれなりに有利ではあったのです。

 それでも、ドラマのなかで道三があそこまで海に憧れを抱いたのは、それだけ尾張の港・津島港が魅力的だったからです。津島という港が他国の港より有利だった点。それは、港のすぐ側に工業地帯があったことでした。

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 地図を見てみてください。津島の南、知多半島には常滑焼で知られる常滑が。東には瀬戸物で知られる瀬戸があります。

 そうです。津島港はこれら中部を代表する窯業地帯の製品を全国へ輸出するために用いられた港だったのです。どちらの焼き物も平安時代末期から鎌倉時代にかけて興った古窯です。特に常滑は日本六古窯にも数えられており、中世には1000基以上の窯が並んでいたと伝わっています。

 常滑焼の特徴は、なんといっても釉薬滴る巨大な甕です。このような瓶は常滑一帯でしか生産ができなかったようで、全国各地で発掘される甕はほとんどが常滑焼でした。発掘される数から見ても東日本に置ける中世の焼き物市場の寡占状態にあったといっても差し支えないでしょう。

 上杉謙信は、日本海側航路の丁度中間に当たる柏崎津と直江津を領有していましたが、この港にかけた関税は荷駄の1%でしたが、それだけで年間4万貫文(4000万文)を稼いでいました。現在の米の価格を1kg=550円で計算した場合、2つの港の関税だけで年約60億円をかせいでいたということです。

 津島港は、謙信の2つの港より栄えていたそうです。「太平洋側の航路」であり「日本有数の窯業地帯」を持ち「対岸には伊勢神宮」という環境ですから、当然と言えば当然でしょう。おそらく現在の価値で年30億円以上の関税収入を得ていたと考えられます。

 この港に最初に目を付けたのは信長の祖父にあたる織田信定でした。信定から港を受け継いだその息子信秀は、さらに津島港の開発を推し進めます。信長の家は織田大和守家に仕える家臣筋でしたが、信定・信秀親子の津島港の再開発によって得た収益で織田家当主の座へと上り詰めています。

 目と鼻の先でこのような巨大な港を見せつけられ、おまけにその収益で下克上を成し遂げた織田家というのは道山にとってさぞかし魅力的に映ったことでしょう。

 さらに、津島港は海沿いではなく、伊勢湾から一本入った長良川添いにあります。この川は美濃の山奥から流れ出ており、木材を運搬するのに最適でした。町の開発や城郭等での巨大建築が盛んとなった戦国時代から江戸時代初期にかけて、木材の価格は爆発的に上昇しています。実際、織田信秀の経済的な後ろ盾となっていた大橋重一という豪商は、木曽川を使った水運で財を成した人物です。美濃からの商品を売る際に、津島港での関税がなくなるだけで、美濃にとってどれだけプラスになるかということを道三は見越していたのかもしれません。

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