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きっと些細なことで笑顔になれる

大学生になった私は、近所のお寿司屋さんでアルバイトを始めた。
18歳の何も知らなかった私は、ここで生まれて初めて「働く」ということを経験し、働くことの大変さや喜びを学ぶこととなった。

これはそんな私にとっての《働いて笑顔になれた》話だ。

私がアルバイトを始めて最初に覚えたことは「かしこまりました」という言葉だった。
接客業をする上で、働く上で、今では当たり前のように毎日使っているこの言葉さえも当時の私は知らなかった。そのため、初めは注文一つ取るにも手こずったことを今でも覚えている。
私の「働く」はこうしてスタートした。

そんな私も季節が変わるごとに少しずつ出来ることが増えていき、ようやく一人前と認めてもらえるようになっていった。

それでも一つだけずっと苦手に感じていることがあった。それは常連客に中々名前を覚えてもらえないことだった。
そこは常連客が多い店で、顔なじみになると店員のことを名前で呼ぶお客さんが多かった。中々常連のお客さんと上手くコミュニケーションを取れずにいた私は名前を覚えてもらえず、「もんちゃん」ではなく、いつも「すみません」と呼ばれた。

注文はスムーズに取れるのに、それ以上のコミュニケーションを取るのは苦手なままだった。お客さんと何を話したらいいかも、話しかけられた時に先輩たちみたいにどうしたら気の利いた返し方になるのか分からず、焦ってしまった。その度に居心地悪く感じた。
接客業ではないバイトに変えようかと悩んだことも度々あった。他のバイトを経験したりもしたが、それでも寿司屋でのバイトは辞めずに続けた。

そして私は大学4年生になった。
そんなある冬の日、夫婦らしきお客さんが店にやってきた。
そのお客さんが帰り後付けをしている時に、携帯を忘れていることに気が付いた。
「今ならまだ間に合うかもしれない」そう思って迷いなく店を飛び出したが、姿はもうなかった。右か左かどっちに行ったかも分からなかったが、無我夢中で辺りを探した。するとそのお客さんらしき人を見つけることが出来た。
ダッシュで追いかけ、忘れていた携帯を差し出した。すると
「こんな遠くまでわざわざ届けてくれたの!とっても助かったわ、ありがとう」
そう言い、携帯を受け取ってくれた。

私としては当たり前のことをしたまでだったが、すごく喜んでくれたことが何よりも嬉しかった。その日はとても寒かったが、そんなこと感じないくらい気持ちは暖かくなった。

するとそれをきっかけに、そのお客さんは度々お店に来てくれるようになった。来る度にいつも私に声をかけてくれ、いつしか顔なじみになり、その日のおすすめから世間話までするようになった。
 
4年かかったが自分をきっかけに来てくれるようになったお客さんが出来たこと、お客さんと些細な会話を楽しめるようになれたこと。
それは私にとって一番の喜びとなった。

3月の大学卒業が近づいたある日、ふとした会話からもうすぐ就職のためバイトを辞める話をした。

そして迎えた私にとって最後のアルバイトの日。
その日もそのお客さんは来てくれた。

最終日にどうしても来たかったの。
あの日、本当にありがとうと最後にもう一度伝えたくて。
寒い中、半袖で店からあんなに離れた所まで走って届けてくれたね。
本当に助かったのよ。
もんちゃんみたいな人が入社してくれる会社は幸せね。
応援してるから頑張ってね。

そう言って可愛い箱にに入ったチョコレートを餞別としてくれた。

自分では当たり前のことだったが誰かの役に立てたこと、
また来たいと思ってくれたこと
あなたみたいな人が入社してくれる会社は幸せね
それは自分が必要とされている実感するには十分な一言だった。

楽しかった日も上手く出来ず悩んだ日も色んなことがあったけど、4年間ここで働けて良かったと心から実感できた。

きっと大きなことじゃなくていい。
お客さんだったり一緒に働く誰かにとって、喜んでもらえたり、誰かの役に立てたりすること、例えそれが些細なことでも働くことの喜びは感じられると思った。

苦手なことがあったっていい。全部出来なくたっていい。誰かと比べずに自分に出来ることを一生懸命やること。些細なことでも誰かの役に立てること。それで十分なんだと思えた。
それに気付いた時、初めて働く経験をさせてもらったその場所で、私は心の底から働いて笑顔になれた瞬間だった。

桜が咲く季節になると毎年ふと思い出す。
社会人になってからも何度もやめたいと思うことも、理不尽なことも沢山経験した。自分がやっている仕事に意味を見出せなくて、何しているんだろうと自信が持てなくなる時もあった。

そんな時にこの言葉をふと思い出しては度々救われた。
そして勇気をもらっては、「よし!些細なことを一つずつやっていこう」と今日も前を向いていく。