履歴書

 たまに思い出したように面接を受けようとしては、履歴書を求められ暗澹たる気持ちになる。
 俺の履歴書はすっからかんだ。
 単純に職歴が少ないというだけでない。数少ない職歴でさえ、俺が望む職には直接的に結びつかないのだ。

 俺の職歴を振り返ると、まぁこういういい方は善くないのかもしれないが、生粋のニート達に比べると半端にはアピールポイントはある。
 TSUTAYAでクレカを沢山発行したし、そこで締め作業や売り場の運営経験もある。auで販売員をやっていた時は基本業務は勿論、副商材もそれなり以上に契約を取っていた。
 まぁ、正直単純作業での凡ミスがちょくちょく出るし、慣れるまでに人並み以上の時間がかかると言う欠点はあるが、販売や営業の仕事に関してはそれなりの適性はあったのだ。
 そう、もう過去形だ。磨かれなかった才能は積み上げられた実績に劣る。価値が無いとは言わないが、もはや武器と言うのはおこがましい程度の特徴だろう。

 そしてこっちの方が俺にとっては重大なのだが、俺は別に末端の営業の仕事がしたいわけではないのである。物事の根本の問題を分析し、取り得る方法を模索し、説明して支持を集め、プロジェクトを動かす。そういう仕事をしたいのだ。しかもその問題と言うのにも拘りがある。生き方や働き方という社会問題だ。個々の商品の売れ行きとかには興味が無い。
 さぁ、笑えよ。何の実績も無いニートが何を高望みをしているのだと。
 俺だって理解している。していないはずがないじゃないか。そういうポジションはキャリアを積み上げた先でようやく辿り着けるポジションだと。そしてそのポジションは平社員とは別の、そしてもっと大きなプレッシャーがあるのだと。いや、経験不足の俺にその本当の意味が理解できるはずは無いか。それでも、自分がそのちんけなプライドから我が儘を言っているだけなことくらいは自覚がある。
 だが、分かっていて尚そのプライドを捨てられないのだ。挫折する前に逃げ続けてきたから。中途半端にそういう仕事が出来る能力があると思ってしまうのだ。

 俺の愚かさはもはや語るまでも無いので今回はここで置いておいて、履歴書という観点で語るならそれ故に、俺にとってはこのnoteが履歴書であり職務経歴書なのだ。
 ここに書いてきた内容が俺の実績だ。これを書けると言うことが俺の能力の証明だ。こんなことを考え提案することが俺のやりたいことだ。
 生意気にも俺はnoteに書いてきた内容が使い方によっては十分に賃金を貰うに値するレベルのものだと思い込んでいるし、そうあろうと考え続けてきた。
 ま、それもまやかしなんだけどね。「これは俺自身のために書いてる」なんて言い訳でろくすっぽヘッダー画像とかも設定せず、読まれるための校正なども努力せず書き殴って、「まぁ読まれるための努力してないから」なんて言い訳で閲覧数が伸びない事を許容し、自分のプライドを守っているだけだ。記事の有料化をしていないのも「クレカでお金を払えないくらい追いつめられている人にこそ読んで欲しいから」なんて綺麗事いって、結局のところ買われず自尊心が傷つくのを恐れているだけだ。

 俺は愚かだ。どれだけ高尚な理論を並べ立てたところで、結局のところ肥大させた自尊心が傷つくことを恐れているだけのニートだ。何の実績も無ければ行動も挑戦もしない。自覚していて尚、それを手放せない。
 ただまぁ、客観的に考えてもやっぱりそれは仕方ないのだ。人はある程度の自尊心が無ければ生きていけない。実のある、裏付けのある価値が自分に無いのであれば、虚飾によってそれを補わずにはいられない。事実にも他者にも保障してもらえないのであれば、偽りによって嵩増しするしかないのだ。俺にはそれしか思いつかない。
 人は言う。余計なプライドは自分を苦しめるだけだ。等身大の自分を受け入れて分相応の暮らしをすれば楽に生きられるよ。
 言ってることは分かる。言いたいことも分かる。だが、受け入れがたい。分相応な無価値な自分を認めて、楽をしてまで生きる理由が思い当たらないのだ。他の誰かがそういう生き方をするのは別に構わないし、皮肉で無くシンプルにそれで良いと思う。俺が正しいだなんて言うべきじゃないと思う。だが高い理想を掲げてそうあろうと足掻き続けるのでなければ死んだ方がマシだと思うのだ。そこまでして楽に生きようとしても結局生きている以上苦悩は絶えない。そのランニングコストをペイできるだけのプラスを得られる何か、生きがいのようなものが俺には無い。俺にとってはそれが「善く在ろう」という足搔きなのだ。それを捨ててまで生きる価値を、俺はこの生に見出せない。

 だから俺は何時までも分不相応を求め続ける。
 それに価値を見出してくれる人、或いは価値を付けられる活動を探し続けるしか無いのだ。
 苦しいのは良い。俺が望んで捨てずにいるものだ。だが恐怖だ。恐怖が何よりも恐ろしい。いくら探しても無いものは無いという結論に至るのがあまりにも怖い。
 履歴書を書こうとすると、求められている人材と、自分の分不相応な理想を突き付けられて堪らなく暗澹たる気持ちになる。
 誰がお前の長々としたnoteなんて読むかと、簡潔に纏められた現実のエビデンスを流し見る程度しかお前に価値は無いし興味は無いと言われている気がする。いや、思い知らされる。

 時折、そして何回もこのプライドを捨てて死なない事に専念したらもっと楽なのだろうと想像する。その度に空恐ろしくなる。そこまでして生きる価値が俺にあるのか。そこまでして生きる価値を俺は見出せるのか。
 ゲームが生甲斐という人も居る。家族のために生きる人もいる。仕事終わりのビールで十分と思う人もいる。それは良いことだ。それでいいじゃんというのであればそれでいいじゃんと思う。だが俺個人がそんな未来を想像した時、今以上に空虚さを予感させるのだ。それに耐えられる気がしないし、耐えようとも思えない。
 別に、俺にとって生きるという事はそれだけで尊いことなどではないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?