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ヤンキーに襲われて柔道を使った でもボコボコにされた それで…

ストリートファイト

高校卒業後、大学に入学しましたが事情により1年で中退し、その後、期するところがあり19歳で海上自衛隊に入隊しました。

海上自衛隊に入って「地獄の訓練」と言われる教育訓練が終わると実施部隊に配属されます。

その実施部隊の課業終了後、友達と二人で町に出かけた時のことです。二人で夕暮れ時の人がいない公園でたたずんでいると、どこからか5、6人のヤンキー風の連中がやってきて私たち二人の腕を抱えて公園の外に連れ出そうとしたのです。私は、友達に「逃げろー!」と叫びました。その時、そのヤンキーの内の一人が私の襟をつかみ、もう一方の手で殴りかかってきました。

私は、薄暗い中で相手のパンチがよく見えなかったことと、柔道では喧嘩のような荒っぽい練習をしていましたが、殴る蹴るに対する練習はやっていないので、反射的によけることができずに、そのパンチをモロに顔面に喰らいました。それで、思わず頭に来て、瞬間的に相手の襟と袖をつかんで、柔道の「支釣り込み足」という技で相手を放り投げ地面に叩きつけました。

すると、その仲間5、6人がウワーッと一斉に駆け寄って来て、私は殴る蹴るのボコボコ状態にされましたが、近隣の人が通報したのか、すぐにパトカーがやってきました。ヤンキー風の連中は一人残らず逃げてゆきました。私と友達だけがその場に残ったので、パトカーに乗せられて警察署に連れて行かれました。そこでは、私たちは暴行被害者であるにもかかわらず、犯人扱いのような取り調べを受けて憤慨しました。後から聞いた話では、基本的に警察は喧嘩両成敗ということで取り調べを行うので、犯人のような取り扱いを受けたわけです。(喧嘩ではなく正当防衛だったのですが…)

ストリートファイトの反省

こんな経験は、もう二度としたくないと思い一人反省しました。 
まず、なぜこんな目にあったのか。列挙すると次の通りです。

・夕暮れ時の人の気配のない所に友達と二人だけでいた。
・ヤンキー風の連中が5、6人も近づいて来たのに気がつかなかった。
・その日に限って踵の高い靴を履いていたので、自由に動けなかった。踵の低い靴で、かつ運動靴を履いていたらあと2、3人あるいは全員投げ飛ばしていたかもしれない…私の「喧嘩柔道」なら😄
・柔道では、相手の殴る蹴る、武器を持っての攻撃、多人数での攻撃に対処するのは難しい。
・相手が武器を持っていなかったのが不幸中の幸いであった。
・一人だったら逃げられたかもしれない。二人以上の時は逃げるのが難しいので戦うしかない。しかし、相手が武器を持っていたら対処が難しい。

以上のことを考えたら、対打撃、対武器、対多人数でも対応できる武道・武術・護身術を身につけるしかないと、未熟な頭で考えました。

色々調べたところ、「合気道」が、それらの攻撃に対処できる武道であることがわかりました。

合気道の道場を探す

それで、「命のやり取りを前提とした」武道としての合気道の道場を探すことにしました。あちこち探し回りました。近くにはなかったので、電車で1、2時間もかかる所にある合気道の道場にも行きましたが、どこも武道・武術・護身術としての合気道ではありませんでした。

探していた合気道の道場に巡り合う

月日が流れ、あのストリートファイトから1、2年経った頃でした。地元の地方新聞に合気道道場開設の広告が出ました。コレです:

文字通り、武術・護身術の道場といった趣きの広告文です。それも私が勤務している自衛隊基地のすぐ近くに新しく開設された道場です。

指導者は戦前の合気道の師範代で、海軍大学校や憲兵隊で軍人に実戦的な合気道を教えた猛者であり、合気道創始者の植芝盛平翁の戦前の内弟子だった経歴を持つ人物です。

この新聞広告を見る限りでは私の探していた合気道の道場であり、指導者のようです。そこで新聞の広告を見た翌日にその道場を訪ねました。

その道場の玄関には、「植芝流合気道館山支部道場」という大きな看板がかかっていました。事前に道場を訪ねる旨の電話をしていたので、その合気道の先生は待っていてくれました。そこに居たのは道着と袴に身を包んだ70歳前後の老人でした。背はそんなに高くなく、どっしりとした体格です。いかにも武道家という風格を醸し出していました。

