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大河ドラマから見る日本貨幣史4『中世日本の金融を支配した延暦寺』

『麒麟がくる』第一話の衝撃は未だに忘れられません。美濃から琵琶湖を渡り京へ入る光秀が歩んだ旅路が、中世の日本社会を極めてリアルに描写していたからです。

特に、琵琶湖後に描かれた、僧兵が関銭を払えない庶民を捕え暴行を加えている描写は、なかなか今までのドラマでは描ききれなかった所です。琵琶湖を抜けた場面でしたので、あの場面で暴行をふるっていた僧兵集団は比叡山延暦寺の僧兵でしょう。街道沿いであることを考えると、恐らく坂本(現在の滋賀県大津市)の町で暮らす延暦寺末寺の僧兵か日吉大社の神人です。

坂本は、後に明智光秀が滅ぼし治める町ですね。

中世の延暦寺が腐敗していたということは、よく知られているかと思いますが、その腐敗を支えた坂本の日吉大社についてはあまり知られていません。延暦寺と日吉大社の関連を知れば、中世日本の金の流れはほとんど理解できるといっても過言ではないのです。

そもそも、延暦寺とはどういうお寺なのでしょう。延暦7(788)年に開山した天台宗の総本山で、開基は伝教大師・最澄……というのは教科書で習うことです。ですが、延暦寺が開かれるより前に神社があったことは余り知られていません。元々、比叡山に祀られていたのは大己貴(おおなむち)神でした。都が平安京へ遷都されるにあたり、たまたま京の北東にあたったこの神社は、鬼門を守る災難除けの社として、貴族から尊崇を集めます。そのため最澄も延暦寺を開く際に、その力で寺を守って貰おうと考えました。

ですが、延暦寺は仏教で日吉神社は神道と異なる宗教です。おまけに最澄は、国費で唐へわたり国家のために仏教を広めることを義務づけられた僧でしたので、仏教が神道に守られるという形を取ることが政治的な理由でできませんでした。そこで現在の日吉大社を山の麓へ創建させ、そこで大己貴神を山王権現の名前て祀ったのです。権現とは、仏が神に姿を変えた際に与えられる神号です。つまり最澄は「延暦寺と仏法を守って下さい土地神様!でも、神様よりも仏様の方が偉いんですよ。ほら、だって大己貴神は仏様の別の姿ですから」という横車を押したわけです。ちなみに山王権現は釈迦の別の姿とされています。

こうして、守られる立場が守る立場よりも偉いという両者の歪な関係が誕生しました。なぜ神社側がこの関係に甘んじていたかというと、その方が都合がよかったからです。最澄という人は天才ではあるのですが、良くも悪くも根本は普通の人でした。彼が唐で学んだ天台宗は、密教という教えです。密教とは、読んで字のごとく「秘密」の教えでして、解脱に至るまでの道を、修行をした一部の人の間でしか共有しませんでした。

暗号のような言葉を使い怪しげな儀式を施す密教は平安時代に一種のオカルトブームを起こし貴族の間で大流行をするのですが、あまりにも教えが難解なため、ただ経典を読むだけでは理解をすることができない代物でした。

最澄と共に唐へ渡り、後に真言宗を興した空海は本物の天才でした。彼は密教の難解な教えを完璧に理解し、体得していたと伝わっています。ですが、融通は利きませんでした。密教は本気で学び体にしみ込ませなければ体得できません。そのため「ちょっと生活が苦しくて救われたいな」「すこしだけ仏にすがって泣きたい」という人には、教えすらしませんでした。

ですが、最澄はそのような普通の人にこそ仏の教えが必要なのではないかと考え、噛み砕いた密教を提案してみたり、中国からさらに判りやすくなった経典を輸入したりという活動を続けていました。そのため延暦寺と天台宗は仏教の大学のような存在となったのです。日本の主要な仏教宗派の開祖のほとんどが、延暦寺出身です。必然的に、密教ブームが去った後も貴族や武士が帰依しやすいのは天台宗となりました。

貴族の子弟や皇族の末席などが、次々と延暦寺へ入山し僧となりました。すると、朝廷や貴族は彼らの生活費として現在の仕送り感覚で各地の荘園を延暦寺へ寄進しました。こうした荘園からの収益は、土地神のため坂本周辺にしか荘園をもたなかった日吉大社よりも莫大でした。

また、庶民にも判りやすい仏教を目指した天台宗は信者を増やし、その寺院は全国各地に作られていきました。すると天台宗の守護神とされた日吉大社の末社も、末寺を守るべく全国各地につくる必要ができました。幸いなことに神道では神を「分霊」し魂を分けることができます。本来坂本周辺にしか氏子を持てない日吉大社は、全国に信者をもつようになったのです。ちなみに、山王権現をまつる日吉大社の末社は、「日吉神社」「山王神社」「日枝神社」の名称で、日本中のあらゆる自治体に残っています。あなたの近所にも、同名の神社があるのではないでしょうか?

しかし朝廷が没落していくなかで、貴族からの支援が滞り始めました。そこで延暦寺は、寺社の運営を円滑に行うため、9世紀末から荘園の年貢を原資とした金貸しを始めました。その年利は48〜72%。貸せば貸しただけ金が増える状態となりました。やがて貴族の荘園は武士により削り取られていきましたが、神と仏の権威を背景に荘園を守り、さらに貸金で経営地盤を盤石とした延暦寺は、莫大な富を保ったまま中世を迎えたのです。すると、生活に困った貴族や武士などが、今度は延暦寺に支援を申し込むようになります。金は腐るほどあるわけですから、延暦寺はこれに応じ金を貸し、ますます収入を得ました。

金儲けの楽しさを知った延暦寺は、さらなる融資先を探すようになります。比叡山上の寺は、高貴な身分の人としか付き合いがないため融資先は限られました。そこで利用したのが、山麓の坂本にある末寺や日吉大社の神人でした。神人とは、神社に隷属し、雑役などを行った下級神職・寄人のことです。延暦寺から、さらなる融資先を探せと言われた神人は、全国にある日吉大社の分社へ行商人の姿を借り足を運び、そこで暮らす庶民に借金の営業を始めました。現在、町の中で見かけるリボ払いカードの営業所のような業務を神社が行っていたのです。もちろん年利はめちゃくちゃなままでした。

ちなみに、室町時代に頻繁に一揆の攻撃対象となった貸金業者の酒屋と土倉ですが、彼らも日吉大社の神人組織に所属しています。神人には年貢の減免などの優遇があったためです。こうして戦国時代を迎える頃には、京都にあった貸金業者の8割が比叡山の系列団体で固められていました。元々、朝廷への強訴や、防衛のために組織された軍事組織であった僧兵も、中世になると借金の取り立てに暴力を振るうようになりました。ここまで腐敗すると、戦国時代には延暦寺にまともな僧侶はほとんど残っていません。山の上の寺院は荒廃し、麓の町では僧侶が酒を飲み、妻をめとり、賭博に興じるという状況だったのです。

ドラマのクライマックスのひとつであろう光秀による延暦寺の焼き討ちは、このような事実を知っていると見方が大きく変わってくるかと思います。良くも悪くも信長が宗教権威を潰したため、日本の金融はまともに機能するようになったのですから。

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