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明日に書ける橋

いや、漢字間違ってますよ、橋なんだから“架ける”、ではないですか、それとも・・描ける?賭ける?駆ける?

食べることが何よりも好きだと豪語する人にだって食べられないときはあるし、寝るのが好きな人にも寝られない夜がある。好きでも、習慣になっていても、ましてや職業であったとしても、できないときがある。


・・書けない・・

何度も訪れた、からっぽの時だ。


書こうと思っていたのではなくて、書けないと思って開いていたのだ。この画面を。

しかし、いつまで経っても、カーソルが現れない。見覚えのあるマークがくるくると回り続ける。

今の僕には書けないと思って開いたnoteに、今は何も書けないんだよ、と言われてしまったようで不思議で、心外でもある。

目の前の画面が真っ白であればあるほどに、こちらの不安は大きくなって、いま書かなくては・・書いてみたいのに・・、そんな気持ちが湧いてくる。

書けないと思って書き始めるnoteは、大概忘れていた記憶が引っかかったりする。僕の場合。

そうそう、そういえばさぁ、と気がついて、なんやかんやと筆が進む・・のかも知れない。

しかし、僕はやっぱり何も書けない。書かないと考えられないのだなぁと思う。


とかなんとか考えていたら、フォローしているおだんごさんも、書けない、と書いていた。

おだんごさんの投稿は、最後の最後まで気が抜けない。読み飛ばして終点に行ったとしても、お腹いっぱいには程遠い。正直な言葉が並んでいると、書いている人が目の前にいる感じがする。


同じような時期に、ライターの古賀さんも、書けない、と嘆いていた。

書けないのは、読み手のことを考えているからなのか、書かなくても、話さなくても満たされているからなのか。でも、自分が話したいことを文字にしている感じ、それは書くことへのきっかけなのだと思う。


書けない、と”書いて”いる。

それは、Ican't speak English. と”話して”いるようで、矛盾している。

ただ、書けないんだよ、と書くためには勇気がいる。書けないことが、弱いとかや負けたように思える書き手には、それを認めるのは辛いことだ。

ほんとうに書けないことは、目に見えない。

・・有名な言葉のパロディになってしまった。

読み手がいると分かって(信じて)いる場合、書くことは可視化でもある。書きたくないことは書かないけれど、書きたいことがちゃんと書けるかは、また別の問題なのかも知れない。

書くことを大切にしている、読んでもらうために書いている方の、書けない、は時に切実だ。ただ、その告白を受け取った読み手は、少なからず安心する。なんでもいいから読んで、ではなく、そこには読み手も含めた読み物としての価値を感じさせるから。

いつも、この人の投稿には何かあるな・・・と思っていた、ともきちさんが久しぶりに投稿していて、そこにも「書けない」とあった。もはや分かっていることだけれど、「書けない」ことを投稿していることは、書けないとは言えないのではないかとも思う。ともきちさんの凄いところは、書けない理由をはっきりと見つけて、示してくれているところかも知れない。


noteに何を書いていくのか、どう書いていくのか、それは個人差がある。書けない理由にも個人差があるし、書けない中でも何かをしなくては・・と思う人(毎日更新をしている僕です)もいれば、書けないのは仕方ないと腹をくくれる人もいる。

大事なのは、そういう時に読み手を意識できるかどうか、そして読み手としてはその書けない気持ちを汲んで何ができるか・・なのかなと思った。

書けない、いつだって近くにいるけれど、読んでくれる、も同じくらい近くにある。

#書けない #書く



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