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えんそくべんとう

保育園に迎えに行った僕は、娘に聞いた。
「おべんとう、ぜんぶ食べた?」

それを聞いた娘の顔から、笑みが消え、目が潤んだ・・・


娘が初めての遠足に行った。
遠足といえば間違いなく、お弁当であると思う。

お弁当は手作りしたい。もちろん、様々な暮らし方や考え方、食生活に教育的視点、ありとあらゆるご意見はあろう。ただ、ただ、親として娘のために出来ることをしたい、それがお弁当を作ること、そんな感じである。

遠足の日が決まってカレンダーを見ると、次の日には先約がいた。妻の出産予定日であった。はじめから、お弁当づくりは僕がやりたいことだったし、たまたま近くになっただけ。そんなふうに考えていたけど、実際に母親が入院などしたら娘の気持ちは不安定になるだろう。楽しくて嬉しい遠足になるように、お弁当はどうしようか。

決めた。

娘の「好きなものだけ」にしよう。いやいやそれって、なんて意見は無視だ。リクエストを何度も聞いた結果、オムライス、玉子焼き、コロッケ、おむすび、ミニトマト、ブロッコリー、ウインナー等々。

比較的人気と思われる鶏の唐揚げ、ポテサラは出なかった。むしろ、野菜が挙がって来たことは意外であったし、嬉しい。そして、おかずに野菜をこっそり混ぜるという緊張感が不要になる。オムライスを除けば、娘の好きなものだけでお弁当ができそうだ。しかし、コロッケは作ったことがなくて、手作りとなるとハードルが高いように感じた。事前に作って、いちど試しに食べてもらう必要がある。美味しく食べ切れる、それは子どものお弁当の鉄則だ。お弁当の試作のため、遠足前の週末にピクニックをすることにした。

台風一過の日曜日、朝ごはん前に娘と芝生のある近くの広場へ。心配だった芝生は乾いていて、娘は無邪気にゴロンと横になっていた。娘もピクニックも、大丈夫そうだ。帰宅し、小判型にしたかわいいコロッケを恐る恐る揚げた。

朝とは別の公園で遊び、試作(写真)のお弁当を広げた。盛り付けはまぁいい(可愛くはないが)として、内容はどうか。美味しく食べ切れるだろうか。

娘はなんの問題もなく、食べ終えた。むしろ足りなかったかも知れない。感想は「おいしい」、嬉しくて飛び上がりたい気分になったけれど、油断はできない。劇的に空腹ならば、何を食べても美味しく感じる傾向があるからだ。

次の日、一緒に材料の買い出しに行く道すがら、あらためてお弁当の感想を求めた。

「あのー、コロッケはソースが少なかったよねぇ。おにぎりは三角にして、海苔を四角にペタッとしたほうがいい。」具体的な感想が聞けた。スーパーの野菜売り場で、ミニトマトとブロッコリーを選ばせると、きゅうりも手にとって「これもお弁当に入れて」と言った。なんと野菜を追加してほしいと言うのだ。野菜が好きな僕としては、どうぞ丸ごと持っていきなさい、と言いたいところだけど、ほかの友達の手前、それは無理である。

いよいよ当日、朝からお弁当の準備をした。たまたま、仕事を休む予定があったので気持ちは楽だったが、朝から重たい雲が空を覆い、雨粒も落ちていた。遠足の朝としては、とても不安である。「雨天でも遠足ごっこをやります」と知らされていたけれど、年に1度の遠足が「ごっこ遊び」になるのは切ない。ぜひ、外で食べてほしいという願いとともに、ソースを多めにかけたコロッケを詰めた。おむすびも三角にして、ふだんは手でちぎる海苔は、工作のようにハサミで綺麗に切った。

ウインナーの飾り切りも、まぁなんとか形になったところで、きゅうりの存在に気がついた。きゅうりの飾り切りまでは、手が回らなかった・・輪切りで入れるか、それは味気ないような。せめて何かの形に・・あ、抜型あった。星形のキュウリは、一見すると何か分からない。念のため、朝ごはんにも出してみたら「メロン?」と言われてしまった。ごめん・・それは、きゅうり。

お弁当のフタを開けた時の、ふわりとした雰囲気を感じてほしくて、あえて中身を見せずに娘のリュックに詰めた。盛り付けはあまり変わっていないが、可愛い雰囲気になるように努めた。フタをかぶせる直前、何となく不安になって、ウインナーときゅうりを追加したのは、親心というものかも知れない。

キャラ弁でもなく、毎日でもないお弁当作りが終わった。娘のことを考えながら作る時間は、不安で楽しくて、とても貴重であった。自己満足と知りつつも、写真を撮った。迷った挙句、お昼になってからSNSに投稿した。娘は、きっとお弁当を食べ終わっているはず、美味しく食べ切れただろうか。SNSには同僚の方や、友人からコメントが入っていた。

うっかりしていた。

年に一度だけのお弁当作りを投稿してしまったことは、とても恥ずかしいように思えてきた。毎日、何人分も作っている方も大勢いるというのに、たったひとりのひとつのお弁当を、ドヤ顔(していないと信じたい)で自慢してしまったのではないか。他人からいい父親として認められたいという、浅はかな気持ちがあったことは否めないが、大切なのは家族である。

果たして、娘は美味しいと思ってくれただろうか。そして、全部食べてくれたのだろうか。

保育園に迎えに行った僕は、娘に聞いた。
「おべんとう、ぜんぶ食べた?」

それを聞いた娘の顔から、笑みが消え、目が潤んだ・・・。一体何があったのか。

絞りだすように娘が言ったのは、こんな結末だった。
「あのね、お父さんの作ってくれたコロッケ、半分落としちゃったの・・ごめんね」

泣き出しそうな娘に、精いっぱいの笑みを見せる。こっちも泣きそうだった。
「それは悔しかったね。でも、半分でも食べてくれて良かった。」

帰宅してお弁当箱をあけてみると、半分のコロッケ以外はすべてなくなっていた。食べ切れなかったことは、娘にとって悔しいことだったかも知れないけど、父としては、お弁当を通して娘のことを考える時間が持てたことや、コロッケが作れたことは、良い経験になったと思う。

数日後、遠足の思い出を描いた絵が飾られていた。娘が描いていたのは、芝生の上を走っている様子だった。お弁当じゃないのか・・と寂しい気持ちになったのは事実だが、お弁当は遠足の醍醐味なんて思っていたけれど、そうではなさそうだ。楽しい遠足に必要な「ひとつの部品」として、お弁当があるのかも知れない。

考えてみたら、遠足の思い出といえばお弁当の中身・・ではない。友達と遊んだことや、行った場所の景色、そして僕の場合は乗り物酔いが酷かったことだ。娘の初めての遠足、いい思い出が作れただろうか。その元気を支える、お腹を満たすためのお弁当になっていたら、それが親にとって幸せなことなのだろう。

ひとつのお弁当にまつわる話。読んでいただきありがとうございました。

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