雑記

※注意
 今日のはここ最近の思考の忘備録なので分かり易く書いては無い

 理念:当たり前を自覚的に

 色々考えて思ったのは、やはり俺のやろうとしていることはある種の人間社会における基礎研究とでもいうものなのかなということだ。
 人間はプロセスを簡略化し、役割分担をすることで発展を遂げてきた生き物だ。故に命題/行動と結論/成果物の間がより大幅にスキップされることに快感を覚えるように生物としてプログラムされている、と思われる。
 そういう意味ではやはり当たり前を引っくり返して、混ぜっ返して考えるよう促すのは、ある種進歩から逆行しているとさえ言えるのだろう。
 ただまぁ科学の基礎研究と同じように、直接的に利益を生み出さずとも、それを基にした何かは生み出せるかもしれない。そういうものを俺は目指したいのだろう。出来るかはさておいて。

 学生だった頃は、イマイチこの勉強が何の意味があるのか分からなかった。テレビに映る火山の爆発映像を見てもふーんとしか思わなかった。ガンダムがビームライフルを撃ってるのを見てもすげぇとしか思わなかった。
 ただ、そういった何の意味も無さそうな体験の集合体が、ある時ちょっとした気づきに繋がる。一種の法則性を見出すこともあれば、咄嗟の応用に繋がる。
 教養とはそういうものだ。例え大した学歴を持っていなくても、日本で暮らしているという時点で相当広い想像力と知識を得られている。親から貰った土地で一生畑を耕し、中央の政変を行商人から聞いていた時代とは大違い。それくらい、情報というのはありふれたものになっている。歩かなくても見渡す限りの砂丘が存在する事を違和感なく受け入れているし、生物的性別と性自認が異なっていることも、別にどこかで見たことがある程度の非凡さだ。

 人は知らないもの、未体験のものに対して拒絶感を持つ。
 考える事が増えるからだ。それにエネルギーを取られて諸々の効率が落ちるし、どんな危険性があるかと身構える。
 ただ人は体験の繰り返しを通して要領を得ていく。何に気を付ける必要があって、どんな失敗をする可能性があってその場合どういう対処が必要になるのか。その辺が分かって来ればまた思考を簡略化出来るから抵抗感も下がる。逆にスシローペロペロ事件のように、普段考えずにいられることを考えなければならなくなれば、苛烈に拒絶する。


 今の俺はまぁ、多分に驕りが入ってるだろうが、わりと深い洞察を持てていると思う。勿論現実社会の具体的なアレコレや実体験は全然足りてはいないが、そういうものを極端且つ具体的且つ分かり易く描写されている作品から、それらの要素要素を得ているつもりだ。
 そうやって微妙に上から目線な俺だが、じゃあ具体的に何が分かっているのかと問われると中々答えるのが難しい。
 最近それをどう説明するか考えていて、取り合えず人間についてはこれかな、というのはこれだ。

原理
・人の最大の力は数である
 (=人の協力を得る事が大事だし、そのために信頼を得る事が大事)
人の弱さの三大原則
・楽をしたがる
(自分は変わらず都合の良い環境を欲する)
・苦労して手に入れられるものを価値が高いと思い、
 当たり前にそこにあるものは価値が低いと思う。
・人は不完全且つ矛盾した存在である
(リソースには限りがある)

 別にどれも特別なことではない、そりゃそうだろという程度の当たり前のことだと思う。
 そして弱さの三大原則については別に例外が無いわけではない。というか幾らでもある。
 だが世の中の大体の流れは元を辿ればこの三つに集約されるし、逆に言えばこの三つを常に気にしていなければ、知らずのうちに愚かな行為をしてしまうんじゃないか。もっと言えばこれらを自覚出来ていなければ人間としてどうなん?と思う。まぁ俺個人の考えでしかないけど
 弱さは悪ではない。だがそれらを自覚していない奴が俺は嫌いだ。

 あとは諦め方か。
 世の中には「自分の経験から考える価値のある事」「自分には経験が無く考えるべきでないもの」と「自分の立場だから現状を変えられる事」「自分の立場では行動が結果に繋がらないもの」がある。
 そして考えるべきでないものは教わればいいし、自分が影響力を行使できないものは他の人に頼めばいい。それぞれが自分だから考える事が出来て、変える事が出来る事に邁進することが人類の役割分担という力だし、そうしないとリソースが足りない、ということに納得がいったから、他のことは考えなくなった感じ。ぶちまけた釘の法則。

 あと、最近色々考えているうちによく思い当たるのが、俺は特別なのか、ということだ。
 俺は発達障害を持っているのかは定かではない。別に診断を貰ってはいないし、多分グレーゾーンなんだとは思う。
 小さい頃から自分の普通が他の多くの人の普通からはズレていると常に感じていたし、でも同時に一般的な普通がどういうものかは理解していた。異物ではあるが、異物として中にはあったわけだ。
 そしてその普通がどういうものかを直観的に理解することも出来て、それっぽく振舞い続ける事もそう難しくは無かった。だが難しくなくともあまりに燃費が悪くて、ままならないことが多々あった。
 そうやって大きくなり、ここ数年は何がどうしてこんなにも違うのかを考えるようになった。それを考えるだけの論理的思考能力と、種々の教養と、語彙力と、文章力やコミュ力があった。
 自分の中に比較すべき2つの論理があり、それを分析して発表するまでの能力があった。それら一つ一つはきっと本当に才能ある人やきちんと修練を積んできた人には劣るだろうけど、それらが一続きにあったのは、まぁ悪くないシナジーだろうし、総括すれば一種の才能と言っても良いのかなとも思う。
 ただなんというのだろうか、それが大したことだとは思わないというのが、8割くらいの本心だ。何の実績も無しにそれが才能だったと言える程俺は自己肯定感高い人間では無いし、そもそも俺からしたら必然というか、なんでそういうこと考えずに大多数の人が生きていられるのかが理解出来ない。皆やってて当然じゃないの?と思うから、たまに俺の分析を好意的に評価してくれる人が居ても「なんで?」というのが真っ先に浮かぶ。
 だが残り2割くらいはそれなりに特別な才能なのかなという思いもあるのだ。一つは単純に、誰にでもある自分は特別だと思いたいだけの愚かさ。あとはどうやら、割とホントに皆そこまで考えてないっぽい、或いは言語化出来てない人の方が多いっぽいと最近分かってきたので、逆に同じレベルを他の人に求めるのは酷なのかなという考えだ。
 なんというか、「自分が特別だなんて思いあがるな」という自制心と、「自分がなんだかんだ恵まれている事を自覚しろ」という自制心が喧嘩している状態だ。
 ぶっちゃけこの問題は俺がどう思うというよりかはどう思われた方が得かという方が優先される程度の感情だ。俺にってはどっちでもいい感情でしかないから感情をどちらかに寄せたいのだが、どっちの方が受け入れられやすいのか態度を決めかねている。
 基本的に白紙の状態なら謙遜してた方が良くて、自分より格上だと認められて初めてそういった「自分の発言には説得力があります」ムーブが有効になる。ただ、こういう生きづらさ界隈はそもそもの自己評価が低いが故に逆に「俺より恵まれてる奴が知った口をきくな」ともなり易いので「俺は恵まれてます」ってスタンスの方が聞き入れられ易かったりもする。難題だ。まぁ結局はどの段階の人をターゲットにするかというペルソナ設定の問題なのかもしれないが。

取り合えずそんなところか。
忘備録なのでなんか文章としてはグチャグチャだが、終わり。

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