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やっと、4回目、上京して通ったのは英語の専門学校。

8回に渡って人生を振り返るつもりで書き始めやっと4回目です。

今日は英語の専門学校に通った2年間について振り返ります。

学校と提携しているホテルのレストランで、朝食の時間帯だけアルバイトをして、2時間目から授業を受けるというクラスに入りました。ホテルの寮に入れて、外国人のお客様が多く、英語の勉強にもなるということで、これしかないと思って選考試験を受け無事合格。普通のクラスなら推薦入学でいけたのですが、アルバイトクラスは試験がありました。

寮と言っても、早朝の出勤が可能な、ホテルが借りていた都心のマンションの数部屋で、私は先輩2人と3DKの部屋を使うことになりました。お給料も少しもらえて、住む場所も確保できて、仕送りを最小限にできたのは良かったと思っていましたが、窓のない四畳半の部屋と、違いすぎる水と空気、環境と食生活の変化のせいで、アトピー性皮膚炎を発症しました。ストレスや過労が皮膚に出るということが分かってきたのはもっと歳をとってからでしたが、この時が最初でした。

仕事は覚えるまでは大変でしたが、接客は向いてたようで苦にならず、同じレストランで働いていた、ホテルに就職した同期ともだんだん仲良くなりました。オーダーを間違えてシェフに叱られたり、洗い場のおばさまたちに可愛がってもらったり、大人の世界の入り口から社会を少し覗いているような感覚でした。ホテルに就職した同期の一人とは今でも親友で、何かあればお互いを励まし合って、節目節目に連絡を取り合って、ずっと刺激を与えてくれる存在です。

平日は起床は5時で、宿題も山程あったので、学校の後に遊びに行くことなどはほとんどなく、部屋にはテレビもなく、レコードをレンタルしてカセットに落として聴くくらいしかなかったけれど、毎日充実していました。駅前にあったYou&Iというレコードレンタル屋さんをよく利用していました。スティングとか、シンプリー・レッドとか、マドンナやシンディ・ローパーをよく聴いていました。

英語を読む、書く、聞く、話すを毎日毎日繰り返していると、ある日急に先生が言っていることがほとんどわかるようになります。アメリカ英語とイギリス英語の違いも聞き分けられるようになって、洋楽を聴く時には歌詞の意味がわかり、映画を観るときには字幕と、実際のセリフの違いを楽しめるようにもなってきます。そうしてだんだんと自分の世界が広がっていくような気になっていきました。難しかったのは話す方で、英語を話すことはできても、英語で話す事がないという、自分の経験不足や知識不足を痛いほど感じていました。休み時間に先生と話したりしても、自分の意見を言えるほど、強い思いもなければ、語彙も足りなくて、もどかしい思いをしました。

当時は映画をたくさん観ていました。新作映画もたまには観ましたが、たいていは名画座の3本立てで、多い時には週に8本観たこともありました。「スタンド・バイ・ミー」のリバー・フェニックスと、「アナザー・カントリー」のルパート・エヴェレットが大好きでした。当時の興行収入のランキングを見ると20位までの半分は観てました。邦画より洋画でした。映画の仕事にも興味がありました。

「狼たちへの伝言」を皮切りに、落合信彦さんの本を読みまくって、卒業したら海外で働きたいな。と思い始めました。当然英語圏での就職を予定していたのですが、ある映画に出会ったことで、どうしてもイタリアに行きたくなりました。「眺めのいい部屋」です。後でよく考えると、イタリアのシーンはごく一部だし、そもそもイギリス人が主人公のイギリス映画なのに、フィレンツェの街並みや、イタリア語やイタリア人に強烈に魅せられてしまいました。就職活動はイタリアで働ける仕事だけを探しました。そのあともマルチェロ・マストロヤンニとジャック・レモン共演の「マカロニ」や高倉健さん主演の「海へ see you」を観てはイタリアに想いを馳せました。高倉健さんはこの映画から好きになりました。去年一番最後の主演映画「あなたへ」もWOWOWで観ましたが、最後までかっこよかった。

当時はバブル真っ只中。同じホテルでアルバイトをしている大学生に誘われて、一度だけディスコに行きましたが、どうやって踊ればいいのかわからなかったし、格好も、ボディコンの服なんて持ってなかったから、完全に浮いてしまって、何にも楽しくなかったのをよく覚えています。

ひたすらバイトと英語と映画と読書の2年間でしたが、支えてくれた人がいました。高校3年生の時からつきあっていたサッカー部の同級生です。予備校に通いながら、バイトの合間やお休みの日には、映画やビリヤードにつき合ってくれました。ファミレスで少し話を聞いてもらえるだけでも救われていたことに当時は気づいていなくて、わざわざ東京で予備校に通わなくてもいいのでは?と思っていたけれど、ホームシックにならずに頑張れたのは彼の存在がとても大きかったとずっと後になって気づきました。

イタリアでの仕事の選択肢がいくつかあって、どこを選ぶか迷っていた時、地下鉄でちょうど読んでいた本の中に、本当に必要なことはちゃんと見つかるし、あらゆる偶然は必然なのだということが書いてあって、ほう。と思って顔を上げると、斜め前に知り合いの写真家が乗っていました。知り合いといっても、その人のイタリアの写真の展覧会に少し前に行ったというだけでしたが、この偶然が必然か!と思いその人に意見を聞きました。間違いなくここがいい。と言われた会社は、もう一人、東京での保証人のような存在で父の中学の同級生のご夫婦にも勧められた会社でした。

ということで、その会社のイタリアの支店の入社試験を受けに行きました。68人が受けて、2人が採用されるという微妙な倍率でしたが、英語の試験と2回の面接を経て無事に合格することができました。就職活動はこれしかしなかったのでスーツすら買わずに済んでしまいました。

最後の面談での、国際事業部の偉い人とのやり取りは今でも覚えていますが、血液型を聞かれて、「B型です」と答えると、「じゃ、大丈夫だね。」と。少し前に採用したA型の人が、イタリアになじめずにすぐに帰国してしまったということで、この時私と一緒に受かったもう一人もB型でした。今は面接で血液型なんて聞いてはいけないのかも知れませんが、当時は普通だった気がします。

英語の専門学校では第二外国語としてフランス語は学んでいましたが、イタリア語は全く分からなかったので、受かってから勉強し始めました。両親はさすがに心配しましたが、東京にいてもイタリアにいても危険はあるし、自分が気を付ければ同じことだと説得しました。最後には、父が、寂しくなったら空を見上げれば、空はつながっているからと言って送り出してくれました。つき合っていた人には「どうしてそんなにアンビシャスなの?」と嘆かれましたが、どうしてもイタリアに行きたかったので仕方なかった。ここまで一貫して自己中心的な人生です。

長くなりましたが最後まで読んでくださってありがとうございます。次回イタリアでの2年間に続きます。

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