楽しさと不安について①

考えることをやめなければ、旅は続く。

その会に参加しながら思ったことは、それでした。
店主とその知人との語り合いを見つめながら、ふとしたときに、自分はどうなの?と目の前に鏡が置かれる感じ。その場にいた人を誰ひとりとして知らないからこそ、話し手と自分自身に没頭できる、まさに読書のような時間でした。

会場となった、西国分寺のクルミドコーヒーは「大人になった子どものためのカフェ」(言い回し違うかも)。僕がとても好きなカフェのひとつ。

その夜は、本を媒体にした意思表明に関する補足説明と、読み手からの提案をする会でした。それを繰り返して、本をさらに構築していくという、静かで壮大な計画に賛同して参加のボタンを押しました。

(ここからは、話し手の内容を紹介しつつ、私が考えたことも書いています。文体を揃えずに書いているのは、メモと感想文を混在させたい思惑からです。読みにくくなることをお許しください。)

知るということは、勇気を失うこと

知る体験をすると、反作用的に無知の自分に気がついてしまう。臆病になり、行動に躊躇してしまうことがあるという話題。確かに、「こわいもの知らず」という言葉があります。
その場の文脈としては、媒体となっている「本」を読んでいない人が、質問を投げかける傾向があり、読んだ人は質問が出にくくなるというもの。

質問する側は知りたいことに正直であるべきなのです。
質問される側は、受け入れられるように準備するのが理想的。質問してもいい雰囲気を創り出せるかどうかが、大切なことなのだと僕なりに理解しました。

並存する自分

旅しているみたいに生きると、給料もらえなくなる。だから旅なんてしないで働いている。でも、旅の時間を確保する。つまり、旅することは0か100のどちらかではなく並存でいい。

わたしたちは、自分の時間と、タスクという他人の時間によっても生かされている。自分の時間に気がつく、作り出せる、それは子どもが得意なこと。旅の動機が「遊び」だとすれば、子どものころのあなたを思い出そう。そういう場を見つけよう。

時間の使い方について考えると、ひとりで生産性のとりこになってしまう。「生産していない自分は、価値がない自分」という呪いもある。生産性ではなく、幸福度のような、その時間をより良く過ごせたかどうかという視点にしたいと続く。

では、その幸福度を感じる手立てはあるのかと疑問が沸いたのです。

選択と祝福

自分の時間を生きる、それは連続した「受容」と「自己決定」の実現である。自分以外から与えられたシステムを引き受けているかどうか、盲目的に従うのではなく「選ぶ自由はあなたにある」ので、判断をすべき。基準は「その先の誰かが喜んでくれるかどうか」である。それが、幸福度であろう。

例えば、トラックドライバーが運ぶものを選び、届ける時間を選び、道順を選び、届け先へと運ぶプロセス。そこには「月が綺麗だからって、トラック放り出さないで」とか「お店で売るから朝早く届くのがいい」というシステムがあって。

そういうものを選ぶ自由はあなたにあるよ。ということ。
何かが届けられ「誰かが喜んだ」というのは、自己決定のプロセスを祝福してくれた結果である。

祝福という言葉が聞こえた時には、耳を疑いました。果たして、自分が受取る時には、相手のプロセスを祝福できているのでしょうか。

(つづく)

2019年2月28日(木)西国分寺クルミドコーヒー
「続・ゆっくり、いそげ」の夜 vol.4
~どこに行きつくかわからない旅路の楽しさと不安について~

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