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日本の公鋳貨幣36『武蔵墨書小判』

徳川家康の貨幣制度……と前回のラストに宣言をしたわけですが、せっかくですから徳川家康がオリジナルの(まあ、多分に武田家の甲州金制度のパクリではあるのですが)貨幣制度を作る前にどのような動きをしていたかについて、解説を行っておきたいと思います。

前回に引き続き、また一般的な歴史の本には掲載されない貨幣の紹介となります。何故わざわざそんな貨幣を、紹介するのかと思われるかもしれませんが、これらの貨幣にこそ、家康の貨幣制度の成功の理由がはっきりと表れているのです。

江戸という土地の再開発

天正18(1590)年、小田原征伐の褒賞として、豊臣秀吉より関八州を与えられた徳川家康は、本拠地を江戸城へと定めます。

一昔前の歴史の本ですと、『関東はすすきの生い茂る寒村で……』と書かれていることが多かったのですが、最近この描写は、後世の人が家康を持ち上げるために創作したものと考えられています。実際には、穏やかな江戸湾を通じた海上交易の中継拠点であり、ある程度の規模の港町として栄えいたようです。

家康が入城した江戸城は、室町時代後期において不敗を誇った名将・太田道灌が本拠地として築いた由緒正しき城です。道灌なきあとも、港としての立地が人を呼び寄せていたと考えられています。

家康は、江戸の町の将来性に着目します。江戸湾には様々な河川が流れ込んでいたので、船を使って関東平野の奥地まで水運が使えましたし、小田原や鎌倉のように町のすぐ背に山がないため、整地を行えばどこまでも町を広げていくことができるはずでした。

家康は江戸のインフラ整備に取り掛かります。大量の資金が必要となりますので、家康は自国領内でのみ通用する貨幣制度の整備を行いました。経済の発展並びに資金調達のための貨幣調達でしたので、秀吉の天正大判とは異なり、庶民も普段から使える額面と形状である必要がありました。ですが、できることならすぐにでも財政出動に使える程度の金額は保証したい。そこで家康が構想したのが、一両という額面を主軸とした金貨の制度です。

家康はまず、秀吉の下で天正大判を鋳造していた京の彫金師・後藤徳乗へ、「江戸へ下向して金貨を作ってくれないか」という依頼を行います。ですが徳乗は高齢を理由にこれを断りました。代わりに、弟子の中でもっとも出来がよかった橋本庄三郎に後藤姓と光次という名を与え、自らの名代として江戸へ派遣しました。文禄2(1593)年、庄三郎は家康と接見し、家康の貨幣構想を聞かされたと考えられています。

庄三郎とともに江戸へ派遣された徳乗の弟・七兵衛が病気で帰京すると、家康の貨幣鋳造は一手に庄三郎が引き受けることになります。

さて、通説では後藤庄三郎光次が家康のために初めて貨幣を鋳造したのは、文禄4(1595)年とされています。ですが、その他の資料の記録を見ると庄三郎が家康に直接召し抱えられて貨幣鋳造の責任者となった時期は文禄5(1596)年となっており、はっきりとしていません。とにかく、この時代に江戸を中心とした家康の貨幣制度がはじまりました。

大量製造ができなかった武蔵墨書小判

最初に後藤庄三郎光次が家康のために発行した金貨が、「武蔵墨書小判」です。

秀吉の天正大判を形状の参考とし、楕円形に固めた金塊の表面に、「槌目」を入れております。表面の中央に「壱両」という額面と、鋳造責任者である「光次」の名、そして光次の花押が書かれています。その右側には通用地を示す「武蔵」の文字が、書かれています。これらの文字の上部には後藤家の鋳造であることを示す扇枠に囲まれた「五三の桐紋」が打たれています。

表面の文字は、桐紋以外は、すべて墨書きだったことが最大の特徴です。

武蔵墨書小判(表)

また、裏面には光次の花押が極印で打刻されています。

武蔵墨書小判には、丸みの強い楕円形のものと、長細い楕円形のものと2種類が見つかっていますが、二種類とも、記されている文字や極印に差異はなく墨書です

量目は4匁8分。約18gといったところでしょうか。金の品位は880/1000と伝わります。

この小判がどのくらいの量鋳造され、どの程度流通したかという記録は残っていません。ですが、後に発行される小判と比較して決定的に違うある一点に置いて、高範囲での流通は不可能であったと考えられています。

それは、本貨幣の額面が「墨書」されていたことです。

後に、正式に江戸幕府が発行した慶長小判と比較してみると分かりやすいです。天下統一後、全国に統一した貨幣制度を根付かせようとした家康は、文字を打刻する方式を採用しています。


慶長小判

墨書をするということは、1枚ずつ出来上がった小判に、能書家が筆で文字を書いていたということです。当然、一日に製造できる枚数に限界が生じてしまいます。

対して打刻はどうでしょう。別に能書家でなかったとしても、型と金槌さえあれば、誰であっても同じ形式の文字をに打ち込むことができます。

家康は、秀吉の天正大判のような墨書形式では、庶民の手元に十分に金貨が回るほど大量生産ができないということを、武蔵墨書小判の鋳造により学んだと推察されています。

慶長5(1600)年には、この推測を裏付けるような小判も鋳造しています。いわゆる「慶長古鋳小判」と呼ばれているものです。

長楕円形の小判で、表面中央には「壱両」、「光次」の文字と、光次の「花押」。その上下に扇枠に囲まれた「五三の桐」の紋。裏面には、表面とは違う形の「花押」が全て“打刻”されていますが、表面の処理が天正小判→武蔵墨書小判と続いていた「槌目」となっています。

この翌年から正式に江戸幕府が発行することになる慶長小判は、「槌」ではなく、「鏨」を用いて「鏨目」と呼ばれる表面加工を行っておりますので、ちょうど、武蔵墨書小判と慶長小判の間に鋳造された試鋳貨なのでしょう。


慶長古鋳小判(表)


慶長古鋳小判(裏)

後藤庄三郎光次と組み、金貨を中心とした貨幣制度の整備を始めること10年で、家康は、打刻による金貨の大量生産という方式にたどり着きました。関ヶ原の合戦に勝利し、実質的に天下人となった慶長6年からは、正式に全国流通の小判である慶長小判の発行を始めます。

この金貨は、銀貨に先行すること10年もの試験期間があったため、慶長銀貨の普及に比して、かなり素早く全国に流通しています。この成功体験は、徳川幕府がこの後、金貨を特に重視した理由のひとつなのかもしれませんね。

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