道場に上がり、その先生のお話を伺い、実際に合気道の技をかけてもらったりしました。その結果、その道場と指導者が希望通りであったので、即日入門しました。

合気道漬けの毎日

入門してからは、これで武術・護身術としての合気道が習えるという幸せな気分でした。それから「合気道漬け」の日々が始まったのです。

その道場は休みなしで週7日間開いていました。しかし、私は自衛官で、その頃は基地に一日当直して、次の日は課業終了後に外出が出来ましたので、道場には1日置きに通っていました。

基地内に剣道場と柔道場があったので、当直で道場に通えない日は、課業終了後にそこで一人稽古をしていました。3時間は稽古しました。休日には1日6時間稽古しました。

道場での稽古

どんな稽古かというと、まず準備運動代わりに木剣による素振りを10分くらいします。その後、二人一組になって座っての呼吸力(気力)養成のための技を交互に行い、その後座り技を何種類か行います。その際は、技を施す前に必ず当身を入れます。

関節を取ったまま相手を床に這わせるようにして技を極める場合は先生から「相手を箒だと思って、相手の鼻で畳を掃くようにしなさい」とよく言われました。荒っぽい教え方でした。

関節技を施した時には相手に逃げられないようにするためにその関節を壊すようなやり方も教わりました。もちろん稽古においては壊しませんが、ギリギリのところで止めます。

女子が男子を相手に稽古するときは、道場長から女子に対して「絶対に手を抜くな、全力で相手を倒すこと」という指示があり、男子は受け身をしても後頭部を打つこともありました。だから怖かったです、女子を相手に稽古するのが…(戦前の合気道の技は、本来的に受け身ができないように作られているとも言われているようですが…だから全力で投げられたら危険です、いくら女子であっても…)

稽古の最後には、立って呼吸力養成法を行います。これは片手を相手に両手で力一杯に持ってもらい、それを挙げる稽古です。呼吸力が身につくと稽古のときに相手に力一杯持たれても平気で技を施すことができるようになります。

昇段

「地獄道場」での稽古が1年を迎えた頃、同じ時期に入門した道場生は初段に昇段しました。私だけは初段を飛び越えて、いきなり二段に昇段しました。

私の場合は、道場で稽古出来ないときは、基地内で例の一回3時間、休日は6時間の「地獄の一人稽古」および8ミリ映写機を使っての「見取り稽古」をしてましたので、道場長はそれも加味しての飛び級の昇段だったようです。

「見取り稽古」は、当時は今のようにビデオなどありませんでしたから8ミリ映写機で、達人クラスの、それも戦前派かそれに近い合気道師範の演武の8ミリフィルムを何千回と見て、それを目に焼き付けました。これが私の「見取り稽古」です。これは合気道的センスを身につける効果があったと思います。

二段になって9ヶ月後のある日、道場で先生から突然「今から三段の昇段審査をするから」と言われ、あまりに急なことなのでちょっとドギマギしましたが、無事昇段審査を終えて三段を授与されることになりました。

入門して一年9ヶ月での三段昇段は異例なことだそうです。三段を取るのに早くて7年、普通で10年以上はかかるそうです。

道場長の急逝

三段を取って、順風満帆と思っていた矢先、道場長が亡くなったのです。突然のことで、道場生は皆驚きと悲しみで落胆しました。私などは、あと数ヶ月で自衛隊を退職する時期を迎え、退職後は合気道の専門家にでもなろうかと思っていたので、その支えになる人を失って茫然自失という感じでした。

帽振れー!

道場長が亡くなられたのが12月8日の終戦記念日でした。それから4ヶ月後の4月1日が私の自衛隊退職日でした。その日は、正門の前に在隊自衛官が集合し、退職する自衛官に対して、別れの儀式である「帽振れー!」が行われました。私が正門を出るときに大勢の自衛官が、軍艦マーチをBGMにして被っている帽子を取り、「帽振れー!」を行ってくれました。

正門を出て後を振り向くと、東京湾の向こうには雪を被った美しい富士山が見えていました。

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