お前はジョウ、俺はケイ

ふと気がつくと、4月1日の投稿から連続して3本ほど、常体で書いています。

常体とは、文体の種類で、文末が”だ・である調”のことです。以前、書き言葉と話し言葉は、違う日本語であると説いた書籍を紹介したことがありました。

英語などの外国語の翻訳の必要から、こんにち常体と呼ばれているような、かなり作為的な文体が生まれたのだとか。確かに、話し言葉では「〜である」は使いません。

ごくまれに、バカボンのパパのように「〜なのだ」と言う方もいそうですが、話すための言葉は、話すために発展してきたものであり、それを書き写したのが書き言葉・・と言う単純な発生ではないのです。

常体に対して、いわゆる”です・ます調”は敬体と呼ばれています。両者に使われている字だけで判断するならば、常体は・・常態、いつも通り。敬体は・・敬う、謙虚さのような意味が見て取れます。

決して、敬体でないから読み手を敬っていないわけではないはずですが、敬語を使う文体と言う意味なのだと思いつつも、常体と敬体の違いについて考えています。

僕は、毎日投稿を始めるときに「敬体」で投稿することを決めていました。読んでもらうためには、やはり敬体の方が柔らかい印象があるし、僕自身が、話しているような感じが出るのは、敬体だからでした。

しかし、書くにあたっては常体の方が書きやすいのです。それは、書いているから。つまり、書くという作業に注視していくと、常体でいいのです。

しかし、読むとすると、常体はともすれば尊大な雰囲気があるし、言い切りのような言葉は、使うのにやや躊躇したりするわけです。

それは、常体でも敬体でも、頭の中で音読しているからではないかと考えるのです。音読すると読む速度が遅くなると言われていて、確かに字を追うだけの読み方とは違います。

でも、音読は話すことに近いよね、とも思います。

相手が話しているように見える文章(エッセイのような)ならば、話しているように読んで、また反対に、話しているように書いているのかもなぁと思うのです。だから、考えながら書く、その”ながら”が常体の時よりもゆっくり感じられる、そんなイメージなのです。

僕は、こうして投稿するエッセイや日記のような文章にカッコ(直前の文でも書きました)を使います。それは、言葉の補足であったり、心の中の言葉を出すような場面なのですが、エッセイというそもそも自分のことを書く文章の中に、さらにカッコで内心を書くというのは、やや不思議な感じもします。

でも、それは話すように書いているからこそ、つい心の中の言葉をカッコで書き表しているのだと思うのです。

書く時にはサラサラと常体で書いて、それを話し言葉のように柔らかな表現に変える時、文末だけ変えても違和感があるのは、書き言葉が残っている話し言葉だからなのかも知れません。

ただ、書くために集中している時には常体が楽なので、僕の投稿に限って言えば、常体は書き手のため、敬体は読み手のためにあるのかもなぁと思います。


#文体 #どっちもいい #ていねい  

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