俺は異端者

 最近、なんだかんだやっぱり、俺は異常なんだろうなと思う。

 まずおそらく、人の機微には人並み以上に敏感だ。
 HSP(HSE)的な繊細さを元来持っていて、後天的にアダルトチルドレン的な特徴も併せ持って、特に他者の悪感情には過敏な方だ。
 無論自分自身の主観でしか生きられないので正確に比べられないが。
 そしてその共感力の感度を目一杯上げれば、他者の心情を自身の心の中に投影、或いはトレース出来る。無論共通経験の多い少ないによって、その精度はマチマチだが。

 また、何かネガティブな感情が発露した時、反射的に感情を切り離す。
 切り離したうえで内側には9割「どうでもいいわ」の無関心、外側には中身のないにこやかな笑顔で上書きされる。
 まぁ全てがすべてこれで処理しきれてるわけじゃないし、これは一過性のものを受け流せるというものであって持続的な悪感情には通用しなかったりもする。
 一瞬自身がサイコパスなのかとも思うが、多分違う。理由は後述する。
 いずれにせよ、多分これは後天的に習得した技能であり、これ単体は共感してもらえる人も少なくないのではないだろうか。

 そして切り離した感情を、切り離したまま客観的に見れる。また応用してネガティブな感情以外も同様に観察できる。
 この辺りが自身がサイコパスではないはずと思う根拠だ。切り離してはいるが存在はしている。欠如しているわけではない。
 自分の感情を客観的に見ること自体は誰しもがやることだが、多分俺はそれが圧倒的に慣れている。必要とあらばその場で切り離しながらそこそこ正確に観察出来る。
 これもまた後天的に習得した技能で、30年間の繰り返しで得た最も得意とする技術と言えるだろう。

 論理的言語化能力にも長けている。多分これは先天的なものだ。
 心の中に投影した心の機微を、語彙力に支えられた言語化能力で言葉にする。その上で、物事を順序だてて説明する。昔から小論文は得意で、ちゃんとした形式とかの知識は無いが繰り返しこうやって文章を書いているのでそれなりの経験による成長もある。

 そして半端とはいえ、学がある。曲がりなりにも旧七帝大に入学するだけの教養と、その教養を基にネットを用いてさらに知識を調べ蓄え、また様々な光景を見た想像力とがある。
 これらは上記の論理的言語化能力を下支えしている。

 これらが全て連結すると、「他者の心情を自身の心の中で再現して観察し、それを言語化して論理や因果として説明できる」になる。
 多分、これは俺の大きな強みだ。
 不遜極まりないが、正直俺と同等以上にこれを出来る人に出会った覚えがない。一つ一つは幾らでも俺を上回る人はいるだろうが、インプットからアウトプットまで直結して高いレベルで確立している人はそう居ない。
 おそらくこの域は様々な艱難辛苦の後に成功した極々一部のおじいちゃんおばあちゃんが、経験の末老齢に至ってやっと悟りえる境地なんだと思う。
 或いは人の心を描き続けた名作家と呼ばれる人が、才能と地獄の試行錯誤の末に獲得する技能なんだと思う。

 別に、この心情言語化説明能力に関しては、もともと俺自身の強みと認識はしていた。
 ただ、なんというか、別にそこまでレアかというと疑問が残ると思っていたし、そもそも高いレベルにあるとか思い上がり甚だしいんじゃないかというブレーキが掛かっていたのだ。
 ただでさえ中二病患者な俺だ。自分には特別な力があると安易に考えたがる人間だ。思いあがった勘違い野郎にならないために戒め続けてきた。
 哲学的なアレコレを考え言語化して、「これ普通に哲学史に残るレベルじゃね?」とか考えては戒めて。そんなことをずっと繰り返してきた。
 だが、なんというか限界が来たのだ。色々と。
 色々と最近は活動的になってきて、社会人としてやっている人と接する機会も増えた。様々な人生経験を乗り越えた大人とも関わる機会が増えた。その度に申し訳ないけど「こんなもんか」と思う機会ばかり増えていく。世の中を見る力、分析して言語化する力。殆どの言葉が俺が瞬時に理解できる、一度通った道の言葉ばかりなのだ。
 言うまでもないが、それが即ちその人達が俺より人間より劣るという訳ではない。実体験に裏打ちされた経験値があるし、俺にはない技術や繋がり、行動力、専門知識といった尊敬すべき所は誰もが持っているし、素直に頭が下がる思いだ。
 ただ広く世の中や他者を見る能力とそれを言語化し説明する能力、ただこの一点においては並大抵の人と比べて隔絶していると思わざるを得ない。

 それに自分を戒め続けたままだとやっぱりエネルギーが足りないという限界もある。自分をセーブするところとそこから発生する苦悶を収める所にエネルギーを持っていかれて、バイタリティが持たないのだ。
 次のステップに行くためにはこの自制が枷になっている感覚がある。

 あとは自分のやり方を他者に説明しようとしたときに、流石にこれだけのことを真似するのは無理筋な気もするのだ。
 俺としたら当たり前な事でも、俺のやっていることはちょっとコツを聞いて頑張れば真似できるレベルではない気がする。
 即ちどれだけ頑張って言語化しようと、俺の手法は一般化が難しく、且つ理解もされ難いことだということだ。

 思いあがらないため、共感を得るため、俺は自分の特技も、言って得意な人に毛が生えたようなもん、せいぜい偏差値60くらいのもんだと思おうとしてきた。(実績も無しにこれはこれで高慢だが)
 だが偏差値80以上の特技なのだろうと思ってしまおうという話だ。
 正直これが高慢なのか、自信を持つの範囲に収まっているのかもよく分からない。だって俺には何も実績もない。根拠がない。後ろ盾がない。凄いって言ってくれる人もいるけど、それがおべんちゃらかどうかの見分けもつかない。

 特筆した特技だと思う分には良い事だ。それは強みになるから。
 だが隔絶した技術だというのは必ずしも良い事ではない。人間の力は数だ。共感を得られず一般化出来ないというのは、あまりにも認めがたい欠点だ。ましてそれが目に見えた実益を出せない技術であるのなら、それはただの異常者でしかない。高い技術の「高い」は客観的評価によって判別される。主観の「高い」に意味はない。

 あぁ、それにそうだ。やっと何が怖いのか理解した。
 自身が隔絶した域にいると思うと、よくある「高尚なる俺の考えを理解せぬ愚か者め」と思ってしまう可能性が高いからだ。つまり、論を尽くして理解を得ることを諦めてしまいそうだからだ。
 「どう説明したら伝わる?」ではなく「まぁ理解できなくても仕方ないか」と考えるようになるのが怖いのだ。
 何か指摘を貰った時に「どうにか全部伝えて、本当に俺が間違っているか確認してほしい」から「どうせ理解出来ないだろうが正しいのは俺だ」と考えてしまうのが赦せないのだ。

 取り合えず、いずれにせよ限界だ。一旦この枷を解こう。
 きっと、いずれ思い上がりを思い知らされる機会もあろう。
 その時まで、取り合えず「どうせ理解出来ない」と説明責任を捨て去らないことだけ気を付けてやってみよう

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