大河ドラマから見る日本貨幣史3 『今宮神社とお団子と双六と』

本日の麒麟がくるで駒が連れていかれたお団子屋さんですが、場所は京都府北区にある今宮神社の前ですね。

http://www.imamiyajinja.org/ (今宮神社公式サイト)

独特の形のお団子に「戦国時代のお団子はあんな形をしていたんだ」と感想を持たれた方もいるかと思いますが、あれはここでしか買えない「あぶり餅」というお団子です。平安時代から伝わる由緒正しいお団子で、今でも今宮神社に行けば食べることができます。今調べたところ現在は13本入りで500円だそうです。団子はもともと神饌として日本では用いられていたようですが、室町時代ごろにお茶の文化とともにお菓子として発展し、庶民も食べだしたようですね。

あぶり餅の室町時代から戦国時代にかけての値段を調べたのですが、史料が出てきませんでした。これは領収書にお菓子代と書くのと一緒で、公式記録などには「会中講菓子」と記されてしまっているからです。(室町時代ごろまで、帳簿をつけるのは大商人か寺社、公家や武家に限られます……。)

さて、今回は望月東庵先生が「織田信秀に10貫文の銭を双六でふんだくられた」というエピソードがさらりと出てきますので、日本人と双六についてのお話を。

双六というとお正月などにみんなで集まって遊ぶボードゲームのイメージが強いですが、あれは厳密には「絵双六」というものでして、江戸時代以降に発展したものです。日本人が古くから愛していた双六は「盤双六」といいます。東庵先生が縁側で眺めている盤がゲーム用のボードですね。盤双六のルールですが……現在のバックギャモンを思い浮かべるとわかりやすいかと思います。一対一のサイコロをつかった対戦ゲームなんですね。

日本への伝来は7世紀で、伝来して早々、689年に持統天皇(聖徳太子の時代の女性天王ですね)が禁止をしました。というの伝来した段階で盤双六が賭博の道具として使われていたからです。奈良・平安時代には貴族から庶民まで没頭し、希少な品々を賭けて破産するものも多く現れました。そのため、朝廷は平安時代まで定期的に双六の禁止令を出しています。なぜ貴族の遊びが庶民にまで広がったかといいますと、都で暮らす庶民というのは、何らかの形で貴族の屋敷に仕えていますので、双六のような遊びを覚えていったのです。

賭博としての双六は、政権が武士に移った後も途切れることはなく常に人心を惑わす社会問題として取り締まりの対象となっておりました。東庵先生が子どもに双六を教えていると怒られていたのは、こういった背景があるからです。

では信秀にふんだくられた10貫文の銭とはおいくらなのでしょう。1貫文とは1000文のことです。つまり10貫文とは1万文のことをさします(※1)。前回の計算で当時の1文は約150円だろうと出しましたので10貫文とはなんと150万円になります。参考ですが、戦国時代に足軽として参戦した農民がもらう給料は1年間におよそ1貫500文と言われています。私はこの数字の原典となった史料を見ていないし、そもそもこの説には懐疑的ではあるのですが、もし命を懸けて戦う兵士が1年間に22万5000円しかもらえないとすると、東庵先生の博打狂いっぷりがよくわかるかと思います。

それと同時に、貴族にも名を知られる名医・東庵先生が、実はめちゃくちゃ裕福だったということもわかってきますね。


※1

1貫文を1000文と解説しましたが、1000枚の銭とは言い切れません。というのは、東アジアには短陌(省陌とも)と呼ばれる文化があったからです。1貫文をつくるには、銭を100枚紐で通した「銭さし」を10個つなげる必要があります。この、銭を紐でまとめるという作業の手間賃なのか、紐でくくった場合のみ97枚で100文と認める文化があったのです。(何枚を百文にするのかは、時代や地域によって異なります)

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